
日本仏教の神髄 Essence of Japanese Buddhism in 37 seconds
37秒でわかる日本仏教の神髄
日本仏教の神髄 Essence of Japanese Buddhism in 37 seconds
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37秒でわかる日本仏教の神髄
日本仏教の神髄 Essence of Japanese Buddhism in 37 seconds
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たとえば副島隆彦は新型コロナウイルスはアメリカがフォート・デトリック軍事基地の生物兵器製造所で作った、と書いている。
田中宇も人工ウイルス説を採用しており、12ヌクレオチドのアミノ酸配列が人工ウイルスである証拠だと2020年2月に米政府の専門家たちが指摘していた、と書いている。
https://tanakanews.com/220804corona.htm
しかしわれわれのような素人には、新型コロナウイルスが12ヌクレオチドのアミノ酸配列をしているなどということがどうして分るのか、また、なぜそれが人工ウイルスの証拠と言えるのか、などということは全然分らない。
田中宇はその議論のリンク先を挙げているようだが、英文だから読む気にはならない。
そこで、あなたに、是非その記事を読んで、訳すか、あるいは要点を説明してもらいたい。
それは「新型コロナウイルス=グラフェン」説を唱えているあなたにとっても、重要なことであるはずである。
ちなみに私は、新型コロナウイルスが存在しようがしまいが、ウイルスは伝染しないし、ウイルスはどんな病気の原因でもない、と思っており、基本的にはあなたの説を支持しているのである。
うちの近くのお寺にも、高くしつらえられた鐘楼があり、朝6時にオートマチック撞木(しゅもく)が作動して吊り鐘を突き鳴らします。ウソも方便とか申しますので、これも修行の一環であるとするのでしょうか。
さて、インスタグラムの花がきれいなので、私はあるお寺をフォローしています。微力ながらお役に立とうと、先日ワクチン関連記事を掲載した週刊誌の表紙を投稿したところ、そのお寺からいいね!が返って来ました。全く私の主観ですが、お寺の住職の人々ら伝統的日本仏教関係者らは、注射をしていない割合が高いような気がするのです。彼らはそれだけの財力とクールな頭を持っている、と。
伝統的日本仏教界は、明治維新の際に廃仏毀釈にあっており、精神的姿勢として時の政治権力構造を客観視する素質がある。税金がかからず、資産・財力があり、日本の背骨を成す構造の一つとしてどれだけ底力があるのか?
ダライ・ラマが来日するとき、日本の仏教界はお布施を提供していると副島隆彦が書いていました。つまり、それが来日目的の一つでもある。(創価学会がどうかは書いてありませんでした)
岸田政権下に日本解体が加速する中、伝統的日本仏教界はどうこれらを観ているのだろうか?
あぁ、クッソ真面目ぶってると電飾も事情を知らないとからかってるのかと発狂しそうですね。
うちの近所では、鐘の音が聞こえなくなりました。
とても寂しい。
機械仕掛けでも構わないので、鳴らして欲しい。
寺の鐘は、形骸化して久しく、それはそのまま日本の仏教の姿ということです。自動機械の導入は、ある意味で「開き直り」です。
そして、このコロナワクチンによる空前の葬式ラッシュによって、葬祭業としての日本のお寺は、今や笑いの止まらない黄金時代を迎えています。 (^-^)
お寺の鐘の音は、ご~~~ん、と自然に溶け込むような響きですが、それなりの音量でその地域に広がるのも確かです。そして人々はそれを今のところ許している。
インドネシアに私は何十年か前に数日間旅行したことがあり、かなりの音量で何かを唱える声が地上スピーカーから流れ出るときがありました。これはイスラム教の教えでしょうか。
もし今、日本でその声が地上放送で流れたらどうなるか? それを考えると、定時に仏教の寺の鐘を撞いて鳴らすことは一種の特権であると言えると思うのです。
しかし権利は行使しないと、いずれ消えるかもしれない。保育園児の声がうるさい、近所迷惑だと言われることもある、今の日本ですから。
経済的にも、人口的にも、政治的にも、もし強い発言をする反日本文化なり(赤い)グローバリズムなりがこの国に更に浸透してきたらどうなるか? 条例? 鐘の音はいつまで許されるのか?
当然といえば当然ですが、私は自分は至って正常でパラノイアにかかっているわけではないと思っています。
しかし、押しつけがましくてこそ、宗教なんです。(^-^; 日本の伝統的な仏教はもはや宗教ではなくなっているので、せいぜい「特権」としてつつましく鐘を鳴らすくらいです。しかし、「ご近所に迷惑ですからね」などと都合のいい正当化をしながら、その「特権」すらも放棄して鳴らすのもやめてしまっている寺も多いです。金のある寺は自動鐘つき機を導入するわけです。
毎朝僧侶が鐘を撞くという行為は、信仰心があってこそ続けられるものです。毎朝坊主が鐘を撞いていないということは、その寺にはそれだけの信仰心が無いということなんです。そこが日本の仏教の本質です。
葬祭業のための演出としての仏教には、信仰心はまったく不要です。口先だけの偽善的な説教で十分です。大衆もそれを見抜いて坊主を軽蔑しており、坊主は坊主で、自分が軽蔑されていることを知っています。しかし、葬式にはけっきょく寺に頼らざるをえない大衆を上から目線で軽蔑しています。ここには「相互軽蔑」があります。
「サイボーグ昆虫の稼働時間と移動距離がより長く」
https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1437337.html
この記事は「生体をコントロールすることは可能」ということを示したいのか、『コントロールユニットは、これだけ大きなものになる(なので、極小ユニットの心配はしなくてよい)」という誘導なのか、いろいろ考えさせられます。