
あなたの口癖 「可能性が高い」 は詐欺師のセリフ?
「可能性」 については、別記事 「可能性が高い、低い」 のおかしさに気づかない人々」 で散々論じているが、今回は違う角度から書く。
「可能性が高い」 が口癖のひとが陥りやすい独善的錯覚というのがある。
ある会社の会議で 「日本の今後の自動車産業の見通し」 について 1、2、3 の3つの予測を議論しているとする。3つともすべて可能な、つまり、あり得る予測であるとしよう。しかし、会議でどれを選ぶべきかを論じる場合、会議のメンバーは3つの選択肢のうち自分が気に入っている1つを念頭に議論をするかもしれない。3つの予測がどれも不可能でなければ、3つとも一応あり得る(可能)ということだ。そもそも可能だからこそ議題に上がっているのだ。
そして、会議のメンバーのA 氏は 「1の可能性が高い」 と言うかもしれない。B氏は 「2の可能性が高い」 と言うかも。C氏は 「3の可能性が高い」 か。けっきょく、どのメンバーも自分のお気に入りの予測を 「可能性が高い」 と言っているだけなのだ。
しかし、ここで 「高い」 というのは、実は単に論者の頭の中での 「主観的な優先順位」 に過ぎないのである。そして、3人の論者は自説の根拠として、おそらく自分の推す予測の可能性について論じるだろう。しかし、問題はもはや予測が可能かどうかではないはずだ。そもそもそれらが可能だからこそ選択肢になっているのだ。
しかし、「可能性が高い低い」が口癖の人々は自分の 「主観的な優先順位」 にしたがって、「~の可能性が高い」 と、あたかもその 「高い」 を裏付ける客観的な物差しに照らしているかのように語っているのだ。しかし、実質的には、何が高いのか以前の、可能であること自体に戻って繰り返し強調しているだけなのである。
以下の 「デジタル的な二値的領域」 と 「公算・確率の濃淡領域」 との区別がつかない、論理的にユルすぎる日本人が 「可能性高い低いピープル」 である。あなたはどうか?
「可能性が高い」、「可能性が低い」 と、年がら年中言っているひとは、可能性というものが、論理的に言って、そもそも 「有るか無いかのどちらか」 であることがいつまで経ってもわからない。というか、自分の頭で考える習慣がないので、テレビやネットで聞いたり見たりするフレーズを、ちょっと気が利いていると思って、自分も真似して使っているだけなのだ。
「可能性が高い、低い」というセリフを天気予報や、テレビ番組に出て来るいわゆる専門家の受け売りで真似して言っているケースがほとんどだ。つまり、可能性について自分の頭で考えたこともない、いや、考えてもわからない輩が 「可能性高い低いピープル」 として周りやネット上で大増殖しているのだ。
けっきょく、彼らは自分の主観的な優先順位自体にまるで客観的な裏付けがあるかのような独善的錯覚にいつも陥っているのだ。残念ながら、可能性にグラデーションはない。
グラデーションがあるのは、公算であり、蓋然性であり、確率なのだ。
可能性にはグラデーションはなく、可能性について言えるのは、有るか無いか、つまり、 1 か 0(ゼロ)なのだ。
「可能性高い低いピープル」 は、「可能性」 というものの デジタル的な二値性、冷厳な白黒の峻別 がどうしても理解できない。そして、濃淡やグラデーションの、ごまかしの利く、あいまいな世界がお気に入りなのだ。そんなにグラデーションの領域が好きならば、可能・不可能の領域と峻別して上の階層に上がって論ずればいいのだが、自信がないので可能性の領域にとどまっているのだ。
よく見て頂きたい。「可能・不可能」 の階層の上に 「公算や確率」 の濃淡の階層があるのだ。
この 「階層の違い」 がいつまで経ってもわからないのが昨今大増殖中の 「可能性高い低いピープル」 なのだ。
つまり、「可能性高い低いピープル」 は、高い、低いと言ってはいるが、しょせんそれは自分の頭の中の自分の価値観に従っての序列であり、優先順位にすぎない。はっきり言って、「可能性高い低いピープル」 は、議論や論理における「階層」の概念が致命的に欠落している。気をつけて聞いていると堂々巡りをしている。自分の頭の中の優先順位がそのまま客観性を持っていると勝手に思い込んでいる。彼らの発想はこうである。
1) この予測、この計画、この推理は決して不可能ではないぞ。つまり、可能だ。
2) 可能なんだから、この可能性は 高い!
実は、「この予測は可能であり、不可能ではない」 なら間違いではないし、論理的にもおかしくはない。しかし、「この予測の可能性は高い!」 と言ってしまうのが、「可能性高い低いピープル」 の知的レベルなのだ。
けっきょく、すでに確立されている、当たり前な 「可能性」 に、自分の薄っぺらな主観的優先順位を勝手に貼り付けているにすぎない。
「可能性高い低いピープル」 は単に可能性があるというだけのことを 「可能性が高い!」 とサバを読んでいるのだ。
けっきょく、「可能性」 が 「高い」 とは、「可能性」 が、「自分の主観的価値観において優先順位が 高い」 と言っているだけなのだ。したがって、可能・不可能の階層にいつまでもとどまっていて、確率や公算という、上の階層に上がることがなく、なかなか建設的な議論にならないのだ。
そのため、「可能性高い低いピープル」 の議論は一皮むくと、一人よがりで、平面的で、非建設的である。
会議の場でも、ネット上でも、発言内容の論理的整合性よりも発言者の社会的地位や肩書や経歴などによって発言を評価する人間が多いため、一つ覚えの 「可能性が高い」 が何度繰り返されても、誰も気に留めないありさまだ。
それでは、どうすればいいのか? という声が聞こえてくる。
簡単なことである。要は、正しい日本語を使うということだ。つまり、 「公算が高い」、「確率が高い」、「蓋然性が高い」 などと正しく言えばいいだけのことだ。 違うだろうか?
「公算」 は「大きい、小さい」で表現することが多いようだが、以下のように「高い、低い」の例もちゃんとある。
ここからが、本論だ!
では、なぜ人々は「公算が高い」「確率が高い」と正しく言わずに、「可能性が高い」などと論理的に間違った言い方をするのか?わたしは最初は単なる論理学的無知、言語学的無知が原因だと思っていた。しかし、何年も観察していると、それだけではないようだ。
「可能性が高い」 と言っていれば、もし「どのくらい?」と突っ込まれたら、それが可能であることをダラダラ強調すればいいのだ。しかし、「公算が高い」とか「確率が高い」と言ってしまうと、客観的な根拠を示さざるを得なくなるのだ。
公算の「公」は 客観性 を意味するし、確率と言うと、数値的根拠を求められてしまう。しかし、「可能性が高い」 と言っていれば、突っ込まれても 「可能性はある」 という 当たり前のことを自信をもって、小泉進次郎的にダラダラ繰り返せば済むのだ。
公算や確率が高いことを示す根拠がない場合は、「可能性が高い」 と言っていれば間違いないのだ。
つまり、「可能性が高い」 は、サバを読みながら、尻尾を掴まれないための 「詐欺師のセリフ」 と言える。
世の中でも自然界でも宇宙でも、可能なことは無限にある。科学的に絶対にあり得ず、成立し得ないことでなければ、すべて 「可能」 ということなのだ。 2024年に壊滅的な大地震が日本を襲う、という予測を絶対間違っていると言い切れるだろうか?言い切れなければ、可能ということなのだ。イーロンマスクは実はエイリアンである可能性があるという言説を、あり得ない、間違いだ、と断言できるか?できなければ、これも、可能ということだ。
このようにいくら疑わしくても 可能な言説 (不可能であると証明できない言説)はいくらでも紡ぎ出せるのだが、それらの言説をそれぞれ 「~の可能性は高い」 と言い換えてもほとんど変わらないのだ。こうやって、無責任な言説が世の中に氾濫することになる。そうして、あなたの周りでも、ネット上でも「可能性が高い」 というフレーズを毎日耳にし、目にすることになる。そして、あなたもいっしょになって、「可能性が高い」 を連発するようになる。 違うだろうか?
【可能性】
それが可能だという性質・度合。
「―が高い」
可能性という言葉は可否ではなく、
確率や度合いで表すようになるので、
1か0に、こだわらない方がよろしいかと。
と、自分もすっかり染脳されているひとは言うものだ。
「可能性が高い」 は、サバを読みながら、尻尾を掴まれないための 「詐欺師のセリフ」 であることは十分に説明してある。それでも「いいじゃないか」 と言うひとはその「詐欺師のセリフ」が重宝しているからなのだ。
詭弁で使う人がいるというのはわかりますが、
可能性という言葉を、「それは可能ではないですよね」というのは、
2ちゃんねる創始者のひろゆきの言葉の
「それってあなたの感想ですよね?」のやり口と
同じ感じになるので、その言葉にこだわるのは
やめた方がいいですよ。言葉だけでは相手の判断や
こわだりや間違いがどこにあるのかなかなかわかりづらいものですね。
そもそも「それは可能ではないですよね」 とどこで私が書いているのか?私が言ってもいないことを、「ひろゆきと同じ感じ」 と言うために、勝手にでっちあげているだけではないか?
さんざん使ってきた「可能性が高い」というセリフの欺瞞性が暴かれたとき、人々の反応は2つに分かれる。
1) 「可能性が高い低い」のおかしさに気づき、そのセリフを使うのをやめる。謙虚で、物事を合理的に考えて判断することができる人々はこちら(絶望的少数派)
2) 自分がバカにされたような気がして、「べつにいいじゃないか!」と開き直る。客観的な真実よりも自分のプライドが大事で、ああだこうだと屁理屈を捏ねる往生際の悪い人々はこちら。(圧倒的多数派)
ザウルスの法則が見事に当てはまるケースであるが、当ブログのレギュラーの読者でも上記の2つに分かれる。あなたはどうだろうか?
真実は、受け容れられる者にはすがすがしい。
しかし、受け容れられない者には不快である。
ザウルスの法則
https://eigobu.jp/magazine/kaigaisei-kanousei
ザウルスさんの言うように本来の意味での
使い方では「可能性が高い」は間違いとされて
いるようですが、やはり私の判断は変わりません。
可能性というのはその人の頭の中の判断で、
曖昧なのでその確率が高くなれば、「可能性が高い」
はしっくりくる言葉だからです。
可能性という言葉の使い方にこだわるのは、
やはり、ひろゆきと同じととられるどころか
狂ったかと思われるのでやめた方が良いと思います。
自分もそう思ったので、良心からコメントを書いたのですが、逆に勉強になりましたが、大勢の人は
やはり狂ったと思う人が多数な気がします。
つかぬことをお聞きしますが、あなたはワクチンを何回接種しましたか?わたしはゼロ回ですが。
可能性という言葉の正しい使い方に欠陥があるのです。
可能性のあるなしを伝えたいのではなく、
度合いや確率の方を伝えたいのに、あるなしを
伝える事しか正しくないとか、もしそうなら言葉に欠陥がある。
ちなみにワクチンは0回です。
酸化グラフェンに関しても色々調べていて、
オオマニさんのブログにも何度か書き込んでいます。
多数がどう思うかが、ただしいかどうかの判断基準にはならないことをあなた自身が示しているのではないでしょうか?
「可能性」という言葉で何でも言い表そうとするのがまちがいではないでしょうか?
「蓋然性」 「公算」 「確率」 という立派な日本語があります。正しく使い分けることができないひとが、「可能性高い低いピープル」になっているだけです。つまり、彼らは言葉が貧しいのです。
私はつらつら考えていて、チャンスという言葉が可能性という言葉と類似していると思いつきました。ネットでロングマン現代英英辞典を引くと、chance はこう出ました:
" 1 POSSIBILITY [countable, uncountable] the possibility that something will happen, especially something you want "
つまり chance は possibility の仲間です。もし誰かが「チャンスが高い・低い」と言ったり書いたりしたら、私は、ん?、となると思います。チャンスはあるかないかだろ、と。
ところが、チャンス を 可能性 に置き換えて「可能性が高い・低い」とすると、まんまと騙されてしまいがち。これが、もし自分で考える時も習慣的にそうだとすると、たいへん怖いことで、自分自身を堂々巡りの詐欺にかけていることになります。
くわばらくわばら。気をつけねば。言葉の感度を上げて、この文言を自分の思考から排除することを来年の目標の一つにしよう。
「可能性が高い」はテレビで毎日のように誰かが言っているのですから、それだけでも十分に染脳されるでしょう。そして、自分で考えたのではなく、無意識のうちに刷り込まれた言い回しのほうこそ脳に染み込みやすく、脱染脳しにくいのです。まあ、自分の頭で考えないひとほどテレビの影響を受けやすいですからね。
テレビに出て来る気象予報士やエセ専門家などが得意になって使っているのを聞いている大衆も、真似して使って、いっぱしな気分に浸れるのではないでしょうか?おそらく、高校生や中学生も使い出していると想像されます。小学生高学年でもいるかも。 (^-^)
わたしが一目置いている論客にも可能性高い低いピープルがいて、ガックリきます。そういった論客は知識は豊富でも論理的思考があやしいことが多いです。
この問題に触れる論客がほとんどいないのは、大方軍門に下って、一緒になって言っている側だからなのかもしれませんね。 (^-^)