よのなか研究所

多価値共存世界を考える

中国を笑えない。

2011-07-28 00:19:35 | 比較文化

       Photo  トルコ・マルマラ海(エジェアバドーチャナッカレ)の連絡船

 

船の旅はどこも似ている。豪華客船と地方の街と島を結んでいる船とでは乗り心地は違うが、海の上を次の目的地へと移動していくことにおいて同じであり、そこに漂う船舶独特の空気にも大差はない。大きな船も小さな船も、一等船室も三等船室も、程度の差はあれども定期的に塗られるペンキの匂いからは逃れられない。機械や調度品に塗られたオイルの臭いもこもっている。

船の大きさや形に違いはあっても推力部(エンジンとプロペラー)と操舵部(操舵輪と舵)と客室(または貨物室)からなっている。船の中では船長の権限は絶大であり、船内を支配をしている。各場に張り付く船乗りたちは独特の雰囲気を持っている。

船の旅の価値は、その乗客がどれほど満足しているか、にあるのだろう。つまり、乗客の数だけ満足の形があるということになる。

 

世界のどの国も、その仕組みは実はよく似ている。為政者がいて国民がいる。政治権力があり、彼らが個人と法人から税金を徴収する。少数の金持ちがいて大勢の貧しい者がいる。多数の従順な国民がおり、少数の不満分子がいる。

為政者の選出の方法が異なる、といわれる。軍事政権、長期独裁政権、開発独裁政権、代議制民主主義政権、一党独裁、二大政党制、多数政党制、などなどいろいろな選出方法とそれによる政権がある。できるだけ手間をかけ、時間をかけ、手順を踏んで選出される政権が望ましいといわれる。だが、民主主義的手法で選ばれたはずの指導者たちが、どこの国でも支持率が20%から30%台で推移しているのはなぜか。わが国のように10%台で、しかもメディアと世論がその指導者の早期退陣を求めている国もある。民主主義とはその程度のものということだろうか。

 

中国の高速鉄道事故が格好のニュースになっている。格好の、というのは、どのテレビも新聞も雑誌もこれを大きく、面白おかしく報じていることを指す。中国の各組織・団体の指導者たちの行動は実に単純でおかしい。直情的で大胆で、ある意味わかり易い。白昼堂々と事故を起こした高速鉄道の車両を土中に埋めようとした。衆人環視ではなかったようだが、容易に映像が撮影されてネットに流される国はある意味では開かれた国でもある。

事故を徹底調査し、分析し、その原因を突き止めて以後の事故防止と、機械やシステムを改良し、新しい製品やサービスを生み出していくのが先進国である。その先進国では解決までに数十年を要する事故への対処がいまだ確定していない。その事故発生の可能性を指摘してきた声は、住民ヒアリング(公聴会)や、専門委員会報告という手続きを経て消されてしまう。ヒアリングが事業主の息のかかった人間が動員されて歪められていたことが知れ渡ってしまった。専門委員会委員として声のかかる専門家の多くに研究費、研究補助金、講演料等のかたちで巨額のカネが流れていたことも判明した。熱心な住人たちの声は土中に埋められたわけだ。「政治とカネ」ならぬ「研究とカネ」であった。

日本と特定の外国との間に「密約」があったことが判例し、学識者による調査委員会が報告書を提出したが、これを国会で追及することもなく、国民はモノ分かりよくさっさと水に流してしまった。明からに偽証をした元首相や大臣や課長が召喚されることもなかった。この間に、巨額の税金が流出していることも「仕方がない」ということで済まされる。次の密約が結ばれさらに国民の資産が流出する可能性は高まる。

 

白昼堂々の不祥事と、隠滅されていく大きな不祥事の違いはあるが、どこの国も良く似ていることの証左の一例である。国民がメディアの伝えるニュースをどう読むか、がその国の政治の水準を決める一つの要素であると言われるが、ニュースをより深く理解したところで、それを政治に反映させるには、一人一票の直接投票による代議制、議院内閣制、あるいは間接選挙による議会と大統領制、という政党政治しかないのが現状である。

現状に不満があるとしてもノルウェーのキリスト教原理主義者のように火器と爆発物で社会を覚醒させる、という行動はばかげている。集団のすべての構成員を満足させるひとつの方法はない。それは国家も同様である。

自国の政治システムの中で最も望ましい立候補者や政党を選ぶ、その行為を継続しながら今のシステムよりも国民の意見をうまく反映させるシステムを考え出していくという地道な活動を続けて行くしかない。

(歴山)