よのなか研究所

多価値共存世界を考える

「大乗非仏」説の展開

2012-07-01 06:46:11 | 信仰

 

                        Photo (比叡山の麓、滋賀県坂本の律院に立つ写経塔)

 わが国には明治以前から各地に藩校が建てられで将来の人材を育成する仕組みができていたが、商都と呼ばれた大阪では一般の町人、商人が設立し運営する教育機関があった。

良く知られている緒方洪庵が開いた「適塾」(適々斎塾)は天保9(1838)年の設立であり、ここからは橋本佐内、大村益次郎、福沢諭吉らが巣立っている。

これに先立つ享保9(1724)年に商人たちの支援で「壊徳堂」が設立され英才を輩出した。富永仲基(とみながなかもと)や山片蟠桃(やまがたばんとう)らが知られる。なかでも富永仲基の「大乗非仏説」はその影響が今日に及んでいる。

一口に言えば、世に広がっている仏教すなわち大乗仏教というものは後の時代に書き換えられたものであり、ゴータマ・ブッダその人の教えから大きく離れている、というものである。当時の日本では常識破りの論であり、それを公に発表したことは驚きをもって迎えられたことであろう。

 もともとブッダもイエスも自らは何ら書き物を残していないらしいから、その発言記録はまずは弟子たちが書き残し、その後、信者や研究者たちが次々と書き足していった。それが今日残されている膨大な宗教書群である。

富永の「大乗非仏説」とは「加上論」と呼ばれている。富永は仏教、儒教、道教に関する膨大な書物を渉猟し、研究を続けてこれらを比較し、大乗批判を書いた。

科学や哲学、思想の世界では、先人の研究を踏まえて後の人が書き加え、新しい論や学説を発表して進化していくと理解されている。それが人類社会の進歩をもたらしているのであれば非難されるべきものではない。だが、こと宗教について、特に教組のいる宗教にあっては、後の人たちがそれぞれ勝手な解釈をもって、名を騙り次々と新しい宗教書を送り出していくことに富永は異を唱えたのである。現在も世界中で数気限りなく新興宗教が登場し、また宗派が出てきている。その多くが集金力を背景に拡大し、やがて世俗的な力を持つに至っているのも各国で見られる現象である。彼等に共通するのは、民衆の不安や悩みを宗教で解決すると称して金品をせしめるところにある。それは、ブッダやイエスやムハンマドの説くところはまるで相容れない。最近の言葉で言えば「真逆(まぎゃく)」の存在である。宗教の本質は「教え」にあって、教団の規模や建物や見た目のきらびやかさを競うものではない。それが経済力至上の世界でゆがめられていることは否めない。

ブッタの説いた教えは、つきつめると「慈悲」のこころにある。仏典にも「愛」の用語・文字が登場するが、キリスト教のそれとは多少差があり必ずしも良い意味合いばかりでは使われていない。それは「愛憎」「愛欲」「偏愛」「愛執」などの意味合いを伴った言葉である。おそらく、究極の「愛」は「母性愛」であり、それすなわち「慈悲」のこころなのだろう。

 今日、世界の多くの国では憲法で、あるいは国是として「政教分離」を謳っているが、現実はそうではない国が多い。もともとイスラーム圏の多くの国は、「イスラーム共和国」と名乗っているから「政教分離」とは程遠い。カソリックの多くの国では聖堂で国の行事が行われることがたびたびある。プロテスタントの国でも大統領就任式で大統領が聖書に手を置いて神に宣誓する国もある。そこでは政治と宗教は一体であり、分離されてはいない。

 大乗仏教の経典に意味がないわけではない。それらはその時々の多くの僧たちが修業し研鑽した後に知恵を振り絞って書かれたものである。ブッダその人の教えからは離れているものもあるが、それぞれの価値があるからこそ数百年を生き延びてきているのだろう。五十年百年ほどの時間経過しか持たない新宗教の教条や宗旨や論理体系にはどれほどの価値があるのか、まだ分からない。現代の富永仲基たちが論陣を張っているがなかなか大きな声にならない。相手の資金力に蹴散らされてしまうほどに新宗教は大きな力を持つに至っている。ファンドが経済を動かす世の中になっているのである。

適塾と壊徳堂とを源流に持つ教育機関などが統合し、曲折を経て国に移管されたのは1931年のことで八番目の帝国大学となった。西には京都大学が設立されていたから大阪大学の設立は遅れたとも言われている。ともかく、適塾は医学部に、壊徳堂は法学部、文学部にその命脈を保っている。富永らの「官に立ち向かい世間の常識に挑戦する」学風が残っている。戦後、新制大学として改組し、2007年には大阪外国語大学と統合し、一学年当たりの学生数3245人は、東大を抜いて日本で最大の国立大学となった。私事ながら筆者もそのOBのひとりである。

(歴山)


仏教と中国

2012-02-28 21:14:33 | 信仰

              Photo(上海市内のビル街に囲まれる静安寺)

 

1966年から76年にかけて中国では「文化大革命」の嵐が吹き荒れ、宗教施設の多くは破壊されたと報道された。筆者の世代は、そのニュース報道をお茶の間で見ていた。同時期にベトナムで米軍が民家を焼き払う写真や北爆(当時の北ベトナムを空爆すること)の映像が見あきるほど流されていた。

いま、中国を訪問してみると、放置されたままの寺院や廟や道観(道教寺院)が目につくのは確かである。それはあの国の長い歴史の中ではひと時の熱波のようなもので、徐々に落ち着きを取り戻しているかのようにみえる。経済自由化と観光事業による外貨獲得政策などもあって、有名な寺社から再建されているようだ。それらはいかにも新建材で造られたと分かる寺院が多い。敦煌や西安(かつての長安)はじめ、歴史を売り物とする観光地では古い建物を忠実に復元し、修復に力を入れている。

 

 「商都」といわれている上海でも幾つかの寺院が復興していた。その一つ、市の中心部に位置する静安寺を訪ねてみると、境内には世界各地からの観光客がいたが、本殿の半地下にある講堂のように広い集会場には地元の信者たちがあふれるほどに集まり、スピーカーから流れる僧侶の読経に合わせて二百人ほどが一斉に読経していた。もう一方では、長い机の前に並んで朱で縁取りされた大きな用紙に誓願の文言を書いて、お布施と一緒に僧侶に渡す人たちが列を作っていた。廊下に設けられた十六羅漢像の前では長い線香の束を手にしたまま五体投地prostrationの姿勢をとって繰り返し礼拝していた。人びとの年齢層は広い。中国式の五体投地はインド、ネパール、チベットに残る、文字通り五体を地に横たえるのではなく、肘と膝と頭部を乗せるための綿布で覆い柔らかくした傾斜のついた台座の上で行う。それでも、平服で五回、十回と繰り返して行うのはなかなか苦労を伴う。

 

この地にはまだ信仰心が続いていた、と見るべきなのか、文革の後に信仰心が復活してきた、と見るのかは判然としないものがあった。おそらく、その両方ではないか。先進国の一般の人々の理解では中国では今も宗教はご法度であるということになる。加えて、経済政策の転換により今の中国人は拝金思想にまみれてしまい、もはや信仰心などはもたない、と受け止めている。筆者もその一人であった。

我々が報道によって、特に映像を伴うテレビや映画というメディアを通じて理解している国際情勢がいびつな世界観を作りだしているのであり、真の信仰心というのは革命や戦争や破壊によっては滅びることはないのではないか、と現地を見て改めて感じられた。

 

 中国政府によるチベット仏教や、イスラーム(回教)を信仰しているウイグル族の一部の人々を弾圧していることは非難されなければならないのは当然である。同時に他の国々での宗教弾圧や民族・人種の差別・排除にも同様に批判の声をあげなければならない。

 中国は長い歴史を有し、その中で多くの思想・宗教を生み出し、考案してきた国である。前三千年の殷は祭礼国家であり、前千年にこれを滅ぼした周は礼楽国家だった。インドのバラモン思想、パレスチナのヤーウェ思想に比肩しても余りある歴史がある。

日本人の多くが信仰している仏教は中国を経由し、そこで解釈され翻訳され、加筆されたものを拝んでいるのである。すなわち、南アジア発祥の考えを東アジア風に書き換えたものなのである。その間、法顕や玄奘三蔵や義浄といった高僧たちの命をかけたいくつもの物語りが存在する。当然のことながら「空」も「縁」も「業」も、「釈尊」も「天竺」も「般若」も「天台」も、彼らが翻訳して伝えたものなのだ。

 日本人がこの国土の純粋な信仰と信じて疑わない「神道」の古い聖地には、もともと建屋など持たなかったところに仏教が伝わってその寺院を模して社が建てられたものであり、その儀礼や様式も仏教と儒教、道教の影響を大きく受けている。

本来の日本の「カミ」信仰は、諏訪大社や宇佐八幡宮に伝わる祭事のように自然を対象とし、宗像大社の高宮祭場や沖縄の斎場(さいふぁ)ウタキのような自然空間であったと考えられている。

 

中国で仏教寺院、道教の道観に詣で人びとの信仰する姿を見て、この国の大国としての復興を垣間見た気がした。何かを信ずることは尊いことであり、人間社会の重要な構成要素であると思う。中国の大衆にも信仰心により寛大な心持ちの社会を構築していくことを期待したいものだ。

真の信仰心とは神仏に頼みごとをするのではなく、何かを畏れ敬い、自らを律するところにある。

(歴山)

 


パンテオンと「ユーロ」問題

2012-02-21 13:17:30 | 信仰

                                                   Photo(ローマのパンテオンの天井円空oddhivo)

 

ヨーロッパもかつては多神教の世界だつたんですね。ギリシャ神話にも北欧神話にもたくさんの神々が出てきます。美術館や劇場に行くと、絵画にも彫刻にも音楽にも、多くの神々が登場します。

ローマの遺跡の一つ「パンテオンPantheon」はちょっと不思議な建物です。円形の伽藍の壁面には多くの神像が祀られています。見上げると天井の中央部に大きな丸い穴があり、そこから広い堂内に日差しが降り注いでいます。雨が落ちて来ることもあります。古代ローマを今に伝える建築物の一つでもあります。案内書には「万神殿」と訳されてあり、アテネの「パルテノン神殿」同様に多神教の神々を祀る神殿でした。ローマ市のはずれに位置するカトリックの総本山であるバチカンからもさほど遠くない距離にあります。

 

ローマ帝国においてキリスト教を公認したのとされるのがコンスタンティヌス大帝です。彼による特定宗教への社会的・政治的な受容が、後にキリスト教がローマ帝国領であったヨーロッパ各地へと広まっていく契機となったわけです。それまでキリスト教は排斥されており、それゆえコンスタンティヌスはギリシャ正教、東方教会では聖人とされています。

 多神教から一神教へと代わっていくことは、人間の思考が進んだから、ということではないのです。宗教が政治権力の争いや、領土拡大のための争いごとに利用されるのは古今東西を問いません。広大なローマ帝国の中には皇帝や数人の副帝が並立しており、その争いの中で大勢の信徒を有する宗教組織が利用されたことは想像に難くありません。現在の東洋の某国にても同様な状況が出来しています、

 ユダヤ教、キリスト教、イスラームという一神教の系統は、長い歴史のある中東世界と地中海世界とが交差するパレスチナという極めて特殊な地域で興った宗教運動でした。その中で外に向かってもっとも布教に熱心であったのがキリスト教であり、ついでイスラームだったわけです。コンスタンティヌス大帝によるキリスト教の公認は四世紀にはいってからのことでした。いわば、たまたまそうなった、との考えも成り立つのです。

 

一つの考えが広い領域で受け入れられるに至る、ということは現代でもいろいろな様相で見ることができますが、それが必ずしも普遍性を持つ、ということではありません。ロシアから東欧にかけての共産主義政治運動は、一時は世界的普遍性を持つと考えられましたが、数十年で幕を下ろしました。いまやアメリカ型資本主義経済も決して普遍的ではないことが実証されつつあります。

してみると、今日のEU内での経済的混乱も、共通通貨「ユーロ」という考えのどこかに欠陥があったのではないか、と考えることができます。すくなくとも、経済力や、工業化の進展具合、技術者の技量のレベルや商習慣などの差異を無視しての共通通貨を推し進めることは、その運用に各国の自制を伴うことを知らしめたものと考えることができます。

 

いかなる政治団体も、宗教組織も、経済機構も、それらを支える考えも、組織防衛とその拡大のためにおカネを必要とし、宣伝活動を盛んにしていきます。大衆を動員し、中には軍事的にも力を持とうと考えるものもでてきます。その組織や考えが正しいかどうかは別の問題です。

 

パンテオンの天井の丸窓は伽藍の聖空間と外の自然界とを繋げています。人びとは「風雨順時」、「五穀豊穣」、「家内安全」などを祈願したのでしょうか。華厳経の説く「重々無尽(すべてのものが縁で結ばれる)」に近いものがあります。人類が定住生活をするようになってからというもの、その願うところに大差はないと思われます。敢えて差異を強調し、自らを是とし他を非とする集団があるとすれば、そちらを疑わねばなりません。

パンテオンは、かつてこの地が多神教の世界であったことを今に伝える建築であり、その中にしばし身を置いていると考えさせられるものがありました。

(歴山)

 


ひもろぎ、いわさか、やしろ、

2012-01-12 11:28:51 | 信仰

              Photo(日吉大社内の巨石の注連縄、滋賀県坂本)

 

伊勢神宮の遷宮年がいよいよ来年となり、徐々に話題が盛り上がってきているようです。初詣に参拝した神社にて、その趣旨に賛同して寄進をされた方もいることと思います。

実は遷宮というしきたりはお伊勢さんだけのものではありません。平成242013)年には出雲大社も遷宮をします。現在その支度に入っていますから建屋は大きな覆いに包まれているはずです。

伊勢神宮の遷宮については良く知られていますが、式年遷宮が二十年毎にきちんと行われるようになったのもそう古いことではないようです。出雲大社の場合は不定期であり、今回は六十年振りとのことです。老朽化した本殿を作りかえる間、仮に建てられる屋代を指して遷宮と呼ぶようです。伊勢神宮や出雲大社のみならず、古くは春日大社でも宇佐八幡宮でも、諏訪大社でも鹿島神宮でも、日吉大社でも行われていたとのことです。ともかく、この二つの神社の遷宮が同じ年に行われる、という稀なことを吉祥と受け止めている人も多いようですね。

 

神社のことを「やしろ」と呼ぶことがありますが、古くは漢字では「社」、また「屋代」と書いたようです。それは、神社の建築がもともと「仮の建屋」であったからです。では、今日のような建築物が建てられる前にはどんなものがあったのか、・・・それは小さな建物でした。今日、神社の域内を礼拝して廻ると小さな祠(ほこら)を見ることが多いですね。祠は神社のミニチュア版などと説明されることがありますが、これがもともとの「やしろ」なのでした。神社建築は仮の建屋ですから、それ自体が有りがたいものではなく、そこにカミの存在を感じとることができるから貴いのです。禊払い(みそぎはらい)に示されるように、神道は穢れを忌みします。それゆえ建物が老朽化すれば場所を変えて建て替えるのもごく自然に行われていたわけですね。その点で、石造りの神殿や劇場が今日まで残っているギリシャ・ローマとは大きく異なるわけです。

では、「やしろ」が建てられる以前は何があったのか、・・・それは単なる空間でした。つまり、樹木に覆われた泉、また巨木や巨石を取り囲む空間、また人びとが何か聖なるもの、ことを体験した場所、などの空間がありました。神々の宿る巨木を神聖視して神籬(ひもろぎ)とよび、また神々の宿る巨岩を岩境(いわさか)と呼んで敬いました。そこに注連縄を張って自分たち集団の聖空間であること示し、ことあるごとに礼拝してきたのです。

 

そこに神々の存在を感じる聖なる空間があることこそがカミ信仰の大本です。その原型に近いものは、たとえば福岡の宗像大社の奥にある高宮祭場に見ることができます。おそらく、沖縄に多く残されているウタキはさらに古いかたちのものではないかと思います。ウタキは漢字を当てると「御嶽」であり、山中照葉樹の密林の中にぽつかりと開いた空間に過ぎません。それは長い歴史を持ち、久高島のフーボーウタキなどはその一帯が男子の立ち入りが許されない聖域となっています。女性のほうが霊的に優位にある、と古代の日本で考えられていたことは、例の『魏志倭人伝』に登場する「卑弥呼」の立場にも見ることができます。奄美諸島から沖縄諸島にかけては「ノロ」という神女がいて、近年さすがに形骸化してわずかしか存在していませんが、かつては村落社会の、また王朝統治機能の中で重要な役割を果たしていました。

神社建築とは、後に天文知識を持った道家の人たちが、お札(ふだ)や金物や木札、雲の紋様や神獣造形などを携えてやってきて、その空間に神の住まう建物を建て、装飾することを教えたもののではないか、というのが筆者の考えですが、これについては改めて書きたいと思います。

(歴山)

 


「競争原理」主義は生き残るか、

2011-10-05 21:23:30 | 信仰

                           Photo(タイ国バンコックのカオサン通り)

 

経済発展の著しいタイの首都バンコックで、ビルの谷間を托鉢してまわる若い僧侶を目撃したことのある人も多いと思います。

タイは仏教国ですが、日本や韓国、中国の東北アジアの仏教とはやや異なります。ご存じのとおりわれわれが大乗仏教であるのに対し、タイやスリランカをはじめラオス、カンボジア、ミャンマーは上座部(テーラヴァーダ)仏教です。

上座部のことを「小乗(hinayana)」と呼ぶこともありますが、それは大乗部が自己を「大乗(mahayana)」として上座部をおとしめて呼んだのであり、現在では使用しないことになっています。「自己の修練により自己一人が救われる」との教えは小さな乗り物(考え)である、との大乗側の付けた呼称でした。

また、伝播の経路から「南伝仏教」と呼ばれることもあります。中央アジア経由で伝えられ、またそこで作られた大乗仏教は「北伝仏教」というわけです。キリスト教に旧教と新教があるように、イスラームにスンニ派とシーア派があるように、世界宗教には背景は異なつてもいろいろな分派がある点は似ています。あたかも、それが世界の大宗教の条件であるかのようにも見えます。

上座部と大乗との教義や戒律の差異については別の機会に記すとして、その社会について触れてみたいと思います。

 

タイに旅行したことのある人の中には、この国に入るとゆったりしている感を持った方も多いでしょう。仏教国ということもありますが、気候風土のなせるわざかもしれません。人びとのこだわりの度合いが少なく、他人の振舞いにとやかく言う人もいません。もちろん貪欲な人種もいれば、ビジネスの社会では厳しい競争が繰り広げられていますが、まだまだ市民生活ではこだわらない生活習慣が残されています。

物欲を抑える考えがあります。モノを分かち合う精神が生きています。「少欲知足」の考えが息づいている感じを受けます。キリスト教社会にも「貧しい人びとは幸いである」(ルカによる福音書)ということばがあるようですから、根底には同じ考えが横たわっているのかも知れません。

 

1960年代から、世界各国からわけのわからない放浪者たちがこの街のホワランポーン駅の回りに集まるようになりました。筆者もその中の一人でした。ネパールのカトマンドゥ、アフガニスタンのカーブルとバンコックが彼らの三聖地とされていた時期もありました。70年代に入って「バックパッカ―」という言葉が広まって、怪しげな雰囲気はやや減り、薬物依存のヒッピーたちは他の土地を求めて去っていきました。

バンコックのカオサン通りには現在も国籍不詳、職業不詳、年齢不詳の男たちと女たちがたむろしています。その昔は先進国の「ドロップアウト」つまり、落後者呼ばわりされている人たちが大半でしたが、昨今ここにたむろしているのは文字通り「人種のるつぼ」の感ありです。身なりが一昔前と比べて小ざっぱりしています。低価格の宿に長期滞在し、またここを拠点として国内の他の地域や近隣諸国へと足を伸ばしているようです。

その多くは、「ドロップアウト」ではないものの、先進国の過当競争の経済社会から距離を置いて人生を生きているひとたちでした。口をそろえて「資本主義は終りだ」という欧米諸国から来ているグループとも話をする機会がありました。タイの仏教寺院で瞑想修行でも受けて、一時的に覚醒しているだけなのかもしれない、と感じました。

 

ニューヨークのウォール街を「Occupy(占拠せよ)と書いたプラカードを持って集まっている人びとの映像を見て、三年前のバンコックでの一日を思い起こしました。もしかしたら、あの時のだれかが映像の中に写っていたのではないか、と感じるところがありました。そうだとしたら、一時的な精神の高揚ではなく、長く考え、ながく行動した結果の行動なのかもしれない、そんなことを連想させられました。

(歴山)