よのなか研究所

多価値共存世界を考える

多くの政党による競争が正しい、

2012-06-26 20:20:15 | 政治

                                  Photo (マラバール野生生物保護区(サンクチュアリー)、南インド)

 民主主義の欠陥が問われている。個人の接する情報量が飛躍的に増大し、世界のニュースが瞬時に伝わる社会において選択肢がはじめから二つ(あるいは棄権行為を含めた三つ)しかない「二大政党制」では有権者にとって満足出来るものではない。選択肢をたくさん用意して、その中から自分に最も近い意見を持つ政党を選ぶにはもっと政党の数があった方がよい。それが難しい仕組みなっているから「支持政党なし」が常に半数近くに及んでおり、その結果、投票率が低下し、国民の声がなかなか的確に選挙に反映しないことになる。それはわが国だけの問題ではない。先進国、途上国を問わずの現象であるようだ。

国会における与党の指導者たちは、一旦権力を手にすると、選挙の時に争点となった論点をゆがめ、それ以外の課題も選挙での勝利をいいことに強引に進めていく傾向がある。そのために党内の少数派を排除する「党議拘束」という手段がある。そこで世論とは異なる政策が打ち出され、選挙を経ずに国会の場で推進していくことになりがちである。大衆はますます政治不信となり、選挙において一票の行使を放棄することになる。そうすることによって、特定の政党、派閥が有利になって行く。そんな光景を過去二十年ほど見ているような気がする。

インドは「世界最大の民主主義国家」と形容されることがある。あまりインド人自身の口から聞くことはないが、ともかく民主主義が機能している最大の国家であることは間違いない。総選挙となると有権者数七億人余、投票は二カ月に亘って行われる。それゆえの不正行為も多い。それでも2009年の第15次総選挙まで定期的に選挙がおこなわれ、政権交代も起きている。いろいろな政治改革が進められており、選挙権年齢は18歳に引き下げられ、地方分権が進められ、地域住民参加を強めるべく伝統的なパーンチャヤット制も改革されて導入されている。在外インド人にも選挙権が与えられた。国会における女性議員の三分の一割当法案も上程されている。

そのインドには現在政党が四十ほどある。そのほとんどが国政に参加し議席を保有している。現在の有力政党は分離独立以前からの「国民会議派(コングレス)」、これを1977年に破った「ジャンタナ・ダル」、1998年に連立政権を作った「インド人民党(BJP)」、それに「共産党」など左翼政党がある。いずれも分派、分裂を繰り返すので、名称を覚えることに苦労するのもインドの特徴である。

また州単位で勢力を誇る地域政党がたくさんある。ここ三回の総選挙は連立による政権構想で争われており、現在はコングレスを核とするUPA(連合民主同盟)であり、以前はBJPを核とするNDA(国民民主同盟)が政権を握っていた。これから先もたびたび連立の枠組みは組み換えられていくことになると予想されている。

連立を組む相手は州を基盤とする地域政党が多いが、特定宗教や政治信条を掲げる政党も多い。共産党と名乗る政党もインド共産党、同(マルクス主義派)、同(毛沢東主義派)の三つがあって相応に支持を集めている。

政党内においても離合集散が日常的であり、また政党間の連合や離散もしょっちゅう行われる。それゆえ、国民は一つひとつの案件について、選挙区のどの政党、どの人物がどの見解に属しているか、どのような議決に与みしたか、をつぶさに知ることになる。インドの新聞は国政と州政治と市町村の議会、政党、政治家の記事で溢れることになる。

多党の乱立はたしかに政策決定を遅らせる結果となることが多い。しかし有権者は時間をかけて政党や政治家を見ることで、最も自分の見解に近い政党や政治家を見極めることができる。インドはBRICS四カ国(あるいは五カ国)のなかでも政策決定が遅い、という指摘もある。しかし、大きく政策の舵取りを間違えることも少ないと感じられる。すくなくとも、政権政党の幹部たちが、選挙での約束を違える政策を推進したり、論点にならなかった課題を恣意的に決めたりすることがあれば、直ちに支持を失い政権が危うくなるのである。むしろ、連立工作の過程で他の政党の主張を取り込むことで政策がより多くの民意の反映させる方向へと進んでいくことになる。

わが国の歴代の政権担当者たちは小選挙区制を導入し、二大政党を指向してきた。それは特定の政策の推進には確かに好都合である。選択肢を狭め、多数派工作をすれば国民の声とはうらはらな決定も可能となる。政治の推進には向いているようだが、近年世界の多くの国ではむしろ政治の場で多くの選択肢を用意する方向に動いているような気がする。他からの圧力により、何らかの意図を以て間違った政策を決める政治よりは、決められない政治、一旦留保して時間をかけて決める政治の方が民主主義のやり方である。こういう場合、本当に決めるべきは別のところにある事が多い。それもインドという国が事例で示している。

政党とは、比較的意見の近い人たちが集まって形成されているものである。しかし、何から何まで意見が一致する、と云うことではない。そんなことはあり得ない。政治家たるもの一人一人見解を異にして当然なのだ。政党は結社ではあるが、秘密結社ではない。

(歴山)

 


依存症の蔓延、

2012-06-20 10:51:11 | 時事

                       Photo (南の島に寄せる台風の波、鹿児島県奄美大島)

 「無くて七癖」、といわれ個々の人間にはいろいろな癖や嗜好がある。偏った行動や偏った思考がある。近年はこれらを「個性」と理解して肯定的に捉える人たちもいるようだ。周辺と異なって目立っていることを指す「キャラが立つ」などという表現をたびたび耳にする。

個人の癖や嗜好が「キャラ」などと呼ばれているうちは愛嬌があるが、これが嵩じて「依存症」と呼ばれる社会的な症状をもたらすことがある。たとえば「パチンコ依存症」である。母親の過度のパチンコ愛好による 駐車場の車内に放置された幼児や子供の死亡事故を新聞やテレビニュースで見聞きすることが多い。若い人の「薬物依存症」による交通事故や傷害事件のニュースも目につく。小学生、中学生の間では「ゲーム依存症」が多いとのことで、これによる多額の請求なども社会問題化している。

依存症になるとそこから抜け出すのは難しい。その物量により、その継続年数により、地域性により、また民族性により、抜け出す可能性に差がでてくるようだ。日本人の遺伝的特性の中に「依存体質」があるのかと考えることがある。

 決して望ましいことでないと自覚しながら、その状態を改めることをしないのは、現状維持が肉体的にも頭脳的にも、また経済的にも最も楽であり、あえて苦労をしないで済むからなのである。要するに、何も考えなくて済むのである。

個人と同様に、ある種の人間の集団、特定の地域の人間、特定の国民にもまた行動や思考に偏りがあるのは当然である。 沖縄の県民も実は全員が「米軍基地」に反対ではない、むしろ米軍基地の存続や移転に賛成の人たちがいる、と月刊誌や週刊誌に記事が掲載されている。それはその通りであろう。たとえば、米軍基地の地権者や基地内で働いている人たちの中に安定した収入源としてその継続を望む人がいるのは当然だろう。地代も、労務費も日本政府が支払っているのだから、遅配もなく、毎月満額が支払らわれ、これ以上安定した収入源はない。それらはわれわれ国民の税金から支払われているのであるが、「薬物依存症」があるように、「基地依存症」という症状もあるわけだ。安楽を享受する人間にとってはそこから抜け出すのは困難である

 最も重度の米軍基地依存症は、日本政府である。特に外務省と防衛省の役人、その周辺の数え切れないほどある特殊法人の職員たちである。彼らにとっては安定した職場であるのみならず、身分保障であり、またある種の権威でもあが、なによりも、それは生存価値なっているようだ。

いわば、日本という国家自体が米軍基地依存症に陥っているということである。この背景には、江戸時代以来の「御上(オカミ)」体質というものがあるようだ。オカミのやることには間違いはない、言われるままに従えば安寧な生活を送ることができる。明治半ば以降、給与生活者が増えると、所得から税金が徴収されることを「天引きされる」と称した。オカミならぬ、天が所得税や住民税をまっ先に引いてくれたのである。また、社内の積立預金や年金も同様に積み上げられてきた。そのおカネが財政投融資にまわされ、特殊法人が無数につくられ、天下りが進められてきた。日本の財政の問題点は特殊法人の肥大化、利権を食っている公益法人による税金の食いつぶしにあることはうっすらと分かってながら、これを口に出し、あるいは投票行動で示すことが出来ない。

 「寄らば大樹の陰」は、バブル崩壊以前まではなんとか意味を保っていたし、勤労者の大多数は国の政策になんとなく従っていた。その政策の中枢に原子力発電普及があり、在日米軍基地の維持があり続けたのである。

すなわち、「原発依存症」と「米軍依存症」とがあったのである。前者の方は徐々にではあるが、その実態の異常さが表出して国民の知るところとなってきている。後者の方は、守秘義務やら軍事機密やらでなかなか実体がつかめない。しかし、公表されている資料によっても、日本の駐留米軍に対する負担の突出した大きさは理解できるのである。負担経費のみならず負担割合でも日本は群を抜いている(日本74.5%、ドイツ 32.6%、韓国 40.4%、2002年資料)。

依存症から抜け出さないことには、人間も集団も国家も自分で判断することができない。薬物依存症の治療のように、時間をかけて適切に丁寧に進めていくことが求められている。

原発騒動も、増税騒ぎも、オスプレイ問題も、財政問題もすべては一つの基盤の上の問題なのである。

(歴山)


インドになにを望むのか、

2012-06-12 07:41:56 | メディア

                      PHOTO (土地を守る街角の神々、南インド・カルナタカ州)

 6月初旬、神奈川県の相模湾でインド海軍と海上自衛隊との共同訓練があった。あいにくの悪天候で訓練は一部変更されたらしいが、自衛隊が異国の軍隊と一緒に訓練することはいいことだ。相手の実力を知りお互いを理解するいい機会となる。歴史上たびたび見られる誤解に基づく揉め事や突発的な戦闘を避けるためにも良いことである。いかなる国であれ、共同演習の申し出があればわが国はこれを受け入れるべきと思う。

今回インド海軍から参加したのは駆逐艦「ラナ」、補給艦「シャクティ」、フリゲート艦「シヴァリタ」、コルベット艦「カルムク」とのことである。日本側からは護衛艦「はたかぜ」と「おおそみ」に水陸両用救難飛行艇US2などが加わった(産経新聞6月10日)。

 さて、毎度のことながら日本側の勝手な思い込みがはなはだしいようだ。新聞の報道記事もテレビニュースのコンメトも、「急速な軍備拡大を続ける中国を睨んでの…」、と判で押したように報告している。中には、「中国の脅威に対して共同して…」などと喋っているリポーターも見られた。

 インド側のアジット・クマール海軍少将は「海上輸送路の防衛や海賊行為の対応で意義がある」と述べた。インド人の常として、また軍人の常識としてこういう場合特定の国の名前を出すことはないが、これはまたインド人としての本音でもある。

日本のメディアやそこに登場する評論家たちはインドに日本やその同盟国と共に中国の軍事力への対応を期待しているようだが、インド側にはそのよう考えはない。万一日本が攻められてインドが支援に来ることはないし、インドが攻められても日本に支援を求めることはないだろう。あるとしたら、国連の決議するところの災害救助、海賊行為への対処くらいである。

それは独立以来のインドの政策と行動を知るならばしごく当然のことある。インドは伝統的に「非同盟全方位外交」を掲げてきた国であり、近年は「全方位連繋外交」を展開していることで知られている。インドに期待すべきことはまったく別のところにある。

 インドと中国は1962年の両国国境紛争後ながらく冷却期間が続いた。1988年以降両国首脳の相互訪問が続き、「国境管理ライン地域の平和と安寧の維持に関する協定」を締結している。1996年には、両国国境地帯における兵力削減などを骨子とする「軍事的信頼確立に関する協定」も締結されている。

これらを背景に経済関係が拡大し、インドの対中貿易額は2010年に訪印した温家宝首相とシン首相との間で2015年までに1000億ドルに拡大することで合意している。すでにインドの対外貿易でも中国が首位を占めているのである。

インドと中国はBRICS で統一行動をとるのみならず、SCO (上海協力機構) にインドがオブザーバー参加することで欧米式の問題解決に反対することがある。また、後発の経済大国として両国は歩調を合わせることもある。地球温暖化を扱うCOP (気候変動枠組条約締結国会議) などの場では、自国の経済発展を阻害するような温暖化規制に共同して反対している。国境線をめぐって過去に三度の戦火を交えた相手ではあるが、お互いを「近未来の世界の大国」として認め合っている。

もちろん、両国間に善隣外交を阻害する要因はある。一応の安定を見せているが、国境問題に関する特別作業グループや特別代表会議などで根本的な解決への道筋は見えていない。ダライラマ14世のインド国内での活動にも中国はたびたび異議を唱えている。また、ヒマラヤに源を有する河川の水資源問題も存在する。

中国はミャンマー、バングラデシュ、スリランカ、パキスターンの港湾建設に協力している。世界的レベルでそれは好ましいことである。インド洋に面したそれらの港で中国の船舶の優先的な使用、さらには、中国海軍の寄港地として活用されるのではないか、と予測されている。中国は中東・アフリカへの航路の中継地としての利用を考えている節があるが、インドにしてみれば気が気でない位置にある。

 インドにとって中国やパキスターンが潜在的な脅威、つまり仮想敵国であるとするならば、同様に日本もアメリカもタイも豪州も仮想敵国である、ことを理解しなければならない。一部の学者や評論家が良く使う「リアリズムの国家」という用語を履き違えて理解している人びとがとくにマスコミ人種の中に多く見られる。これも日本と云う国の特殊な事情であり、現在の停滞のひとつの原因でもある。

ちなみに、演習に参加したインドの補給艦の名前「シャクティ」は「力」の意味であるが、もともと「神の力」、「呪力」などの意味合いがある。駆逐艦「ラナ」は「(ラージャスターンの)王の名」を引いている。このあたりにもインドらしさが表れていると思う。

(歴山)


世界の警察が二人に? 米国と中国

2012-06-06 07:11:53 | 歴史

                                  Photo (鹿屋基地に展示されている練習機SNU、鹿児島県)

 「世界の警察官」を自任してきたアメリカがどうやらその一部を中国に役割を譲る方針のようだ。シンガポールで6月3日閉幕したアジア安全保障会議で米パネッタ国防長官は「2020年までにアジア太平洋地区に米海軍艦隊の六割を展開する」方針を発表したが、同時に「南シナ海でのフィリピンと中国との係争にはかかわらない」主旨の発言をした。つまり、この地域の二国間の問題にはかかわらない、ということである。「世界の警察」の業務の一部をすでに手放しているかのような発言に聞こえる。「警察」は常に正しく、立ち向かう者は業務執行妨害で検挙することができる立場にある。

 この会議に中国代表として出席していた仁海軍中将はパネッタ発言を「財政難と世界的な安全保障の情勢から定めた戦略」と述べて理解を示した(東京2012.6.4.)。アメリカと中国の二国は、対立するように見えてある部分は通じている。そうでなくともこの二国は良く似ている。自国が正しいと思うところを相手に強要する、弱みを見せると圧倒的な軍事力で迫ってくる、自国の弱い部分については国際的な取り決めを力で自国優位にねじ曲げても競争力を保とうとする。その他、大掛かりなことが好きなところや、「自由と平等」、あるいは「社会主義」を掲げながら実体は弱者を切り捨てているところなどである。中国の態度はひところのアメリカのやり方とそっくりなところがある。自分から攻め込んで行って、自国の論理を振りかざして相手に譲歩を迫る。結局自分が譲るところはない。

 ここまで書いていて百十数年前のスペインとアメリカとの力関係を思い起こした。

やや衰えたりとはいえ、数世紀に亘り世界に冠たる海軍力を有し、多くの植民地を保持してきたスペインに対し、アメリカ合衆国は些細な問題をきっかけにキューバを舞台にスペインに戦争を仕掛けた。1989年ことである。当時のマッキンレー大統領は容易に開戦に踏み切らなかったが、主要新聞がこぞって煽り立てる記事を書くと国民の間に主戦論が巻き起り、やがて戦闘状態に入った。結果スペインは敗退し、太平洋艦隊と大西洋艦隊を失い、世界の大国から南ヨーロッパの一つの国に戻ってしまった。

とって代わったアメリカ合州国は1989年にキューバを占領、ハワイ諸島を併合、グアム島を占有、フィリピンを領有し、一気に世界の大国となった。世界史の教科書ではこれを「覇権の委譲」と記述している。さらに歩を進めて、中華民国に対し「門戸開放」を要求し、1900年の義和団事件に介入し、1905年以降は満州に進出して日本と対立するようなっていく。

最近になって、アメリカが盛んに「太平洋への回帰」と唱えているのは19世紀末から20世紀初頭にかけてのこのような歴史的背景があるからである。

加えて、現在経済が伸長しているのはほとんどアジアの国々であり、ここを相手にしなくては自国の経済すらも危ういことになりかねないからである。

そこに、経済力を背景に軍事力も備えつつある中国の登場である。日本の外務省防衛省そしてマスコミもアメリカの意を受けて「軍事増強を続ける中国」と書きたてている。それは、百年前のアメリカの姿であり、大国に対して軍事的弱みをなんとか対抗できるレベルに引き上げようと苦戦している新興勢力の姿である。急劇な伸び率を示している、と云っても未だアメリカの五分の一ほどの国防予算であり、経済力が三分の一に達している事を考えれば、まだ当分軍事拡大が続くことを予測するのが現実主義者の対応ではなかろうか。

米国防長官の、アジア太平洋地区に米海軍艦隊の六割を展開する、の発言にしても、八年後のことであり、つまり、全体が縮小して行くなかでの六割であれば、現在より増強しているとは限らないのである。

すなわち、衰退する旧勢力と伸長している新勢力の間にあって、自国の安全と繁栄、雇用と経済、防衛と通商、をどのように維持し発展させていくかを自ら決めることができるか、が問われているのである。

(歴山)