よのなか研究所

多価値共存世界を考える

民主主義は最悪の政治形態である、が…

2011-04-29 08:34:23 | 思想

  

                            (バングラデシュ国会議事堂)

 

先般行われた第17回統一地方選挙は東北大震災と東電福島原発事故の後ということもあり、いろいろな議論があったにもかかわらず低投票率に終わりました。前半の41道府県議選が48.15%12都道県知事選は52.77%、後半の市長選は52.97%、市議会選50.82%、町村長選70.56%、町村議選66.57%でした(総務省発表)。これらの投票率は過去60年間ほぼ一貫して下降してきています。簡単にいってしまえば、都道府県の首長と議員を選ぶのに2人に1人、町村の首長と議員を選ぶのには3人に2人しか投票していないということになります。国政も近年はほぼ同様で60%台の投票率で推移しています。これが日本の民主主義の実態です。

ところが、このような時にも必ず投票に足を運ぶ特定の集団があることはよく知られています。今回の選挙もいくつかの集団は熱心な投票行動を組織的に行ったようです。もし、投票率が50%と仮定すれば、5%の支持基盤を持つ集団が全員投票に行けば、得票率は10%ということになります。このような人たちは友人知人をはじめ周囲のひとたちに積極的に特定の党・人物への支持を呼びかけるのが通例のようですから、実際には13%から15%くらいの票を獲得しているようです。時にはもっと多いかも知れません。こういう集団が議員を多数選出し、首長選挙にも大きな影響力を発揮することになっているわけです。このような事象は日本だけのことではなく、濃淡はあるもののアメリカでも、ヨーロッパでもみられる傾向だそうです。

このようにして選ばれた議員たちによって税金の使途が決められ、議会と首長によって政策が進められていきます。

 

民主主義の基本は全員参加の平等性と多数決の原理でなっています。民意は議会における議員の数によって示されます。つまり、数の論理によって政策を決定する政治システムであるということです。多数派の独断専行を回避するために、少数派を尊重し、その意見を政策に反映させる仕組みを考えてあります。現実には意見が対立するひとたちがどれだけ議会で討議を続けてもなかなか歩み寄るということはありません。最後は強行採決、という光景をたびたび見るのはそのためです。

現在の民主主義のもう一つの基本は代議制、そして政党政治ということになります。特に国会や都道府県議会ではほとんどの議員がいずれかの党派に所属しています。選挙民は、自分と意見の近い党派や候補者とを選び、代弁してもらうことになります。実際には、党員ひとりひとりの議員があらゆる議案についてすべて同じ意見であるということはまずあり得ません。しかし政党内では議決に当たっては統一行動をとるのが決まりです(例外的に自由投票ということがあります)。リーダーたち(党の幹部)にとって重要とされる議案については「党議拘束」なるお触れが回ります。議場では、不承不承それに従う議員の姿を見ることになります。政党自体が大きな権力機関となっていきます。二大政党制となると、ますます政党の横暴が幅を利かせることになります。現実に、日本ではこの十五年ほどひたすら二大政党に向けて選挙制度を改革してきました。その結果は現在見る通りです。

 

現在国民的議論の的となっている原子力発電も、一応は議会の承認を得て推進されてきたものです。これが非となるのであれば、われわれはその責を負わねばなりません。事業者側の説明が不十分だったとしても、重要問題に関して選挙民は情報を熟読し、思慮深い判断が求められます。メディアは情報を提供する責任があります。

 

「民主主義は最低の制度だ。ただし、今のところこれよりましな制度がない」

元英首相のチャーチルが194711月の下院での演説で語ったと伝えられます。それ以前にも同様のことばを吐いた人物がいたのかもしれないが、ともかくウィットとユーモアが好きだったというこの人物に相応しい科白です。

これを真に受ければ、近い将来「現在の民主主義よりましな制度が登場するかもしれない」という期待感を持っていたのではないか、と考えることもできます。

(歴山)


「シルクロード」という用語

2011-04-24 10:44:49 | メディア

                                    (サマルカンドのレギスタン広場)

括弧付きの用語は、特定の組織・集団が特定の意味を含んで使うことばを他の人や組織が引用する時に用いられます。商品名など特定の物を示す固有名詞も括弧に収められます。長らく「括弧付き」で表示されていたことばがいつしか括弧がとれて一般的な用語として使われるようになることもよくあることです。

「シルクロード」ということばも初めは括弧付きでしたが、今日の日本ではあたかも普通名詞であるかのように使われている感があります。この用語は、19世紀ドイツの地理学者リ一フォーフェンがその著書『シナChina』(1877年)の中で中国西域の交易路を "Saidenstrasse"(ザイデンシュトラーセン)と表記したのが初めであり、それ以前には存在していませんでした。それは、東西路のみならず南北路も意味していました。ヨーロッパでは大昔から「塩の道」がよく知られており、"saltzstrasse"(ザルツシュトラーセン)と呼ばれていたので、いわば、このことばをもじって記述したのでしょう。これを彼の弟子へディンが中央アジア旅行記の一つの書名に使用し、1938年にその英訳本 "The Silkroad"が刊行されて、英語圏の研究者や一般読者の知るところとなりました。あくまでも研究者の間での用語でした。

日本で大衆が広くこのことばを使うようになったのは、1980年代に入ってからのことでしょう。何と言ってもNHKが長期にわたり特集を組んで放送したシリーズ番組「シルクロード ― 絲綢之路」によるところが大であったと思われます。メディアが生み出したことばということも可能でしょう。番組は高い試聴率を上げ、そのテーマ音楽とともに「シルクロード」の文字が街にあふれました。いわばブームになったのです。これにあやかる本や雑誌や写真集などの出版物、CD、ビデオ(DVD)などが相次ぎ、また物産展や博覧会や美術展のタイトルに使われました。観光パンフレットにもこの文字が溢れました。

ところが、この用語の示す地域、その現地でこの用語はだれも使っておらず、また歴史的にも使われていなかったのです。実際に、70年頃までインド、パキスターン、アフガニスタンでこのことばを知る人はいませんでした。テレビ番組が始まった頃に周囲の外国人に訊ねてみると、このことばを知っていたのが一人だけいました。歴史学を研究している彼は「それは"Silk route"のことですね」、と答えました。たしかに "road"より "route"のほうが意味は近いような気がします。しかし、いまさら日本では「シルクルート」では通用しないでしょう。

2008年にウズベキスタンの中世都市ヒヴァ(Xiva)を訪れる機会があり、その内城西門の横にアラビア文字とキリル文字(ロシア語)と英語で書かれた大きな案内地図を見ました。英語では "The heart of the Silkroad"と書かれていました。その地図に描かれた道の西はローマへ、東は奈良へと通じていました。日本からの観光客やメディアの取材が多くなるにつれ、このことばを知っている人はツアーガイドをはじめ増えています。彼らは案内する日本人からたびたぴ聞かされることで覚えたのでしょう。そんな影響もあって、今日、中国西域から中央アジアには「シルクロード」の名を付けた喫茶店や観光土産の店舗が登場しているようです。

問題は、このことばが「括弧なし」で使われることにより、ユーラシア中央部の入り組んだ交易路が「絹=シルク」を主要な商品として交易していた、との誤解を招きかねないところにあります。実際には、最も嵩の張ったものは穀物であり、次いで干し果実であり、油脂であり、羊毛であり、綿糸綿布であり、ときに金銀財宝であったのです。もちろん鉄器、陶磁器、木製品なども運ばれたことでしょう。また王や皇帝の使者が文書や贈答品をも運んだのです。なりより、北の草原の遊牧民と南のオアシス都市の定住民との間の交易が最大のものでした。この道はまた布教のルートでもありました。大変な苦難を伴いながら行き来した仏僧はよく知られています。三蔵法師玄奘はじめ法顕、鳩摩羅什、菩提達磨、安世高、菩提僊那たちの高僧がこの道を歩みました。

ではこのあたりをなんと呼んだらいいのでしょうか。旧に復して個別に「西域南道」、「天山北路」、「カイバル・パス」などと呼ぶもよく、全体を纏めるならやはり「東西交易路」とするのがいいと思います。

「シルクロード」の用語には学術的と商業的な意味合いしかありませんでしたが、括弧付きのことばには政治的な意味合いを含むものが少なくありません。そうなると問題は複雑になります。

例えば「テロとの戦い」のように、括弧付きの用語が繰り返し使われている間にいつしか括弧がとれている、という事例をたびたび見ます。そのことで、このことばの意図するところがあたかも社会的に認知されたかのような錯覚を引き起こします。英国では2009年にミリバンド外相が "war on terror"の用語は間違いである、と公の場で発言しました。このような表現は正確でなく、相手を過度に刺激し、むしろその周辺をも団結させる結果になる、との説明がなされました。その後、米国でも正式には "Overseas contingency operation" と呼ぶことになった、とワシントンポスト紙は伝えています。しかし、日本ではそのままに話し、また書いて今日に至っています。

マスコミが使う一つひとつの用語の持つ影響の大きさを考えさせられます。

(歴山)


日本はやや大きな「島嶼」の国

2011-04-20 18:01:18 | 島嶼

                                                                       屋久の森 ©r.ikeda

ヒマラヤ山系の東端ブータンから雲南、華南、台湾から九州を経て西日本までを覆っている森を照葉樹林と呼んでいます。亜熱帯から温帯にかけて葉の照りの強い常緑樹が生い茂っています。その中にあって、屋久島、吐喝喇列島、奄美群島、沖縄諸島と繋がる「海の上の照葉樹林帯」は特別な存在です。そこには濃い緑の森林と黒潮が渦巻く海洋が一体となった環境があり、また地質学的な時間感覚で独特の進化を遂げた希少種の動植物が多数見られます。生物多様性の見本のような環境です。その中には絶滅危惧種と指定されているものも少なくありません。

そんな光景を目の当たりにしてきたわれわれの先祖は森の深さを恐れ、その霊気に畏れを覚えたことでしょう。むやみに木を切ったり、生物を捕獲したりすることを自重するようになったことが想像されます。人間が自然の中で生かされているということを感じ取るのはそんなに難しいことではなかったでしょう。この地域に住み着いた人々がそこに感じとった「カミ」は、中東の地のキリスト教やイスラームの「神」とは異なるものであったのは当然のことでしょう。

先に挙げた島々も一様ではありません。シイ、カシ、タブ、クス、イヌマキなどの照葉の森が広がる屋久島、吐喝喇の島々、奄美大島、徳之島、沖縄本島のヤンバル地方、石垣島、西表島など高い山岳を持つ島と、隆起珊瑚礁など低い島である喜界島、沖永良部島、与論島、伊平屋島、慶良間列島、久高島、久米島、宮古島、八重山の島々とは植生が微妙に異なっています。それでも屋敷をフクギの並木で囲い、ガジュマルなどの榕樹が横に広がり、棕櫚(クバ)が風に揺れている光景はだいたい同じでした。

 そんな光景が崩れてきたのはこの数十年ほどのことのようです。外来種が入ってきたことで在来生物が減少しました。よく知られているのはジャワ・マングースが猛毒蛇ハブ駆除を目的に持ち込まれると、たちまちに繁殖してアマミノクロウサギやカエル、ネズミなどの希少種を捕食し、その数を減らしてしまいました(現在、環境庁の指揮下全国からの若者たちの働きでマングースの駆除は成功しつつあります)。廃棄物や廃油の害と乱獲でウミガメやカニ、エビ、貝類も減少してしました。鳥類、昆虫の減少に加え、植物の危惧種の数は数百に上ります。

近年の問題は人間の営為によるものが目立ちます。つまり「カネ儲け」のために自然環境が劣化しています。チップ材料を得るための山林の伐採、ネット販売を目的とした希少生物、特に爬虫類、昆虫類、また希少種のラン、エビネ、アオイ、ハコベなどの花にシダ類、コケ類の乱獲が続いています。これらの不法採集業者はカーフェリーでやってきて、そのまま自動車で山に入り、獲物をそのまま都会へ持ち帰る、または配送していることが分かっています。規制を強化しようにも、今のところ巧妙な相手に役所もボランティアも手を焼いているようです。

地元の責任もないわけではありません。一部の自覚のない住民がイヌやネコを里や山や放置するために、野良化した犬猫が希少生物を襲う事態も目撃されています。山を走る自動車による事故で小動物が被害にあっています。また一部ながら不法業者の手引きをしている人もいるようです。

私たちが考えるべきことは、少数の人たちが「おカネ」のために地域の資産を収奪し、環境を劣化させていることです。また、自分の生活を充実させるために自然環境に圧力を掛けることになっていることです。本来、島嶼の持つ多様性は経済競争には合致しないものが沢山あります。スピードと効率を競う近代経済社会のなすがままに放置できない地域がある、ということを都会の人々は知る必要があります。 

日本列島はやや大きな「島嶼」の集まりのようなものです。島国には島国にふさわしい生活があり、仕事があり、また周りの人々との付き合い方があります。大陸の国々とは成り立ちが異なっているのです。まずわれわれが自覚する必要がある、そんなことを考えさせられる出来事が多い昨今です。

(歴山)  


BRICs から BRICS へ

2011-04-15 18:00:19 | 戦略

                                                       (道教道観) 

 

「ブリックス」はいつの間にか五カ国になっていました。世界は動いています。

中国で一番南に位置する海南省の三亜で四月中旬に開かれていたブリックス首脳会議の参加国はブラジル、ロシア、インド、中国に南アフリカが加わってBRICSになっていました。BRICsの複数形の s が、South Africa を示す S に変わったわけです。ユーラシアに南米大陸にアフリカ大陸の代表が参集することで、欧米先進国(プラス日本かな)を取り囲むような形に見えないこともない。

 

国の数が五つになって面積は世界の三分の一、人口は約半分、貿易取引額は全世界の取引額の半分以上、外貨準備と金保有額では六割を占めるにいたっています。とはいえGDP合計は現在全世界の16%、購買力平価ベースでも26%に過ぎません。規模の大きさは負の面にも顕著です。成長を続けるBRICSはエネルギー消費量も急拡大しており、世界のエネルギー資源の争奪戦、また価格上昇の原因とされています。工場や輸送機器からのCO2排出量が圧倒的に多く、特にブラジル、インド、中国は京都議定書の対象国ともなっていません。

そんな同じような環境の五カ国ですが、ロシアとインドは中国と国境を接しており、将来にわたり国境問題が再燃しないという保証はありません。利害が反する問題を多数抱えており、すべての課題で意見が一致しているということでもありません。宗教も順にカソリック、ロシア正教、ヒンドゥ教、儒教・道教、新旧キリスト教が大多数を占めており、また各国に濃淡はあるもののイスラーム信徒、ユダヤ教徒なども抱えています。

主催国の中国は、新興国が協力関係を強化し、政治・経済両面で国際ルール作りに積極的に関与することにより大きな発言力と開発の権利を確保する必要がある、と述べています

 

五カ国が今後も経済成長を続けることは間違いなく、2020年には経済規模で中国がアメリカを抜き、またインドが2040年代にはアメリカの規模に近づくことは多くの調査機関で共通しています。2050年時点でのGDP規模は断然中国が一位で、以下米、印、日、ブ、ロ、英、独、の順位になっているとの予測を立てている金融会社もあります。一人当たり所得では中国とインドはまだまだ上位には顔出しません。グロスで日本が四位を維持していることを祈りたい昨今の状況です。

 

今回の会議では五カ国が日本の東日本大震災について有効な支援をすると表明しています。またリビア問題の平和的解決を求める宣言を発表しました。各国は発展と平和を目的とした安全な原子力エネルギーの国際的協力関係を発展させるべきだとの意見で一致した、とも発表しています。

このBRICS首脳会議は、ワシントンでの国際通貨基金(IMF)会合と同時期に開催されたことに意味がありました。従来からの懸案である一次産品価格の変動について、また世界の金融・経済問題について話し合うことが一番の目的でした。

特にリーマン・ブラザース倒産に伴う世界的経済混乱をもたらしたような過度に複雑化し、投機性を高めた金融商品の規制など、先進国主導の経済体制の是正を求めています。安定的で信頼性の高い国際通貨システムの構築を求め、国際金融体制に世界経済の変化を反映させるために新興国や発展途上国の発言権と代表権を強める必要性を強調しました。これこそが今回の首脳会議の主題だったのではないか、と思われます。日本のマスコミでの扱いは小さいのですが、近い将来大きな影響をもたらすことは間違いないところです。

 

注目すべきは、五カ国内での貿易取引の決済を米ドルを介さずに二国間の通貨による為替レートによる決済方式を進めて行くことで合意したようです。ここには、大戦後の米国を中心として維持されてきた経済体制への挑戦の意味合いが読み取れます。これに対する米英を中心とする先進国の反発が予想されます。しかし、財政赤字が拡大の一途をたどるアメリカの国債の最大の購入者は中国であり、アメリカとしては中国には大きな態度はとれない事情もあります。そこが、日本が経済力第二位で、かつ米国債の最大の購入者であった時代との大きな変化ということになります。

会議では、次回のBRICS首脳会議を来年インドで開催されることが確認されました。次の主催国となるインドの動きが注目されます。 

(歴山)


応用科学と孫悟空

2011-04-08 08:40:31 | 時事

 

 「ものごとには限度というものがある」ことを改めて知らされたのが今回の大震災に伴い発生した原発事故でした。「原子力の平和利用」と喧伝されて進められてきた原子力発電所が知らぬ間に全国五十数基も設置されていました。これを消極的ながら是認してきたのが自分も含めた選挙民であり、他を非難する前に自分たちの責任も考えねばならない。

それにしても、新聞やテレビでニースや解説を見ていると、この原子炉というシステムが何と複雑であり、それにともなう大小の事故発生の可能性があることを知らされる。

 原子力発電といいながら、その冷水機関を動かすのには外部から導入する電気やディーゼル発電に依っているのも原発の限界を示している。審査し建設を監督し運営を監視する組織、関連する財団法人、社団法人の数の多さ、そられ相互の関連する会議や審議会や委員会なども余りにも複雑である。その業務内容や会議の趣旨を見ると、まるで巨大な利権構造を守るために、一般国民に理解困難と感じさせるために作られているかのようにすら見える。

 ともかく事故はおこり、かつその後沈静化の作業が長引いている。専門家たちの計算により設置された二重三重の安全装置は自然災害の前に破綻をきたした。この上さらにコンクリートを張り廻らし、冷却装置を追加していっても、際限無いはなしとなるだろう。 

科学に裏付けされた技術がすべて人類のためになっているか、といえばそうでもない。ノーベルが発明したダイナマイトが人類に大きな災禍を引き起こしたことなども容易に理解できる事例である。彼は死後の評価を気にして、その私財を投じて科学技術、文学、平和などへの賞を発足させたといわれている。

 

原子力の商業利用と並んで問題とされている〈遺伝子組み換え技術〉も、医療的研究から農産物の生産現場で登場して商業化され、議論の対象となっている。この技術も「人類の食糧難を救い、地球環境問題の解決につながる」、と説明されてきた。すでに除草剤の影響を受けないダイズやワタ、害虫に強いトウモロコシなどが一部の国で出回っている。

 両者に共通しているのは、一旦導入されて広まると、その後の安全性の管理が不明瞭となることだろう。現実に共に具体的問題が発生している。今回の事故でも、新しい技術は長いスパンでの時間の経過を想定して予測を立てることができないことを示している。人間の制御不可の領域に入り込んだ、といってもいいだろう。

経済界でも金融工学を駆使して生み出されている金融派生商品(デリバティブ)という複雑怪奇な商品群に同様な指摘がなされている。ヨーロッパ諸国はファンドによる過度の商品先物投機を規制する方向に動いており、また米国発のデリバティブ商品についてもなんらかの規制を求める声が高まってきているのも、複雑化していく金融商品への警戒感がみてとれる。

複雑性が高まるとこれに対処する専門家というあらたな職業が生まれる。また周辺に大学や研究所の研究者、メディアの批評家や評論家も登場する。それらの人々の一部が関連する民間企業や団体からの資金提供を受けてその推進に力をつくしていた図式も今回露見した。

 原子力発電という複雑な発電装置は、人知にはどこかに限界があることも示した。怪力無敵の孫悟空が宇宙の果てまで飛んで行ってはみたが、そこに立ちはだかっていたのはお釈迦様の指だった、という話を思い出させる。

 過度に複雑化したものはある時点で折り返して単純化を目指すようになる。製造現場の改良も法律の改正も会社組織の改編もその繰り返しである。

(歴山)