よのなか研究所

多価値共存世界を考える

休止のお知らせ

2013-04-28 20:08:02 | ご案内

                        photo ( 暴風雨に見舞われる離れ島、鹿児島県 )

恐縮ながら、諸般の事由によりこの度当ブログを休止することになりました。

再会する時期は未定ですが、しはらくかかると思います。ドメインを変更する

予定につきアドレスは変わることになるかもしれません。

タイトル、または筆名の「歴山」で検索が可能としたいと考えております。

長い間、ご愛読いただきありがとうございました。篤く御礼申し上げます。

敬具、

(歴山)

 

 


アセアン新興国への期待と懸念

2013-04-24 09:50:45 | 歴史

 

                       Photo (ホーチミン市を流れるサイゴン河、ヴェトナム)

先週、さる金情報会社の勉強会でアジア新興国の現状について講演を聞く機会がありました。新興国、というのは経済分野で新しく興りつつある国、ということであり、国家としてはいずれも長い歴史を有しています。中国の次の投資先と期待されたインドもなかなか日本企業が利益を出すには時間がかかりそうだ、というので再び東南アジアに目が向けられているのでしょうか。もともと1960年代から日本の製造業がいち早く海外進出したのがインドネシア、タイ、そしてマレーシア、シンガポールでした。

一口にASEAN 10(アセアン10カ国)と言っても国の大きさ、人口、人口密度も経済成長の度合いまで様々であり、平均値にはほとんど意味をなしません。人口だけを見ても、2億4千万人のインドネシアもあれば、数十万人のブルネイまで様々です。シンガポールのような小さな島嶼国家もあります。また、域内の言語・民俗・人種・生活文化・宗教信仰は複雑で説明するには時間を要します。

それでも、全体のボリュームとしては意味があります。EUや北米と並ぶ経済単位となる可能性を秘めています。多くの国で乗用車や電気製品、通信機器、日用雑貨の販売は好調のようです。ここ十年の経済成長率を見る限り、地域単位では最も高い成長率を示しています。筆者も1980年代からこれらの国々を見てきましたが、近年の街や村の変化には驚かされるばかりです。

当然のことながらリスク要因も多く抱えています。個々の国の経済規模は十分に大きくないため、自然現象の影響をまともに受けてしまいます。2011年に首都圏が洪水被害に見舞われてタイはとたんにマイナス成長に陥りました。比較的安定的に推移してきたマレーシアは現在建国以来のリーダーの交代期を控えて停滞していると言われています。日本企業が多く進出しているインドネシアは、経済成長に伴い外貨準備が低下し、貿易収支が悪化しています。国の政策によってインフレ、為替レートが変動する脆弱性が残っています。

そんな中で最近注目されているのがミャンマーとヴェトナムです。この二国は知られざる大国と言ってもよいでしょう。人口を見ると、ミャンマーが6,400万人、ヴェトナムが9,040万人と、国内市場の大きさを示しています。面積はミャンマーが67万平方キロ、ヴェトナムが33万平方キロで工場立地や流通拠点建設にも十分な広さがあります。

ミャンマーは長年の軍事政権から複数政党を認める政策へと転換し、ヴェトナムは共産党独裁を維持しながら民間企業の活動を活発化させる政策を進めています。両国とも農業生産は盛んで、食糧を自国内で賄い、かつ輸出しています。シンガポールとブルネイを除けばアセアン諸国は基本食糧を自給しています。

アセアンの諸国の中で今話題のTPP交渉に参加しているのはシンガポール、ブルネイ、ヴェトナムとマレーシアの四カ国です。地図を見れば一目諒然ですが、北米三カ国にANZ(豪州、ニュージーランド)に南米のチリ、ペルーにアジアからこれら四カ国が入っています。もともと、ブルネイとシンガポールがチリ、ニュージーランドと経済連携を検討し始めたのが「環太平洋」という大げさな表現になったものでした。

各国とも事情は複雑ですが、米国とカナダ、豪州とニュージーランドは「カズン・ブラザーズ」と呼び合う間柄であり、グループを作ることは予想されるところです。豪州のアデレードやメルボルンではインド人や中国人の留学生や移住労働者が暴力被害に遭うことがたびたび伝えられています。勤勉で社会的地位を上げていく外国人を排斥する動きが見られます。

もともとASEAN+3、つまり、アセアン10カ国に日本、中国、韓国の三カ国が連携する構想がありましたが、どうしたことか実現しませんでした。

わが国の長期的な安定と繁栄のためにアジアの国々との協調を他に優先されるべきと感じるものです。

(歴山)


密教化する国内政治

2013-04-17 07:28:18 | 政治

                                                  Photo ( 早朝の志布志港、鹿児島県 )

 

内外の政治状況の内向き志向、それに伴う秘密主義、隠蔽傾向がはなはだしい。それは、政治の密教化、といってもよいように感じられる。

仏教にもキリスト教にもイスラーム教にも隠されたものがある。一般大衆にも信者にも知らされていない戒律や教えや、また教団内の組織があったりする。教団は教えを広めるために大衆に分かり易い話を作り上げ、また絵画や塑像を以てストーリーを展開するようになる。仏教もキリスト教も多くの絵画芸術、彫刻を作りだしてきた。(その点、一人イスラームだけは宗教原初の姿を守っている。モスクは偶像も華美な装飾もない。)

たとえば、仏教の開祖ゴータマ・ブッダは「完全に開かれた教え」としての自分の悟りの境地(覚醒)を語った。ところが伝教が広まり大衆化するにつれ、教えを厳格に実践する修行者たちが自らを「上座部」と称し、大衆部(だいしゅぶ)、すなわち「大乗部」と区別するようになる。

修行者の中に、肉体的に精神的に厳しい修行を積んで初めて理解に達するものがある、と考える僧たちがでてくるようになる。その境地に達した者でなければ理解できない教えを、一般大衆に説くことはない、ということになる。これが密教であり、他方、一般に開かれた教えが顕教である。

キリスト教世界にも、東方正教会のみならず、ローマ教会にも、これに抗して登場したプロテスタントにも秘儀と称する修行があるらしい。あるものは暗がりで火を点し、香料を焚き、水を掛け、また鉦や鈴を鳴らし呪文を唱える。居合わせるものに神秘的な雰囲気をかもしだす。

宗教はその始まりからどこか神秘的な要素を持たないと続かないのかも知れない。すべてを陽の下に曝したら、人びとの信仰心が薄れるということかもしれない。

しかし、政治はそうではない。すべてを公開しなければならない。たとえよく分からない人たちの意見でも反映させるのが民主政治である。よく分かっている人たちだけで政治を行えば、それは寡頭政治(Oligarchy)となる。

すべてが人びとの前に曝されることが大前提である。最近の政治家が良く使う言葉に「自由と民主主義、市場経済という共通の価値観を持つ国同士で…」というのがある(こんな文言を真に受けている国はほとんどないが)。その昔は「自由と平等」が強調されたものだが、いつしか「平等」のほうは後退してしまった。それは、「平等」が今日の過度に発達した市場経済とは相いれないからである。また、民主主義とは多数決原理を基本とするが、たとえば、日本国民の七割が原子力発電の再開に反対を唱えているにも関わらず、現実の政治では逆にその再開、新規建設の検討、さらに技術輸出などが進められている。民の多数と政治の多数が見事にずれているのである。政党の幹部による強引な党運営、加えて「党議拘束」という民主主義にそぐわない仕組みがある。政党政治は民主主義の一形態であるが、それがすべてではない。政党が密教教団化している。そこに「民主主義」という制度の欠陥があることを大方のひとは理解している。政治の世界と言うものは古今東西そう言うものだ、との意見もある。

特定の外国との二国間の条約や協定には「密約」という、半ば公然の約束ごとがあることは知れ渡っている。何十年後に公開するという条文が存在する条約や協定を、今の国民がどうやってその全体の正否を判断すればよいのだろうか。

なにも外国を相手にするのでなくとも、国内での決めごとにも「非公開」のものは多い。「公聴会」とか「パブリック・ヒアリング」とか称する場で発言する人をすべて主催団体が用意していたり、会場を埋めた聴衆の八割が特定の団体の動員であったりする事例がたくさん出てきた。つまり、実質「公開」ではないのみならず、「密室会議」とほとんど同じである。それどころか、報道機関も入った場での討論で決められた、などとして、これがお墨付きを得て議会に回されるのである。その議会でこれに反対意見を主張するのは大変な勇気が要る。政党助成金の分配を受けられなくなる可能性が高い。

また、政府諮問委員会などという各種の委員会や研究会に登場する専門家、学識経験者も政府が人選しているのだから、結果は始めから分かっているも同然である。かくして、権力の思うところに政策が動いていく。

企業や団体で秘密会議が開かれようが意に介することはないが、政治の場ではたとえ外国との交渉であってもすべて「顕かに」されなければならない。それなくして「民主主義」という制度は生きながらえることはできないのではないか。現在の政治の衰退はわれわれの責任でもある。

(歴山)


いらないものを売りつける

2013-04-10 08:42:51 | 時事

                 Photo ( 穀物を満載して走るトラクター、マハーラシュトラ州、インド )

入口は広く開けられていて、誰もがちょっとやってみようか、という気にさせる。世の中に跋扈する詐欺師(fraud)の手口はだいたい似たようなものである。高金利の闇金融は最初の一定期間は「金利ゼロ」と謳い、数字の『〇』を大きくあしらったポケット・ティシュが大量に配られ、特に不自由していない人もおカネを借りた時代がありました。若者の集まる街頭で甘い言葉で勧誘し、自分の空間に引き込むと要らないものを売りつける、いわゆるキャッチ商法も同様である。

これらが問題となるのは、出口がないことである。あってもそこに到達するのが大変困難なことである。「イリバーシブル」(irreversible)つまり、取り消すことができない、引き戻すことかできない、の専門用語(term)は国際政治や経済交渉でもよく使われる。この単語が出てくる時は要注意であることは言うまでもないが、通常は文言としては書かれていないことが多い。現実に引き戻すことができない交渉事項が多い。知らず知らずに引き込まれていく、という点ではもつとたちが悪いのかもしれない。

インドの有力紙The times of India や、The Hindu, The Statesmanなどでたびたび目にする社会問題に、「綿農家の悲劇」というのがある。デカン地方といえば綿(わた)の産地であり、綿花産業で長年栄えた土地であった。ここで近年破産する農家や農園が頻出し、多くの自殺者が出て離散家庭が増えていると報道されている。それは遺伝子組み換え農作物(GM=Genetically Modified Organism)で圧倒的なシェアを持つ化学メーカーM社のGM種子を導入したことに始まる。害虫に強く耐菌性に優れ、低農薬で良質の綿が大量に採取できる、ということで、またたく間にこの地方一帯に広がった。農夫たちは喜び、M社の農薬や化学肥料も同時に購入した。収穫の後、農夫たちは当然のように一部の種子を次のシーズン用に保存しておいた。ところが、M社は、その使用を知的財産権の侵害として訴える、と告知した。農家は毎年同社の種子を購入することになった。年を経るにしたがい耐菌性は低下し、収穫量も低下していった。しかし、元には戻せない。

インド中央部のアンドラプラデシュ地方は豆(インドでは豆のスープが毎日食卓にのぼる)、雑穀、菜種などの多品種栽培の土地柄であったが、換金性の高いGM種子の登場で単作農業となり、土地はやせ、少しの天候不順で不作が繰り返されることになった。

M社といえば過去にはサッカリンやDDTを実用化し、ベトナム戦争では枯葉剤を開発し、その後もPCB等の製造で知られる多国籍企業である。特許や知的財産権を縦に、各国で訴訟事件を引き起こしている企業であり、裁判に長けた弁護士や会計士を多数抱えている。しかし、企業だけを非難することはできない。

1998年、世銀(WB)の構造調整プログラムに参加する形でインド政府は種子部門を多国籍企業(MNC)に解放する政策を採った。農民代表は、「どの農家にもあり、本来無料であったはずの種子が商品として売買されている」と批判し、その矛先はインド政府にも向けられている。今のところインド政府は「不作は天候不順、特に雨量の過少によるものだ」として保障や多国籍企業との再交渉に前向きではないようだ。しかし地方選挙では大きな争点の一つとなっている。

国際機関が主導する経済的枠組み、また数カ国に亘る経済協定など、入ってみると後戻りができないものが多い。「ホワイト・ハッカー」ならぬ、「ホワイト・フラウド(White fraud)」でも採用してシミュレーションを行えると良いのだが、役所ではできないだろう。参加するとどんな事態になるのか、担当者の想像力と推理力が試されている。

(歴山)


相手にされないニッポン、

2013-04-03 08:16:36 | 時事

                                Photo ( 艦真和上も上陸した大陸交易の拠点坊津、鹿児島県 ) 

インドの有力紙「ザ・ヒンドゥ」の編集長シダールタ・ヴァラダラージャンが来日し、筆者も講演を聞く機会があった。その前日、南アのダーバンで開催されたBRICS首脳会議で「ブリックス銀行BRICS Bank」の設立が発表されたこともあって会場は満席、質疑も時間が超過する熱気ぶりだった。

ヴァラダラージャン氏はインドのもう一つの有力紙「ザ・タイムズ・オブ・インディア」の編集にも関わっていた経歴を持つジャーナリストであるが、米国のニューヨーク大学、カリフォルニア大学で教鞭をとっていたこともあり、広い人脈を持つ人物である。エネルギー問題、金融問題、核の軍事・民生利用、海賊対策など今日の世界の抱える問題点に触れながら国際政治のダイナミズムを語ったが、残念ながら日本について触れたのは最後にほんの数分であった。

同氏の世界理解はG2(米国と中国)にインドが加わることで、トライアングル(三角形)を形成し、安定をもたらすことができる、と言うものである。

「メジャー・プレイヤー」は米・中・印にEU、ARC(地域協力機構、ASEAN、アフリカ連合など)であり、一国としての日本は、経済規模は大きいものの世界の舞台では「ジュニア・パートナー」である、と言いたかったようだ。
一緒に聞いていた知人の一人は、「主催者が日印関係について喋るということを伝えておかなかったのではないか」と感想を述べたが、ヴィラダラージャン氏は世界のどの国に出向いても話す内容を変えはしないだろう。

 

一見、順調に船出したかに見えた自民党政権であったが、世界の新聞を見る分にはほとんど出番がない。むしろ、日本に逆風が吹き始めていているのである。政府関係者と一部の政治家の言動と行動、マスコミの主張はむしろこの国を孤立の道へと誘導している。

たとえば、日本政府が「日米豪連携」を呼びかけているさなか、オーストラリアのギラート首相は今週外相、貿易相ら過去最大の代表団を引き連れて中国を訪問中である。ギラートは「中国封じ込め策は拒否する」と公言して日本の提案に反対している。

今回は海南島、上海、北京を訪問しているが、海南島では中国版ダボス会議「ポアオ・フォーラム」に参加することになっている。

安倍政権が暴走気味に突っ走っているTPPについては、米国自動車連盟はじめ幾つかの有力団体が「日本の加入に反対」の意向を表している。財政赤字のため予算執行を議会の許可を得て徐々に進めているアメリカのオバマ政権は国防費の削減を余儀なくされており、在日米軍が例年開催してきた「市民友好祭」もそのあおりを受けて開催できないほどである。米国内にもいろいろな意見があり、日本から自国軍隊の撤退を主張している議員も団体も存在する。オーストラリアのみならず、アメリカの政界やマスコミの中でも日本よりは中国を大事なパートトトナーとする人が意外に多い。今でも農村部に住むアメリカ人は中国と日本の区別のつかない人がほとんどである。それはヨーロッパでも同様である。よほどの高学歴者か、日本や中国と直接かかわりのある人でないと両者の区別もつかないのが現実である。

これらに輪をかけているのが、特定の外国人を誹謗・排斥するシュプレヒコールを連呼するデモ行進が首都東京で毎週行われていることだろう。見るに耐えかねる「ヘイト・メッセージ」は街頭のみならず、ネット空間で飛びかっている。このような光景やネット空間でのメッセージが他国・他人にはどのように映っているのか想像力が働かないのだろう。一度刷り込まれたら、他の思考が入り込む余裕のない脳味噌の持ち主たちなのだろう。外国人排斥行はfヨーロッパでも見られるが、それゆえヨーロッパの人たちはこのような事象に敏感である。

そんな中、「憲法改正」や「国防軍設立」などを国会に提出しようという議論が浮上してきている。サンフランシスコ講和条約締結六十年を祝おうという話も飛び出してきた。現在の政権の首脳たちが考える国政の優先順位は理解が難しい。取巻きにはアイデアマンが揃っているようだが、「アイデア倒れ」となる思いつきレベルのものが多い。

戦争ができる国にしたい、といっても、アメリカはもちろん、中国も、ロシアも一国で立ち向かうには余りに大きな国である。せいぜいアメリカの後ろに立って大国に小手先のちょっかいを掛けるのが関の山である。ヴァラダラージャン氏が「ジュニア・パートナー」と言ったのはそういうことを指しているのではなかろうか。

聖徳太子の言とされる「和を以て貴しとす」を掲げて、世界に向けて「軍縮」を呼びかけ、各国がそれを実行する環境を整えることに協力することが、この国にできる国際社会への貢献ではなかろうか。

(歴山)