よのなか研究所

多価値共存世界を考える

東洋的美徳の共演、

2012-12-26 21:58:44 | 比較文化

                                Photo ( 明清王朝禁裏紫禁城の午門、北京 ) 

日本で安部政権が成立し、韓国の朴槿恵(パク・クネ)、中国の習近平(シー・ジンピン)と、東アジアの三カ国がいずれも世襲政治家が政権を担うことになった。

「世襲」とは「その家の地位・財産・職業などを嫡系の子孫が代々うけつぐこと」(広辞苑)であり、「世襲財産」とは「代々、その家の継承者が相伝え、所有者の自由処分を許されぬ財産。わが国では王公族・華族・朝鮮貴族なにだけこの制度が認められたが、戦後廃止」(同)とある。すでに我が国では世襲されるほどの財産はなく、華族制度も廃止されたことになっている。

韓国で大統領に選ばれた李さんは、かつての朴正煕大統領(在位1963-79)娘であり、親子二代の、そして韓国初の女性大統領となる。

中国の最高指導者となる習さんはかつての国務院副総裁の子息で、太子党と呼ばれる党幹部の子弟の集団から党役員の階段を上ってきた。朴さんも習さんもここに至るに大変な苦労をしていると伝えられる。

朝鮮半島には現在も「本貫(ほんがん)」という言葉が残っており、それは氏族集団の始祖の地を指す。結婚に際しては、男女の本貫が同一でないこと、姓が同一でないことを前提とする。すなわち血縁者を避けるものであり、これがあって女性は婚後も自分の姓を名乗ることが社会的に受けいれられている。この本貫地が日本に伝わると少し性格が変って本籍となった。さらに遡れば中国の土地制度に行きつくが、本家の中国では宋代に科挙制度で平民から役人を登用するようになってその制度が薄れた、と言うのが近年の学説のようだ。

世襲指導者の三人、習近平、朴槿恵、安部晋三の三人がこのように漢字で表記することが可能なことも、本貫、世襲と無関係ではないような気がする。すなわち、漢字文化圏の特性であり、我々は明らかに東洋文化圏に属している。仲間同士はもっと尊敬しなければいけない。「地の系列」と「血の系列」の尊重である。その中でも、今日も政治家に世襲が目立つのは日本である。「東洋の美風」?を今日に伝えているのが我が国である、との考えもなり立つ。

さて、安部さんである。祖父は元首相、父は党の重鎮であり、首相の座も近い所にいた大物政治家だった。今回の選挙前は「政治家の世襲」を問題視する議論が起こるかに見えたが、他の議題の前にほとんど議論となることもなく、めでたく首相に座に返り咲くことになった。閣僚名簿と党役員も発表されているが、見事なまでに世襲議員が多い。

世襲であっても秀でた人物が政治家になるのは悪いことではない。現に各国に親が政治家であった人物が国政の場で活躍しているケースがないわけではない。日本の特殊事情として政治学者や研究者の間で特に問題視されていのは、地元にある後援会組織の資産が非課税でその子孫に受け継がれている点にある。○○後援会という非営利の任意団体であれば、普通は 同窓会や社員クラブのように目くじらをたてることではないという見方も成り立つ。しかし、ナン億円、ナン十億円という単位のおカネが親から子へ、孫へ、非課税で相続されている現状は世界に照らし合わせても尋常なことではない。政治家が一般市民に対して税制上優位な扱いを受けていることになる。俗に「地盤・看板・カバン」の有利がある、とされるが、そのカバンが「非課税の後援会資産」ということになる。この点一つをとっても、他の立候補者と機会均等ではない。

世界各国に政治家の世襲はいるにはいるが、こんなにも目立つ国はない。イギリスでは同一選挙区からは親子孫、配偶者は立候補出来ないことになっているそうだ。今の日本で、同様な制度を導入れば、今回内閣と党の要職につくことになるほとんどの政治家が次回は別の選挙区から立候補するしかなくなる。そんなことが可能だろうか。おそらく国民の大半が「現実的でない」と判断し、現行のまま続くであろう。あるとしたら、次回の選挙で新たに立候補する人に限ってということになろう。つまり、世襲政治家は今しばらく安泰である。

それにしても、日本でこれだけ世襲議員が多いことの理由は、それだけ「うまみのある職業」ということなのだろうか。二代目、三代目の経歴を見ると米国留学組が多い点にも気が付く。中には、大学ではなく特定政党の「研究所」修了などがある。それらは学歴といえるのであろうか。彼らとて日本で大学を出てから米国に行っているのであろうから、日本での学歴も記載してもらいたいものだ。中には親の政治力で、単に箔を付けるために腰掛け程度に在籍しただけの者もいる、との話がある。間違いないことだろう。

 現状は、全国三百の小選挙区の代議士があたかも小大名のような存在になりつつある。つまり三百諸侯である。地元の有権者たちは「ワシの親の代からの」、「おらが村の」、「地元の公共事業を確実に持ってきてくれる」立候補者を選ぶ。そこでは、まだ二年も経ていない「原発事故」は争点ではない。遠い沖縄での外国軍の過剰な存在も問題ではない。土地の庄屋、大地主、に変わる世襲政治家を選んで何ら問題はないのである。

 世襲政治家であれば、まあまあ、とたいていのことは処理してくれる。だけから、世襲政治家が選挙の時に宣伝カーから声高に唐突なこと、過激な発言を繰り返しても、おどろくことはない。どうせ政権に付けば現実的な範囲に収まることを知っているからである。

「尖閣に公務員を常駐させます」、「総理として靖国神社の大祭に参加します」と演説し、「政府主催で、2月11日の建国記念の日、そして2月22日を「竹島の日」、4月28日を「主権回復の日」として祝う式典を開催します。」と政権公約(「J―ファイル」)に記載しても、全ては、「慎重に対処する」ということになった。支持者のみならず、国民の大半も安心した。公約を守らないことで国民に安心を与える人物、政党が国を動かすのである。

当分は世襲政治が続きそうな東アジア三カ国である。

(歴山) 


「仕組み」と「刹那」の饗宴、

2012-12-19 17:25:16 | 比較文化

                         Photo (  羽田空港第二ターミナル、東京)

 

「振り子現象」という説明があったが、それにしても近年の総選挙結果はその振幅の巾が大きい。ここ三回を振り返ると、政党間の得票率が少し動くだけでその獲得議席数が大きく変わることがわかる。前回は民主党が、今回は自民党が大きく増やした。少しの波に大きく揺れる大型客船のような国家と考えればよいのだろうか。

細かく見ると自民党は小選挙区、比例代表それぞれの得票率が43.01%27.62% であり、獲得した議席数は79%31.67%であった。すなわち、小選挙区では四割の票で七割の議席を得ている。それは前回の民主党のそれの裏返しとなっている。

自民党の比例代表の得票数は、惨敗した前回より減少していることも注目に値する。ここで読み取れることは、有権者の多くは小選挙区では自民党の候補者に投票したが、その三人に一人は比例代表では他の政党に投票しているということである。

加えて投票率が過去最低であったことにより、小さな差異がことさらに大きく反映しした。

つまり、一つの社会的作用が働くと見るやたちまち全体がそちらの方向に向いてしまうようなシステムが組み込まれていることを示している。制度設計に欠陥があることからくる現象と思われる。国民にとって望ましいことであろうか。

「小選挙区比例代表併用」という制度を扱いなれない国民、あるいは扱いに不向きな国民である、と言われても仕方がない。さすがに与野党とも現在の選挙制度に対する見直しの声が出てきた。今回勝利した政党も、このままではまた次回は立場が逆転する可能性が多いにある。

「小選挙区比例代表併用」制度は「二大政党」制度を定着させる目的で始められたが、そもそも今の時代に「二大政党」では選択肢が足りないのではないか。現にイギリスでは第三党が間に入って、先の選挙では巴(ともえ)戦の様相を呈していたし、国民の多くがいずれかの支持者であるとされてきたアメリカ合衆国でも二大政党以外への投票行動、あるいは候補者擁立の動きがあった。

思えば、わが国で長く続いてきた中選挙区時代の選挙は、政党間の、候補者間の多くの興亡のドラマがあった。一つの選挙区で二人、三人、四人と選ばれるのであるから全国レベルでは三位、四位以下の党にも議席獲得の可能性があり、また、選挙協力も選挙区ごとにいろいろな形態が見られた。

日本の現状であれば、望ましい選挙区の規模は一県一区の中選挙区ではなかろうか。人口が三百万人超の自治体では、これを二つか三つに分けることで十分ではなかろうか。

それにしても、今回も各マスコミの恣意的観測による報道は目立った。中でも「第三軸」とはやし立てて、「百議席を突破確実」などと報じていた報道機関はどのように結果分析をするのであろうか。自己批判しないのであろうか。こういう時の事後の態度を見たいものである。

「原発」の再稼働には反対するが、わが村の関連施設の停止はしばらく待ってもらいたい、それで食べているひとたちのことも考えなければいけない、というわかり易い言説が蔓延していた。これでは改革どころか、改善も進まないであろう。

結局は「カネ」なのだろうか、少なからぬ数の国民の刹那的生活態度、それを映すかのような投票行動、それを増幅して映し出す選挙制度、これらが今回の選挙結果のように見える。

(歴山)   

 


総選挙報道にも「旬」があるのか

2012-12-12 09:26:04 | メディア

 

                                     Photo ( 選挙演説のメッカ新宿駅東口 )

終盤を迎えた総選挙の二ュースが多いのは結構だが、各社が発表する「政党支持率」や「政党別当選者予想」を投票日が迫って発表することはどんな意味があるのだろうか。すなわち、勝馬に乗れ、と言うことなのだろうか、それとも、二番手三番手以下のいずれかに投票してバランスを取るようにしたいのだろうか。

世論調査というといかにももっともらしいが、マーケティング理論や旧ソ連時代の体制維持のための「国民の声」調査に示されているように「質問票Questionnaire」の作成内容によりいかようにも変わるものである。結果をほぼ先に決めておいてそれに近づけるQuestionnaireを作るのがその道の専門家Professionalの仕事である。最近はその手のプロが増えている。戦略広報Strategic PRなどと称しているようだ。それゆえ、報道各社の世論調査報道を良く読むと、その社の期待するところが良くわかるのである。ただし、意図的にその反対の結論を導き出していることもあるから、そこは見極めが必要となる。

しかし、ここで取り上げたいのはこのことではない。過去数回の総選挙でメディア各社が大きな争点として取り上げておきながら、何らその成果あるいは結論が出ていないにもかかわらず全く触れようとしないことである。「旬」でないと売れないのはタレントだけではないようだ。

確かに「原発」の廃止か存続かは大きな問題である。また「消費税を上げるか否か」も争点である。「景気・雇用」や「島の領有権」や「保健・医療」も大きな課題である。しかし、決して「国防軍」設置や「憲法改正」が大きな国民的関心事とは思われない。それは意図的に作りだされているもののようである。

三年前には「特別会計」、「天下り」、「特殊法人」についての報道各社入り混じっての論争があった。具体的な事例として、「無くても誰も困らない特殊法人」がいくつも取り上げられて、理事長の年収が二千ナン百万とか理事が何人いて平均千ナン百万、法人への補助金が年ナン十億円、等々の調査結果が報じられた。これらの「無くても困らない特殊法人」に投下されている給与・補助金は当時で年間二十兆円との試算も記憶がある。そんな背景もあって民主党の登場となり、「事業仕分」が世間の注目を集めた。これが思わぬ横槍が多方面から入り、ほんの小手先の対応で中途半端に終わったことは国民も知るところである。網の目のように入り組んだ特殊権益集団の結びつきは一回の選挙で解きほぐすにはあまりに手強い相手だった。その点は確かに勉強になった。報道各社は「民主党ではだめだ」と書いてそこで終わっている。

本来なら、それらの問題を継続して追求することこそ報道機関としての勤めではなかろうか。各党党首を並べての共同記者会見の場で質問することができたと思う。事態が改善されているのではない。天下りの人数が減った、とされているがむしろ見えないところで天下りは増殖を続けている。

国家公務員の給与を減らせ、との論調があるが、そんな必要はないだろう。上級公務員たるもの、本庁務めが終われば退職金をもらうのであるから人並み以上の老後の生活は保障されているはずである。天下りを全面的に禁止し、それらの特殊法人を審査して廃止または統合すれば公務員給与を下げずに、また増税をせずにやっていける計算になる。自分の居場所を確保したいだけのわがままで、若い人たちの給与を減らし、あるいは職場を奪っていることを彼らには自覚してものらいたいものだ。自分の経験を社会に生かしたいと考える人は、「無給」ででも働くであろう。

年金問題についても問題解決は遠のく一方である。現自民党総裁は確か五年前の選挙で、「消えた年金を私の力で年度内に最後の一人まで解決します」と連呼していた人だ。時の厚生大臣は公明党の議員で「百年安心の年金制度」を作った、とテレビ番組で何度も得々と発表していた。

すなわち、マスコミ報道機関が報じなければ争点とならないのである。ネットメディアの力はまだまだ限定的である。さほど意味もない「世論調査」をやっている暇に、過去の選挙でどのような社会問題を論じていたか、を再確認してもらいたい。

ものの本によると、「世論」とは ”Popular sentiment” すなわち、「世間の空気」のことであり、「輿論」とは ”Public opinion” すなわち「公共的意見」のことを指す。どっちも「よろん」だが大きく異なる。

とすれば、各社の発表する世論調査は「世間の空気」であり、また「自社内の空気」と解すれば納得がいくのである。

(歴山)  


「流行語」は社会の病理

2012-12-05 10:27:06 | 比較文化

                                 Photo ( すがすがしい初夏東北の森、青森県 )

今年度の「流行語大賞」が発表された。お笑い芸人が使った「ワイルドだぜぇ~」というのが大賞ということだ。不勉強にしてこの言葉は初めて知ったのだが、その芸人はテレビで見たことがある気がする。大衆の間で流行ったことばを順位付けする、というのもヘンな話しだが、それなりに年末のニュースとして定例化しているようだ。ある偉い人は、「流行語」は時代を映す鏡であり、その「文言」は時の社会の病理現象の解明に役立つ、と言ったらしいから、これに従えば意味がないことではない。英語の wild は「野生の」の意味であるが、また「野蛮な」、「荒涼とした」、「荒れた」、「荒々しい」、などの意味がある(「講談社学術文庫英和辞典」)。確かに時代を映しているようだ。 

さて、報道各社は総選挙の取材で大忙しのようだ。筆者も有権者の一人として新聞に目を通しているが、「ワイルドな」発言が眼につく。次の政権与党になるとの予想が多い政党の代表は「憲法の改正を目指す」、「自衛隊を国防軍に改組する」、ことを公約として強調している。第三軸の一つとされる政党の代表は「自主憲法の制定」をコブシを振り上げながら主張している。この政党のナンバーツウは「政策なんか細かいことはどうでもいい。問題は実行力だ」とも発言している。芸人でなくとも「ワイルドだぜぇ~」と応じたくなる。この種のひとたちはマキャベリの「権力は政治のための手段だから、道徳や善悪とは関係ない」と言う言葉をそのままに理解しているのだろう。

このように、ある種の人々を熱狂させる文言を繰り返しているうちに体感温度が高まり、本人たちも本当にこれらの主張が実現することになると信じるようになるかのようだ。その演説を取巻いて聞いている人びとの顔にも高揚感が見てとれる。まるで、何かが起こることを期待しているかのようである。そのなかでも最も厄介なのが「戦争待望」だろう。

「小心者が戦争を始めたがる」との箴言があるが、現代史を紐解いても、その事例は多い。ネット空間では、「今のたるんだ日本を何とかせんといかん、そろそろ一線交えるか」、といって書き込みが増えている。物騒なことであるが、戦争を体験した世代の中にも賛同者がいるとのことだ。

近隣諸国といざこざを起こし、それが導火線となって限定戦争という事態になって儲ける人が一部に出てくるだろうが、死者も出るであろう。そうやって守り通した国土の人口は減少していく。特に子供の人口が減り続けている。若い人の低収入が問題となり、多少就職率が向上した、といっても、いわゆる「ブラック企業」が混じっており、すなわち入社三年以内には半数以上が退社するような、低賃金・重労働・時間外手当未払い・労災未整備の企業であったりする。共働きでも出産・育児が困難な若い世帯が増えているのは統計にあらわれている。そんなこと中で「最低賃金は高止まりしているから下げるべきだ」と主張し、一部文言を替えて公約に乗せている政党がある。国土は守ったが、国民の人口が減ったから外国人労働力を大量に移入してもらうことにした、という未来図を描いているのだろうか。

そんなこんなで「ワイルドだぜぇ~」は本年の末尾を飾るにふさわしい。できれば、あくまでも流行語であって、現実の社会生活や政治や経済とは別のものであってもらいたい。しかし、何時の世にも「目立つこと」をもって良しとする人間は登場する。それが一時的に人気を博するが、四年間も職を託す人間に相応しいか否かを考えねばならない。

この手の政治家が増える傾向を見ると、賢人の「愛国心はならず者たちの最後の拠り所」と言う言葉が思い浮かぶ。また、シラーの「人間は一人ひとりを見ると利口で分別ありげだが、集団をなせばたちまち馬鹿となる」も記憶からよみがえる。

クラウゼウィツは「戦争の結果を考えないで、その第一歩を踏み出すことはできない」と書いている。

(歴山)