よのなか研究所

多価値共存世界を考える

カタカナとAlphabet

2011-12-30 09:05:54 | 比較文化

                 Photo(上海の旧街区打浦橋Dapuchanのブティック街)

 

先日、久しぶりに中国上海へ行ってきました。旧街区にできたブティック街には小さなブランドショップが並び、アルファベット表記が目立っていました。ただし、ブランド名に限られたもので、やはり中国は漢字の国、大半のビルや商店は漢字で大きく表記されていました。 

帰国してみると、新聞に年末恒例の歌合戦というテレビ・イベントの出演者と歌のタイトルが掲載されていました。つらつら見るに、アルファベットとカタカナが多いですね。一覧表の文字のどちらが歌手(またそのグループ)で、どちらが歌のタイトルであるかが判然としません。自分が年をとった所為ですかね。

 

カタカナ言葉が増えていることは以前からたびたび指摘されていますが、外国から新しいモノやコトが入ってきて、これを音声表記するのは悪いことではありません。

これに便乗して不必要にカタカナやアルファベット表記が氾濫することが問題です。カタカナにするとなにか目新しい感じがするらしく、芸能・スポーツや広告関係、それにイメージ一新を狙う企業や役所の方が使う傾向が強いようです。

 

コンビュータ業界やネット関連産業、スポーツや芸能の世界はさておいて、官公庁と政治家がわざわざカタカナ用語を使うのが気にかかります。

「インフォームド・コンセント」とか「スクリーニング」とか「アメニティ」とか言われてみなさんすぐに分かりますかね。わたしは良く分かりません。東電福島第一原発のニュースでも、「ヒューマン・エラー」、「アセスメント」、「フェールセーフ」などをよく耳にします。事態の深刻さを薄めるために使っているとは思いたくありませんが、日本語で言ってくれた方が地元の人たちにも分かり易いと思います。一時避難所や仮設住宅には高齢者や子供も多いのです。

政治家もカタカナ用語の愛好者ですね。以前には選挙の際にある政党が「マニフェスト」という新しい用語を多用しました。今になってみると、「公約違反」と指摘されるより、「マニフェストを守っていない」といわれる方が確かに柔らかくなりますね。政治家たちがそこまで見通していたとしたらたいしたものですが。

 

新しく登場するカタカナことばもその大半は自然消滅していきますからさほど心配するほどのものではありませんが、公官庁が使うとあたかもそれが社会に公認されたかのような錯覚に陥ります。役所の自己アピール、組織防衛のために無理して使っている例が多々見られます。これから世に出てくる子供たちや若い世代がまっとうな日本語として記憶していく可能性があります。大人の有権者や消費者や視聴者はそんなことはとうに見透かしていると思うのですがね。

また、学生の一部はカタカナ用語を使うことが外国語習得の近道であるかのように、率先して使おうとする傾向がみられます。彼らと接していると、言葉を探すときにカタカナ用語を先に引っ張り出してきます。その言葉が明らかに外れているときは訂正しますが、そうでなければ無理に直すこともしません。大半は三年生、四年生と進むうちに社会の言語を習得して自然とカタカナ用語を減らしていきますが、そうでない学生もいます。

 

安易にカタカナ語を多用することが、日本人の外国語力を劣化させていると思いませんか。よく使う英語やフランス語からをきた用語の意味をかなりずれて理解しています。

「モノカルチャー」という英語を正しく理解している学生は少ないですね。「ワンセグ」とか「エンタメ」とか「セレブ」などの用語を頻度高く使っているのに、英会話の中で同じ用語を正しく使える人は少ないのが現実です。

サラリーマンになっても「アバウトな数字じゃダメだ」とか、「サプライズ人事じゃん」とか喋っている人はなかなか英語の力は向上しません。外国語を習得するためには、母国語の基本を正しく習得することが前提となることは多くの言語学者が指摘しています。

 

中国の街で見かける「超市(スーパー)」や「中心(センター)」や「電脳(コンピュータ)」といった文字も、見慣れればごく自然に見えてくることが意外でした。

(歴山)


星の国旗:五星紅旗と星条旗

2011-12-25 09:35:15 | 歴史

               

                 Photo(浦東プートン地区の高層ビル街、上海、中国)

 

星印をあしらった国旗といえば中国の五星紅旗とアメリカの星条旗が有名ですね。現在の二つの大国です。政治大国であり、軍事大国でもあります。わが国にとっても一位と二位の貿易相手国でもあります。この二国には共通項があります。「無誤謬性」つまり、自国の〔非〕をなかなか認めようとしないところです。国旗の星印となにか関係があるのでしょうか。

 

星をシンボルとして使用するのはむしろイスラーム圏の国に多く、それがそのまま国旗として使われていますが、中国とアメリカのそれとは意味が違います。昔から中近東では三日月と星の紋章を使用していた経緯がありました。中近東の暑い太陽が砂漠のかなたに沈むころ、三日月と金星が西の空に浮かびあがる光景は確かに美しいものがあります。人びとがこの光景に安らぎを覚え、図案化したことはごく自然なことと思われます。

 

国旗というのは、近代国家で船舶の航行の際に国籍を表示する必要であって国際的な合意が形成されたものです。もともとは自然に発生した人間の集団が一つのまとまりを示すために目印として掲げたものでした。平家の赤に対する源氏の白、戦国時代になると家紋をあしらった幟旗などはおなじみですね。

ヨーロッパでは有力貴族や王家の紋章がいろいろな道具に使われていましたが、国家が形成されていく段階で新教徒の国で「十文字」を使った旗が考案されてきました。現在も北欧諸国やスイス、ギリシャなどの国旗に見ることができます。イギリスの「ユニオン・ジャック」も十文字と二種類の斜交差十字が重ねられたものなのです。ここでは〔ジャック〕とは単に〔旗〕を指しますから、文字どおりUnion Jackですね。後にフランス革命で「自由・平等・博愛(同胞愛)」が謳われて「三色旗」が登場し、現在のヨーロッパは多くが横に三色、縦に三色のいろんな組み合わせになっています。それは民主主義の象徴的な意味に受け止められ、世界に広まっています。

他方、月との組み合わせで使われていた星を単独で使用する考えが登場しました。これは、一つ=One(唯一の、最高の)の意味合いを持つ考えを国旗に示すことにしたものでした。力と支配、すなわち欧州からの独立により新しい国家建設を目指したアメリカが十三の独立した地域の印として星を使用しました。他方、ロシアで共産主義国家が成立すると、これもまた別の星印をもって党旗を、軍旗を作り、やがてこれが国旗となりました。その影響を受けた国々が同様に国旗に星を使うようになります。中国もベトナムも、北朝鮮もキューバも星を国旗のモチーフにしました。

アメリカと中国の国旗の星は、その考えは違っても共通点があります。歴史を持たない国と歴史を遮断した国、つまり〔人造国家〕であるという点で同じなのです。底辺のところで心情的に両者は繋がっている、と見るのが歴史的視点ということかも知れません。そうしてみると、米中協調の基調のうえで、日本だけが「いいように扱われている」という見解にも頷けるところがあります。国際的な発言力を抑える、軍事力の拡大を許さない、という共通目標があっても不思議ではありません。航空産業や海底油田掘削技術などの自国開発に制限を加えている、と見るむきもあます。

 

太陽を国旗としている国もいくつかありますが、単純に円形の太陽を図案化しているのは日本とバングラデシュとパラオくらいですね。太陽光線をともなう国旗はたくさんあります。中華民国(台湾)の青天白日旗は有名ですが、これは国旗と呼んではいけないのでしたね。ともかく、東アジアでは太陽崇拝が強かったことをうかがわせます。

もともと琉球国で旗印に使っていた日の丸印を薩摩藩が船の藩印に使い、明治政府がこれを国旗として採用して今日に至っているわけです。日本中で元琉球国の象徴を掲げているという見方も成り立つのです。

太陽に十文字に三色に星に三日月、たまには各国の国旗を見つめてみるのも乙なものです。

(歴山)

 


底力をみせたイラク

2011-12-19 23:06:05 | 戦略

               Photo (古代ローマの騎馬レースの舞台チルコ・マッシモ、ローマ)

 

イラクからの米軍の撤退は、これを公約としてきたオバマ大統領にとってはやっと達成できた公約となりました。再選への選挙活動になんとか間に合いました。しかし、米政府内では特に国防省を中心に首都バクダッドに最小限の関連施設と兵力は当面は残して置きたかったらしいですね。それができなかったのは、「イラク国内での米軍兵士の犯罪について米軍が裁判権を維持することをイラク税府が断乎認めなかったため、結局、全面撤退することになった」(朝日1216日)と報じられています。

12日、イラクのマリク首相と並んでホワイトハウスで共同記者会見したオバマ大統領は「主権国家間の正常な関係、対等な協力関係という新時代の幕開けだ」と述べ、マリク首相は「安全保障分野での協力が依然として必要だ」と述べた(東京1213日)そうです。

 

つまるところ、アメリカは自国兵士の裁判権を放棄したことで「イラクを主権国家として対等な関係」となる、と認めたわけです。そうでない国は主権国家ではない、とも受け止めることができます。

イラクにしてみれば、この先まだ当分アメリカの協力を必要とはするが、米軍には撤退してもらう、という主張を譲らなかったわけです。これはいわゆる「駐留なき安保」ですよね。日本でもこれと同じ考えの政治家がいたのですが、最近は聞かれません。不思議なことです。

 

イラクの現状は込み入っており、安定するまでは時間がかかることが予想されています。また、マリク首相はイスラームのシーア派に属し、隣国イランとは相通じる仲である、との説も流されています。

アメリカが九年の歳月と膨大な戦費を投じて戦ったことの意義はいったい何だったのか、「近代の戦争には勝者はいない」のことば通りの結果のように見えます。成果として、バクダッドの中心区画に世界最大規模のアメリカ大使館が建てられ、維持されたということでしょうか。ここが中東を担当する情報基地となることは容易に想像されますが、そのためだけであればこれだけの苦労をすることもなかった、と感じていることでしょう。

 

翻って、わが国日本の現状はどうか。米軍兵士、軍属による犯罪が後を絶ちません。それはなにも沖縄県だけのことではありません。今年初めの米軍属の飲酒運転による交通事故で帰省中の二十歳前の男性が死亡した事件については、やっと日本側の裁判権が認められた、ということで、有難たがっているありさまです。兵士の犯罪については、未だ日本の警察も検察も手が出せない状況です。公務中に、という条件つきですが、公務と公務外との判断は米側が下しています。幕末に砲艦外交で結ばされた和親条約から状況は大きくは変わってはいないのです。

 

日本は米国への過剰依存から自立への方向へ舵を切らないことには、自国のためのみならず米国のためにもならない、という認識は徐々に広がっています。最近では米議会で日本との距離感を模索する動きが見えています。日本からの米軍の部分撤退を唱えている複数の上院議員が論陣を張っています。それぞれの思惑は違いますが、過剰依存を続ければ日米のどちらも弱体化することに気がついたものと思われます。

 

イラクに侵攻した後に当時のブッシュ大統領は「イラクの戦後統治には、大戦後の日本統治というお手本がある」という意味のことをしゃべりました。後に打ち消しましたが、そこに米国指導者層の本音が見えています。

原爆投下の前に、焼夷弾という一般人の住む密集地域を焼きつくす爆弾を開発し、それを都市から小さな集落まで投下して徹底的に恐怖感を植え付けて、従順な性格の日本人を意のままに動かしたのでした。それが結果的に彼らに誤ったメッセージを植え付けることになります。

その後のベトナムも、イラクも、アフガンもそうはならなかったのです。残念ながら、これらの国民の方が日本人より精神の底力があった、ということを認めざるを得ません。

(歴山)

 

 


マスコミの度量衡

2011-12-12 21:16:33 | メディア

                             photo(村の中心には土俵、鹿児島県奄美大島)

 

テレビ画面でニュース・キャスターがある現場からリポートしています。「この敷地は東京ドームの六つ分の広さがあります」、と。

最近よく聞かされる表現ですが、どのくらいの広さなのかぴんときませんね。会話体の特徴なのか、新聞など印刷媒体ではあまり使われないようです。また別のアナウンサーが長さや高さを説明する時に「私の背丈の何倍くらいです」などと言っていました。身近なものと比べてより分かり易くする、という意味で理解できないこともありませんが、ドームのような複雑な施設を面積の基準とするのは無理があると思いませんか。スポーツ施設という、だれにも親しみのある喩えをしているつもりかも知れませんが。

 

東京ドームには二度ほど行ったことがありますが、そこはスポーツを主とするイベント用の建築構造物であって、グランドとは言い難いものがありました。広さといっても、どこを指しているのでしょうかね。野球用に設営されたときの芝と赤土で覆われたフィールド部分を指すのか、観客席までを入れるのか、方円形の建物の外周部のことなのか、施設全体の面積なのか、どれを基準にするかによって大きく異なります。おそらく倍以上の差があるでしょう。

ひと昔前まではこういう時、「甲子園球場の何個分」と言っていたような気がします。これならなんとなく分からないでもありません。平面のグランドの上に乗かかっている観客席までも入れた面積という共通理解がありました。これより狭い敷地、たとえばマンションの敷地などは「テニスコートの何面分」などと説明していましたね。より広い面積なら「サッカーグランド何面分」というのならよくわかります。

容積の単位としてならドームを引き合いにしても理解されやすいでしょう。もともと容れ物ですから、「今年の日本全国のビールの消費量は東京ドーム球場何杯分になります」などというのはピッタリですね。

 

はなしは少し飛びますが、鹿児島県の奄美諸島では、ほとんどの集落の中心に土俵があります。ここで旧暦八月十五日に(近年は前後の土・日に)開かれる豊年祭で村の男衆が相撲をとります。小学生の部から中高生、青年、壮年の各部で東西に分かれて取り組み、また団体戦や郷友会も交えての取り組み、さらに新生児が親に抱えられて土俵入りをするなどで、半日を村人総出で楽しむのです。島では、相撲とは神事であり、その余興で勝ち負けを競うものと受け止められています。三十年ほど前までは「十五夜相撲」と呼んで、夕方に取り組みがあって、そのまま満月を眺めつつ酒盛りをしたそうです。

四股を踏むことは、森や林を切り開き、ぬかるみを埋め、傾斜地を削り埋めて平坦地としてこれを男たちが踏み固めたことの記憶が再現されるわけです。ここでは、土俵はその土地の土の上に密着していないと意味がありません。そう考えると、現在の大相撲の国技館はコンクリートで固められた構築物の中に土を持ちこんで土俵を作っています。それはせり上がり仕掛けになっていて、下は大きな空間であり、両国(りょうごく)の土地とは繋がっていません。その前の蔵前国技館までは土俵はグランド・レベルにあって、その土地に繋がっていたと聞きました。

 

村や町のグランドで子供や大人が野球やサッカーに興じているのは、知らない人たちでもついつい見てしまいますね。そこには土の上で汗を流す躍動感があります。ドーム球場も国技館も、地面から遠く離れてしまいました。今日のプロ野球と大相撲の人気低迷はこんなところにも一因があるのではないか、と先のニュース画面を眺めながら考えました。

(歴山) 

 


無人攻撃機 and/or サイバー兵器

2011-12-08 12:19:28 | 戦略

                                             Photo(中世の投石機 Scotland, U.K. ) by M.E.

 

ロボット兵器同士が戦争するようになれば、どうなるのですかね。勝ち負けがあるのでしょうか。勝ったとして、凱旋するのはロボットなのでしょうかね。

 

科学の進歩は実にめまぐるしいですが、いいことばかりではありませんね。これに便乗して新しい技術やサービスで良からぬことを考える人間が必ず出てきます。邪な考えが実行されて社会的に影響がでるようとなると新しい法の制定や、罰則規定の改定をやることになります。

 

先日のパキスタン政府による米軍基地撤退要求は、同国内のシャムシ空軍基地がアフガニスタンとの国境地帯でゲリラ掃討作戦を展開している無人機の離発着基地として使用されていることを知らしめました。これを操縦しているのは、遠く一万五千キロ離れたネバダ州のエアコンの効いた快適な操作室にいる兵士たちです。以前、モニター画面を見ながらゲーム感覚で引き金を引いて建物や乗り物を破壊し人間を射殺している女性兵士たちの姿がテレビで映されました。

 

しかし、無人兵器も無敵ではありせん。複数の国のサイバー攻撃が複数の国の無人兵器システムに侵入し、一部のシステムを誤作動させている、とのニュースも伝えられています。無人兵器とサイバー兵器の共存の時代でしょうか、あるいはサイバーへと進展中ということでしょうか。

アメリカの国防省は「外国政府からのサイバー攻撃は戦争行為とみなし、武力行使も辞さない」と発表しました。そしてサイバー空間を陸・海・空・宇宙に次ぐ第五の防衛領域として整備する、とも述べています。

 

ここで問題となるのは、非政府組織によるサイバー攻撃の場合はどう判断するか、ということです。一個人の手に依る場合はどうなりますか、またハッカーが多数の国にひろがる集団ということも考えられます。既に「アノニマス」というグループが活動しているようです。ハッカーはその補足が難しいですから、調べて行くと実は自国内の人間であった、ということも十分に考えられます。すると、攻撃と云ってもどこを攻撃することになるのですかね。

すでに、ハッキングよりも手の込んだ不法侵入の方法も登場しているようです。コンビュータのシステムやチップなどに特定のプログラムを組み込んでおくことで潜入しておき、有事となればそれらが一本の指示で起動する方法も登場しているようです。外国製の部品を全く使わないコンピュータ製品など現実にはありませんすから、いつ偵察衛星が誤作動したり、ミサイルのボタンを押したりしないとも限りません。

 

すなわち、これからの世界では破壊兵器の増強は余り意味を持たなくなるように思われます。わが国としては、過度にコンピュータに依存しない通常兵器で自国防衛に足る軍備を保有することに限定し、世界に向けて軍縮を呼び掛けていくのがいいのです。日本にできることはそれくらいのものです。それが、アジア圏の共栄を謳って戦った先人たちに応える正しい方法ではないか、と思うのです。

 

無人兵器もサイバー兵器もそれを操る当の本人は姿を現すことがありません。その昔の剣豪小説では、サムライたちは、「飛び道具とは卑怯なり」といいました。今なら、「姿を見せぬとは卑怯なり」というところでしょうか。

 

『般若心経』に「阿辱多羅三藐三菩提」の句が見えます。「アヌッタラサンヤクサンボーディ」の呪文に文字を当てたもので、この行は末尾の一行とともに『心経』の中では例外的に意訳ではありません。もし意訳するとなると「無上正等正覚」が近いとされています。最高の悟りの状態を指します。「生けるものには寿命があり、いずれは滅びる」ことを知ることが大前提となります。あくなき欲望、勝利し支配する、ことの無意味さをも説いています。

(歴山)