よのなか研究所

多価値共存世界を考える

「ギリシャ 対 インド」論争

2011-11-25 20:44:19 | 思想

         (photo : ヘレニズム時代の遺構 Izmir, Turkey

 

前二世紀にヨーロッパ的考えとアジア的考えの対決、つまり東西文明の思想を代表するような論争がありました。いわゆる「ミリンダ王の問答」です。

場所は、現在のアフガニスタン(当時はバクトリア)からパキスタン北部(ガンダーラ地方)を経て北西インドまでを支配していた「インド・グリーク朝」、人物は国王ミリンダ(弥蘭陀)と、比丘ナーガセーナ(那先)です。

ミリンダはギリシャ名ミナンドロス、かのアレキサンドロス大王の東方遠征の後バクトリアの地に興ったギリシャ人国家がインドのマウリヤ朝の衰退に乗じて北西インドに進攻し成立した王朝の第八代目の、最もよく知られた王でした。

権力の絶頂にあったミリンダ王は富と知を兼ね備え、世の識者に出会うとこれに論争を挑んでは論破しておりました。王様に敵うものはいませんでした。

ところが仏教の長老ナーガセーナに出合い、論争を繰り返すことになりますがなかなか論破できません。この論争の中に、ヨーロッパ文明の源流とも云われるヘレニズム文化とインド文化との考え方の違いを見ることができます。

 

たとえばこんな具合です。

  

王「尊者よ、輪廻して再生するものは前世で死んだものと同じですか、異なるものですか」

長老「それは同じものでもなく、また、異なるものでもありません」

王「譬えを述べてください」

長老「例えば牛から絞られたミルクがしばらくすると発酵乳になり、発酵乳からチーズになり、チーズからバターになりますね。大王よ、そのとき〈ミルクは発酵乳と同じであり、チーズと同じであり、パターと同じである〉と語る人があるとすれば、その人は正しいことを語っているのでしょうか」

王「尊者よ、そうではありません。ミルクに依存して他のものが生じたのです」

長老「大王、それと同様に、法の継続性は整えられるのです。生じるもの(=再生するもの)と滅びるもの(=死んだもの)は別ではあるが、〔後のものは〕前のものではないように、〔前のものは〕後のものではないかのよう整えられるのです。こうして、それは、同じものでもなく異なるものでもないものとして、最後の意識に収められるに至るのです」

………… (この後も幾つかの比喩が述べられる。)

            (P37-38)(木村清孝「仏教の思想」放送大学 2005

 

この話は、原文はパーリ語経典にあるようですが後に漢訳経典『大蔵経』の「那先比丘経」に収められて「弥蘭陀王問経」として伝えられています。説一切有部の中の、自我(アートマン)をその担い手とすることによって説かれる輪廻の思想を説く経典に依る考えです。ナーガセーナは、執着を捨てない限り行為(業)が力となって死後も存続し、その新たな名色(名称と形態)による心身を獲得して輪廻し、生死を繰り返すと説いたのでした。

 ミリンダ王はこのように論争を繰り返すうちに仏教に帰依するようになり、ついには出家して阿羅漢(修行僧の最高位)に就いたのです。

 

昨今のニュースはEUの経済問題で埋められています。ギリシャ・ローマの流れを組むヨーロッパ文明はルネサンス、産業革命を経て世界に乗り出し、植民地を収奪して富を築きあげました。そこから新大陸に移住した人たちは思わぬ幸運に出あって、豊かな国を築きました。第一次大戦後はアメリカ合衆国が大国となり、ソ連邦の崩壊以降はやりたい放題をやってきました。

今年は欧州と米国の経済の衰退とそれによる政治の不安定化のニュースで締め括くられそうです。アジア諸国の経済連携や太平洋をまたぐ連繋の話しが出てきましたが、これらはためにするニュースのようにしか感じられません。

五百年近く世界を引っ張ってきたヨーロッパ文明、その根本のところの考え方が見直しを迫れているのは間違いないところでしょう。

(歴山)

 


「ネゴシエータ」と「ニゴシエ―タ」

2011-11-18 08:54:45 | 時事

  

  

               (photo: 新大陸のコロンブス像、Santo Domingo, R. of Dominica © M.E.)

 

どんな仕事にも交渉ごとは付いてまわりますよね。営利会社であれば金銭をともなう交渉が日常ですが、国家間の交渉となれば金銭・損得だけの話ではありません。たちまちに国益、国民益に関わります。国民として無関心ではおれませんね。

 

筆者も会社務めをしていた頃は毎年毎月いろいろな交渉に関わりました。交渉相手は日本国内はもとより外国からやつてきたり、こちらから出向いたりすることも頻繁でした。特に某国に駐在中は契約交渉が多く、日本の本社からの担当者を伴って交渉相手と対面しました。そんな時に気付かされたのは、本社からやつてくる社員には「ニゴシエ―タ」が多いということです。

「ニゴシエ―タ」という用語は会社の先輩から教えてもらった造語ですが、交渉する人(Negotiator)ではなく、話を濁してそのままに放置する人(Nigoshi-ator)のことです。こんな連中がやってくると後始末が大変です。この背景には日本語のあいまいさがあるとする見解もありますが、筆者には組織に安住するタイプの人の精神構造にあるように思われました。一言で言えば、「上司の意向、組織の慣例に沿って、身に面倒が降りかかるような言説を発しない」ということです。

これを放置すると、最終的には相手側に譲歩する事態に陥ることになりますから、交渉相手よりもニゴシエ―タとの話し合いに労力を割く羽目になります。すなわち「内輪揉め」です。相手に知れると交渉は不利になります。遠隔地にいる者の力の限界で、最終的には支社よりは本社、本社内ではより高いポジションにあるもの主張が通ります。こんなことが続くとネゴシエータは去り、ニゴシエ―タが残ります。そのような会社組織をたくさん見てきました。

 

残念ながら、歴代の日本の首相がまさに「ニゴシエ―タ」ですね。

このブログは特定の個人や団体について言及することはつとめて避けているのですが、時には触れざるを得ません。

先日のハワイでのAPEC(アジア太平洋経済協力会議)に出席して帰ってきた野田首相は国会でTPP(環太平洋連繋協定)についての自分の発言を追及されると、以下のように答弁しました。

「ネガティヴ・リストを提示したら交渉にならない。それは心の内に持っている」

新聞各紙に掲載されたのを読んだのですが、テレビで中継を見た方も多いと思います。

交渉とは双方がネガティヴ・リストを持ち寄りテーブルに乗せて行うものです。もちろんすべてを見せる必要はありませんが、譲れないところは早く相手に示しておくことが肝要です。相手にとって都合の悪い情報は心に秘めておいて交渉に臨むということでは交渉になりません。その逆で、相手にとってオイシイ話、呑みそうな話しこそ胸の内に秘めておいて交渉を有利に導く材料とするのですがね。

今回の日米首脳協議ではアメリカ側が「野田首相がすべての物品・サービスを関税撤廃の対象とすることを認めた」とアピールし、日本の外務省は「そのような発言をした事実はない」と抗議したが、米側は副報道官が「発言を訂正する予定はない」と云っているようです。こちら側も反論を「アピール」として公表しておくべきですが、結局うやむやのまま進行していくことになるでしょう。

このような状況が続けばどうなるのか、およそ結果は推測できます。今必要なことは、国益を守る、というならそれなりの意思表示を明確に行うことですよね。TPPの論点とは結局のところ新大陸(オセアニアを含む)と旧大陸(アジア)が本当に協調できるかということのように感じられます。

 

英和辞典を引いてみると、”negotiate” には「1. 交渉する、2. うまくやり遂げる、3. 切り抜ける」などの意味があります。そういう点では、英語圏の人々の「ネゴシエータ」にも時に応じてニゴシエーション」を行うものがいても不思議ではありません。先の副報道官もその一人かも知れないですね。

(歴山)

 


「太平洋」というヘンな言葉

2011-11-11 22:11:52 | メディア

                         (Photo: 南西諸島の浜辺より眺める太平洋)

 

昨今「太平洋」という言葉が安易に、頻繁に使われている感があります。「アジア太平洋」、「環太平洋」また「太平洋国家」、・・・

 

太平洋はもちろん世界で一番広い海であることはみんな知っています。陸地に対しての海ですよね。したがって、「アジア太平洋」という言葉にはそもそも無理があると思いませんか。「ヨーロッパ大西洋」とはいいませんよね。アジア大陸と海である太平洋とをひとくくりにして何を指すと言うのか。そこにはあきらかに政治的な意味が込められています。そのことが多くの混乱をもたらしているのです。ことばの混乱が社会の混乱を引き起こしています。

スポーツの世界では「アジア・オセアニア」ゾーンであったのが、これもいつの間にか「アジア太平洋」になっています。サッカーのワールドカップではオセアニアの豪州とニュージーランドはヨーロッパに組み入れられていた時代がありました。それが今ではアジア地区予選にでています。地域の線引きが時代により変化することはあるでしょう。しかし、海が陸地と同レベルで並べられることにはなりません。

 

もともと「太平洋国家」とは太平洋上の島嶼国家群のことです。ミクロネシアのミクロネシア連邦、パラオ、マーシャル諸島国、キルバス、ナウル、メラネシアのソロモン諸島、ヴァヌアツ、フィジー、ポリネシアのサモア、トンガ、クック諸島、ツバル、などなどです。あいまいな言い方をするのは、この線引きが人により組織によりまちまちなのです。たとえば、パプア・ニューギニア、東チモールは入るのかどうか、ニウエという人口6000人の島は国と呼べるのかどうか、仏領ポリネシアはどう扱うのか、また国連加盟国でない国をどうするか、などあいまいな所があります。

「アジア太平洋協力」といえば、これらの国々とアジア諸国(特に日中韓とアセアン諸国)との協力を指すのではなかったか、現にESCAPアジア太平洋経済社会委員会はこれらの国々で構成されています。

不思議なのはAPECですね。「アジア太平洋経済協力会議」と称しながら、太平洋諸国は加盟していません。アジアの太平洋に面している国々とオセアニアとに南北米州の太平洋に面している国の一部とからなっています。

 

「太平洋」は立派な日本語であり、古くから使われてきましたが、現代日本でこの言葉が再定義されたのは、米軍がやってきて「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と言い換えた時ではないかと思われます。それは占領後直ちに始められた「ウォー・ギルト・インフォーメイション・プログラム」の一環でした(これについては藤原正彦著「日本人の誇り」第三章に詳しい)。すなわち報道機関への厳しい検閲によって定着した言葉でした。実際に戦いの場となったのは、欧米列強による植民地支配の及んでいた東南アジアと中国、それに当時南洋諸島と呼ばれていたミクロネシアとメラネシアの一部でした(ほんの一瞬、ハワイまで攻め込んだことはありましたが)。広い太平洋からすれば、北西太平洋にすぎません。四分の一ほどの海域です。これを「太平洋戦争」と呼んだのは、アメリカから見て太平洋を越えてその向こうを攻める、との意志があったからでした。

 

そして今、TPPです。今回は「トランス・パシフィック」と名づけていますから「環太平洋」です。これに日本が入るのはあたかも当然のような響きがありますが、同様に太平洋に面しているカナダも、メキシコも、中国も入っていないのです。なぜこれらの国が入らずにブルネイやチリやペルーなどで構成されている協定に入る必要があるのでしょうか。

百歩譲っても、アメリカとの二国間のEPAを結べば済むところです。関税権は国家主権の重要な一項目です。ここに日本を引きずりこむには「太平洋」の文言が必要なのです。

交通と通信の手段が拡大しスピードが増し、距離の問題は克服されたかのような錯覚に陥っていますが「フードマイレージ」のことばに示されるように、物資を遠いところへ運ぶのはエネルギーを使い、また鮮度が落ちることは否めない事実です。太平洋という世界で最も広い海域を挟んで経済の一体化を図る、というところに無理があることくらいは中学生でも理解しているのです。TPPはいずれ破綻を来たすこと間違いないと思います。

どの世界でも一つの仕事を長く続けると一種の職業病にかかります。現在の日本の国会議員とメディア関係者の半数はかなり強度の職業病にかっているといっても過言ではないような気がします。

 

禅宗の教義を示す言葉に「不立文字(ふりゅうもんじ)」があります。普通、「文字では伝えることができない悟りの境地がある」と解釈されています。それはまた、人は文字や言葉によって大いに惑わされる存在であることを教えています。だれかが意図して創り出し、世に広がってくる言葉には注意が必要です。

(歴山)

 

 

 

 

 


大国の代理人たち

2011-11-04 23:09:08 | 歴史

              (photo;  モスク内部の装飾、Bukhara, Uzbekistan)

 アフガニスタンの今日の混迷は、取巻く大国の代理人、顧問団、あるいは工作員たちを国内に取り入れたことによるのです。当該国の政策に影響を及ぼす外国人とその同調者たちを「エージェント」、「プロクシー」と呼ぶことがあります。 

 アフガニスタンは西暦前から幾多の帝国の領土となり、また時には領土を拡大し他を支配したユーラシア内陸の山岳の国でしたが、十九世紀初めになってほぼ現在の国境が確定しました。 

「グレイト・ゲーム」と呼ばれた19世紀のイギリスとロシアのこの地を巡るせめぎ合いは世界史の中でも興味を惹かれるテーマの一つですが、ここでは現代史について考えてみたいと思います。 

冷戦時代の1960年代に米ソ両国は競ってこの国を支援しました。地政学的に重要な位置にありましたから当然といえば当然です。 

当時この国は王国であり、名君と呼ばれたザーヒル・シャーが統治していました。ところが1973年に元王族のダウードがクーデターを起こし共和制を宣言すると、ソ連に倣った近代化を進めることになります。選挙を経て複数の政党が議会に席を得ていました。その中のアフガニスタン人民民主党が1978年に軍事クーデターを起こし、タラキ―が革命協議会議長兼大統領兼首相に就任し、ダウード一族は処刑されます。 

この一連の経過については当初からソ連の軍事顧問の存在が指摘されていました。顧問団はアフガニスタン軍に入り込み、政治にも口を出すようになっていわれています。

果たして、1979年にはタラキ―が副首相のアミーン一派に殺害され、アミ―ンがその地位にとって代わると国内の秩序維持を理由にソ連が軍事介入しました。

他方アメリカは隣国パキスターンでアフガニスタンのムジャヒディン(聖戦士)たちを軍事訓練し、火器を装備させてアフガニスタン国内へ送り込みました。ソ連はロシア正教の国であり、アメリカはピューリタンが作った国、どちらもキリスト教の影響の強い国です。

KGBはムジャヒディンを抑えきれないアミ―ンを殺害し、副議長のカルマルを革命協議会議長兼大統領兼首相とし、ソ連軍・アフガン軍とムジャヒディンが国内全土で戦闘を繰り広げることになります。

ソ連軍を相手に善戦するムジャヒディンの代表団は当時のレーガン米国大統領にホワイトハウスに招かれて顕彰されています。この戦闘はハリウッド映画にもなりました。

結局、戦闘の長期化と激化に対して国連で「外国軍の撤退決議」が為され、1989年にソ連軍は撤退することになります。

これでアフガニスタンでの戦闘が一度は止むかに見えましたが、国土にばら撒かれた小火器に大型火器、ミサイルに戦車を所持するムジャヒディン各派が地域を拠点として勢力争いを始めました。200110月に、アメリカとNATO軍は「アルカイーダをかくまうタリバーンへの自衛権」、という名目で本格介入をはじめました。その後の混乱と政治的経緯は今日見る通りです。現大統領のカイザルはカーブル市長と揶揄され、カンダハルなどの街には支配権が及んでいないようです。

このように、外国からの政策顧問や軍事顧問を、またその主張する政策などを安易に受け入れる国は、後に大変な苦難を味わうことになりがちです。

 ハワイ王国滅亡の悲劇を知る人は今の日本では少なくなっていますが、かつてのハワイは、1796年から1893年まで諸島をまとめていた立派な独立国でした。

渡来した白人の宣教師たちがビジネスを始め、1835年にはプランテーションを建設し大富豪たちが登場するに至りました。そして、いつしか自分たちが作った砂糖の免税、真珠湾一帯をアメリカが使用する、などの条約を押しつけていました。

ここに、カラカウア王の妹・リリウオカラニ女王は不平等条約の撤退に立ちあがりました。するとある一派がクーデターを起こし、1893年に女王を幽閉し共和国としたのでした。アメリカ人の政治顧問がいたとされています。

1898年になると、時の大統領マッキンレーは太平洋の重要性に気付き、併合することになります。リリウオカラニ女王が目指した王権の復活はならず、ハワイ人による国家は消滅しました。

かの名曲「アロハ・オエ」の歌は、この時の王国衰亡を悲しんで作られた、という説が有力です(異説もあります)

 自国内に居住する外国人、駐留する外国軍の特権を認めると、じりじりとその国が侵食されていくことがあります。彼らが「エージェント」、「プロクシー」となる可能性が高いのです。わが国にも代理人、代弁者はたくさんいるようです。昨今の国会周辺の動きを見ていると特に感じられることです。否、数十年にわたっていることかも知れません。

 余談ながら、アフガニスタン南部の要地で今も攻防戦が続いているカンダハルはその昔〔アレキサンドリア〕と命名された街でした。Alexandria Lexandria Xandhria Kandhria Kandahar と変化したと考えられています。

(歴山)