よのなか研究所

多価値共存世界を考える

成長するBRICS と衰退する欧・米・日

2012-04-24 15:40:58 | 時事

                                                       Photo (変貌するインド、バンガロール空港)

 三月末(3月28日、29日)インドの首都ニューデリーで第四回ブリックス首脳会議が開催され、ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカの首脳が一堂に会しました。ここではいろいろな案件が討議されたようですが、世界の注目を集めたのは「ブリックス開発銀行」構想でした。なにしろ、BRICS五カ国は世界人口の四割、世界通商の18% を占める一団勢力となっているからです。実体経済の中でのシェアはこの倍に及ぶという見方もあります。

最も注目を集めたのは、「貿易決済に相互の通貨を使う」こと、つまり「国際決済に米ドルを使わない」という点です。これはお題目ではなく、すでにインドはイランとの原油購入費用をルピーで支払うことに合意していますから次々と決済方法を独自に決めていくとこが予想されます。米ドルを使わなくなれば、外貨としての米ドルを貯め込んでいることの意味合いが薄れてきます。そうなると、米国債を各国に買わせて国が成り立っているアメリカという国家が破綻の危機に見舞われる可能性があります。アメリカがその進展状況に過敏になるのは当選です。

日本の各紙の報道では、「中国が主導権を握ることを他の国が懸念してブリックス銀行設立の話しは進展しなかった」という論調が伝えられました。たしかにGDP世界二位となった中国の突出ぶりが目立ちます。しかし、英語版の”The Times of India” 紙、 “The Hindu” 紙(インド)、「人民日報」紙(中国)などを読む限り、多少の軋轢はあるものの構想は着実に進展しているようです。組織と運営方法、資金供出の方法と比率、などが継続協議となり、来年の次回首脳会議で決定することとなっています。

構想では、「米ドル決済を行なわない」、のみならず「アジア、アフリカ、中南米の貧困国に対して積極的に融資する」 、「貧困国のインフラ整備、食糧問題の解決を通じて生活向上を目指す」、「欧米諸国が資金を拠出しないプロジェクトへ出資する」などが謳われています。

もう一点注目すべきは、世界銀行(WB)、IMF、アジア開発銀行(ADB)などとは補完的な協調体制をとる、としている点です。

「ブリックス開発銀行」構想は欧米主導の世界経済システム、特に金融システムに異を唱えて始まったものですが、まだまだBRICS五カ国でG7欧米先進国に対抗するだけの力はない、と認めている形です。 

そんな中、4月16日、新しい世界銀行の総裁に韓国系アメリカ人のジム・ヨン・キム氏が選出されました。対立候補として中南米やアフリカ諸国の支持を受けていたナイジェリア人のオコンジョイウェラ氏がいましたが、最終的には理事会での投票でキム氏に決まりました。

もともと、大戦後の世界経済の柱としての世銀はアメリカが、IMFはヨーロッパがその人事を決定する仕組みが確立されていましたから、この決定はいわば当然ともいえるものです。アジア系の人物が就任することはおなじアジア人として喜ぶべきことでもあります。

それにしても近年の韓国のアメリカとの密着ぶりは著しいものがあります。国内の反対を押し切ってイ・ミョンバク大統領が韓米FTAを強行したのも記憶に新しいところです。果たして韓国経済がこのまま順調に伸びていくのか、そうでないのかは一つの実験となるでしょう。TPP問題もこれを見据えて考えていくことが望まれます。こちらが慌てて参加することはありません。望んでいるのは相手方なのです。

 片方にブリックス五カ国による銀行構想、片方に韓国系の総裁を頂く世界銀行があります。日本からは国際原子力機関(IAEA)の事務局長を出していますが、世界経済の政策決定の場ではその出資比率の割に影響力が小さいといわざるを得ません。

こんなことをいうと、やはり相応の武力(つまり核兵器)を持っていないからだ、という声が聞こえてきそうですね。難しい問題です。

(歴山) 


日本からの留学生は、

2012-04-17 09:11:30 | 比較文化

                   Photo (我が国最古の学校といわれる足利学校跡、栃木県) 

 

 日本からの留学生が減っている、と報じられている。だからどうしろというのだろうか。

 確かに我々の年代に比べると今の若者たちは出世を目指すとか海外に留学するとか、考えるものは減っている。この背景にはいろいろな事情があるのだろう。

 4月10日、東京で「日米文化交流会議」という会議が開かれ、日本からアメリカへの留学が減少していることを危惧して、「国や大学、企業が一体となって留学をしやすくする制度をつくっていくべきだ」、という認識で一致したそうだ。この会議では、日本からアメリカに留学する学生がこの10年間で半分以下に落ち込んでいることに参加者から懸念が示され、日米関係を支える人材を育成するには、若者による交流をさらに進めなければならないといった意見が出された、とのことである。明治の初めの「遣欧使節団」の考えから進歩がないですね。

 何ごとにも「自由競争」を主張するアメリカが、自分の国に日本からの留学生を増やすために、大学が日本政府や企業と一体となって支援する必要がある、とするのは矛盾でないか。自由にまかせた結果が、留学生が減っているのであり、これに人為的に介入してもほとんど成果が上がらない結果となるであろう。

 アメリカの大学で日本からの留学生が一番多かった時代があったが、すでに過去の出来事である。代わって増えているのが中国であり、インドであり、韓国でありUAEなどの湾岸諸国からの留学生だ。

 アメリカの大学事情を少しでも知っている者には、留学と言っても学部と大学院とでは大きく異なることは常識である。米大学の学部がとくに日本の大学と比して優れているということはない。大学院や高等研究所には優れた施設・環境があるのは確かである。

 従来日本人留学生が多かったのは学部学生としてであり、法外に高い授業料を払ってハクを付けて帰国してそれなりの会社に入ったり、起業家となったりしていた。政治家になったものも多い。中には日本で希望の大学に進めずに不本意ながらアメリカに渡ったものもいる。それでも80年代、90年代は「米国留学」という経歴はそれなりに効力があった。しかし、雇用する側つまり会社側では決してよい評価だけではなかった。そして今、親のすねをかじって留学できる学生が大幅に減ってきている。企業側も英語が話せるというだけの留学生には慎重に対処するようになってきているのである。

 これに対して中国、インド、韓国からの留学生は、その多くは大学院に入学するのである。大学院では授業料が減免されたり、研究員として研究費の補助を受け、また給与を受け取るものさえいる。日本からも大学院に留学すればよいのだが、日本国内の大学院も十分に充実しているからその必要性は中・印・韓に比し低くなる。高い専門性を持つ日本人は成果が上がってから外国の研究機関へ進むケースが見られる。日本の大学・大学院にもノーベル賞を含め、国際的な学術賞の受賞者も多いのである。日本は 世界でも最も早く教育制度が確立した国の一つでもある。

 英語が国際的なビジネスの場での共通語として機能していることはみんなが知っているが、英語を習得するためだけに留学するのは時間とおカネの無駄である。単なる会話習得は学問というよりは技術であり、「語学留学」というのは日本独特の表現である。ことばをマスターしたければ月数百円のラジオ講座やテレビ講座でも出来ないことはない。現に筆者のまわりにも、ラジオ講座で学んでTOEICで高得点を取得し仕事に就いている人がいる。居住する外国人が増えており、外国の生活や外国人のモノの考え方を知ることは国内にいても難しいことではない。その気があれば海外に旅行でも十分に海外生活の擬似体験をすることができる。 

 特定の国への留学生を増やそう、ということは、相手国が努力すべきであって、自国の税金を使ってやることではない。国際社会で信頼を得るべく独自の政策を展開していくということであれば、むしろ、まんべんなく、各国に留学生を送り込むべきであり、現在の学生の状況はその方向に向っているのではなかろうか。その学生の数も市場に任せれば、これ以上増えることはないだろう。それでいいのである。今回の「日米文化交流会議」の意図するところは、単に日本人留学生たちからの膨大な収入の減少を危惧してのことだろう。

 留学生の交換を容易にするために、大学の入学時期を四月から九月に移行することが検討されているらしいが、アメリカに中国に次いで留学生を送り込んでいるインドは日本と同じ四月入学である。インドは、欧米諸国の大半がそうである、という理由で自国の大学の入学時期をそれに合わせる、などということはないであろう。留学はそもそも手間のかかるものであり、多少の不利を承知の上で、それを達成した時の優位性をその学生が期待して実行するものである。政府がこれに関与することは税金の無駄使いである。

(歴山)


税金が消えて行く

2012-04-10 23:35:33 | 政治

                                                              photo (復元された平城京朱雀門、奈良)

八世紀に起源を持つ「大蔵省」の名称が「財務省」に変わったのは平成13年、わずか十年前のことである。律令制度からの省庁名では「文部省」がかろうじて「文部科学省」として、「宮内省」が「宮内庁」としてその名を留めている。当時大蔵省は国庫の支出と物価の安定と度量衡の管理を受け持っていたようだ。その役割分担は現在も大きくは変わっていない。 

予算を配分し采配を執る部署・担当者が大きな権限を行使することができるのは古今東西、国を問わない。そして、組織というものは、学校のクラブ活動から街のサークル活動まで、ボランティア組織から奉仕団まで、その内容に関わらず組織の維持と拡大に動くことになる。そこにおカネを動かす役割が付与されていれば、そこにいる人たちが組織防衛と権限の拡大に動くことは人情として分からぬでもない。かつては、そこには国民の税金を預かる者としての自負心と最低限の良識があったと思われる。その箍が外れたのは日本の政策が経済優先となり、安定した生活や自然環境保持よりもカネ儲けが大半人々の関心事となり、お役人がより高い報酬を求め、より権限を追求するようになった六十年代のことではなかったかと、思われる。すなわち、戦後復興から国土の総合開発の時代へと入いり、現在に続く日米安保が強行採決され、新聞からテレビへとメディアの影響力が拡大し、大量消費時代へと向かった時期である。

 税金はもとより、社会保険料、そして社内積立金までを給与から天引きされて異を唱えることなかった勤労者が支払う年金は天文学的な膨大な額となっていく。これを活用しない手はない、と当時の大蔵省を中心とする官僚たちが、これを特別会計、財政投融資の形をとり配分することを始めた。複雑な会計処理を経て省庁、自治体からその周辺の団体、各種法人におカネがばら撒かれていく。むろん、その中のある部分は有益であり、今日に続く社会インフラとなっているものもある。それらについても、投下された金額が妥当であったかどうかにも多いに疑問が残る。当時から無駄遣いと指摘される出費も多かったのである。

官僚とは公務員のことである。公のために務める人たちが自己の権限の傘下の組織に、あるいは特定の権益者に膨大な資金を提供しつづけた結果が、「消えた年金」のはじまりだったのである。それは、年金を支払う人数がそれを受け取る人数に比し圧倒的に多かったからできたのであった。しかし、特に綿密に計算しなくとも、いずれ人口構成が逆転することは素人にも予測することが可能であったし、そのような予測をもとに警告を発する学者や研究者も多かったのである。

現在国家予算の中で比率の大きな医療、社会福祉関係の費用もその中に多くの公益法人や研究機関への支出が見られる。開発投資や公共事業、さらに防衛関係まで無駄遣いが多く指摘されている。 国の借金がおよそ1000兆円と発表されているが、自治体の抱えている借金、また特殊法人へ貸付けた財政投融資がなどを加算するとその数字はさらに膨らんでいく。すなわち、公債(国債)発行が限界を超えつつあるということで、増税の話が出てきているのである。 

しかし現状の組織、予算の仕組みを継続する限りこの程度の増税では焼け石に水であり、どこまで追加で上げていっても問題は解決しない。おカネは官僚機構とその裾野に広がる特殊法人に消えて行くだけである。これら法人に天下った役人全員の給与を上限400万から500万円とするだけでも数兆円はすぐに浮かせることができる。すでに退職金も受け取り、年金受給資格のある六十歳台後半から七十歳代の年寄りはこれだけあれば生活に困らないだろう。子供を小中高の学校に通わせている家庭でも300万円台から400万円台の世帯が多いご時世なのである。その組織が国家のために必要欠かせざるものである、とするならば、自分が早々に引退して三十歳代、四十歳代のひとを雇用すればよい。より少ない人数でより大きな仕事を為し遂げるに間違いない。 

国際化、世界統一会計基準、安全保障の名のもとに改革され、あるいは廃止され、新規に設立されたシステムや組織が税金の無駄遣いに輪をかけている。今や国全体が誰も止めることが出来ない運命共同体に巻き込まれつつある。これに異を唱える力のある政治家や言論人が登場すると、誹謗中傷の合唱がおこり、またいろいろな事件が引き起こされる。 

将来の税収と現在残っている国民資産とを担保にして、役人たちが先に利益を確保し仲間とその果実を喰い散らかすのである。高給を食む元官僚や特殊法人の職員たちは、自分たちが未来の日本人の、つまり自分の子孫の受けるべき報酬を先食いしていることを知らねばならない。国民はこのことを追求せずして増税論義に終わりはない。

(歴山)


北の島は南の島

2012-04-03 08:19:13 | 島嶼

                                     Photo (冬の奄美大島に寄せる東シナ海の波)

「南の島」に来ています、と、かつての同僚や友人に知らせると、青い海、まぶしい太陽、ゆったりした時間、の中での生活いいですね、との返信が来ます。のんびりとした人たちとの交流、お金持ちでなくともみんなゆったりと暮らしている島、などというイメージがあるようです。これも「メディアの言説」によるイメージの固定化でしょうか。この場合のメディアはマス・メディアだけではありません。チラシから、ネットからマンガから写真集まですべてを含んだ意味で使っています。現実の島は台風が来る、豪雨被害がでる、酷暑の夏と寒風が吹く冬とが繰り返しているところでもあります。先日も近海で痛ましい海難事故がありました。

北の島、についても同様です。日本人が「北方領土」と呼んでいる島々についても、われわれが不用意に使っているこの言葉にこちらの思い込みが内在しています。日本人からみれば〈北方〉に位置しても、ロシア人からすれば〈南方〉に位置している訳です。ロシアは17世紀から「南下政策」をとって領土を広げてきました。その動機の最たるものが〈不凍港〉の確保でした。冬も凍らない港をヨーロッパで、アジアで確保するために大軍を動かしてきたのです。中国とロシアの国境線を見つめると、ロシアが苦労して海伝いに南下してきた経緯が良く分かります。それは、アラスカの地図をみても、当時のロシアが南へ南へと移動してきた痕跡が見てとれます。つまり、日本人にとっては豊富な漁場としての領土であるものが、ロシア人にとってはそれ以上の価値をもった領土である訳です。そこに、この問題の大きな行き違いがあります。

沖縄から見て南西にある尖閣列島は、台湾からすれば北東にあります。韓国ではチェジェ(済州)島が「南の楽園」として知られ、観光客や新婚旅行やカジノ目的の人たちが大勢訪れる島ですが、日本の九州の北部にあたります。場所の形容に南・北の方位を示す場合は、国やところにより異なることを知らないと相互理解の妨げとなりますね。

さて、鹿児島から台湾まで約1200キロの洋上に188の有人・無人の島々が連なっています。日本から見るとたしかに南の島嶼群ですが亜熱帯に属します。これらの島々は世界地理の中でも特異な存在です。

この地域を生物学・地理学の研究者たちは「海の上の照葉樹林帯」とも形容しています。ヒマラヤ南麓の照葉樹林帯がインドシナ半島の山間部を経て中国南部へとつながり、そこから海に張りだし、さらに日本列島の西半分まで繋がっている樹林帯の中の小さな島々なのです。それだけではありません。この島々は日本列島が大陸と陸続きである時にいち早く切り離されていたのです。すなわち、大陸との行き来がなくなり、そこにいた固有の動植物が今日まで生き延びたのです。イリオモテヤマネコ、アマミノクロウサギ、ヤンバルクイナ、などがよく知られていますが、昆虫や両性類、ランやエビネなどの植物から苔にいたるまで固有種・希少種がたくさん生息・生育しています。そこには地理的位置と海流との関係で、世界最北のマングローブ林もあります。マレー諸島やミクロネシアから見れば北の島々なのです。小笠原諸島は「自然遺産」に登録されましたが、環境庁は奄美群島と沖縄諸島の自然遺産登録を目指しています。

海の上に続く島々でありながら、その多くが深い森におおわれているという環境の中での長い時間は、そこに独自の生活文化と信仰心とをもたらしました。「ニライカナイ」あるいは「ネリヤカナヤ」という考えでは、森での信仰と海に向かっての信仰とが一体化しています。自然への畏怖が人々を穏やかで助け合いの精神を育んだとも指摘されています。

信仰の儀式を行う場も近年まで残されていました。それらは島での生活の近代化・都市化、交通の発達による人と物との往来の活発化、などにより減少してきました。やがては消滅していくことが懸念されています。それでも、若い人たちが町や村の行事に積極的に参加するようになって、今のところ伝統行事は保たれています。

現代社会は経済社会、金銭がないと生きていけません。効率と利率を競う社会にあってはこれら生産性の低い島々から出て行く人びとが多いことを誰も非難は出来ません。無人化寸前の集落があり、やがては無人の島となる恐れのある島があります。国益の視点、国防の観点、などと大げさなことを言わずとも、そこに暮らす人々が引き続き生活していける環境を守ることこそが肝要なのではないでしょうか。

(歴山)