よのなか研究所

多価値共存世界を考える

中国とアメリカ … 厄介な二つの大国

2011-05-25 16:05:00 | 歴史

                          (上海の旧街区外灘ワイタンの夜景)

 

 59日から10日、ワシントンで「米中戦略・経済対話」なる会議が開催されていました。米国のクリントン国務長官と中国の朱光耀財務次官が並んで写真に収まっていましたが、二人とも結構なツラ構えでしたね。そのほか、双方の軍高官も交えた会議だったようです。

新しい"G2"、二つの大国は、まさに〈モンスター対モンスター〉ですね。しかし、モンスター同士はある部分で〈共通利害〉を持っているようです。今回合意を見た議題の中で注目すべきは、二国で「アジア太平洋会議」を設置するという点です。つまり、アジアから太平洋にかけて、二人で話し合って管理しようと言う訳です。

共同会見でも、地域の安全保障や経済発展を協議するための「アジア太平洋会議」を設置する、と謳っています。問題はこの二国がいずれも厄介な国である、ということです。アメリカは同盟国であり、中国と同列に扱うのはとんでもない、という声も聞こえてきそうです。そういう考えこそが今日の我が国の低迷を招いていることに気付かねばなりません。

 

中国とアメリカは対立しており、社会体制も正反対の国、と多くの人が考えているかも知れない。それは一面では当たっています。しかし、両国はともに現代における〈共和国〉という点で同じなのです。「共和国」、“Repubique”  “Republic”、と呼ばれる国々は、かのフランス大革命の精神を継承している国を指しています。すなわち「王」"King" (あるいは民族国家の「精神的支柱」) を排除してしまった国家です。両国は革命を経て、それ以前の社会体制、政治体制を覆して誕生している点で同じなのです。彼らは対立しているように見えて、「人造国家」としてある面で通じるものがあるのです。 

 

アメリカという国が、ヨーロッパから逃れてきた人たちによって建国されたことは教科書に書かれている通りです。1620年に北アメリカに上陸した人々は「ピルグリム・ファーザーズ」と呼ばれました。1774年の『独立宣言』には「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求のふくまれることを信じる」と書かれました。この文章にその後のアメリカの可能性も限界も示されています。その後、食糧危機に見舞われたヨーロッパ各地からの移民が次々と渡来し、また労働力としてアフリカから黒人を奴隷として連れて来て発展し、その後西へと拡大してきた「作られた国」がアメリカ合州国という国なのです(「合衆国」は誤訳です)

一方の中国です。なぜ四千年の歴史を持つと誇る中国が〈人造国家〉であるのか。それは、この国が「革命」を経て伝統的な社会構造を破壊し、その後毛沢東の思想で作り直した国だからです。中華人民共和国という国名がそれを表しています。両国とも理念の上に成立している国なのです。それゆえ、多少無理があっても〈原理原則〉を守ろうとします。自分たちの考える〈理念〉に合わないことには腹を立てます。

 

中国は領土問題については一歩も譲るところがありません。経済協力を行い、時には支援している相手国とも、領土に関しては軍事行動を取ることがあります。南シナ海は風雲急を告げているようです。アメリカに至っては、いつもどこかで戦争をしている感があります。〈戦争中毒〉"war-holic" と形容されることがあるほどです。こんな二つの国が日本を含むアジアと太平洋を線引きすることを考えているとしたらオソロシイことでね。

アイゼンハワー大統領は1961117日、上院での退任演説で重大なことを述べました。それは次のようなものです。

「軍産複合体による不当な影響力の獲得を排除しなければなりません。誤って与えられた権力の出現がもたらすかも知れない悲劇の可能性は存在し、また存在し続けるでしょう」

「この軍産複合体の影響力が、我々の自由や民主主義的プロセスを決して危険にさらすことのないようにせねばなりません」
「警戒心を持ち見識ある市民のみが、巨大な軍産マシーンを平和的な手段と目的に適合するように強いることができるのです。その結果として安全と自由とが共に維持され発展して行くでしょう」

 アメリカが軍事大国と化したのはまさにこの前後のことです。それ以来ヴェトナム戦争に始まり今日に至るまで、ほとんどどこかで戦っていると言っても過言ではありません。まさにアイゼンハワーの懸念が実現しているのです。肥大化して自らコントロールを失っているかのようです。

  つまり、問題はどちらの国も軍部が肥大化して議会に対し大きな影響力を行使していることです。オバマさんも胡錦濤さんも当人は物事を話し合いで決めたいと考えているような気がします。しかし、国家というものは最高権力者といえども動かしきれない部分があるものです。それこそ〈暴力装置〉と形容される軍隊とそれを取り巻く産・官・学の勢力なのです。

アメリカのモンスター性のもう一つの顔は〈強欲資本主義〉という顔ですが、それについては別に記したいと思います。

 

  両国の名誉のために言えば、先の会議で、中国とアメリカは防衛、経済、エネルギー問題のほかに、「東日本震災後の復興に向け、日本政府と国民を支援する」ことでも合意していることを記さねばなりません。

 日本としてはこの地域で主導すべきことがあるし、可能ではないかと考えますがどこまでできるかはビミョウですね。

(歴山)

 


快適な空間、開発と保存

2011-05-21 17:53:59 | 比較文化

                         (カンボジアの民家、高床の下は快適な空間)

夏が近づいてきました。まぶしい日の光と大木の下の緑陰、労働で汗をかいた後の冷たい飲み物、日暮れの微風の中での語らい、だれにもいろいろな思い出があることでしょう。

カンボジア、ラオス、ミャンマー、そしてタイの田舎の民家は一般に高床式となっています。床の下を風が吹きぬけるので涼しく、地面から離れている分だけ湿度が下がって食糧の保存にも適しています。もちろん人間にも快適です。床面も貼りつけた板と板の間が少し隙間があり、風が通り抜けます。ここでは風も〈神〉であり、神さまはやってきては去り、またやってきます。板張りの床面に一部茣蓙のようなものが敷かれています。台所には炉が切られ、調理する場所の床板はやや大きめに開かれてあり、そこからお米を研いだ水などをそのまま流します。台風のような暴風雨はやって来ないので、家屋の構造は簡単で、柱も梁も見てのとおり細いもので十分です。それでも夏の盛りとなると屋根から太陽熱が降りてくるので室内は暑くなり、床下の木と竹で編んだ簡易寝台の上に横になることになります。不思議と蚊も蠅もいません。何度かその上で横になりましたが、なんとも言えない心地よさでした。上座部仏教のこの国では、ハンモックで横になっていた子供が来訪者には起きあがって合掌して迎えてくれました。

建築の専門家によると、わが国も南の方にいくに従い床が高くなる傾向がみられるそうです。沖縄県や鹿児島県の奄美諸島には高倉という、高さ九尺(三メートル)くらいの床を持つ独特の穀物倉庫があります。今では数が少なくなり、実際に穀物を入れてその目的を果たしている倉はほとんどなくなりました。この地方では民家の床も三尺(一メートル)くらいの高さがありました。高温多湿の風土に合わせたのは、東南アジアからマレー諸島、ルソン島、台湾あたりから建築技法が伝わってきたものと思われます。もちろん日本本土の家屋も世界的にみれば高床です。平均一尺五寸(45CM)から二尺(60CM)くらいだそうです。段差が大きいゆえ、家屋に入るには土間で足を洗い、素足で上がることになったわけです。世界的に外での履物を脱いで家屋に入るのは少ないようです。中国の民家でも人々は履物のまま家に入ります。石造りの建築が多いからでしょうか。

日本では現在も玄関で履物を脱ぐのが習慣ですが、近年は床にあがってから別の履物を履くようになりました。畳の間に入る時だけ履物を脱ぎますが、靴下はそのままですね。そして、たいていの住宅では畳の間が一間のみになりました。それ以外の部屋では椅子式の生活をするようになってきています。我が家にやってくる外国人は畳の間に座りたがるひとの方が多いですね。全部が畳の家屋は今や珍しいものとなりました。それでも日本人が家屋に入るには履物を脱ぐという習慣は続くでしょう。

写真のカンボジアの家屋も、これからの経済成長でより近代風な西欧風なものと変わっていくのでしょうか。このような快適な空間は失われていくのでしょうか。かつて日本の家屋が辿ったように、3DKや2LDKといった間取りの家になっていくのでしょうか。個室の中にテレビとオーディオとパソコンがあって、そこですべて対応できるので、家族の対話がなくなった、というような状況がこの国でもやってくるのでしよううか。それとも、近代化の矛盾が次々と露見してきた日本や欧米諸国を見て、あるところで踏みとどまって土着信仰と仏教とが共存する自国文化を守りつつ経済成長する道をとるのでしょうか。

これからの東南アジア諸国の民家のかたちが気になります。(歴山)   


「ここまできたら仕方がない」

2011-05-16 21:48:21 | 比較文化

                                  (中央アジア、果てしない土漠)

「ここまで来たら」、「こうなった以上は」ということばは仕事の場でも生活の場でもよく使われている。良い意味で使われることもないではないが、そうでないことの方が多いようだ。望ましい事態ではないが今更どうしようもない、という諦めの気持ちと、いまからできる範囲でこうしたい、してもらいたい、という風に条件下で前向きに使われる場合がある。問題は、それ以前の時点に戻して論ずることを自ら封鎖しているところにある。安易な〈現状追認〉は「本来こうあるべきではないか」という議論を無視することになる。そこで選択肢の一つが消されていく。そんな局面で、権力者がある施策を強硬に実行すると、それが時を経てまた新しい「ここまで来たら」、を生み出していくことになる。

個人の生活や企業活動の場でこういうセリフが出てくるのも困りものではあるが、社会全体がこのようなムードとなると問題は大きい。特に日本人の間で強く見られる言説ではないと思うものの、昨今の政治家や官僚や企業経営者や組織団体の指導者とされる人々のインタビューで頻繁に使われているのを見ると、やはり「諦めのよさ」というような性向があるのか、と感じることもある。

 

 

記憶に新しいところでは、自衛隊の海外派遣の是非について問われたとき、派遣前と派遣後では国民の意見が全く変わったしまったことがあった。それまで七割以上の有権者が「反対」であったのが、半年後に自衛隊がイラクに実際に駐屯してしまうと、消極的なものも含めて賛成が半数を超えたのである。その時に街頭インタビューに応じた人々は「ここまできたら止むを得ない」、「行った以上は無事に戻ってもらいたい」というふうに答えていた。ほんの半年前の時自分の考えを喪失してしまったことになる。数年前の出来事でした。国会での議決に「党議拘束」を掛け、反対勢力を「抵抗勢力」と呼んで排除したうえで 総選挙を実施し、採決するという異例な決定方法ではあった。ともかく長年にわたり、自衛隊員に武器を携帯させて海外に派遣したいと考えていた人たちには目的が達成された一瞬だった。

 

東電福島第一原子力発電所の事故について現時点ではこれを糾弾するよりも、なんとかこれ以上拡大することを防いでもらいたい、との意見が大半である。それでも、新しいデータが発表される度に事態が悪化していることを知らされ、さらには遡って事故発生当初公表されなかった情報がつぎつぎと発表されるに至って、被災地の人々の不信は高まっているようだ。〈小出し〉、〈婉曲〉もまた役人の性向である。それが民間にも広まっているということだろうか。

 

そんな中、経団連会長は「福島原発はこれだけの津波によく耐えた」と語った。特定の産業界は「電力の三分の一はすでに原発に頼っており、他の方法はない」として、原発建設の継続の論陣を張っている。原発を抱える市長村の多くは用地買収から原発建設、発電に至るまでに多額の交付金を受けてており、これなくしては行政が機能しない事態に陥る自治体がでてくる、ということのようだ。議員と首長を選んだ住民にも責任はある。しかし、十分な情報を伝えず、あるいは隠蔽していた政治と会社の責任が消えるものではない。電力会社の負担でスポーツ施設や文化施設も建てられている。リスクをマネーとモノ(厚生施設など)で均衡させてきたということだろうか。

 

今回の事件は、さすがに大きかった。「ここまで来たら」、「こうなった以上は」の後に続く文言がいろいろ出てきて、多様性を見せている。

「ここまで来たら、原子力発電はもう新規には建設できない。われわれは他の手立てを考えなければならない」というものと、「こうなった以上は、過度に電気に頼らない生活を志向しよう」と主張するもの、また「ともかく今は事態の鎮静化を図り、後に電気について根本から考えよう」と考える人たちがいる。もの分かりの良い人たちが大勢いる。

こんな時に、ある〈思惑〉をもつ指導者たちが思わぬ方向に政策を捻じ曲げていくことを注意してウォッチする必要がある。

(歴山)


「奴らに先に打たせろ」

2011-05-10 09:56:09 | 歴史

                                     沖縄伊江島の城(グスク)山

歴史書を読むと、ほとんどの戦争は小競り合いから始まっているようです。よほどの戦争好きでない限り、できるだけ戦争を避けようと国民も指導者も考えるものと思います。それでも戦争があり、そして今も戦闘状態の地域があります。戦争を始めた指導者たちの決断にはにはいろいろな事情があったことと思われます。

戦争を始めるには表向きの理由が必要となります。これをマスコミは「大義」などと書くことが多いですね。どうしても「大義」が見つからない時は、これを作ることになります。相手を追い詰めて先に攻撃させるのが最も安易な方法です。 "Let them do it, then"とでも言うのでしょうか。この事例も世界史は事欠きません。アメリカの対日戦争の大義は「真珠湾攻撃」であり、日本人にとって苦い記憶です。これについてはすでに多くの図書が出版されており、現在も論争が続いていますね。

もともとアメリカには第五代大統領モンローが議会に送った教書でし示した「不干渉主義」というものがあって、他地域での戦争には関与しないことを国是としていました。1939年に欧州大戦が始まっても国民世論は「不関与」が圧倒的多数でした。時のローズベルト大統領も選挙で「不介入」を公約にしていました。劣勢に立たされた英国や日本との戦闘が続く中華民国からは米国の介入を求める声が次第に大きくなってきます。複雑な国際情勢の中、1941年に入ると米国政府は日本に対し7月に「在米日本資産の凍結」を、8月には「対日石油禁輸」を発表し、11月には「ハル・ノート」を通達してきました。これは後に実質上の「最後通諜」であった、と評価されることになります。 その後の経緯は誰もが学校で学び、また本で読み、テレビや映画で映像を見ていることでしょう。日本がマレーとハワイに攻撃を仕掛けた時にローズベルトはイギリス首相チャーチルに「われわれは同じ船に乗りました」と知らせました。参戦することを連絡したのです。チャーチルは「これを聞いて手を叩いて喜んだ」と『回顧録』に書いています。

後に東京裁判で判事を務めたパール博士は「あのような通諜を突きつけられたらモナコやルクセンブルグにような小国でも矛をとって立ち向かうことになるだろう」と書きました。ともかく、日本が先制攻撃をしたことになりました。「相手に最初の一発を打たせる」という戦争の格言を生かしたのは英米ということになりました。

5月2日にパキスターンのイスラマパードで、重装備の米海兵隊兵士数十人が夜間に降下してビン・ラーデン容疑者を殺害したと報ぜられました。当初の発表がつぎつぎと変わり、容疑者は丸腰(火器を携帯していない)であったと認めることとなりました。かつてのハリウッド制作西部劇では「相手より先に打つな」、「丸腰のものは打つな」、というのが正義漢の振る舞いでしたが、今では様変わりしたようです。近年は西部劇そのものがめったに制作されていないのかも知れません。日本には「多勢に無勢」、ということばもありました。ともかく、米軍は「9.11事件」の首謀者と疑われていた人物を殺害したと発表し、オパマ大統領の支持率も上がってきたようです。

写真の沖縄伊江島の城山は地元では通常「タッチュウ」と呼ばれています。「塔中」と書くのでしょうか。高さ172メートルの山が島の中央にそびえていて、遠方からの格好の目印となっています。山全体が「ウタキ(御嶽)」と呼ばれる土地の人々にとっての聖域でした。大戦末期、米軍はこの島を空爆して占拠し、そこにあった旧軍の飛行場を活用して沖縄本島への上陸作戦を展開しました。

現在もこの島の西側三分の一は米軍の占有地であり、そこは空挺部隊の降下訓練場となっています。

(歴山)


注連縄とDNA、

2011-05-04 09:39:15 | 島嶼

  

                                      (青森、十和田の岩屋)

 

東北大震災を報ずるテレビ番組で、ある村の山の登り口に小さな祠(ほこら)が無事に残されていて、村道から上ってきた人たちが蹲ってこれを拝んでいるシーンが映し出されました。昔から参拝しているというご婦人がお供えを捧げていました。

おそらくこの村での地域の無事を感謝し、今年の収穫を祈っていたのでしょう。心打たれるものがありました。

  大昔からこの列島に居住する人たちには自然を畏怖する気持ちがあったようです。カミナリに戦(おのの)き、日照り旱魃や水害にため息をつき、穀物の実りに感謝する、それだけのことでした。彼らが霊力を感じて祈願をするところ、山や滝、巨木や奇石、泉や洞穴、川の湾曲部や海に立つ巨石などにワラを縒って編んだ注連縄(しめなわ)を巻いて目印にしました。穀物を刈り取り、その実を採取した後の藁を綯って作りだされた一本の紐そのものが神聖なものとなったようです。それはあたかもDNAの二重螺旋模型のような構造をしています。太古の人たちはこのかたちと生命の根源との関係性を直感していたのかもしれません。

 その後、道教仏教の伝来に伴い、寺院に似せてその場所に小さな建物を作るようになりました。「カミの仮のお住まい」つまり屋代、そして社(やしろ)となっていきます。貴族たちは自分の信奉する社を大きく、立派な建物としていきました。日本中に大小数万の神社や祠ができました。それぞれに祭神が決められていきました。地域の環境に合わせてそれぞれ独自の祭りと祀りが行われるようになっていきました。

 

近代化の中で日本中の小さな祠が多数お取り潰しにあいました。小さな神社は大きな神社に統合される形でやはり潰されていきました。鳥居や注連縄も焼却されました。それを推し進める『神社合祀礼』が発せられたのは明治39(1906)年のことでした。この時、一人立って真っ向から反対の意見を発したのが南方熊楠(みなかたくまくす)です。

彼は八項目の理由を挙げました。

一、敬神思想を薄くする。

二、民の融和を妨げる

三、地方を衰微させる。

四、国民の慰安を奪い人情風俗を害する。

五、愛郷心と愛国心を損ずる。

六、土地の治安と利益に大害をもたらす。

七、史蹟と古伝を減却する。

八、天然風景と天然紀念物を亡滅する。

明治時代の言説としてその先見性には目を見開かされます。地域を衰退させる、自然を畏れる気持ちを失わせる、結果として人々の助け合いの精神を衰退させる、と説いたのでした。

 

不信心が災害を引き起こすわけではありません。自然の摂理に合わない考えや生活が自然界から反発を受ける、ということはあるのかも知れません。異常気象とはそういうこではないでしょうか。大気汚染も海洋汚染も、新型伝染病も大量破壊兵器も、遺伝子組み換え食品も、そういう人間の営みのなせる業と思われます。

(歴山)