よのなか研究所

多価値共存世界を考える

ハーフタイム・ショー、

2012-01-26 13:50:20 | 比較文化

                           Photo (コロッセオColosseo内のアリーナArena、、ローマ)

 

スポーツ選手のチーム間の移籍のニュースが新聞やテレビをにぎわしていますね。サッカー選手も話題になりますが、日本ではまだまだ野球選手のほうが大きく扱われています。こういう時はショービジネスの本場アメリカ発生のスポーツが目立ちます。

 

アメリカのプロ・スポーツにはたいてい「ハーフタイム・ショー」があります。プロのみならず、アマチュア・スポーツでもやっているようです。

友人の一人につねづね、競技場でのショーは邪道だ、と言っている熱血根性スポーツマンがいます。なかなか説得力があるのでその言を引用しますと、「競技が充分に面白ければ不要なもの。競技だけでは観客を満足させることができないから余計なショーを見せているのだ」と言うことになります。

 

日本では学生スポーツに伝統的な応援合戦がありますね。特に対抗戦につきものであり、応援団、という立派な仕組みが出来上がり学内外で幅を利かせてきました。ただし、それは観客席でわがチームを応援する人たちを指揮するためたに機能しているものであり、彼らがグランドに降りて芸を披露するわけではありません。そのため、猛練習に明け暮れる応援団やチァリーディングの成果を披露し競い合うための競技大会が開催されるようになりました。国内でも野球やアメリカン・フットボールやバスケット・ボールなどアメリカ生まれの競技では、ハーフタイムにグランド上でチァリーダーたちが演技を見せるようになっています。

 

ともかく、ハーフタイム・ショーの本場はアメリカです。若い女性たちの健康な躍動を楽しみにしてくる観客もいるようです。プロ野球では六回裏が終わるとグランド整備となり、その間を利用してショー・タイムがとられています。興業側としては少しでも空いた時間でファンサービスを、と考えているのでしょうが、たいていの観客は小用に立ったり、食事をとったり携帯電話をかけに客席の裏手に回っています。

背景には、競技場の巨大化とメディアの発達があります。多くの観客は、競技を楽しむというよりもイベントとしてのスポーツを楽しみに来ているのでしょう。食べたり飲んだりしながら施設内でのスポンサーによるいろいろな催しを楽しんでいます。アメリカでは野球場は「ボール・パーク」と呼ばれるわけです。観客動員数が増えればテレビ放映権料も騰がることになります。興行主たちはあらゆる手を使って話題を盛り上げようとします。競技場の改修や、監督の交代や選手の獲得や交換、それにともなう金銭の多寡などもニュースにして盛り上げの道具と化します。いわば、これもハーフタイム・ショ―なのです。

 

ヨーロッパ起源のスポーツ興業はこの点すこし異なります。テニス、クリケット、ラグビー、ポロ、ホッケー、ゴルフ、などにはグランドでショーを見せることはあまりないですね。その代わり、これらの競技会場内にはホスピタリティ・コーナーがあり、ある種の社交の場が形成されています。そこには酒肴が盛られ美女たちが居並んでいます。土地の有力者や競技関係者、スポンサーや招待客、いわゆるセレブたちだけの空間が用意されています。そこは階級社会の長い時間が濃く投影されています。古代ローマの王侯貴族たちの娯楽としての剣闘士の戦いの時代からの伝統が連綿として続いているわけです。

 

その点でいえばアメリカのスポーツは民主的です。そこは〈貴族〉のいない世界、〈おカネ〉が唯一の尺度の世界であり、投資家・起業家たちのタガがはずれて営利行為が過剰となりがちです。MLB(野球)も、NFL(フットボール)も、NBA(バスケット)も自己利益の最大化のみを求める巨大ビジネス集団と化していることは知れ渡っています。スポーツそのものが金儲けの手段と化している一面があり、そんなところにアメリカ系のスポーツが世界で広まらない背景があるようです。

FIFA(サッカー)も金儲け集団であることには違いはありませんが、理事会は五大陸からの各国代表で構成されており、世界各地で競技の普及、青少年育成には力を入れているところに大きな違いがあります。その息の長い活動は成果が上がっているようです。

 

野球少年たちには気の毒ですが、野球が競技としてオリンピックに復活することは難しいようです。あるとしたらMLBが国際競技団体の下部機関となる時かもしれませんが、その可能性はもっと低いと思われます。

(歴山)

 


中小政党と民主主義

2012-01-19 10:14:24 | 時事

                        photo(国会議事堂と警備車、東京)

 

誰が言い始めたのか、今年は総選挙の年とのことでマスコミも居酒屋もざわついていますね。新しい政党のうわさもいろいろです。ふだんラジオとネットでニュースをチェックしている私のようなものにもいやおうなく伝わってきます。

いかなる政党にも参加したことがなく、後援会の会員やサポーターになったこともない私ですが、政党政治については意見は持っています。たくさんの政党が存在し、それぞれが政策を発表して競い合うのがよい、と考えています。二大政党では選択肢が二つしかないことが問題です。実質、政党の数は一党独裁と一つしか違いませんからね。

 

中央にも地方にも政治家の知人はいますが、一人の政治家がある政党の見解になにからなにまで同じである、ということではありません。しかし、政党という組織はいくつかの政策・方針を党員に強制します。もともとそのために寄り集まっているのですから仕方がありません。多くの所属議員は、十の政策・方針のうち七つか八つは賛同するが中には賛同できない政策もある、というのが普通でしょう。残る二つか三つが議会で議決されるときにどのように行動するか、が大きな問題です。政党は党議拘束をかけてきます。また、党の規約の順守を求めてきます。つまり、党所属議員は規約に従い、なおかつ、党の政策の多くに拘束されます。違反すればなんらかの処分を受け、党内での覚えが悪くなります。力を失えば、党内で自己の意見を主張しそれを押し進めることができなくなります。結果、自らの政治信条に反することを強いられます。

 

長らく議会制度の模範とされてきたイギリスでも二大政党が行き詰まりをみせて、第三党が政策決定に大いに力を発揮するようになりました。なべて西欧諸国の議会は多党化しています。アメリカのように、二大政党以外から指導者が出ることがほとんど不可能な国はむしろ例外です。二大政党の弊害は、相手との違いを際立たせるために、さほど意見に差のない案件でもことさらに差を強調することになり、結果的にだれも望んでいない政策がなしくずしに決められることがたびたびであることです。その典型として、ことに外交政策において穏健派は常に臆病もの呼ばわりされて強行派が力を得ることになりがちです。メディアの活用技術とプレゼンテーションの上手下手が選挙の、そして政策の決め手となりがちです。近年のアメリカの政策をみれば容易に理解できることです。

 

「世界最大の民主主義」と形容されるインド共和国は多くの政党が競い合っていることで知られています。以前にも一度書きましたが、有権者数7億人余、総選挙は5回に分けて一ト月かけておこなわれ、結果が出るのに数週間かかります。これらの点では文字通り「世界最大」です。

独立後しばらくは「コングレス(国民会議派)」という英国支配下に成立していた政党が政権を握ってきました。それに抗して、多くの政党が登場しました。現在政権を握っている「統一進歩同盟」(UPA: United Progress Ally)はコングレスを中核として十余の政党が連合しています。これに対するのは「国民民主連盟」(NDA: National Democratic Ally)で、BJP(インド人民党)を核とする連合体で、政権担当時には同様に十余の政党が参集していましたが、先の選挙(2009年)で敗退したため現在は立て直しの最中のようです。いずれにも属さない政党も多く、現在38ほどの政党が存在しています。州単位、また地域単位の政党も多く、これらを取り込まないことには政権与党は成立しない状況です。共産党を名乗る政党だけでも三つあります。

こんな状況ですから、重要な案件の国会議決の際に与党から離脱する政党がでてくることもたびたびです。また、野党の一部が賛成することもよく見られます。

それで国の運営が傾くということはありません。与党内で討議が繰り返され、最終的に妥協案が議会に上程されることになります。多少、政策決定に時間を要することはありますが、国民の声を広く聞きとる仕組みが維持されています。

 

旧ソ連や今の中国、ヴェトナム、などは「一党独裁」と言われますが、彼らに言わせれば、政策は「党内民主主義」の議論を通じて決定されている、と言うことになります。そこでは少数意見も反映され、複数の意見から最適な政策を選択している、ということになっているそうです。一党統治より複数政党制の方が優れていることは論を待ちませんが、強行派が穏健派を駆逐しがちな二者択一の政治もまた同様に褒められたものでないのです。

 

これからいくつか出てくるという新党に期待してみたいものです。基本政策の大半が納得のいく政党がでてくればサポーターになるのもいいと考えています。ただし、二世、三世議員や、テレビで顔を売っただけの候補者の集まりはお断りですね。

(歴山)

 


ひもろぎ、いわさか、やしろ、

2012-01-12 11:28:51 | 信仰

              Photo(日吉大社内の巨石の注連縄、滋賀県坂本)

 

伊勢神宮の遷宮年がいよいよ来年となり、徐々に話題が盛り上がってきているようです。初詣に参拝した神社にて、その趣旨に賛同して寄進をされた方もいることと思います。

実は遷宮というしきたりはお伊勢さんだけのものではありません。平成242013)年には出雲大社も遷宮をします。現在その支度に入っていますから建屋は大きな覆いに包まれているはずです。

伊勢神宮の遷宮については良く知られていますが、式年遷宮が二十年毎にきちんと行われるようになったのもそう古いことではないようです。出雲大社の場合は不定期であり、今回は六十年振りとのことです。老朽化した本殿を作りかえる間、仮に建てられる屋代を指して遷宮と呼ぶようです。伊勢神宮や出雲大社のみならず、古くは春日大社でも宇佐八幡宮でも、諏訪大社でも鹿島神宮でも、日吉大社でも行われていたとのことです。ともかく、この二つの神社の遷宮が同じ年に行われる、という稀なことを吉祥と受け止めている人も多いようですね。

 

神社のことを「やしろ」と呼ぶことがありますが、古くは漢字では「社」、また「屋代」と書いたようです。それは、神社の建築がもともと「仮の建屋」であったからです。では、今日のような建築物が建てられる前にはどんなものがあったのか、・・・それは小さな建物でした。今日、神社の域内を礼拝して廻ると小さな祠(ほこら)を見ることが多いですね。祠は神社のミニチュア版などと説明されることがありますが、これがもともとの「やしろ」なのでした。神社建築は仮の建屋ですから、それ自体が有りがたいものではなく、そこにカミの存在を感じとることができるから貴いのです。禊払い(みそぎはらい)に示されるように、神道は穢れを忌みします。それゆえ建物が老朽化すれば場所を変えて建て替えるのもごく自然に行われていたわけですね。その点で、石造りの神殿や劇場が今日まで残っているギリシャ・ローマとは大きく異なるわけです。

では、「やしろ」が建てられる以前は何があったのか、・・・それは単なる空間でした。つまり、樹木に覆われた泉、また巨木や巨石を取り囲む空間、また人びとが何か聖なるもの、ことを体験した場所、などの空間がありました。神々の宿る巨木を神聖視して神籬(ひもろぎ)とよび、また神々の宿る巨岩を岩境(いわさか)と呼んで敬いました。そこに注連縄を張って自分たち集団の聖空間であること示し、ことあるごとに礼拝してきたのです。

 

そこに神々の存在を感じる聖なる空間があることこそがカミ信仰の大本です。その原型に近いものは、たとえば福岡の宗像大社の奥にある高宮祭場に見ることができます。おそらく、沖縄に多く残されているウタキはさらに古いかたちのものではないかと思います。ウタキは漢字を当てると「御嶽」であり、山中照葉樹の密林の中にぽつかりと開いた空間に過ぎません。それは長い歴史を持ち、久高島のフーボーウタキなどはその一帯が男子の立ち入りが許されない聖域となっています。女性のほうが霊的に優位にある、と古代の日本で考えられていたことは、例の『魏志倭人伝』に登場する「卑弥呼」の立場にも見ることができます。奄美諸島から沖縄諸島にかけては「ノロ」という神女がいて、近年さすがに形骸化してわずかしか存在していませんが、かつては村落社会の、また王朝統治機能の中で重要な役割を果たしていました。

神社建築とは、後に天文知識を持った道家の人たちが、お札(ふだ)や金物や木札、雲の紋様や神獣造形などを携えてやってきて、その空間に神の住まう建物を建て、装飾することを教えたもののではないか、というのが筆者の考えですが、これについては改めて書きたいと思います。

(歴山)

 


製造物責任問題とインドの立場

2012-01-05 09:30:25 | 戦略

       

    Photo (現在も街を走っているインドの国産乗用車アンバサダー)

 

原子炉には製造物責任がない、と知っていましたか、みなさん。

東電福島第一原発の事故の直後に報道されましたが、あのGE(ゼネラル・エレクトリック)社製のマークI型原子炉には基本設計に問題があることが四十年前から指摘されていたのですね。格納容器と圧力抑制室が炉心溶解に弱いのでした。しかし、GEが製造物責任を問われることはなかったのです。(東京新聞2011/12/01竹田茂夫法政大学教授コラム)。

原発事故の責任は事業者、つまり今回の場合は東京電力が負い、原子炉メーカーは免責される、という「責任集中」の国際ルールが確立しているのだそうです(同コラム)。つまり、東電はGEに損害賠償することはできないわけです。1950年代に成立したプライス・アンダーソン法という法律が制定され、米国の経済力と軍事力を背景に世界的に認知されてきたというわけです。

 

アメリカのみならずフランスや日本が途上国に原発を輸出する場合もこの責任集中を強制することができるので、一見すると日本にも利があるように見えますが、結果は見ての通りです。このままでは先進国と途上国との間の不平等条約となりかねません。事故が起きた地域の住民や自治体や国の政府が製造メーカーを訴える際には極めて不利になる法律です。

 

最近、居酒屋談義で話題のTPPの中に盛り込まれているISD条項は、言ってみればこれの裏返しの内容です。「ある国の政府が外国企業に対してのみ不当な差別を行った場合、当該企業がその差別によって受けた損害について、相手国政府に対し賠償を求める際の手続き方法について定めた条約」とされています。つまり、ある企業(投資家)が外国での投資・事業展開で不利益を被った場合、理由をつけて相手国を訴えることができる、という内容です。国際投資紛争解決センターという国際機関で判断されますが、これが世界銀行の傘下にありますから先進国有利、米国有利となることは予想されます。

 

原子力発電所の事業者への責任集中に真っ向から立ち向かっているのがインドという国です。インドには独立以来の国産品愛用、国産技術優先の大方針があります。加えて、同国で発生した世界最大の化学工場事故という、歴史的な背景があります。1984年、インドのマディア・プラデシュ(中央州の意)の州都ボパールで米ユニオン・カーバイト社工場から漏れ出した化学物質イソシアン酸メチルにより一夜にして2000人以上が死亡し、その後さまざまな要因で15千人から25千人が亡くなったとされています。現在も周辺住人への健康被害は続いており、負傷者も含め、正確な数字は把握されていない状況です。そして、ユニオン・カーバイト社への訴訟や責任問題は未解決なのです。

インドでは新聞が事故のその後の状況を取材して記事が掲載されており、またテレビが映像でフォローしています。

そんな背景もあって、インドは原発の輸入に際しては輸出国、また製造メーカーへの訴追権を主張しています。輸出国との交渉では、これを条件としています。日本もインド政府と原発輸出の交渉していますが、インドに対してこれを認めるのみならず、すべての対象国に対して認めることで、世界に範を示すべきと思いませんか。その条件でも日本は原発を輸出するかどうかは、有権者が投票という行動で決めればよいわけです。

 

もっとも、情報が正確に、十分に開示されることが前提となります。カリフォルニア州一州とほぼ同じ面積に54基もの原発が建設されていく過程で十分な情報開示があったのか、住民説明会や公聴会が公平性をもって開催されたのか、はすでに新聞等で議論されている通りです。

外国との大きな技術・プラント輸出などの取引に関するニュース報道、特にそれに関する政府・省庁の発表を無批判に掲載する記者クラブ報道には注意が必要ですね。

(歴山)