よのなか研究所

多価値共存世界を考える

「おっちょこちょい」な政治家たち

2013-05-22 09:12:06 | 政治

                        Photo ( 参道の傍を疎水が流れる町、滋賀県野洲 )

 先に都知事がわざわざニューヨークまで出かけて「イスラム諸国は喧嘩ばかりして…」云々の発言をして、イスラム諸国はもとより当てにしていたアメリカからも非難されるありさまでした。しかも、その後の対応が何ともお粗末でした。WP(ワシントン・ポスト)やNYT(ニューヨーク・タイムズ)の誤った報道だ、と反論したかと思うと、数時間後には全面的に自分の発言の非を認めてお詫び会見をする始末でした。五輪招致活動でアメリカから情報発信しようとの意図でわざわざ出向いたわけですが、正反対の働きをして帰ってきたわけです。

「安もの知事でゼニ失い」と揶揄する声があがりましたが、言えて妙ですね。「安物買いの錢失い」をもじったもので、なかなか的を射ています。その失ったゼニはつまるところ国民の税金、ということになります。今回の出張そのものが大名旅行だったようですが、莫大な税金を投入している招致活動を反故にしかねない発言とその後の行動でした。日本人のおっちょこちょいな一面を披露してくれました。否、もしかしたら都知事は長期的展望に立って、場所とタイミングを考えて意図的に発言したのかも知れません。つまり、いまどき日本でオリンピックなどやっている場合ではないと。

と、思いきや、今度は大阪市長が従軍慰安婦の碑がアメリカの複数の都市に建てられることに関連し、「韓国もアメリカもヨーロッパ諸国もかつて従軍慰安婦制度を持っていた…」、「日本だけが責められるべきでなく、今度アメリカにいっても同じ事を主張してくる」などの発言でにぎわしています。ニュースが各国で報道されるや、表現の一部を陳謝し、「自分は外国事情には少し疎くて誤解を与えたところがある」などと言い訳をし、なお、基本的考えは変えない、謝罪はしない、と発言しているようです。

騒ぎが大きくなるにつれ、この発言はさる新聞記者の誘導質問だったという説が流されています。もしそうだとしたら、その記者は何を目的としていたというのでしょうかね。市長の権威失墜、日本の名誉失墜、よくわかりません。そのような質問に乗っかったとしても、あのような対応はいただけません。マスコミの寵児だった市長もおっちょこちょいなのですね。しかし、市長という立場で相手に乗せられて失言するということが失態なのです。「おっちょこちょい政治家」であることを自ら証明しているようなものです。

むろん民主主義はシロウトによる政治ですが、おっちょこちょいは仲間内では好まれても、さすがに政治家ではまずいと思います。この二人にはPRの意味するところがわかっていないのでしょう。

「PR」つまり”Public Relations”、いまでは日本語でも「ピーアール」で通じますが、そのむかしのわが国の言論人の中にはこれを「大衆関係」と訳した方がいました。「どのタイミングで、どのようなメッセージを、どのメディアに」乗せて大衆に伝えるか、の技術でした。古き良き時代のことです。今日では権力者(政治、経済、企業、宗教、教育等あらゆる分野の)たちの「情報操作」の技術である、と誤って受け止められています。彼らはメディアを使ってやりたい放題です。これに対抗するために、”Media Literacy”という学問分野が生まれましたが、またまだ国民に普及には時間がかかりそうです。

先の二人の首長のみならず、多くの権力者たちが「おっちょこちょい」の集まりに見えます。メディアを駆使することができるが、メッセージの発信力、読解力が足りません。早とちりで、そそっかしい。先の大戦に引っ張り込まれたのも、バブル景気に浮かれていたのも、TPPに乗り遅れるな、というメディアの論調も、そして人びとが「画期的・異次元の経済政策」とやらで浮かれているのも、「考えが浅く、そそつかしい」行動のように見えます。

 「おっちょこちょい」、を和英辞典で引くと “flippancy”、これを英和辞書で再び引くと「軽率」、「軽はずみ」となります。「おっちょこちょい」には「お人よし」のイメージが伴いますが、英語では少し違っているようです。そのような幅広い意味をもつ言葉がないので、単に「軽率」と理解されるということです。

ともかく「五輪招致」の見通しは暗いものとなり、国防強化の声がいよいよ盛んとなり、世界の潮流がどこをどう流れているのか、を知らないままこの国は漂流していくことになるのです。

「おっちょこちょい」は政治家には向かないことを二人は自覚すべきです。私が選挙に出ないのもそれゆえなのです。

(歴山)

 


密教化する国内政治

2013-04-17 07:28:18 | 政治

                                                  Photo ( 早朝の志布志港、鹿児島県 )

 

内外の政治状況の内向き志向、それに伴う秘密主義、隠蔽傾向がはなはだしい。それは、政治の密教化、といってもよいように感じられる。

仏教にもキリスト教にもイスラーム教にも隠されたものがある。一般大衆にも信者にも知らされていない戒律や教えや、また教団内の組織があったりする。教団は教えを広めるために大衆に分かり易い話を作り上げ、また絵画や塑像を以てストーリーを展開するようになる。仏教もキリスト教も多くの絵画芸術、彫刻を作りだしてきた。(その点、一人イスラームだけは宗教原初の姿を守っている。モスクは偶像も華美な装飾もない。)

たとえば、仏教の開祖ゴータマ・ブッダは「完全に開かれた教え」としての自分の悟りの境地(覚醒)を語った。ところが伝教が広まり大衆化するにつれ、教えを厳格に実践する修行者たちが自らを「上座部」と称し、大衆部(だいしゅぶ)、すなわち「大乗部」と区別するようになる。

修行者の中に、肉体的に精神的に厳しい修行を積んで初めて理解に達するものがある、と考える僧たちがでてくるようになる。その境地に達した者でなければ理解できない教えを、一般大衆に説くことはない、ということになる。これが密教であり、他方、一般に開かれた教えが顕教である。

キリスト教世界にも、東方正教会のみならず、ローマ教会にも、これに抗して登場したプロテスタントにも秘儀と称する修行があるらしい。あるものは暗がりで火を点し、香料を焚き、水を掛け、また鉦や鈴を鳴らし呪文を唱える。居合わせるものに神秘的な雰囲気をかもしだす。

宗教はその始まりからどこか神秘的な要素を持たないと続かないのかも知れない。すべてを陽の下に曝したら、人びとの信仰心が薄れるということかもしれない。

しかし、政治はそうではない。すべてを公開しなければならない。たとえよく分からない人たちの意見でも反映させるのが民主政治である。よく分かっている人たちだけで政治を行えば、それは寡頭政治(Oligarchy)となる。

すべてが人びとの前に曝されることが大前提である。最近の政治家が良く使う言葉に「自由と民主主義、市場経済という共通の価値観を持つ国同士で…」というのがある(こんな文言を真に受けている国はほとんどないが)。その昔は「自由と平等」が強調されたものだが、いつしか「平等」のほうは後退してしまった。それは、「平等」が今日の過度に発達した市場経済とは相いれないからである。また、民主主義とは多数決原理を基本とするが、たとえば、日本国民の七割が原子力発電の再開に反対を唱えているにも関わらず、現実の政治では逆にその再開、新規建設の検討、さらに技術輸出などが進められている。民の多数と政治の多数が見事にずれているのである。政党の幹部による強引な党運営、加えて「党議拘束」という民主主義にそぐわない仕組みがある。政党政治は民主主義の一形態であるが、それがすべてではない。政党が密教教団化している。そこに「民主主義」という制度の欠陥があることを大方のひとは理解している。政治の世界と言うものは古今東西そう言うものだ、との意見もある。

特定の外国との二国間の条約や協定には「密約」という、半ば公然の約束ごとがあることは知れ渡っている。何十年後に公開するという条文が存在する条約や協定を、今の国民がどうやってその全体の正否を判断すればよいのだろうか。

なにも外国を相手にするのでなくとも、国内での決めごとにも「非公開」のものは多い。「公聴会」とか「パブリック・ヒアリング」とか称する場で発言する人をすべて主催団体が用意していたり、会場を埋めた聴衆の八割が特定の団体の動員であったりする事例がたくさん出てきた。つまり、実質「公開」ではないのみならず、「密室会議」とほとんど同じである。それどころか、報道機関も入った場での討論で決められた、などとして、これがお墨付きを得て議会に回されるのである。その議会でこれに反対意見を主張するのは大変な勇気が要る。政党助成金の分配を受けられなくなる可能性が高い。

また、政府諮問委員会などという各種の委員会や研究会に登場する専門家、学識経験者も政府が人選しているのだから、結果は始めから分かっているも同然である。かくして、権力の思うところに政策が動いていく。

企業や団体で秘密会議が開かれようが意に介することはないが、政治の場ではたとえ外国との交渉であってもすべて「顕かに」されなければならない。それなくして「民主主義」という制度は生きながらえることはできないのではないか。現在の政治の衰退はわれわれの責任でもある。

(歴山)


村長選任とジャンケン民主主義、

2013-03-13 11:01:48 | 政治

                             Photo ( 地産地消を目指す小さな集落、鹿児島県 )

二地域居住をしている一方の居住地は戸数約100、人口約200の村である。そこに「区長」と呼ばれる代表者がいる。昔風に言えば村長さんである。集落の運営、すなわち住民の現状把握、外部の各種会合参加、消防・防災の現場責任者、納税・社会保険納付等の案内、農業指導の補助、巡回巡査の対応、などなどに従事している。

この島に数十の集落があるから、数十人の区長がいるが、区長は選挙によらず村人の総意で選ばれることになっている。区長となるものはまず村の居住者であり、年齢的には五十歳代から六十歳代が多く、男性のみならず女性もいる。総意とは言っても、前任者のもとでなんらかの役職(会計係、渉外係、など)を務めていた者から選ばれることが多い。歴代の区長や敬老会や婦人部、青年部などが話し合う中でなんとなく一人の人物に定まってくる。一期二年で、通常二期四年を務めることになる。

区長は選ばれるというより、やらされる、と言ったほうがより近い。自ら名乗り出るものがいればみな大歓迎である。めったにないことだが、候補者が複数いるなら最後はくじ引きで決める。

区長と各役職者のやることは多く、自分の仕事をある程度犠牲にしなければ勤まるものではないが、実質無報酬である。区長にのみ集落会費を集めた中から月五万円から十万円ほどが支払われるが、区長会議やその他の打合せ・会合に出かけたりする実費にも足らないほどである。これに関し行政側の負担はない。それにもかかわらずお役所からは次々といろいろな要請がくる。

市町村にも都道府県にも国にも首長がおり、議員という人たちが大勢いる。大半の人はよくやっているとは思うものの、そこに報酬と権益が付いてまわることは民主主義・資本主義の宿命みたいなものである。特に日本では国レベルとなると世界最高水準の報酬があり、また権益があるものらしい。日本中で地域の方針を決め、日常の業務に走り回る区長たちがほとんど無報酬で働いているのに比し、あまりの違いようである。

 

そんな時に、一部言論空間で流通している「ジャンケン民主主義」とか「くじ引き議員」という考えは参考になる。裁判所での刑事裁判においては、一般人から無作為に選ばれた裁判員が判決に参加する制度が平成21年から制度化されている。同様なことを議会や首長でも行えないことはない、むしろその方がよいのではないか、という考えである。中でも地方議会では実現性がある。選挙にかかる費用も議院報酬も軽減できるだろう。

民主主義の基本とされる三権分立では、司法・立法・行政は同格となっている。すなわち、司法で採用されて行われている制度を立法、行政で行うことは合理性がある。いずれも専門知識を必要とするが、自立して社会生活を営んでいる大人であれば、ある程度の研修を受ければそれを行うことに無理はない。裁判員制度はそういうことになっている。企業や団体との癒着を防ぐために、たとえば二期または八年を上限とする。また、あきらかな欠陥議員にはリコール制度を用意して対応する。彼等は議会内党派を結成することは認められる。

手始めに、議員の半数は無作為抽出の一般市民になってもらう。もちろん指名された個人が辞退することは認められる。彼等の多数意見は、選挙によって選ばれた議員の多数意見と大差は無いはずである。あれば、それは選挙による議員の方にバイアスがかかっていることの証明である。

民主主義の下で、職業政治家というのは言語矛盾である。議員を職業としてもらってはこまるのである。ましてや、二代、三代、四代と続くような政治家一家は、北朝鮮の例にみるように必ず劣化コピーを生みだす。わが国でも市町村から国政まで事例には事欠かない。商家でも「売り家と唐様で書く三代目」、の譬えのように血筋だけでは危うくなる事例が多いことが知れる。

無作為抽出による議員が登場すれば、少なくとも、企業や各種の組織・団体から票の支援を受けている、あるいは資金援助を受けている従来の議員よりは公正な判断をすることが期待できる。21世紀の世界に向けて最先端の議会主義を呈示できる。政治に関わることを避けている知識人や地域のリーダーを引っ張り出すことができる。

「世界最高の国家を目指す」、と「高らかに宣言する」、という現政権の幹部こそ、この考えの実施について検討してもらいたいものだ。

(歴山)

 


多くの政党による競争が正しい、

2012-06-26 20:20:15 | 政治

                                  Photo (マラバール野生生物保護区(サンクチュアリー)、南インド)

 民主主義の欠陥が問われている。個人の接する情報量が飛躍的に増大し、世界のニュースが瞬時に伝わる社会において選択肢がはじめから二つ(あるいは棄権行為を含めた三つ)しかない「二大政党制」では有権者にとって満足出来るものではない。選択肢をたくさん用意して、その中から自分に最も近い意見を持つ政党を選ぶにはもっと政党の数があった方がよい。それが難しい仕組みなっているから「支持政党なし」が常に半数近くに及んでおり、その結果、投票率が低下し、国民の声がなかなか的確に選挙に反映しないことになる。それはわが国だけの問題ではない。先進国、途上国を問わずの現象であるようだ。

国会における与党の指導者たちは、一旦権力を手にすると、選挙の時に争点となった論点をゆがめ、それ以外の課題も選挙での勝利をいいことに強引に進めていく傾向がある。そのために党内の少数派を排除する「党議拘束」という手段がある。そこで世論とは異なる政策が打ち出され、選挙を経ずに国会の場で推進していくことになりがちである。大衆はますます政治不信となり、選挙において一票の行使を放棄することになる。そうすることによって、特定の政党、派閥が有利になって行く。そんな光景を過去二十年ほど見ているような気がする。

インドは「世界最大の民主主義国家」と形容されることがある。あまりインド人自身の口から聞くことはないが、ともかく民主主義が機能している最大の国家であることは間違いない。総選挙となると有権者数七億人余、投票は二カ月に亘って行われる。それゆえの不正行為も多い。それでも2009年の第15次総選挙まで定期的に選挙がおこなわれ、政権交代も起きている。いろいろな政治改革が進められており、選挙権年齢は18歳に引き下げられ、地方分権が進められ、地域住民参加を強めるべく伝統的なパーンチャヤット制も改革されて導入されている。在外インド人にも選挙権が与えられた。国会における女性議員の三分の一割当法案も上程されている。

そのインドには現在政党が四十ほどある。そのほとんどが国政に参加し議席を保有している。現在の有力政党は分離独立以前からの「国民会議派(コングレス)」、これを1977年に破った「ジャンタナ・ダル」、1998年に連立政権を作った「インド人民党(BJP)」、それに「共産党」など左翼政党がある。いずれも分派、分裂を繰り返すので、名称を覚えることに苦労するのもインドの特徴である。

また州単位で勢力を誇る地域政党がたくさんある。ここ三回の総選挙は連立による政権構想で争われており、現在はコングレスを核とするUPA(連合民主同盟)であり、以前はBJPを核とするNDA(国民民主同盟)が政権を握っていた。これから先もたびたび連立の枠組みは組み換えられていくことになると予想されている。

連立を組む相手は州を基盤とする地域政党が多いが、特定宗教や政治信条を掲げる政党も多い。共産党と名乗る政党もインド共産党、同(マルクス主義派)、同(毛沢東主義派)の三つがあって相応に支持を集めている。

政党内においても離合集散が日常的であり、また政党間の連合や離散もしょっちゅう行われる。それゆえ、国民は一つひとつの案件について、選挙区のどの政党、どの人物がどの見解に属しているか、どのような議決に与みしたか、をつぶさに知ることになる。インドの新聞は国政と州政治と市町村の議会、政党、政治家の記事で溢れることになる。

多党の乱立はたしかに政策決定を遅らせる結果となることが多い。しかし有権者は時間をかけて政党や政治家を見ることで、最も自分の見解に近い政党や政治家を見極めることができる。インドはBRICS四カ国(あるいは五カ国)のなかでも政策決定が遅い、という指摘もある。しかし、大きく政策の舵取りを間違えることも少ないと感じられる。すくなくとも、政権政党の幹部たちが、選挙での約束を違える政策を推進したり、論点にならなかった課題を恣意的に決めたりすることがあれば、直ちに支持を失い政権が危うくなるのである。むしろ、連立工作の過程で他の政党の主張を取り込むことで政策がより多くの民意の反映させる方向へと進んでいくことになる。

わが国の歴代の政権担当者たちは小選挙区制を導入し、二大政党を指向してきた。それは特定の政策の推進には確かに好都合である。選択肢を狭め、多数派工作をすれば国民の声とはうらはらな決定も可能となる。政治の推進には向いているようだが、近年世界の多くの国ではむしろ政治の場で多くの選択肢を用意する方向に動いているような気がする。他からの圧力により、何らかの意図を以て間違った政策を決める政治よりは、決められない政治、一旦留保して時間をかけて決める政治の方が民主主義のやり方である。こういう場合、本当に決めるべきは別のところにある事が多い。それもインドという国が事例で示している。

政党とは、比較的意見の近い人たちが集まって形成されているものである。しかし、何から何まで意見が一致する、と云うことではない。そんなことはあり得ない。政治家たるもの一人一人見解を異にして当然なのだ。政党は結社ではあるが、秘密結社ではない。

(歴山)

 


税金が消えて行く

2012-04-10 23:35:33 | 政治

                                                              photo (復元された平城京朱雀門、奈良)

八世紀に起源を持つ「大蔵省」の名称が「財務省」に変わったのは平成13年、わずか十年前のことである。律令制度からの省庁名では「文部省」がかろうじて「文部科学省」として、「宮内省」が「宮内庁」としてその名を留めている。当時大蔵省は国庫の支出と物価の安定と度量衡の管理を受け持っていたようだ。その役割分担は現在も大きくは変わっていない。 

予算を配分し采配を執る部署・担当者が大きな権限を行使することができるのは古今東西、国を問わない。そして、組織というものは、学校のクラブ活動から街のサークル活動まで、ボランティア組織から奉仕団まで、その内容に関わらず組織の維持と拡大に動くことになる。そこにおカネを動かす役割が付与されていれば、そこにいる人たちが組織防衛と権限の拡大に動くことは人情として分からぬでもない。かつては、そこには国民の税金を預かる者としての自負心と最低限の良識があったと思われる。その箍が外れたのは日本の政策が経済優先となり、安定した生活や自然環境保持よりもカネ儲けが大半人々の関心事となり、お役人がより高い報酬を求め、より権限を追求するようになった六十年代のことではなかったかと、思われる。すなわち、戦後復興から国土の総合開発の時代へと入いり、現在に続く日米安保が強行採決され、新聞からテレビへとメディアの影響力が拡大し、大量消費時代へと向かった時期である。

 税金はもとより、社会保険料、そして社内積立金までを給与から天引きされて異を唱えることなかった勤労者が支払う年金は天文学的な膨大な額となっていく。これを活用しない手はない、と当時の大蔵省を中心とする官僚たちが、これを特別会計、財政投融資の形をとり配分することを始めた。複雑な会計処理を経て省庁、自治体からその周辺の団体、各種法人におカネがばら撒かれていく。むろん、その中のある部分は有益であり、今日に続く社会インフラとなっているものもある。それらについても、投下された金額が妥当であったかどうかにも多いに疑問が残る。当時から無駄遣いと指摘される出費も多かったのである。

官僚とは公務員のことである。公のために務める人たちが自己の権限の傘下の組織に、あるいは特定の権益者に膨大な資金を提供しつづけた結果が、「消えた年金」のはじまりだったのである。それは、年金を支払う人数がそれを受け取る人数に比し圧倒的に多かったからできたのであった。しかし、特に綿密に計算しなくとも、いずれ人口構成が逆転することは素人にも予測することが可能であったし、そのような予測をもとに警告を発する学者や研究者も多かったのである。

現在国家予算の中で比率の大きな医療、社会福祉関係の費用もその中に多くの公益法人や研究機関への支出が見られる。開発投資や公共事業、さらに防衛関係まで無駄遣いが多く指摘されている。 国の借金がおよそ1000兆円と発表されているが、自治体の抱えている借金、また特殊法人へ貸付けた財政投融資がなどを加算するとその数字はさらに膨らんでいく。すなわち、公債(国債)発行が限界を超えつつあるということで、増税の話が出てきているのである。 

しかし現状の組織、予算の仕組みを継続する限りこの程度の増税では焼け石に水であり、どこまで追加で上げていっても問題は解決しない。おカネは官僚機構とその裾野に広がる特殊法人に消えて行くだけである。これら法人に天下った役人全員の給与を上限400万から500万円とするだけでも数兆円はすぐに浮かせることができる。すでに退職金も受け取り、年金受給資格のある六十歳台後半から七十歳代の年寄りはこれだけあれば生活に困らないだろう。子供を小中高の学校に通わせている家庭でも300万円台から400万円台の世帯が多いご時世なのである。その組織が国家のために必要欠かせざるものである、とするならば、自分が早々に引退して三十歳代、四十歳代のひとを雇用すればよい。より少ない人数でより大きな仕事を為し遂げるに間違いない。 

国際化、世界統一会計基準、安全保障の名のもとに改革され、あるいは廃止され、新規に設立されたシステムや組織が税金の無駄遣いに輪をかけている。今や国全体が誰も止めることが出来ない運命共同体に巻き込まれつつある。これに異を唱える力のある政治家や言論人が登場すると、誹謗中傷の合唱がおこり、またいろいろな事件が引き起こされる。 

将来の税収と現在残っている国民資産とを担保にして、役人たちが先に利益を確保し仲間とその果実を喰い散らかすのである。高給を食む元官僚や特殊法人の職員たちは、自分たちが未来の日本人の、つまり自分の子孫の受けるべき報酬を先食いしていることを知らねばならない。国民はこのことを追求せずして増税論義に終わりはない。

(歴山)