よのなか研究所

多価値共存世界を考える

村長選任とジャンケン民主主義、

2013-03-13 11:01:48 | 政治

                             Photo ( 地産地消を目指す小さな集落、鹿児島県 )

二地域居住をしている一方の居住地は戸数約100、人口約200の村である。そこに「区長」と呼ばれる代表者がいる。昔風に言えば村長さんである。集落の運営、すなわち住民の現状把握、外部の各種会合参加、消防・防災の現場責任者、納税・社会保険納付等の案内、農業指導の補助、巡回巡査の対応、などなどに従事している。

この島に数十の集落があるから、数十人の区長がいるが、区長は選挙によらず村人の総意で選ばれることになっている。区長となるものはまず村の居住者であり、年齢的には五十歳代から六十歳代が多く、男性のみならず女性もいる。総意とは言っても、前任者のもとでなんらかの役職(会計係、渉外係、など)を務めていた者から選ばれることが多い。歴代の区長や敬老会や婦人部、青年部などが話し合う中でなんとなく一人の人物に定まってくる。一期二年で、通常二期四年を務めることになる。

区長は選ばれるというより、やらされる、と言ったほうがより近い。自ら名乗り出るものがいればみな大歓迎である。めったにないことだが、候補者が複数いるなら最後はくじ引きで決める。

区長と各役職者のやることは多く、自分の仕事をある程度犠牲にしなければ勤まるものではないが、実質無報酬である。区長にのみ集落会費を集めた中から月五万円から十万円ほどが支払われるが、区長会議やその他の打合せ・会合に出かけたりする実費にも足らないほどである。これに関し行政側の負担はない。それにもかかわらずお役所からは次々といろいろな要請がくる。

市町村にも都道府県にも国にも首長がおり、議員という人たちが大勢いる。大半の人はよくやっているとは思うものの、そこに報酬と権益が付いてまわることは民主主義・資本主義の宿命みたいなものである。特に日本では国レベルとなると世界最高水準の報酬があり、また権益があるものらしい。日本中で地域の方針を決め、日常の業務に走り回る区長たちがほとんど無報酬で働いているのに比し、あまりの違いようである。

 

そんな時に、一部言論空間で流通している「ジャンケン民主主義」とか「くじ引き議員」という考えは参考になる。裁判所での刑事裁判においては、一般人から無作為に選ばれた裁判員が判決に参加する制度が平成21年から制度化されている。同様なことを議会や首長でも行えないことはない、むしろその方がよいのではないか、という考えである。中でも地方議会では実現性がある。選挙にかかる費用も議院報酬も軽減できるだろう。

民主主義の基本とされる三権分立では、司法・立法・行政は同格となっている。すなわち、司法で採用されて行われている制度を立法、行政で行うことは合理性がある。いずれも専門知識を必要とするが、自立して社会生活を営んでいる大人であれば、ある程度の研修を受ければそれを行うことに無理はない。裁判員制度はそういうことになっている。企業や団体との癒着を防ぐために、たとえば二期または八年を上限とする。また、あきらかな欠陥議員にはリコール制度を用意して対応する。彼等は議会内党派を結成することは認められる。

手始めに、議員の半数は無作為抽出の一般市民になってもらう。もちろん指名された個人が辞退することは認められる。彼等の多数意見は、選挙によって選ばれた議員の多数意見と大差は無いはずである。あれば、それは選挙による議員の方にバイアスがかかっていることの証明である。

民主主義の下で、職業政治家というのは言語矛盾である。議員を職業としてもらってはこまるのである。ましてや、二代、三代、四代と続くような政治家一家は、北朝鮮の例にみるように必ず劣化コピーを生みだす。わが国でも市町村から国政まで事例には事欠かない。商家でも「売り家と唐様で書く三代目」、の譬えのように血筋だけでは危うくなる事例が多いことが知れる。

無作為抽出による議員が登場すれば、少なくとも、企業や各種の組織・団体から票の支援を受けている、あるいは資金援助を受けている従来の議員よりは公正な判断をすることが期待できる。21世紀の世界に向けて最先端の議会主義を呈示できる。政治に関わることを避けている知識人や地域のリーダーを引っ張り出すことができる。

「世界最高の国家を目指す」、と「高らかに宣言する」、という現政権の幹部こそ、この考えの実施について検討してもらいたいものだ。

(歴山)

 



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