遊爺雑記帳

ブログを始めてはや○年。三日坊主にしては長続きしています。平和で美しい日本が滅びることがないことを願ってやみません。

習近平は、江沢民と周永康を鎮圧宣言していた

2015-06-04 01:34:45 | 中国 全般
 14年12月13日午後、習近平主席が、江蘇省の鎮江を視察していました。鎮江という古都の名前自体が江沢民封じに通じることから、中国の要人らは鎮江入りを避け、鎮江と名が付く橋さえ架けなかったのだそうですが、「南京大虐殺犠牲者国家追悼日」に指定したこの日、習は江蘇省の省都、南京で国が初めて主催する大々的な式典で演説した後、鎮江に向かったのだそうです。
 また、江蘇省は、習が摘発した前最高指導部メンバーで、江沢民・上海グループの重鎮、周永康の故郷でもあるのでした。
 習は、そこで、年末に新たに着工された大橋の名前を、タブーを破って『鎮江大橋』と命名することを認めたのだそうです。つまり、江と周の鎮圧を宣言していたのでした。
 

「江沢民を鎮める」 主席の旅に隠された呪文  編集委員 中沢克二 :日本経済新聞

 「習近平主席が昨年末、江蘇省の鎮江を視察した旅には重大な意味があった。皆、その前の南京での大行事に目を奪われていたが……」
<中略>

■江への遠慮が生んだタブー
 中国では指導者の地方視察の場所選びにさえ政治的に重要な意味が隠れている。習の鎮江入りは、地域医療の様子を見て、農村を訪れて庶民と交わる極めて一般的な視察に見えた。だが、そこには
元国家主席、江沢民の「院政」を徹底的につぶす呪文が隠されていた


 江を鎮める――。
 
鎮江という古都の名前自体が江沢民封じに通じる。しかも鎮江は江沢民の故郷、揚州と長江を挟んで隣接している。揚州の南を鎮江が塞ぐ形だ。これまで長老の江に遠慮する中国の要人らは鎮江入りを避け、鎮江と名が付く橋さえ架けなかった。それほど江が怖かった
のだ。
 特に長江にかかる「潤揚大橋」の命名はいわく付きだ。南の鎮江と、北の揚州をつなぐ橋は2000年に着工し05年に完成した。高架部分を含め長さ35キロメートル。総工費53億元の大工事だ。橋の命名では川の南の都市名だけを使うか、前に南の都市、後ろに北の都市名を取るのが慣例である。その場合、「鎮江大橋」か「鎮揚大橋」になるはずだ。
 だが「鎮江」は江を鎮めるの意であり、仮に「鎮揚」としても江の故郷、揚州の鎮圧に通じる。「江はまだ計画段階だった『鎮江大橋』という仮称を聞きつけ顔をしかめた」。当時、そんな噂が地元に広く伝わっていた。
 「このままではまずい。俺たちの首が皆、飛ぶ」
 地元関係者らは頭を抱えた。しかも故郷の大橋の起工式に江自身が参加するという。橋の名前ひとつでも、街の命運を左右する政治的な重大問題だった。
 「鎮江の街は大昔、潤州という名だった。隋の時代だ。この『潤』の文字を無理やり引っ張り出して使おう」
 歴史ある街だけに有職故実(ゆうそくこじつ)に通じる識者がなんとか案をひねり出した。
 「助かった。
江を潤す
ならトップも万々歳だろう」 関係者らも胸をなで下ろす。
 
江がこの命名に満足したのは間違いない。なぜなら橋の北側には、彼が揮毫(きごう)した看板が鎮座する。江特有の筆づかいによる「潤揚大橋」という文字だ。それは「江蘇省の地を仕切るのは江沢民だ」という縄張り宣言
にも見える。

 「江を鎮める」という不吉な名前を嫌って潤揚大橋となったエピソードは、習近平の反腐敗に絡み再び注目を集める。
習が江の縄張りを切り崩しに動いた
のだ。
 現トップ、習はいきなり鎮江を訪れた。過去の指導者らと違い、江への遠慮など全くなかった。まさに「敵地入り」だ。
 江蘇省は、習が摘発した前最高指導部メンバー、周永康の故郷でもある。周が生まれ育った同省の無錫は、江沢民の街である揚州、そして鎮江からも近い。同郷のよしみも手伝い、周は、上海閥ともいわれた江グループの重鎮となった。
 
習がこの日を選んだのには訳があった。約1週間前の14年12月5日、政治局会議で周の党籍剥奪をようやく決めた。間髪入れず、江と周の拠点に入って存在感を誇示し、抵抗できないよう手を打つ必要があった
のだ。

■「4つの全面」も鎮江で
 そしてもう一つ。習は、
自らの時代の新スローガン、新しい指導原理と位置づける「4つの全面」をこの鎮江で発表したのだ。江が苦労を重ねて共産党規約に盛り込んだのが「3つの代表」である。「3つ」より1つ多い「4つ」と銘打った指導原理を、あえて江の故郷、江蘇省で世に出したのは、「江による院政」の終わりを宣告する意味
もあった。
 敵陣深く攻め入った習は、もう一つワナを仕込んだ。それは2週間後に発覚する。年末、
鎮江で新たな大橋が着工
されたのだ。潤揚大橋の下流に当たる市東部が建設現場だ。
 その時点まで大橋の名前は、付近の山の名前をとって「五峰山公鉄大橋」とされていた。いかにも不自然な命名だ。江への恐れと遠慮はなお生きていた。
 事態は年明けに急変する。15年1月初旬、
周の事件に絡み、江蘇省の中心地、南京市トップだった楊衛沢が中央規律検査委員会の担当官により突然、北京に連れ去られた
。市の会議中に呼び出された。楊は江沢民にも近い。習の「鎮圧」の成果だった。
 「情勢は逆転した。
過去の人である江に遠慮していれば自分たちが危うい」。残された地元幹部らは1月中旬、大挙して北京を詣で、建設主体の中国鉄道総公司を訪ねた。そして橋の名を「鎮江(長江)大橋」に改称するよう強く要請
した。
 鉄道総公司側も当然、同意した。旧鉄道部はとりわけ江グループの影響力が強かった。だが、かつての鉄道部長、劉志軍の汚職問題などをきっかけに事実上、解体され、中国鉄道総公司に再編された。その後ろめたさがある。「江に肩入れするな」。そんな無言の強い圧力があった。交通運輸省によると、鎮江大橋の全面的な工事開始は今年6月以降という。

 
「江を鎮めたい習が、ついにタブーを破って『鎮江大橋』の命名を認めた。時代は変わった」。地元で噂が駆け巡る。習の鎮江入りは、江と周の鎮圧を宣言し、『4つの全面』まで世に出した極めて特別な意味を持つ旅だった。(敬称略)

 なんと涙ぐましくもあり、執念深い話でしょう。陰湿でもありますね。権力争いとは、ここまでやるものなのですね。
 そして、恐怖で人々をなびかせるのが、習近平の統治手法であり、その典型の一例がこの話なのですね。
 「虎退治」が、国民の喝采を浴び、習近平への国民の支持を高めていると言いますが、そこには同時に、「恐怖」がセットで仕組まれているのですね。
 
 この「虎退治」と、「恐怖政治」のセットでの支持で成り立つ習近平政権基盤固め。ここまではうまくいっている様ですが、それには退治する虎のネタが欠かせないことになります。しかし、最近ではネタが尽きて来て、キツネ退治に移行との声も聴かれます。
 また、「虎退治」で腕を振るってきた、王岐山に贈賄疑惑の調査の手が伸びているとの報道がありました。
 
習近平の強硬政策へ、米国、フィリピン、ベトナムが対抗手段実行開始 - 遊爺雑記帳

 政敵退治の「虎退治」が、ネタが尽きそうになり、逆に自陣営の中から退治すべき虎が見つかった。笑えない話です。
 国民の支持を得るネタが尽きるどころか、お前も同罪かと、反動を伴って支持を失うことになります。その時、恐怖政治で弾圧されていた勢力はどう動くのか。
 話題の尽きない中国ですね。



 # 冒頭の画像は、江蘇省の鎮江と揚州を結ぶ潤揚大橋。橋の北側には、江沢民元国家主席が揮毫した看板が鎮座する




  この花の名前は、ハイヒカゲツツジ  (撮影;六甲高山植物園 2014年 5月)


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1 コメント

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お礼と感謝 (onecat01)
2015-06-08 19:25:16
 お邪魔致します。

 知らないことを沢山教えて頂きました。
権力闘争の恐ろしさとは、こういうものなのですね。権力者には明日の我が身が分からない。
足をすくわれないため、手段の一つが日本叩きなら、命がけでやっているのですね。

 同調するわが国の反日たちには、そんな覚悟が不要です。自分たちがヘイトスピーチをしても、何の咎めも無い自由な日本で、彼らは言葉の遊びをしているのでしょうね。

 これからもよろしくお願い致します。
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