遠いいこえ
10
「それより、義母さんの部屋に何か手掛かりになるようなものがあるのではないのか」
逢沢は電話で話した言葉を繰り返した。
「それは・・・一応捜したんですけれど・・・」
「気丈な人だから、何も目的がなくてと言うことは考えられないのだ」
「すっかりぼけてしまって・・・」
「何を言うのだ。言って良いことと悪い事があるんだぞ。義母さんは決してボケてはいないんだ。こちらのぼけたと思う気持ちが義母さんをボケさせてしまうってことがあるんだから」
「有り難いわ、そんなに言ってくれて・・・」
「義母さんが、住んでいた家を引き払うとき教え子への戒めを解こうとしていたが、まだ拘っているのは確かだ。義母さんは一生懸命にその自責から逃れようとしているのも確かだ。が、その戒めを解いたら何もなくなって今度は本当うにボケてしまうことになるかもしれないんだよ。それが心配なんだ」
逢沢は心療内科の友人がボケになるパタンを語ってくれたことを思い出して言った。安心と平穏、拘りと自責がボケの治療には必要だと言うことを聞いていた。つまり適当に喜怒哀楽を繰り返すことがボケを防ぐと言うことなのだ。だけど、使命に対する責任が明確に生きる上にある以上まずボケることはあり得ないと言う事だった。それは、未来に希望のない人には難しいことであろう。
友人はある高名な精神医の言葉として語ったのだった。
ー老人性痴呆疾患つまりボケを中心とする精神症状が始まる前段階として『抑制が外れる』ことがある。つまり心理的ブレーキが外れて、我慢の力が低下して抑えつけていたものがどっと噴き出して思っていた通りしゃべり、思っていた通りの行動するようになる。 抑制が外れたときになにをさすべきか、取り巻く家庭の人達は一早く症状に気づかなくてはならないと言うのだったー
「義母さんは、教職を退いても戦争反対、憲法擁護の立場を貫き、教え子を戦場に送ったと言う体験をもとに日教のOBとして活躍してこられたんだ。それが言ってみれば義母さんの心の支えでもあったのだ。その支えがなくなったら心の中は空っぽになり、生きる意味が、目的がなくなって何も考えなくなってしまうんだ。それが怖いのだ。義母さんはタイムスリップをして昭和十八年の冬の終わりに帰り、長太君に合い『行くな』と言いたいのだ。そして、そのことで辛かった苦るしかった過去を葬りたいと考えているのだろう。が・・・」
「判ったわ。・・・一度だけかあさんと県北の学校へ行ったことがあるわ。そこはかあさんが女子師範を卒業して最初に赴任した学校だったのよ。あれは、私が教育学部を卒業して県職に受かり教師として出発が決まったときの春だったのよ。その時、かあさんは定年を三年繰り上げて、私と交替のように退いた年だったわ。墓参りがしたいと言うかあさんを軽四の助手席に乗せて川ぞいを北に向かったの。幾つも山を越え、雪解け水が岩に砕けて白く砕ける細流を眺めながら、その流れに冬芽をはじかせた木々の枝葉が覆いかぶさるように垂れているのを見ながら、山と小川の細い径を進んだわ。小さな集落が幾つもあって山裾の辺りに校舎を見付けた時には、なんだか胸が熱くなっていたの。かあさんは目をつむって何かに耐えているようだったわ。山の頂きには残雪が白く光っていたの。校庭は雑草が生え方題、校舎はセピア色に変わっていて荒れ朽ち、かあさんは二宮尊徳の像のそばにある大きな楠を見上げていたわ。手の入っていない楠は枝が折れ傷ついていても新芽を吹き上げようとしていたの。かあさんが教え子達とその木を囲んで写真に収まっているのを見たことがあったわ。長い髪を編んで背に垂らし、白いブラウスの胸の辺りが窮屈そうに張り、真っ黒な顔をした子供達がまちまちな服を着て写っていたの。可笑しかった、かあさんまるで聖職を絵に描いたような顔をしていたんだもの。玄関戸は板でふさがれていたけれど、校庭に面した一つの教室を硝子の割れ目からじっと見つめていたわ。かあさん、なにかに一所懸命耐えているようだった。そこから、少し山に入った共同墓地にかあさんの教え子が眠っている墓があったの。かあさんはその前に額づいて立ち上がろうとはしなかった。話かけていた。色々なことを様々なことを話していたんでしょう。それは長い間だったわ。
皆様御元気で・・・ご自愛を・・・ありがとうございました・・・。
恵 香乙著 「奏でる時に」
あいつは加奈子を抱いた。この日から加奈子は自分で作った水槽の中で孤独な魚と化した。
山口小夜著 「ワンダフル ワールド」文庫本化決定します・・・。
1982年、まだ美しかった横浜―風変わりなおんぼろ塾で、あたしたちは出会った。ロケット花火で不良どもに戦いを挑み、路地裏を全力疾走で駆け抜ける!それぞれが悩みや秘密を抱えながらも、あの頃、世界は輝いていた。大人へと押しあげられてしまったすべての人へ捧げる、あなたも知っている“あの頃”の物語。
作者のブログです・・・出版したあとも精力的に書き進めています・・・一度覗いてみてはと・・・。
恵 香乙さん
山口小夜子さん
環境問題・環境保護を考えよう~このサイトについて~
別の角度から環境問題を・・・。
らくちんランプ
K.t1579の雑記帳さん
ちぎれ雲さん