遠いいこえ
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房江は童謡唱歌が好きだった。教え子とバラックの校舎で歌った記憶が蘇るのか、調子の良いときには縁側や庭に出て歌っていた。特に「赤とんぼ」が好きなのか一日に何度も歌った。その「赤とんぼ」に思い出があることを逢沢が知ったのは初秋の風が流れようとしている頃だった。黄昏が麓を覆い始めたと言うのに房江は庭から引き上げようとしなかった事があった。何時もなら、逢魔時が怖いと早々に自分の部屋に引き上げて、夕餉を待つのが日課になっていた。その日、育子が夕食を知らせに行くと部屋は空っぽで仏壇に線香が炊かれていたのだった。カーテンを引いて庭を覗くと房江が沈み行く太陽に向かってじっと佇んでいるのが見えた。育子は窓を開けて房江に声を掛けようかと思ったが、嗚咽と共に聞こえてきたのが「赤とんぼ」だったのだった。秋桜の花影に無数の赤とんぼがオレンジ色に燃える太陽に向かって飛んでいくのが育子の網膜に焼き付いたのだった。それはまるで童話の挿絵のようであった。ここに引っ越してきて十年になろうとしているが、このような光景を見たことがなかった事に気が付いた。
育子は幼い頃、房江に手を引かれ共に歌った事があった。そのときの太陽はとてつもなく大きく見え、夕焼けの鮮やかさに感動した事が心に蘇ったのだ。房江の手は何故か冷たくざらざらしていた。房江の周囲に漂うのはチョークの匂いだった。風の流れが運んできた秋長魚を焼く匂いが幸せな家庭を連想させた。
「育子、かあさんは人殺しかも知れん」
何を思ったか房江は言葉を石ころだらけの道に落とした。
「どうしたん」と育子は房江を見上げて問った。
「教え子を戦場に送った」
房江の目は遠く西の空を見つめていた。
「戦死をして遺髪となって帰ってきた」
赤とんぼが明かりの中で黒く見えていた。
「相談を受けたとき、行くなと言えなんだ」
赤とんぼが太陽の中に溶け込んで行った。
「あの時、私に勇気があれば、馬鹿なことを考えないで。もっと自分の命を大切にしなさいと言えたのよ」
房江の影は小さく見えた。そのとき育子は房江が犯した罪がどんな事か理解するには早かったが、自らが教師となって、房江の悔恨が良く分かり、教師の立場の重要性を教えられたのだった。
あの日、九月二十三日がその子の命日だったのだ。房江は庭に佇み夕日に染まりながら歌った「赤とんぼ」は、戦地に送った子への鎮魂歌であったのだろうか。
その事を育子から聞いた時に、逢沢は房江の細い肩にのしかかっている負荷の重さを理解できたのだった。人生の入り組んだ露地を見たように思えた。それだけに房江はゆるがない信念を持つことが出来たのかも知れないとも思った。夫との死別にも涙を見せなかった房江の心はその死よりもっと大きく深い悲しみの体験があったことを逢沢は納得したのだった。戦時下とは言え信条と真実を合い入れない教育が多くの子供達を戦地に赴かせた事の責任を房江は感じ、教育の怖さを知ったとき、自責と悔恨が心をじわじわ侵食したに違いない。気が狂わんばかりに放逸し、空虚と寂寥が生きる気力を奪ったのではなかろうか。だが、そんな感傷と休養を世間は許し与えることはなかったのが現状であった。教育の現場に戻され、教科書に墨入をすることから始まった授業、その行為がまた房江を泣かせたのではあるまいか。だけど、房江は子供が好きでおのれを殺してもその子等の幸せを願う事で、過去の過ちを償おうとしたのではあるまいか。「赤とんぼ」を歌う房江の心の中を探り、当時を想像し逢沢は思いを巡らせたのだった。
皆様御元気で・・・ご自愛を・・・ありがとうございました・・・。
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1982年、まだ美しかった横浜―風変わりなおんぼろ塾で、あたしたちは出会った。ロケット花火で不良どもに戦いを挑み、路地裏を全力疾走で駆け抜ける!それぞれが悩みや秘密を抱えながらも、あの頃、世界は輝いていた。大人へと押しあげられてしまったすべての人へ捧げる、あなたも知っている“あの頃”の物語。
作者のブログです・・・出版したあとも精力的に書き進めています・・・一度覗いてみてはと・・・。
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