yuuの夢物語

夢の数々をここに語り綴りたい

遠いいこえ 4

2007-07-05 12:15:57 | 創作の小部屋
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遠いいこえ

 房江は童謡唱歌が好きだった。教え子とバラックの校舎で歌った記憶が蘇るのか、調子の良いときには縁側や庭に出て歌っていた。特に「赤とんぼ」が好きなのか一日に何度も歌った。その「赤とんぼ」に思い出があることを逢沢が知ったのは初秋の風が流れようとしている頃だった。黄昏が麓を覆い始めたと言うのに房江は庭から引き上げようとしなかった事があった。何時もなら、逢魔時が怖いと早々に自分の部屋に引き上げて、夕餉を待つのが日課になっていた。その日、育子が夕食を知らせに行くと部屋は空っぽで仏壇に線香が炊かれていたのだった。カーテンを引いて庭を覗くと房江が沈み行く太陽に向かってじっと佇んでいるのが見えた。育子は窓を開けて房江に声を掛けようかと思ったが、嗚咽と共に聞こえてきたのが「赤とんぼ」だったのだった。秋桜の花影に無数の赤とんぼがオレンジ色に燃える太陽に向かって飛んでいくのが育子の網膜に焼き付いたのだった。それはまるで童話の挿絵のようであった。ここに引っ越してきて十年になろうとしているが、このような光景を見たことがなかった事に気が付いた。
 育子は幼い頃、房江に手を引かれ共に歌った事があった。そのときの太陽はとてつもなく大きく見え、夕焼けの鮮やかさに感動した事が心に蘇ったのだ。房江の手は何故か冷たくざらざらしていた。房江の周囲に漂うのはチョークの匂いだった。風の流れが運んできた秋長魚を焼く匂いが幸せな家庭を連想させた。
「育子、かあさんは人殺しかも知れん」
 何を思ったか房江は言葉を石ころだらけの道に落とした。
「どうしたん」と育子は房江を見上げて問った。
「教え子を戦場に送った」
 房江の目は遠く西の空を見つめていた。
「戦死をして遺髪となって帰ってきた」
 赤とんぼが明かりの中で黒く見えていた。
「相談を受けたとき、行くなと言えなんだ」
 赤とんぼが太陽の中に溶け込んで行った。
「あの時、私に勇気があれば、馬鹿なことを考えないで。もっと自分の命を大切にしなさいと言えたのよ」
 房江の影は小さく見えた。そのとき育子は房江が犯した罪がどんな事か理解するには早かったが、自らが教師となって、房江の悔恨が良く分かり、教師の立場の重要性を教えられたのだった。

 あの日、九月二十三日がその子の命日だったのだ。房江は庭に佇み夕日に染まりながら歌った「赤とんぼ」は、戦地に送った子への鎮魂歌であったのだろうか。
 その事を育子から聞いた時に、逢沢は房江の細い肩にのしかかっている負荷の重さを理解できたのだった。人生の入り組んだ露地を見たように思えた。それだけに房江はゆるがない信念を持つことが出来たのかも知れないとも思った。夫との死別にも涙を見せなかった房江の心はその死よりもっと大きく深い悲しみの体験があったことを逢沢は納得したのだった。戦時下とは言え信条と真実を合い入れない教育が多くの子供達を戦地に赴かせた事の責任を房江は感じ、教育の怖さを知ったとき、自責と悔恨が心をじわじわ侵食したに違いない。気が狂わんばかりに放逸し、空虚と寂寥が生きる気力を奪ったのではなかろうか。だが、そんな感傷と休養を世間は許し与えることはなかったのが現状であった。教育の現場に戻され、教科書に墨入をすることから始まった授業、その行為がまた房江を泣かせたのではあるまいか。だけど、房江は子供が好きでおのれを殺してもその子等の幸せを願う事で、過去の過ちを償おうとしたのではあるまいか。「赤とんぼ」を歌う房江の心の中を探り、当時を想像し逢沢は思いを巡らせたのだった。


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皆様御元気で・・・ご自愛を・・・ありがとうございました・・・。

恵 香乙著 「奏でる時に」
あいつは加奈子を抱いた。この日から加奈子は自分で作った水槽の中で孤独な魚と化した。

山口小夜著 「ワンダフル ワールド」文庫本化決定します・・・。
1982年、まだ美しかった横浜―風変わりなおんぼろ塾で、あたしたちは出会った。ロケット花火で不良どもに戦いを挑み、路地裏を全力疾走で駆け抜ける!それぞれが悩みや秘密を抱えながらも、あの頃、世界は輝いていた。大人へと押しあげられてしまったすべての人へ捧げる、あなたも知っている“あの頃”の物語。

作者のブログです・・・出版したあとも精力的に書き進めています・・・一度覗いてみてはと・・・。
恵 香乙さん

山口小夜子さん

環境問題・環境保護を考えよう~このサイトについて~
別の角度から環境問題を・・・。
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K.t1579の雑記帳さん
ちぎれ雲さん

遠いいこえ 3

2007-07-05 00:08:36 | 創作の小部屋
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遠いいこえ
3
 育子の父は、五年前に亡くなっていた。酔っぱらって帰りに道端で寝込み車に轢かれたのだった。
「どじなお人じゃ。死ぬときくらい真面目に死ねばええのに」
 とその時、房江は仏壇に向かってぽっりと言ったのだった。その言葉が夫への最大の餞のものであろうと、逢沢は心を振るわせたのだった。帝展に入選をして将来を嘱望された一人の画家の末路が哀れに思えたのだった。この義父も戦争で道を踏み違えていた。戦前戦中には、多くの人達が望む望まないに関わらず戦火へ追いやられ人を殺す道具として使われたのだった。シベリアから帰って来た時には、空っぽの財布のようになっていたと聞いていた。義父はその時から生きる行為を忘れたような毎日を送ったと言うことだった。絵筆を二度と持つこともなかったと聞いたのだった。義父は酒の中で泳いでいたのだった。
「この手は汚れている」
 と真顔の時に一度だけ逢沢は聞いたことがあった。それは逢沢が義父と交わしたただ一つの会話だった。その言葉を残してまもなく亡くなったのだった。まるで重い心の傷を自らが解き放つような行為で。
 房江は戦前戦中の教育を悔いながら戦後の教育をした人であった。
「教え子を再び戦場にやらない」
「教え子を飢えさせない」
「お母さんの身体を大切にしょう」
 そう標榜する「母と女教師の会」の活動を定年退職まで続けたのだった。気丈と言う言葉が房江に誂えたように嵌まっていたのだった。
 その気性は、育子に引き継がれているのだった。母子喧嘩は凄まじいの一言だ。そばで聞いていて、逢沢が身の毛もよだつ事も屡あった。そして、羨ましいとも思った。忌憚なく言葉を機関銃のように撃ちあえるのもやはり母子の絆故であると思ったからだ。逢沢の父は戦争中、内地にあって生物化学兵器の研究を強いられ、戦後C級戦犯として捕らえられ巣鴨で栄養失調のため命尽きたのだった。だから、父とは喧嘩をしたことがなかったのだった。哀れと言わば哀れである父であった。だが、それは逢沢だけでなく総ての人が何らかの悲哀と犠牲を強いられたのが戦争であったのだ。
 逢沢が育子と会ったのは、「モーツアルトを語る会」に出席した時に隣同士になり、互いが気になる存在になり自然と行動を共にするようになったのだった。その頃、逢沢は大学院生で、育子は教壇に立っていた。その頃から育子は教師と言う職業に疑問を感じていて、弱音を吐いたものだった。
「なに、昔から人間は人間を教育出来ないって言うじぁないか。それは、逆に言えば出来るって事なんだよ。もう少し考えてみたら。それに、教師だってなにか他のことを勉強しなくては・・・」
「例えば」
「童話を書くとかさ」
「それに決めた!」
 育子はいとも簡単に目標を決めたのだった。
 逢沢は大学に残り「民俗学」の研究をしようか、野に下りて大学の講師になろうかと迷ったのだった。結局は、自分の好きな民話の研究の時間が自由になる短大へ職を求め、育子と結婚したのだった。


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恵 香乙著 「奏でる時に」
あいつは加奈子を抱いた。この日から加奈子は自分で作った水槽の中で孤独な魚と化した。

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