昨日4月12日は本来、次女である裕理子(ゆりこ)さんの命日だった。
昭和の最後の年の11月3日に誕生した私によく似た女の子に私は、私の名前の一文字「裕」と、意味も音の響きも好きな「理」を組み合わせて「裕理子」と名付けた。
その愛しい裕理子さんが預け始めたばかりの託児所で亡くなった。死因は、乳幼児突然死症候群ということだった。わずか162日の短い生涯だった。
知らせを受け、当時勤めていた仕事先から託児所へ車を走らせた時の、かつて経験したことのない、そしてその後も経験することのない例えようのない心の動きを今でもはっきりと覚えている。
女房どのは、しばらく泣き暮らす日々を過ごした。
私たち夫婦は一時、危機に瀕した。
それでもそれを乗り越えた。というより乗り越えなければならなかった。
その時、私たち夫婦は子供を失うというこれ以上ない深い悲しみを共有し、決してたもとを分かつことのない同志となった。
人は誰しもが深い悲しみを胸に秘め、生きている。
命日に女房どのが花を求めてきた。
その花を携え、夫婦で墓に向かった。
裕理子さんは、私たち夫婦の心の中で生きている。
私は母を5歳の時に亡くしました。
冷たくなった母が家に帰ってきたとき、私は「お母さんが帰ってきた」ととても喜びました。
お葬式の時、みんながお母さんに会いに来てくれたととても喜びました。
お骨になった時も涙1つこぼしませんでした。
大人になって子どもを授かり、子どもの成長を嬉しく思うようになって初めて、母の無念を知り、涙がこぼれました。
母の存在はもちろん子どもの頃から心の中にありましたが、今はますますその存在が大きくなっている気がします。
そうでしたか。5歳の時でしたか。
きっと、お母様は、いつもけんじさんの傍らにおられ、けんじさんのご家族を温かな眼差しで見守り続けていらっらしゃることでしょう。