goo blog サービス終了のお知らせ 

峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

since 2005

出来るかな 町内会と行政との協働

2015年11月02日 | 町内会長

昨日は、月に1度の町内会清掃の日、今月から冬時間に入る。1班から4班までが朝7時半から、5班から11班までは午前8時から清掃に取り掛かる。夏時間は、それぞれ30分早い。
午前7時ちょうどに集会所を開け、有線放送でその旨案内する。その後、掃除道具が入っている倉庫を開け、清掃の準備に取り掛かる。それから町内会を巡回したり、集会所周辺等の道路沿いの草を刈払機で刈ったりする。毎月これを10年続けてきた。

この日は、集会所の裏手から玄関前へと続く溝の清掃を行うことにした。この時期、裏手の雑木林から大量の落ち葉が舞い落ちる。
町に集会所前の広場を作ってもらった時に10個ほどのグレーチング(鋼材を格子状に組んだ溝蓋)が設けられたが、それ以来初めて全てのグレーチングを外して溝さらいをした。
広場に設けられた側溝と玄関前を通る側溝とが交差するところに50㎝四方の枡が設けられてあるのだが、そこに落ち葉が流れ込みヘドロと化していた。スコップでさらうとあの特有の悪臭が鼻を突いた。

この日は町内会清掃の後、8時半から自然公園入り口のツツジの植え込みの除草作業を予定していた。このことも年間活動計画に載せ、先の役員会でも申し合わせ、この朝の有線放送でも案内した。
定刻前に浦さんが来られた。まっすぐツツジの植え込みに入り作業を始められた。浦さんには何かとご協力いただいている。
副会長が冴えない顔でやって来た。昨夜飲み過ぎて二日酔いとのこと。放免する。
私の方は、午前8時半になっても7時過ぎから始めた側溝の清掃をまだ終えられずにいた。集会所清掃当番に当たっていた8班のみなさんが掃除を終え引き上げられる頃、なんとか側溝の掃除を終え、ツツジの植え込みへと急いだ。

およそ50㎡ほどのツツジの植え込みは1年も経つと蔓(かずら)がツツジを覆ってしまう。ツツジは、一段高くなった傾斜地に植えられており、葛がビッシリ巻いている胸の高さまであるツツジを剪定していくのは容易な作業ではない。
例年、役員・班長を中心に10名ほどの協力が得られるのだが、この日は浦さんと北村さんと私の3人だけだった。それでも、浦さんも北村さんも、文句一つ、愚痴一つこぼすことなく、あれこれ楽しく雑談を交わしながら作業に精を出していただいた。

このツツジの植え込みは町の管理となっている。ただ、町の作業班も町内全域の町の施設、及び町道の維持管理を完璧に行うことは難しく、当町内会のツツジの植え込みも数年放置され、葛に覆われたツツジは、いつしか花を咲かせる勢いもなくなってしまっていた。
そこで、5年ほど前から勝手に町内会で草刈を始めた。やがてツツジは勢いを取り戻し、再び色鮮やかな花を咲かせるまでに至っている。
綺麗なツツジの花を見るためには、行政に声高に迫ったり、議員さんに動いてもらうか、それとも自分たちで草刈をするか。私たちは自分たちで草刈する道を選んだ。自主的にやっていることだから何の文句もない。

町内会・自治会がいかに自主性を持つことができるか。そのことが町内会・自治会が行政と真の協働の担い手になり得るかの鍵だろう。
子供に勉強して欲しいならば、先ず親は、その子の自主性が育つように添うてやる必要がある。脅したり、なだめすかしたり、ごまかしたって、決して子供は進んで勉強するようにはならない。むしろ肝心の自主性は削がれるばかりだ。

町内会・自治会の抱える課題の解決は、こちら側の問題であるのは言うまでもないことだ。だが同時に、これまでの行政の、町内会・自治会に向かう姿勢を改めるところなくしてあり得ない。

ツツジの植え込みの除草作業は、3人でやるのだからこの日は三分の一程度で切り上げようと当初考えていたが、だれも途中で止めようという声が上がらず、とうとう最後までやり切った。時計の針は午前11時半過ぎを指していた。最期の話題は、浦さんのお仕事である左官の仕事についてのあれこれだった。
3人誰一人として恨めしいこと等を言うわけでもなく、むしろ、日曜の朝に一仕事終えることができた喜びに清々しい思いで「おつかれさまでした」と互いに声を掛け合って笑顔で解散した。
だって、3人とも自主的にやったことだから。


そうは問屋が卸さない

2015年10月24日 | 町内会長

11日・日曜日、町内会の敬老祝賀会を開催した。からっと晴れわたったのどかな秋の昼下がりのひととき、57名の出席者で集会所は大いに賑わった。
この敬老祝賀会、町内会長役をお引き受けして2年目から毎年開催してきた。早いもので今年で10回を数える。祝賀会の冒頭の挨拶で、その経緯を述べながら、私にとって町内会長としてこれが最後の会になることを明言した。

余興の1つとして、ずっと「佐々町少年少女合唱団」のみなさんに出演してもらっていたが、今年は町内会の子供たちに何かやってほしいと、今年度の子供会の世話役Mさんにお願いしていたところ3人の子供たちが手が挙げてくれた。同じ町内会の可愛らしい後輩たちの歌声をご高齢者のみなさんが温かく受け止めておられた。
初めての試みだったのでお世話をされる方も子供たちも戸惑いがあったことだろう。来年以降、この交流の輪が広がることを期待したい。

翌月曜日、連休を利用して金曜日から帰省していたくるみさんを、女房どのとドライブがてら福岡まで送って行った。
くるみさんは、書き上げた論文を指導教官に見てもらったところ厳しい指摘を受けたそうで、その未熟さを痛感する一方、実験を主体的にやれるようになったと学究への手応えも感じているようだった。

福岡から夜の10時過ぎに帰宅。すぐに隣のK君が近所で始めた格闘技ジム&バー「KUROFUNE GYM&BAR」のプレオープンに駆け付けた。古い倉庫を改装した店内は、リングを始めほとんどが手作りとのことだったが、決してチープではなく若者ならではの感性溢れる魅力的な空間に仕上がっていた。

ざっと1週間を振り返ろうと思ったが、やはりそうは問屋が卸してくれなかった。紅葉と秋桜の便りが届く。次第に秋が深まっている。


町内会の旅行

2015年06月18日 | 町内会長

昨日は、町内会の「のんびり温泉・日帰りバスの旅」で、佐世保市「西海橋」近くの「西海橋コラソンホテル」へ18名の参加者をお連れした。
早いもので、この行事も10回目を数える。つまり、私が町内会長になったその年から始めたことになる。当町内会からバスで1時間前後で行ける温泉施設を訪ね、温泉と美味しい会席料理を楽しんでいただこうという趣旨で始めたものだ。

今回は、ひょんなご縁から営業担当の方とお近づきになり、初めて町内会でこのホテルを利用させていただくことになった。
午前9時に町内会を出発。先ず針尾の「旧佐世保無線電信所(針尾送信所)」を訪れた。
案内によると、この施設は旧日本海軍によって1918年から1922年にかけて作られた送信施設で、日露戦争を契機に無線連絡体制の強化が必要となり、総工費155万円(現在の50億円相当)を費やして建設されたそうだ。
後の太平洋戦争の開戦を告げた「ニイタカヤマノボレ1208」は、ここから送信されたと伝えられている。

昨年、国の重要文化財の指定をうけたばかりだそうで、これまで手を入れられることもなく、3基の無線塔始め、その中心に位置するツタに覆われ立ち入り禁止となっている電信室など、いかにも負の遺産らしくひっそりとした佇まいだった。

11時にホテル到着。温泉を楽しんだ後、正午からはお待ちかねの昼食だ。往きの車中から続くお喋りはとどまるところを知らない。
午後1時半にはホテルを後にし、帰途につく前に西海橋そばの「魚魚(とと)市場」へ寄る。ここのたい焼きが評判ということで、みなさんお一人で10個、20個と買い求めておられた。

帰途につく頃には雨が落ちてきたが、車中は晴れ。西町に帰って来るまで賑やかな声が車中に響いていた。


世代間交流

2015年06月10日 | 町内会長

7日・日曜日、午前7時から毎月定例の町内会清掃を行った。その後、子供会の子供たちと彼らのお父さん・お母さんにより資源回収が行われた。さらにその後、午前10時から国道沿いの花壇にて夏の花の苗の植え付け作業を行った。

この国道沿い花壇の維持・管理については、年間2度の花の苗の植え付け作業の他、古い株の撤去作業、土を耕す作業、さらに水やり作業などがある。作業にあたる者は、特に縛りを設けず、町内会のいわゆる有志と「子供会」が協力して行うことにしていた。しかし、10年経ち、次第に「有志」の数は減少し、「子供会」の参加も無くなってしまっていた。

私は、町内会の基本的な活動方針を「楽しく」としている。そのためには各自が主体的に活動に取り組む必要がある。自ら進んでやることだけが面白く、身にもつく。したがって、なるたけ縛りを設けない。子供も大人も、何をするにしたって強制されるのは嫌に決まっている。面白くないに決まっている。それ故だ。

ところが、私たちの社会には不思議なことにこの単純な理屈が浸透していない。
教育とは真に恐ろしいものである。幼い頃からの教育により、中学生にもなると先生や親に何か言われないと勉強できない、あるいは先生や親の目が光っていないと勉強できないように多くの子供たちが立派に育てられてしまっている。主体性の芽は見事に摘まれる。
ほとんどの子供が勉強は楽しくないものだと思い込んでいるのは無理からぬことではある。

それはさておき、町内会の活動や行事を通して、世代間の交流をもっと図る必要をこのところ強く感じていた。
そこで、過日、27年度の育成部長さんと子供会の会長さんにその意義を話し、具体的に花壇の花の苗の植え付け作業に加わってほしいこと。そして、敬老祝賀会で子供たちに歌を歌ってほしいことの2点を要望していた。

とりあえず、花の苗の植付け作業に関し、育成部長さんと子供会の会長さんに熱心に応じていただいた。
日曜日、実に久しぶりに花壇に子供たちの声が響いた。
大人と子供合わせて30名弱の参加があり、あっと言う間にサルビア100株、マリーゴールド100株を植え付けることができた。これから秋口まで道行く人たちの目を楽しませてくれることだろう。

 


凛として生きた人

2015年05月28日 | 町内会長

ブログを更新できないのは忙しいからだと思い込んでいたが、考え違いをしていた。書こうと思えば書けるのだ。

昨日は午前10時から、同じ町内会で親しくさせていただいたAさんの告別式に出席した。
Aさんは7年前にご主人を亡くされた後、ずっとお一人暮らしだった。Aさんが町内会の班長さんになられ、役員会に出てこられるようになったのが親しくお付き合いさせていただく契機となった。まだ、ご主人がご存命だったから、私が町内会長役をお引き受けして間もない頃のことになる。
Aさんは当時からご病気がちだったが、杖をつきながらもご主人と共に班長役を懸命にこなされた。1年間の班長の任が解ける際、楽しかった。体が言うことを聞いてくれるならもう1年やりたいと、真顔で語ってくださった。

ご主人が亡くなられた後、お一人暮らしになられてからは、町内会の他のお一人暮らしの方同様、時々ご様子を伺いに訪問させていただくようになった。
玄関を開けると、いつも笑顔で迎えてくださった。たくさんの感謝のお言葉をいただいた。折々、町内会の活動や行事に関して有線放送でご案内かけるのだが、その私の声が聞こえてくるのを楽しみにしているといつもおっしゃってくださった。

お酒がお好きで、たまにお気に入りのお酒をいただいた。私も、旅行などに出かけることがあれば、お土産を買ってきてはお持ちするようになった。
気位が高く、凛とした人だった。単に「お一人暮らしのご高齢者」と町内会長・民生委員という関係ではなく、友人としてお付き合いいただいたように思う。

その後、入退院を繰り返された。最期は自宅でというお思いがお強かったが、それが難しいと今月に入り入院された。病院に2度見舞った。私の手を握り、いろんなことをお話された。いつになく饒舌でおありだった。最期が近いのを、お覚悟しておられるのだと思った。
間もなく、最期はやはりご自宅でとのご希望からご自宅に戻られた。ご自宅に戻られる前日、その旨お電話をいただいた。翌20日水曜日ご自宅にお戻りになられ落ち着かれたころを見計らい訪問させていただいた。やはり、手を握りしばらくお話させていただき、また、お顔を見に来ますからとお暇したのが最後になった。こんなに早く逝かれるとは思いもしなかった。
帰宅されてわずか5日目の25日の月曜日の夜、静かに息を引き取られたと喪主の姪御さんからお聞きした。享年83歳、見事な最期でおありだった。

頼りにしていますからと口癖のようにおっしゃっていた。出来る範囲でお応えしてきたつもりだったが、帰宅されてからの5日間、どうして毎日訪問してさしあげなかったかと悔いを残してしまった。
告別式も終わりに近づく頃、急に涙が溢れてきた。最期のお別れに、みなさんと共に棺に鶴の折り紙と薔薇の花びらを入れさせていただいた。涙がとめどもなく流れた。


緑眩しい朝に

2015年05月26日 | 町内会長

昨日は、午前10時から正午まで佐々町社会福祉協議会の理事会に出席した。
平成26年度の事業報告書について、また一般会計財務諸表について等の審議事項3件、加えて苦情処理委員の欠員に伴う補充選任について等の協議事項5件をみっちり審議・協議した。

昨夕、少し時間がとれたので裏庭でコントロールショットの練習を行う。

夜、江迎地区防犯協会連合会の総会への出欠確認を、町内の連合会役員のみなさん方に電話で行う。

きょう早朝、親しくお付き合いさせていただいていた方の訃報が入った。

 


任せて文句を言うだけの在り方を変えよう

2015年05月15日 | 町内会長

3月下旬から6月中旬まで様々な組織の総会が続く。ざっと数えても両手の指で足りないほどだ。主催者として総会を催すものもあれば、会員として参加するもの、お招きをいただき出席するものもある。

去る3月22日(日)、地元町内会の総会を開いた。26年度までで、町内会長を10年間の長きに渡り務めさせていただいた。
私の住む町内会の会則では、町内会長の任期は1年となっている。再選を妨げないが、それも5年を限度とする。5年経過した時の総会で新たにそこから5年までの特例措置が設けられた。そこから5年、そうして10年目を迎えた。

町内会長を始め役員の選出は、総会において会員の中より選挙または推薦により決められる。推薦の場合、その母体は町内会11班のその年度の班長で推薦委員会を構成し、その任に当たることになっている。

毎年、推薦委員会が機能するよう役員会の都度お願いしてきたが、26年度も10月の定例役員会の折から新しい町内会長を推薦していただくよう強くお願いしてきた。
それにもかかわらず結局、新しい町内会長を推薦していただくことはかなわず、事前に私へ推薦の打診があった。

私としては、町内会長という役割をお引き受けして今日まで存分にやりたいことをやらせていただいた。まだやりたいこともあるが、きりはない。
私は、誰に言われることなく己が極めて未熟な人間であることを重々承知している。が、それでも幾らかましになってきているところがあるとするならば「町内会長」とか「民生児童委員」とかの役割を務めさせていただいたからに他ならない。
したがって、私が続けられない理由はない。ただ、私自身のことより、町内会にとってよくないのだ。

とりあえず投げ出すわけにはいかないので27年度もう一期お引き受けることにした。
町内会の皆さんに、何故私がこのままずるずる続けるのがよくないかご理解いただくいただくため丁寧な説明を続けるしかない。

 


どっこい 巻かれないよ 2

2015年01月19日 | 町内会長

結局、5町が脱退してしまい(脱退させてしまい)佐々町単独で運営せざるをえなくなったクリーンセンターは、年間1億円ほどの赤字経営を余儀なくされているが、新たに施設の老朽化が問題となってきている。

また、7町で運営していた旧鹿町町にあるし尿処理施設についても、佐世保市との合併が進むにつれポロポロと脱退された。2010年に旧鹿町町と旧江迎町が佐世保市と合併する際、市の施設に2町分を処理する余力がないとの理由で新市となった佐世保市と佐々町とで一部事務組合を継続してきたが、佐世保市は今年の3月で老朽化を理由に旧鹿町町の施設を廃止する旨通告してきた。

3月以降どうするのか、待った無しのところにある。昨年12月16日佐々町議会定例会の一般質問を傍聴しに出かけた。行政と議会は議論を積み重ねてきたようだが、ここに至っても結論は出ていない。

(つづく)


長いものに、どっこい巻かれないよ

2015年01月16日 | 町内会長

午後3時半から佐世保市役所13階大会議室で開かれた「子供を事故から守る協議会」の役員会に出席した。この会は、佐世保市の幼稚園・小中学校・PTA連合・警察署(佐世保・早岐・相浦・江迎・新上五島)・防犯協会・交通安全協会・青少年健全育成協議会・交通安全母の会連合会・少年補導員連絡協議会・青少年教育センター補導委員連絡協議会・交通安全防犯推進室・青少年教育センター・学校保健課・学校教育課・その他関係機関と、およそ佐世保市内の子供に関わるありとあらゆる組織からなるもののようだ。今回初めて出席して分かった。

では、佐々町の住民である私が何故このような佐世保市の会合に出席したかというと少々説明を要する。

佐々町が属する北松浦郡は、いわゆる平成の大合併が行われる前までは13の町村自治体で構成されていた。それが合併促進の号令の下、鷹島町と福島町が松浦市と合併、また、生月町と大島村と田平町が平戸市と合併、そして、吉井町・世知原町・宇久町・小佐々町・江迎町・鹿町町が佐世保市と合併してしまい、離島である小値賀町と佐々町のたった2町のみが生き残り単独の町政を続けている。

北松浦郡というくくりで手を携え、様々なことを共に創り上げ、活動し、暮らしてきた住民にとって、国や県からの号令により、そのつながりをバラバラにされた虚しさ、悔しさ、その喪失感は決して少なくない。

それは、決して情緒的なことに留まらず、現在、私たちの町が抱えるごみ処理施設と、し尿処理施設の問題に見られるよう超現実的・深刻なものがある。

これらは、元来、国と県による強引な合併施策がもたらした負の遺産に他ならない。かつて、ごみ処理も、し尿処理も一部事務組合(複数の地方公共団体が行政サービスの一部を共同で行うことを目的として設置する)という形で行われてきた。本来、ごみ処理施設・し尿処理施設・火葬場等は、少子化の問題を含め地方公共団体の枠を超えたところで考えられてしかるべき事柄なのだ。しかし、極めて残念なことにそれがそうなっていない。はっきり言えば、政争の具にされている。

ごみ処理施設でいえば複数の町でまかなっていくはずのものが合併を口実に佐世保に吸収された町は全て一部事務組合を抜けてしまった。それは、県の指導であり、佐世保市の思惑であろうことは疑いの余地がない。それほど国や県等権力を握っている組織がやることはえげつない。

(つづく)