四国八十八ケ所霊場 ご開創1200年記念のバスツアー巡拝
第9回目は 平成26年8月25日 51番から56番の6ヶ寺を巡りました
今回も朝車中では雨・・・が松山に着くと お日さまは出たり入ったりの参拝日和にめぐまれ
最初に 愛媛県松山市石手 第五十一番 熊野山 石手寺 を参詣しました
石手寺は 728年に聖武天皇(在位724〜749)の勅願で 伊予の国主 越智玉純が
熊野12社権現を祀り 鎮護国家の道場として伽藍を建立し 翌年行基が
薬師如来像を刻み 本尊に祀って 法相宗の 安養寺と名付け開創されされました
813年 弘法大師が この地を訪れ荒廃した堂宇を整え 真言宗に改宗
四国霊場に定められたと伝えられています 寺名は892年 城主河野家に
小石を握った子が 誕生したのにちなんで 石手寺と改めたといいます
石手寺 境内図
仁王門までの参道は 回廊になっていて両側に土産店が並び
俳句や連歌 絵などの額が掛っています
仁王門
1318年に河野通継によって建てられた 二層の楼門で 高さ7m 間口三間 横4m
日本最古の建築様式で 1952年国宝に指定されています
左右には 運慶一門の作と伝わる 金剛力士像は県指定文化財です
また両脇には 信者さん達が うるう年に一度 編み替える 大草鞋が奉納され
健康健脚になると 信仰されています
仁王門をくぐって正面の本堂は 鎌倉時代末の建立で 国の重要文化財です
人間の心の中の煩悩を打ち砕くという 大きな五鈷杵が 正面に でんと置かれています
ご本尊は薬師如来さま 延命 衣食住を満たし 病気を治し 特に眼病に霊験のある 仏さまです
衛門三郎再生の石
824年~834 浮穴郡荏原の郷に 衛門三郎という 強欲な長者がいました 或る日托鉢に来た
僧が 弘法大師であることも知らず 僧の持っていた托鉢を取り上げて投げつけ 箒で打つなど
非常な仕打ちをし 鉢は8つに割れ その後衛門三郎の8人の子供が次々と死んでしまい
衛門三郎は 悪行の報いと 後悔をし 家をすて 身を忘れて 弘法大師に断りを乞うため
四国巡拝の旅を重ねます なかなか 弘法大師に逢う事が出来ず 21回目を逆にまわり
阿波の焼山寺の麓で倒れ その時法大師が 枕元に現れ 衛門三郎と書いた 石を三郎の
左手に握らせると 三郎は安心して息を息を引き取りました その後 この地方の領主 河野家に
長男が生まれ その子は幾日経っても 左の手は握ったまま 開かず 安養寺で
祈願をしたところ手が開き 衛門三郎と書いた石がでてきたそうです その石は寺に納められ
寺名も でてきた石にあやかり 安養寺から 石手寺に改めたと伝わっています
本堂の左側に 洞窟 都卒大洞
八十八ヶ所霊場と 四十九修行場があり
本堂右手の大師堂の裏手に抜けているそうです
絵馬堂
天井から沢山の手鞠が吊り下がり 中央に観音さま
両脇に薬師如来十二神将像が描かれています
大師堂
右に厄除け 左に合格の大師の 大おしゃもじが置かれ
開運をすくうと 信仰されています
大師堂右側に 梨帝母天堂(かりていもてんどう)鎌倉時代末の作で 国の重要文化財です
鬼子母神とも言われ 安産や子どもを守って下さる 女神さまが祀られ
妊婦さんは お堂の前の石を持ち帰り 無事に出産した時に 持ち帰った石と
新しい石を 2個持参して お礼参りをすると言われています
一切経堂
お釈迦さまが説かれた 経典をお祀りしています
護摩堂
室町初期の建立で 国の重要文化財に指定されています
不動明王が お祀りされ 大日如来の 使者といわれ 仏道に従わない者は無理やり救済します
忿怒の顔で 右手に宝剣を持ち 左手に鎖を持ち 厳しくもやさしい 慈悲の仏さまです
弥勒堂
弥勒菩薩が祀られ お釈迦さんの後継者といわれ
未来を救済して下さる 慈悲の仏様です
仁王門をくぐって右手に 三重塔 鎌倉時代末期の建立で高さ約23m 国の重要文化財です
塔の周りには 八十八カ所霊場と 高野山金剛峯寺の お砂袋がおかれ
四国霊場八十八ヶ所 お砂撫でができます
鐘楼は1333年建立で国の重要文化財
銅鐘は1251年の銘が刻まれた県では 最古のものといわれています
納経所と茶堂
仕合せの鐘
山門前の 小さい川にかかる 渡らずの橋 弘法大師 お道開きの橋です
橋の裏側に 観音様の絵や写経が書かれているため この橋を渡ると
足を痛めると言われています
石手寺は さまざまな縁起の 建物 石仏 記念碑 置物 貼物 掛物が ま~どっさりで
お遍路さんも 観光客さんも お参りに忙しい霊場です
つぎ52番札所 太山寺まで 約13km バスで約40分です
おしまい
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