yurikago-sa

1939年生まれ
ボケないようにパソコン
遊びをします!!

安芸納涼市民祭第60回~踊の競演~

2015年08月22日 | 日記

 遅くなりましたが 今年の納涼市民祭の「踊りの競演」を紹介します

はじめに言い訳 実は入院中のところ外出許可で わざわざ踊の動画を撮りに行ったところ

マヌケ アワテコサイ(慌て者) 40度の熱で頭がカラッポになってしまったのか 後で見て見たら どれもこれも

バックの音がありません・・・という訳で動画から切り取って静止画で・・・ということにしましたら

東陣チームを音なし動画で投稿と ムービーで編集すると音が出てきました ラッキー勉強不足でした

がこのまま 静止画で投稿します・・・・アワテコサイの上塗りで悪しからず

安芸 納涼市民祭 第60回 8月1・2日

~踊りの競演~

 どのチームも 元気いっぱい、笑顔いっぱい 猛暑を吹き飛ばす勢いでパワー全開で踊りました

競演のプログラム順に紹介します ステキな笑顔とパフォーマンスに肖像許可なくの投稿お許しください

  

安芸子ども会連合会 ”安芸童子”

  

大宮同心桜漣

  

ひとひら

  

神戸東陣

  

安芸市役所

 

   

龍宮の遺 い

 

祭屋 saiya よさこい踊り子隊

   

JA土佐あき~あいあい~

  

安芸商工会議所 踊り子チーム 「舞人」

 

 東印度公司

    

アローズ

   

東陣

東陣の動画(クリック) 

   

安芸町子ども連合会 TEAM「こじゃんとやったろう」

戦後70年目の夏まつり はじける笑顔に 躍動感に 踊る人 見る人 楽しんだ

この喜びがずっとつづくよう 平和でなくてはならない

安倍首相 中谷防衛相 遅くはない 安全保障 自衛隊行使 取り下げてや 男らしく

 おしまい


安芸市日赤奉仕団 研修旅行 新島旧邸 

2015年08月18日 | 日記

 2013年NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデル 同志社大学創立者 

新島襄さんと同志社女子大学を開設した妻八重さんの旧邸を 訪ねました

襄さんは明治8年11月 堂上華族高松保実(やすざね)公の邸宅であった半分を間借りして

生徒8名で同志社英学校を開校され 翌年に学校は旧薩摩藩邸に移り

襄さんは高松邸を購入して 自宅を建築(新島旧邸)されたそうです

寺町通りに面した 木戸(入口)

住所 京都市上京区寺町通り丸太町上ル松陰町18 

   

                        新島旧邸の外観                       玄関

同志社英学校の牧師・医者W・テイラーさんの助言で 木造2階建ての和風建築に洋風の手法を取りいれ

内部はフローリング 椅子やテーブルの居間 応接間 当時としては珍しいセントラルヒーティングを置き

土間のないダイニングキッチン 板張りの洋式トイレ 欄間や障子 襖 箱階段などの和風の手法も取り入れています

現在は新島旧邸とよばれ 家具 調度類を含め 昭和60年6月に京都市の有形文化財に指定されています 

 

 

  

付属屋 通りに面した木戸をくぐると 左手にあります

襄さんが両親の隠居所として 上州安中藩の江戸屋敷にあった住居に準じて建てられたそうです

                                  明治9年 結婚間もないころ(スキャン画像)

                                和服に襟元はマフラー?足元は靴 帽子を持っています

                           八重さんは 和洋折衷のファッションが気に入って人目を引いたそうです

    

明治21年京都の写真館で撮影のポートレート(スキャン画像)

簡単に 新島 八重さんの生涯

1845年 会津藩士山本家の三女として生まれ6歳のころっから 父親から「ならぬものはならぬ」会津藩の心得を教わる

      13歳のころは 60kgの米俵を4回も持ち上げた 兄覚馬から射撃・砲術を取得する 男勝りの少女時代

1865年 但馬出石出身の藩校日新館の教授の 川崎尚之助と結婚

1868年 22歳のときに戊辰戦争 弟の形見の男装で断髪し戦い 多くの敵を正確に狙撃するも敗戦

       敗戦後、捕虜となった夫と生き別れ 1871年離婚

1871年 兄覚馬(京都府の顧問)のもとへ 母 覚馬の娘と3人で移住

1872年 兄の勧めで日本最初の公立女学校 新英学校及女紅場の権舎長・教道試補となる

1875年 兄の元に出入りしていた準宣教師新島襄と10月婚約する

1876年 1月3日日本人として初のキリスト教の結婚式を行う 襄32歳八重30歳

         レディファーストの襄と男勝りの八重は似合いの夫婦といわれた

1876年   11月同志社女子大学を開設

1878年   新居を建築(現在の新島旧邸)

1890年   1月23日襄が大磯の療養先で心臓病のため 急逝 14年間の夫婦生活

          襄が亡くなった後 裏千家13代の弟子になり 茶人として活躍

          襄が亡くなった年 日本赤十字社の正社員になり 社会奉仕に情熱を注ぐ

1894年   日清戦争 日露戦争で篤志看護婦として活躍 

1896年   篤志看護婦として活躍が認められ 民間女性として初めて勲七等宝冠章を受ける 

1896年    襄の母とみ 八重の母佐久が永眠

1906年    勲六等宝冠章を受ける 

1907年   11月新島旧邸を同志社に寄付する

1928年   多くの功績により昭和天皇即位大礼で銀杯を下賜される

1931年   故郷会津若松大龍寺に 山本家の墓を建てる

1932年   6月14日急性胆嚢炎で永眠 86歳 

         同志社学校葬として執り行われ4,000人の参列者があった

              江戸・明治・大正・昭和と移り変わった時代を

            キリスト教精神と 会津武士魂で「ならぬものはならぬ」

               強情で前向きに力強く生きた 生涯でした

         

新島旧邸の各部屋のパネルや ご夫婦の足跡が展示されているギャラリー

ギャラりーで

 

 お泊りは 奈良 猿沢池(さるさわのいけ)の近く 大佛館 

 

各グループで研修の感想を発表して 乾杯!

夕食後は新日本三大夜景の一つといわれる若草山から京都・奈良の夜景を

楽しむ予定でしたが雨のため中止となりました

2日目は世界遺産奈良平城京 と 国宝東大寺の巨大仏像を見学でしたが

14年8月に家族旅行で1度投稿していますので今回は省略します

尚覗いて下さる場合はカラーの文字の上をクリックして下さいね

 存在感抜群 ど派手な車で 高知をアピールしの旅でもありました 

  おしまい

 


安芸市日赤奉仕団 研修旅行 立命館大学 国際平和ミュージアム

2015年08月13日 | 日記

お詫び 7月10日~8月7日まで入院のため投稿できなかったネタを投稿します

 7月7・8日 毎年恒例にしている日赤奉仕団の研修旅行に京都・奈良へ行ってきました

一日目午前6時30分安芸を出発 京都嵐山で 昼食後 

立命館大学 国際平和ミュージアム・同志社大学創立者 新島旧邸 を見学しました

お天気に恵まれず 駐車場から見学会場まで 結構距離が長く 足元のうるさい移動となりました

最初に 立命館大学 国際平和ミュージアムへ

平和ミュージアムは過去の戦争の歴史を学び 未来の平和を願って開設さた

世界初の 大学立の平和博物館です

地下1F 地上2Fの立命館大学 国際平和ミュージアム (資料よりスキャン)

B1 平和をみつめて 1F 平和をしらべる 2F 平和をもとめて のテーマで展示されています

私達40人は 7~8人のグループに分かれ ボランテァガイドさんと 地下展示室の学習 

展示室には 昭和6年満州事変~昭和20年の終戦までを十五年戦争として資料が展示されています

ガイドさんの熱い説明と パネルや現物資料で どうして戦争が起こったのか 帝国軍隊の戦争はどんなだったか 

終戦まで 終戦直後 国民の生活はどんなだったか とても詳しく知る事が出来ます(もっと時間がほしかった)

  

わだつみ像

一階から地階に下りる途中にあり 学徒動員で戦場に散った

若者の悲しみと怒りを後世に伝える像です

 

1Fのラウンジにあるムツちゃんの平和像 

 

1Fのラウンジにある 手塚治氏が描いた 平和の願いを込めた 火の鳥

 

私達はこの展示室で 戦争を再度頭に焼き付けた 二度と悲惨悲痛な経験はしたくない

戦後70年の平和を守ってきた憲法9条を絶対守らなければ

今 日本の政府(自民党公明党)は 憲法9条を変えようと

7月16日衆議院で強行採決をした 集団的自衛権を行使すると戦争につながるかもしれない   

ある日の新聞の 天皇陛下のお言葉

「ここに歴史を顧み戦争の惨禍が再び繰り返さないことを切に願い 全国民と共に戦陣に散り

 戦禍に倒れた人々に対し心から追悼の意を表し 世界の平和と我が国のいっそうの発展を祈ります」 

天皇陛下も切に平和を願っている  あの8月15日がくる

今の安倍政権に どうか天皇陛下のお言葉で 大きな熱い熱いお灸をすえてください

おしまい


えっ?!あっ(?_?) ドン(-_-)/~~~ピシー!ピシー!

2015年08月10日 | 日記

投稿 ご無沙汰しておりました 連日の猛暑 お変わりなくお過ごしでしょうか

私7月10日~8月7日まで 新築の冷房付別荘で 点滴の毎日を過ごして居りました

新築された 高知県立 あき総合病院

 

7月10日9時過ぎ バイクモーターで 市道を北から南へと 市道東からの 一時停止線に 

紺色の軽自動車が止まっているのを 確認して 白い乗用車の後を走行していました

突然 紺色の軽自動車が目の前に えっ?!あっ(?_?) ドン(-_-)/~~~ピシー!ピシー!

(こんな事故を 専門用語で 出逢い頭の衝突と云うそうです 

 停止している車を見たら 何時飛び出すか分からないので 常に徐行 ブレーキができるよう 

意識して運転することが大切 とお巡りさんから 教わりました )

というわけで 道路上で横になった私 左脇を押さえて 年甲斐もなく「痛い 痛い」 声に出している

相手の方が2人位側に来て 「私の手をしっかり握って 頭を動かされんよ・・・」頭をかかえて タオルで

日陰を作ってくれている  そんな中私 両手で頭をまさぐってみる 痛くない 足を動かしてみる動く 痛くない

腕も動く 「頭も 足も 大丈夫やきにね」 となぜか相手の方を慰めている私・・・ ピーポーが来た

 相手の方が「私が100%悪いです」の声が遠くで聞えた 心の中で 「良い人や~(#^.^#)」

ピーポーさんが「2分で着きます」と病院へ連絡している その2分の間に 「住所? 名前? 生年月日? 

歳? 右向ける? 左向ける?腕を上げて」 など状態を確かめている あっという間に病院に到着

肋骨が3本折れ その破片が肺に散らばっているとの診断  意識がなくなるほどの高熱がつづきうるさかったですが

(熱が39度40度出る時は 脛から下の体毛が総毛立ち 足先の方からフツフツお湯を沸かして

いるような 次第に身体全体でお湯が沸いた感じ 歯がガチガチ 身体ガタガタ 床から時々浮き上がる・・・そん感覚でした)

 後遺症もなく 不幸中の幸い 元気で退院することが出来ました

相手の方は 事故当日は家族で処置が終わるまで見守り 度々病院に来てくれ 大変心を痛めています

「私にも 落ち度があったようです 心苦しく 思わないでください」

私も家族も車を運転する 加害者と被害者 いつ反対の立場になるかも・・・

こんな時こそ 相手を思いやる気持ちを大切にしたいと思います

おしまい