四国八十八ケ所霊場 ご開創1200年記念のバスツアー巡拝 14回目
平成27年1月11日 第八十六番 補陀落山(ふだらくざん)志度寺を参拝しました
志度寺は 推古天皇の時代625年 薗子という尼さんが志度の港に流れてきた
霊木で観世音菩薩を刻み 草庵へ安置したのが始まりとされています
その後 藤原不比等が唐の皇帝の妃(妹)から送られた宝珠を竜神に奪われ
取り返すために 犠牲になった妻海女の死を悼んで堂宇を建立「死度道場」と
名づけられ 693年不比等の息子 房前が 行基と寺を訪れ 母の追悼供養に
堂宇を増築 寺名を「志度寺」と改めたと伝えられ 810~824年頃に
弘法大師が この寺を訪れ霊場に定めたと言われています
その後戦乱で荒廃 藤原氏の子孫 生駒親生の支援を経て 1671年
高松藩主 松平頼重公が 本堂 仁王門を寄進され再興されています
お詫び 84番~高野山まで 平成13年9月~「お遍路徒然」で投稿をしていたブログに
写真を加えて投稿をしますのでよろしく
志度寺 境内図
住宅街の一角に志度寺への参道 正面に仁王門 と五重塔が見えます
参道の途中右手に 常楽寺の山門
平賀源内のお墓(大師像の右)
江戸中期に 蘭学を修め 漢方医学 作家 画家 発明など
あらゆる分野で才能を発揮した人です
どっしりとした重厚な 志度寺の 仁王門
1670年 高松藩主 松平頼重公により 寄進されたものです
国の重要文化財に指定されています
仁王門の 堂々とした豪快な金剛力士像は鎌倉時代 運慶の作と言われ
阿形は3m4㎝ 吽形は3m25㎝の像で県指定の文化財です
四国平定で 讃岐を攻めてきた土佐の長宗我部元親が山門を入ろうとした時
急に馬が動かなくり 両脇の仁王像を見ると 後光がさしていたので
志度寺を焼く事を止め 寺仏に礼拝して引き上げたと伝えられています
手水場
観音さま 薬師如来
お釈迦さま
仁王門をくぐるとあちこちに石仏が並んでいます
小さな 不動尊?と 観音さま 右足を立てている如意輪観音さま?
鐘楼
鐘楼の右に悲願金剛地蔵菩薩像
~ ~ ~
志度寺は 他の札所と違ってお参りの順序が決まっています
一番に奪衣姿堂(だつえばどう) 二番に本堂 三番に大師堂 四番に琰魔堂です
本堂の手前に 奪衣姿堂
奪衣姿堂 内陣
1634に建てられ香川県有形文化財に指定されております
奪衣姿は 三途の川のほとりに居て 亡者の着物を奪い取って
地獄への引導を渡す恐ろしい鬼婆です
ご朱印を押している白衣は奪われないと言われています
本堂
1670年 高松初代藩主 松平頼繁重公が建立
ご本尊は十一面観世音菩薩 脇侍に不動明王 毘沙門天も祀られています
平安時代初期~中期の作で 本堂 本尊 脇侍2体ともに 国の重要文化財です
ご真言 おん まか きゃろにきゃ そわか
災難除けの仏さまで 四方八方に お顔向けて人々を救ってくださいます
本堂の右に 大師堂
お堂の背後の大楠は 弘法大師 お手植だそうです
琰魔堂 志度寺の閻魔は字が異なっています
中には冠に11体の観音像を載せた琰魔大王像が祀られているそうで
1671年の建立 県の有形文化財に指定されています
阿弥尼が一度冥途に赴いたものの 琰魔大王の依頼で
琰魔像を刻むため 蘇生したという 言い伝えのある お堂だそうです
本堂の左に墓地の入り口に阿弥陀さま
本堂の近くには多くの石仏がそのまま地面におかれています
八十八ケ所のご本尊では?
本堂の左後ろに地蔵尊像 子育て観音像
海女のお墓
奈良時代の高官藤原不比等(ふひと)が唐の高宗皇帝(不比等の妹)から贈られた宝珠を
志度湾の 竜神に奪われ 取り戻すために 志度に出向き 地元の海女に 恋をしました
やがて男の子が生まれ 海女は 我が子 房前の出世を願い
世継ぎにしてくれることを約束 死と引き替えに宝珠を取り戻しました
不比等は その死を悼んで お墓と 寺を建立「死度道場」と名づけました
境内の西隅一角に 海女の墓 五輪塔があります 市の指定文化財です
中央の大きな五輪塔が海女の墓 左右の石塔は内部を空洞にして経典を収める経塔です
海女の命日である6月16日には大法会が行なわれ 供養が続けられているそうです
高浜虚子の長男が訪れた時の句
海女の墓で毎日墓守をしている 近くの おばあちゃん
大師堂の近くに多くのお社 石碑 石仏が祀られています
小さなお堂が3つ並んでいました 立札が朽ちて字が読めませんが
春日社 賀茂社 天神さま?
三尊仏 左から観音さま 阿弥陀さま 薬師如来さま
藩主松平頼重公が若気の至りで 側近の3人に切腹を命じ
後に後悔して 菩提を弔うために3仏を造らせ 高松市宮脇町のお山ご殿に
安置 冥福を祈ったそうです 1702年お山ご殿が取り壊される時
当時の住職が 藩に願い出て 志度寺境内に移転されたそうです
四国八十八ケ所光明真言一億萬遍塔
四国八十八ケ所の ご本尊が刻まれている大きな石碑
仏の光明が全ての人たちに 届くようにとの願いが込められています
十一面観世音菩薩像
覚阿上人霊塔
源平合戦で義経の身代わりとなって忠死した 佐藤嗣信の戦死を悲しんで義経に引導を
渡したのが当時の住職覚阿上人で 嗣信の30代目の子孫 山形県の佐藤信古氏が
先祖か世話になったと 昭和36年に追福のために建立された石碑です
薬師堂
中門のむこうに書院 があります
仁王門を入ると左に 朱色の鮮やかな五重塔 昭和50年建立 高さ33m
少年時代から志度寺の三十三代住職十河 龍澄和尚に可愛がられ励まされた
地元の実業家が寄進されたそうです
おしまい