橋が流された大水の出た年 伊之助とお菊の兄妹は両親とはぐれた
伊之助は両親の幼馴染みだった植木の七松屋が引き取り きかんきの仁吉の遊び相手として育てられた
お菊は その器量に目をとめていた元芸者が引き取り 芸を仕込んでくれた
二人の両親は死体は上がらなかったが おそらく水に流されたのだろう
菊次が一人前の芸者となり三年目 育ててくれた人は病死した
それなりのものを身がたつように きちんと残してくれていた
人気者になった頃 伊之助のいる七松屋は押し込みにあい皆殺しに
伊之助は何とか命をとりとめ 兄弟のように育った仁吉の忘れ形見の兄妹を 七松屋への恩返しに守り育てることに
事件の夜 たまたま兄妹を泊めてた 仁吉の女房の兄で役者の蝶二郎が 江戸は危ないかもしれぬ―ということで伊之助ともども新吉も上方へ連れていき
妹の沙季里は お吉と名を変えて 菊次が引き取った
人様への ご恩返しに 年は十二ほどしか違わないけれど 菊次はお吉の母親として生きてきた
その吉次も大瀬凛一郎と由姫乃の養女格で 無事に若林京太郎に嫁ぎ 一人となった菊次は 何か寂しい
一所懸命に生きてきた
―ご恩返しは終わったかねぇ
蝶二郎の書く読み物が 菊次の貸本屋の目玉商品
ひょんなことから知り合いになった きらきら屋の平介 その友達の幸吉が店先に本を置いてくれ 良い宣伝になっていた
気持ちのいい男達で 菊次のしたちょっとしたことを 随分 恩に思っていてくれるのだった
「お前 嫁にはいかないかねぇ」
隣りに住む兄の伊之助が言う
「嫌ですねぇ こんなおばあちゃん つかまえて」
「一番だった菊次姐さんじゃないか
女っぷりは上がる一方だ」
餅をひっくり返しながら蝶二郎も言う
「姥桜からかってる暇があるなら 新しい本書いて下さいな」
焼けた餅を横から菊次はさらった
役者上がりの蝶二郎こそ 渋味をましたいい男ぶりなのに 遊ぶことをしているふうではなかった
仇討ち果たして江戸を去った新吉 またの名を新三のことを気にかけているのだ
全ての罪をみんな背負っていった男
京太郎が 新三を慕っていた 妖怪長屋の小町娘お千世と弟文平が阿波をめざして 江戸を離れた と知らせにきた
おそらくは新三は阿波にいるのだろう
お千世と文平が幸せになれるといいのだが
菊次は また新しく餅を焼く蝶二郎の横顔を眺めた
時々頼まれると舞台に立っている
荒事も 女形もこなした
姿が端正なのだ
崩れた役をしても品がある
帳簿は算盤が巧みな伊之助がつける
菊次は三味線も教えていた
旅の合間に絵など描いてた蝶二郎は 器用に話にあった絵もつけるのだ
妹夫婦の敵討ち 甥と姪の幸せ
それらを優先してきた蝶二郎だが 彼自身 何か片付けねばならない何かを抱えているらしかった
手が遅いものだから冬に着る綿入りの半纏を 菊次は こっそり縫っている
兄 伊之助のぶんと蝶二郎のぶん
今夜は 後少しで縫い上がるので つい根をつめて続けてしまった
最後の糸切りをして 鋏を置く
腕を伸ばし着物を広げ 仕上がりを確かめる
畳んで風呂敷に包んだ
庭で犬が不安そうな鳴き声をあげる
気になり 厠の小窓から覗くと 月明りに蝶二郎が 塀を乗り越えふらつきながら庭へ入ってきたのが見えた
たっと雨戸を開けて部屋へ運び入れる
すぐに雨戸を閉めた
蝶二郎は怪我をしているらしく 左肩の袖が破れ 腕に血が流れている
手ぬぐいでぎゅっと縛った
「大丈夫だ 酒をくんな」
箪笥に背をもたせ 腰を下ろすと やや蒼くなった顔に笑みを浮かべる
柄にもなく おろおろしながら 菊次は 焼酎をとってくる
「油断した ざまぁないや」
傷口に焼酎かけると 菊次が 膏薬を張りさらしを巻くに任せた
「夜出かけておられるのは 知ってましたけれど」
「たいした事じゃない」
吉次が使っていた布団を敷く
「今夜はここで お休みになって下さい」
詳しく事情を知りたい気持ちと 打ち明けられるほどの仲ではないことが
菊次を引かせる