柳美里の今日のできごと

福島県南相馬市小高区で、
「フルハウス」「Rain Theatre」を営む
小説家・柳美里の動揺する確信の日々

「福島県立小高産業技術高等学校」校歌の作詞・作曲の経緯について

2016年11月30日 10時59分59秒 | 日記
わたしは2012年3月から、臨時災害放送局「南相馬ひばりエフエム」で「ふたりとひとり」という番組のパーソナリティを毎週務めています。
http://hibarifm.wixsite.com/870mhz
臨時災害放送局というのは、暴風、豪雨、洪水、地震、大規模な火事その他による災害が発生した場合に、その被害を軽減するために役立つことを目的とする、あくまで災害時に臨時に機能する放送局です。その性質上、わたしは無報酬でパーソナリティの仕事を引き受けました。正直に言うと、1年後には閉局されるだろうと思っていたのです。まさか、4年半も続くとは――、今日までに230回放送され、450人以上もの南相馬の方々にご出演いただきました。
「ふたりとひとり」では、わたしが聞き手となって、親子、兄弟、師弟、友人、同僚、夫婦、お隣さん、部活の先輩後輩、職場の上司部下などあらゆる関係のお二人の出会いから現在までの記憶を語っていただいています。

東日本大震災から3年がたった2014年3月11日に収録した「ふたりとひとり」第100回放送にご出演いただいたのが、福島県立小高工業高等学校・電気科で教えていらっしゃる井戸川義英先生と幼馴染みの杉重典さんでした。
お二人とも当時60歳でした。
お二人は、南相馬市小高区片草の同じ隣組で生まれ育ち、小学校・中学校と一緒だったそうです。
小高中学校の同窓生の結び付きは強く、毎月28日に小高区の「浦島寿司」で同窓会を開いていたそうです。
それが、原発事故で散り散りに避難生活を送っているため出来なくなった、と……
「ふたりとひとり」では、毎回ゲストの方に1曲リクエストをいただいているのですが、NHKのど自慢大会に出場して合格の鐘を鳴り響かせたことがあるという井戸川先生には「新相馬節」を歌っていただきました。
「相馬恋しや」という歌詞を、「小高恋しや」と替えて……



井戸川先生とはそれっきりではなく、小高工業高校本校舎の中や、小高区の御自宅をご案内いただいたこともあります。そういったお付き合いの中で、いろいろなお話をしました。椎間板ヘルニアの手術を受けたけれど、腰がなかなかよくならず脚に痺れがあるということ、避難先の福島市から車で片道2時間もかけて通勤されているということ、娘さんの新築の家が富岡町の居住制限区域内にあるということ――。
いつ、どこでだったのかは忘れましたが、井戸川先生から、「昨今、読書離れが進み、作文に苦手意識を持っている生徒も多い。その意識を少しでも変えられるような講義をしてもらえないだろうか?」というご依頼をいただき、わたしはその場で快諾したのでした。
井戸川先生は既に定年を迎えられています。現在は、1年毎に延長されて勤務されているのですが、2015年3月に退職されるかもしれない、とお話をうかがいました。
約束を違えれば、信頼を損ねます。嘘つき、になってしまう――。
井戸川先生とメールのやりとりを行い、2015年1月15日に、小高工業高校電気科の1年生34人、3年生31人の前でお話をすることになったのです。
その講演が、小高工業高校との関わりの始まりでした。
その後、国語担当の斎藤純一先生を交えて打ち合わせを行い、わたしは新1年生に継続して講義を行うことになりました。

(2015年4月6日、わたしは家族とともに15年間暮らした鎌倉の家を売却し、南相馬市原町区に転居をしました)

工業高校は普通高校とは異なり、卒業後に就職を希望する生徒が多いです。小高工業高校でも、およそ3分の2の生徒が就職し、県内就職率が高いことも特徴の一つです。
2級ボイラー技士や第1・第2種電気工事士や危険物取扱者乙4類などの資格取得試験のための勉強をしなければならず、部活動にも熱心に取り組んでいるので、生徒たちの学校生活はとても忙しいのです。
先生方からお話をうかがったところ、就職試験には必ず小論文と面接がある、ということなので、「表現(自己表現・文章表現)」についての講義とワークショップを行うことになりました。書くことに苦手意識を持っている生徒が多いですが、それは書き言葉に先立つものは話し言葉で、話し言葉は他者の話を聴くことによってしか生まれない、ということを体感できないからです。
自分自身の言葉を獲得するためには、先ずは他者の言葉を体に取り入れることが重要なのです。

東京電力福島第一原子力発電所の事故によって、本校舎を使用することができない生徒たちは、入学から卒業までの3年間を、南相馬市スポーツセンター・サッカー場の一画に建てられた仮設校舎で過ごし、実験や実習の授業がある時は、自転車で15分ほどかけて(強い雨風や雪の時は、大変です)日本通運の倉庫内に間借りしている仮設実習棟に移動しています。
この仮設実習棟で、わたしは講義を行っています。
今年の最終回は11月8日でした。
来年の初回は1月24日です。
来年からは福島県立小高商業高等学校でも、同じ内容の講義を行うことになりました(初回は1月25日です)。

わたしは、高校1年の時に退学処分になって以来、学校とは縁のない人間です。学校という場所に、トラウマと言ってもいいほどの強い苦手意識を持ち続けてきました。書く、ということを仕事に選んだ18歳の時から、自分の苦手なものや嫌いなものを克服するどころか、それを温存することによって苦手意識をこじらせ、嫌悪感に拍車をかけてきたように思います。
では、何故、講義を引き受けたのか――。
お金のためではありません。
もうすぐ丸5年になる臨時災害放送局「南相馬ひばりエフエム」「ふたりとひとり」のパーソナリティの仕事と同様に、無報酬の仕事だからです。
無報酬ではありますが、わたしは「ボランティア」ではなく「仕事」として引き受けています。
最近読んだ本(ローリー・グルーエン著『動物倫理入門』大月書店)に、道徳世界には2つの層があって、それは道徳行為の担い手と受け手である、ということが書いてありました。
わたしは長い間、道徳行為の受け手としてそれに苦悩したり逸脱したりしてきましたが、これからは、道徳行為の担い手として生きていきたい、と思っています。
道徳とは、他者を最大限に尊重し、信頼し、受容することです。
わたしは、生きることを迷って高校を退学処分になった時の自分と同じ10代半ばの生徒たちの「言葉」と出会うことを楽しみにして、毎回、教壇に立っています。



このような経緯があり、今年7月に「福島県立小高産業技術高等学校」の校歌の作詞の依頼をいただいた時、謹んでお受けすることにしました。作曲者の選定を含めて、校歌作成に関する全てを柳美里に一任するという内容でした。
実はわたしは、歌謡曲の作詞をしたことがあります。
奥田美和子という歌手のプロデュースを任されたのです。

2003年11月 「青空の果て」(TBS系連続ドラマ『ヤンキー母校に帰る』主題歌)
2004年3月 「歌う理由/はばたいて鳥は消える」
2004年9月 「夢」(映画『感染』主題歌)
2005年5月 「雨と夢のあとに」(テレビ朝日系連続ドラマ『雨と夢のあとに』主題歌)
2005年6月 『二人』(アルバム)
2005年9月 「ぼくが生きていたこと」(映画『殴者』主題歌)

<奥田美和子オフィシャルブログ>http://ameblo.jp/okudamiwako/

わたしは、作曲を長渕剛さんに依頼することに決め、お手紙を書きました。
長渕さんとは2015年10月に『文藝別冊 長渕剛~民衆の怒りと祈りの歌~』(河出書房新社)で対談をしていたのです。
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309978765/

長渕さんは原発事故後に、浪江町を歩いて「カモメ」(アルバム『Stay Alive』収録)という歌を作っています。
「ふたりとひとり」の出演者である南相馬の方が、長渕剛さんの代表曲である「とんぼ」や「乾杯」をリクエスト曲として挙げることが多かったということもあります。長渕剛ファンは、10代から70代までと非常に幅が広いのです。
わたし自身、10代半ばの頃から長渕剛さんのファンで、日本武道館のライブにも行ったことがあります。南相馬に転居してからも、カーステレオでよく長渕剛さんの歌を聴いています。
特に「ひまわり」が流れると、泣けてきます。「ひまわり」は風と土の歌です。風は土を信じてひまわりの種を運び、土は風を信じてひまわりの種を待つ、という信頼の歌です。原発事故によって、風は放射性物質を運び、土を汚染してしまった。信頼が損なわれた風景の中で、「ひまわり」を聴くと胸に堪えます。飯舘村では、除染が終わった田んぼにひまわりが咲きました。原発事故以降、まったく作付けできなかったことから、土地が痩せてしまったのです。地元農家の方々が、花を咲き終えたひまわりと一緒に土地を耕すことで土の養分を取り戻そうと考え、ひまわりの種をまいたのです。長渕剛さんの「ひまわりはやがて土に抱かれ眠る」という歌詞は、別の意味を持って胸に響くのです。
「乾杯」や「HOLD YOUR LAST CHANCE」や「Myself」などはメロディが美しく普遍的で、世代を超えて歌い継がれる校歌に通じるものがあるとも思いました。

長渕剛さんはデビューから40年間、一線に立ち続けているミュージシャンです。
お忙しい方ですし、十分な報酬もお支払いできません。わたしとしてはダメ元で、しかし誠心誠意のお手紙を書いて送ったのです。
長渕さんが引き受けてくだされば、生徒たちや、保護者たち、先生方、小高に帰って生活をしている1200人の住民の方々、小高に帰ることができず別の場所で避難生活を続けている1万1000人の住民の方々を、励まし、慰め、勇気づけることができるのではないか――、という一念でお手紙を書きました。
その日は偶然、長渕剛さんの60歳のお誕生日でした。
9月7日です。

そして、長渕さんは引き受けてくださったのです。曲を作る前に、わたしが詞に書いた場所を見て、歩いて、感じたいとおっしゃり、10月11日に小高区を井戸川義英先生と共にご案内し、小高工業高校、小高商業高校の本校舎と、現在生徒たちが学んでいる仮設校舎にも行きました。

校歌の作詞と作曲の内容に関しては、校歌が完成したら、また改めてお話ししたいと思います。

2016年11月29日
柳美里

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