臨時災害放送局 「南相馬ひばりFM」 「ふたりとひとり」。
船橋裕司(ひろし)さん(58歳)と、鴫原伸幸(しぎはら・のぶゆき)さん(59歳)。
船橋さんは、中村第一小学校、中村第一中学校、相馬高校――、
鴫原さんは、中村第一小学校、向陽中学校、相馬高校――、
おふたりは、小学校・高校の同級生だったのです。
鴫原さんは小・中・高と剣道部に在籍した活発な生徒、一方、船橋さんは、幼いころから小児喘息と腎臓病を患い、体育などは見学をする目立たない生徒だったそうです。
鴫原さんは明治大学の政経学部に進学して、東京の企業に就職し、18年間地元を離れましたが、
船橋さんは福島県立医大に進み、卒業後、地元にある相馬公立病院に勤務し、平成10年に「ふなばし内科クリニック」を開業しました。
鴫原さんは、結婚後こちらに戻り、奥様の実家である松川浦(海際)で暮らしていました。
2011年3月11日、船橋さんは(仙台の妻子に食糧や水などを車で届けた後)ただちに災害医療救護活動に入りました。
鴫原さんは、仙台で働いていたそうです。
地震が起こり、すぐに松川浦の自宅に電話を掛けましたが、一瞬だけ通じたものの、「津波に気をつけろよ」と言おうとしたら切れ、通じなくなってしまった――。
その夜、奥様のアドレスから一言、「全滅」というメールが届き、返信しようにも通じない――、翌日松川浦に帰宅した鴫原さんは家族の姿を見た瞬間、腰を抜かしました。。
相馬は、18メートルの津波に襲われました。鴫原さんの御自宅は、1階は波が突き抜け、2階に居た奥様と奥様のご両親は、柱にしがみついて流されないよう堪えていたそうです。
周辺の家は全て基礎のみを残して流されましたが、鴫原さんのお宅は、以前は釣り宿で、分厚い鉄骨を何本も組んだ頑丈なつくりだったため、骨組みと2階部分のみは残ったということなのです。
しかし、当時の写真を見せていただくと、すぐ前まで、何艘もの船が乗り上げています。
「もし、船が突っ込んできたら、うちは崩れたでしょうね……あるいは、もう少し、津波が高かったら……」と鴫原さんは仰りました。
原発事故が起こり――、鴫原夫妻は、子どもふたりを京都に避難させて、瓦礫となった1階部分の片付けや泥の掻き出しを行いました。
「現実感が全くないんです。毎日毎日、延々と、ろくに食べない、ろくに眠らないで片付けつづけているんですが、夢のなかでアルバイトしてるみたいな感じで、涙も出ない。家のなかから津波といっしょに流れてきた魚が出てくるでしょ?それをしゃがんで大きい順に並べていたら、妻に、なにしてんの!と怒られて我に返ったり、ブルーシートにくるまれたご遺体が運ばれていくのを見ても、あぁ見つかったんだなぁ、とぼんやり思うだけなんですよ」
現実に戻り、感情が蘇ったのは、震災から1年経った頃だそうです。
現在、鴫原さんは南相馬市市民活動サポートセンター(市民活動団体復興支援事業部)で働いていらっしゃいます。
船橋裕司(ひろし)さん(58歳)と、鴫原伸幸(しぎはら・のぶゆき)さん(59歳)。
船橋さんは、中村第一小学校、中村第一中学校、相馬高校――、
鴫原さんは、中村第一小学校、向陽中学校、相馬高校――、
おふたりは、小学校・高校の同級生だったのです。
鴫原さんは小・中・高と剣道部に在籍した活発な生徒、一方、船橋さんは、幼いころから小児喘息と腎臓病を患い、体育などは見学をする目立たない生徒だったそうです。
鴫原さんは明治大学の政経学部に進学して、東京の企業に就職し、18年間地元を離れましたが、
船橋さんは福島県立医大に進み、卒業後、地元にある相馬公立病院に勤務し、平成10年に「ふなばし内科クリニック」を開業しました。
鴫原さんは、結婚後こちらに戻り、奥様の実家である松川浦(海際)で暮らしていました。
2011年3月11日、船橋さんは(仙台の妻子に食糧や水などを車で届けた後)ただちに災害医療救護活動に入りました。
鴫原さんは、仙台で働いていたそうです。
地震が起こり、すぐに松川浦の自宅に電話を掛けましたが、一瞬だけ通じたものの、「津波に気をつけろよ」と言おうとしたら切れ、通じなくなってしまった――。
その夜、奥様のアドレスから一言、「全滅」というメールが届き、返信しようにも通じない――、翌日松川浦に帰宅した鴫原さんは家族の姿を見た瞬間、腰を抜かしました。。
相馬は、18メートルの津波に襲われました。鴫原さんの御自宅は、1階は波が突き抜け、2階に居た奥様と奥様のご両親は、柱にしがみついて流されないよう堪えていたそうです。
周辺の家は全て基礎のみを残して流されましたが、鴫原さんのお宅は、以前は釣り宿で、分厚い鉄骨を何本も組んだ頑丈なつくりだったため、骨組みと2階部分のみは残ったということなのです。
しかし、当時の写真を見せていただくと、すぐ前まで、何艘もの船が乗り上げています。
「もし、船が突っ込んできたら、うちは崩れたでしょうね……あるいは、もう少し、津波が高かったら……」と鴫原さんは仰りました。
原発事故が起こり――、鴫原夫妻は、子どもふたりを京都に避難させて、瓦礫となった1階部分の片付けや泥の掻き出しを行いました。
「現実感が全くないんです。毎日毎日、延々と、ろくに食べない、ろくに眠らないで片付けつづけているんですが、夢のなかでアルバイトしてるみたいな感じで、涙も出ない。家のなかから津波といっしょに流れてきた魚が出てくるでしょ?それをしゃがんで大きい順に並べていたら、妻に、なにしてんの!と怒られて我に返ったり、ブルーシートにくるまれたご遺体が運ばれていくのを見ても、あぁ見つかったんだなぁ、とぼんやり思うだけなんですよ」
現実に戻り、感情が蘇ったのは、震災から1年経った頃だそうです。
現在、鴫原さんは南相馬市市民活動サポートセンター(市民活動団体復興支援事業部)で働いていらっしゃいます。