私は中学まで野球少年であったが、勉強もそこそこでき岐阜県で有数の進学校である“岐阜北高校”に進学した。たしか450人ほど入学したが、入学当初は50番目ぐらいだったと思う。
元来勉強が嫌いだったので、成績が落ちていくのに時間はかからなかった。100番台になったかと思えば、1年生の終わりには200番台を通り越し300番台だったような気がする。
2年になると喫茶店に置いてあるポーカーゲームや麻雀に夢中となり、学校に行かずに、子供のころから貯めていた貯金を自分の分だけでなく姉の分まで郵便局に行って解約し遊びほうけていた。
2年の時には、現国の出席日数が足らなくて危うく留年しそうだった。3年には体育館の放送室で喫煙を見つかり停学となった。進学校だったので停学など、何年ぶりだとかで大騒ぎになった。
そんな私だからまともに大学に進学できるはずもなく浪人となった。浪人は志のないものにとっては、単なる遊び人である。単なる遊び人に成り下がった私は夏期講習だ!特別講習だ!と言っては親から金をむしり取ってはパチンコ屋と喫茶店に入り浸っていた。
そんな生活だったので、1年後に受かる大学もなく2年目に突入した。
志がないくせにプライドだけはあって、志望大学は高かった。結局受かったのは志望大学ではなく、滑り止めに受けた大学であった。(そこしか受からなかった)
大学は東京六大学であるが、東京五大学になれば、いの一番に外される大学である。
行きたい学校でなかったことと、変なプライドがあり、入学式にも行かなかった。前期に学校に行ったのは、入学ガイダンスの1日だけで、当然のように留年した。(H大学は1年時も留年する)
こうなると学校に友達がいないので、ますます疎遠となり代返やノート借りもできずに、バイトの後輩のつてを頼ってなんとかしのいで2年となった。
H大学は2年から3年には留年がないので、私もストレートで進級した!
そんなんだから3年から4年には不可能なぐらい単位が必要になっていたので、これまた当然のように留年した。両親が岐阜から飛んできた。「止める」「止めるな」と押し問答になったが、その後留年せずに卒業できた。
4年ダブッている人を私以外見たこともないので、私は恥ずかしいというより自慢にしてる。昔はコンパでも、この話で何人も頂いている。(何を?ナイショ!)
そんな好き勝手やって親不孝をかけてきた私なので、息子の健太に何をされてもしょうがないと思っている。