Bunkamura 2009年6月13日-8月16日
まずは公式サイトから本展の趣旨を転載:
だまし絵」は、ヨーロッパにおいて古い伝統をもつ美術の系譜のひとつです。古来より芸術家は迫真的な描写力をもって、平面である絵画をいかに本物と見違うほどに描ききるかに取り組んできました。それは、そこにはないイリュージョンを描き出すことへの挑戦でもありましたが、奇抜さだけでなく、あるときは芸術家の深い思想を含み、また時には視覚の科学的研究成果が生かされるなど、実に多様な発展を遂げました。本展覧会では、16、17世紀の古典的作品からダリ、マグリットら近現代の作家までの作品とともに、あわせて機知に富んだ日本の作例も紹介し、見る人の心を魅了してやまない「だまし絵」の世界を堪能していただきます。
開催早々、週末に行列のできる人気の展覧会。主眼が「だまし絵」ということで、正直軽い気持ちで足を運んだのだが(そして中には詰めの甘さに突っ込みを入れたくなる作品もあるにはあったが)、一巡してみればヴァリエーションに富んだ、なかなか見応えのある楽しい展覧会であった。
本展の構成は以下の通り:
第1章 イメージ詐術(トリック)の古典
第2章 トロンプルイユの伝統
第3章 アメリカン・トロンプルイユ
第4章 日本のだまし絵
第5章 20世紀の巨匠たち ―マグリット・ダリ・エッシャ―
第6章 多様なイリュージョニズム ―現代美術におけるイメージの策謀
では、章ごとに追っていきたいが、実際の展示は2→3→1→4→5→6となっていることを付記しておく:
第1章 イメージ詐術(トリック)の古典
イタリア・ルネッサンスにおける遠近法の発達により、3次元の世界を2次元に再現することが可能に。この遠近法の応用で、正面からではなく、特定の位置に立って初めて何が描かれているのかがわかるアナモルフォーズ(歪曲像)と呼ばれる画法も生まれる。
『ウェルトゥムヌス(ルドルフ2世)』 ジュゼッペ・アルチンボルド (1590頃)
ちょっとグロテスクでもあり、摩訶不思議なこの肖像画のモデルは、古代ローマの果樹と果物の神、そして季節の移り変わりを司るウェルトゥムヌスになぞらえられたルドルフ2世。要するに皇帝の統治と繁栄を祝福している肖像画なのだが、ルドルフ2世は政治への関心は薄く、学問や芸術の庇護に力を入れた人であったらしい。アルチンボルドも、この王のために骨董や珍奇な動物などの買い付けも担当していたそうだ。果物、野菜、花を整合させて肖像画に誂えるこの発想の豊かさ。構図が決まったら、描いていて楽しかっただろうな。
『ルドルフ2世、マクシミリアン2世、フェルディナント1世の三重肖像画』 パウルス・ロイ (1603年)
自分の立ち位置を動かすと、画中の人物が二人になったり一人になったり。画面が蛇腹になっていて、角度を変えることにより観える面が切り替わる仕組み。皆絵の前で右往左往。
『判じ絵-フェルディナント1世』 エアハルト・シェーン (1531‐34)
正面からでは何が描かれているのかわからないが、画面左に体を移動させて横から観ると、鼻の高い男性の顔が立ち現れる。CGもないはるか昔、鑑賞されるべき視点を固定して、細かく対比を計算しながら引き伸ばしていったのだろうか。普通の遠近法ですら相当頭を使うと思うが、こんな芸当よく出来るものだ。
第2章 トロンプルイユの伝統
トロンプルイユとは「目だまし」のこと。モティーフを本物そっくりに写実的に描きつつ、3D効果のようにこちらに飛び出してくるように鑑賞者の視覚を惑わすような楽しい作品群。
『非難を逃れて』 ペレ・ボレル・デル・カソ (1874)
チラシの表紙にある、インパクト抜群の絵。初めて知る画家。写実的で、額縁からこちら側に逃げてこようとする少年の切羽詰まった表情は臨場感がある。タイトルも意味深だが、所蔵先がマドリードのスペイン銀行というのが面白い。日頃飾っているのだろうか?
『花瓶の花』 ヤーコプ・マレール (1640年以降)
実は純粋に絵画としては最も気に入った作品。まん丸い花瓶の中に映り込むアトリエの描写が秀逸。もし1枚好きな作品を持って行ってよいと言われたら、私はこれを選ぶ。
『ヴァニタス-画家とその妻の肖像』 アントニー・ヴァン・ステーンウィンケル (1630年代)
妻が背後から支える鏡に映り込む画家の肖像。画家の被る、大きな帽子が気になった。昔の美容院で使われていた、パーマをかけるときに被る器具、もしくはたらいのよう。
『珍品奇物の棚』 ヨハン・ゲオルク・ヒンツ (1666年)
1666年といえば、ヨーロッパは17世紀の大航海時代。棚の上には大小様々な貝殻やサンゴを始め、美しく彫りの装飾がされた花瓶、宝飾品などが並ぶ。同時にさり気なく髑髏も置かれていて、ヴァニタス画の雰囲気も。中央の棚に置かれた一対の杯の、右側のものが最後まできちんと描かれていないのは何故だろう?
『食器棚』 コルネリス・ノルベルトゥス・ヘイスブレヒツ (1663年)
紙のめくれ具合など、写実的に巧く描かれている。奥行きのある棚に物が置かれていると見せかけ、その棚が扉のように開きかけている。だまし絵の王道。
『狩りの獲物のあるトロンプルイユ』 コルネリス・ノルベルトゥス・ヘイスブレヒツ (1671年)
ウサギの毛並みなどはうまく写実的に描かれていると思うが、画面右にかかる青いカーテンの質感が硬すぎていまいち。ついでにアレクサンドル=フランソワ・デポルトの『果物と狩りの獲物のある静物』(1706年)も、解説に"だまし絵としてよりも静物画として優れた作品"とあるが、それほど巧いと思えなかった。画面が大きくなると、画家の技量が如実に出る。
ところで、壁に固定された紐やバンドに身の周りのものを挟み込む「伏差し」のモティーフは17世紀後半以降のトロンプルイユの典型的な意匠として人気があったとのことで、この章ではエーヴェルト・コリエの『壁の伏差し』(17世紀)、サミュエル・ファン・ホーフストラーテンの『トロンプルイユ-静物(伏差し)』(1664年)など、その意匠を汲む作品がズラリと並ぶ一角があった。新聞、ハサミ、櫛、メダル、ネックレスなどがたわわに差し込まれてとても賑やか。
第3章 アメリカン・トロンプルイユ
ヨーロッパで発達したトロンプルイユは、19世紀のアメリカで人気を博し、様々な作品が生み出される。CGを駆使した映画やイリュージョン系のトリックが大好きな現代のアメリカの人たちを思えば、いかにも彼らが喜びそうな世界ではなかろうか?
『インコへのオマージュ』 デ・スコット・エヴァンス (1890年頃)
インコの剥製が入ったケース。ガラスの割れ方がリアル。右下の紙には、このインコは生前フランス語を喋ったという説明が書いてあり、それには画家の「真似事が上手なのは、この画家もインコも同じ」というメッセージが隠されているそうだ。剥製であることも起因しているのだろうが、私には何やら内省的な気分になる絵だった。
『石盤-覚え書き』 ジョン・ハバリー (1895年)
私が一番だまされた絵。額縁が絵であった。つまり、他の作品同様、額に入っているものと思ってしまった。そうか、前章で観てきた伏差しの作品群も、描かれた当初は今自分が観ている状態とは異なって額に入らず、壁と一体になって皆を「だまして」いたのだ。
第4章 日本のだまし絵
西洋のだまし絵に対する日本の答えとも言うべき、幕末から明治にかけて日本の絵師たちが描いた多種多様のだまし絵作品が並ぶ。
『幽霊図』 河鍋暁斎 (1883年頃)
通常織物になっている掛け軸の絵の周囲(表具)の部分も、画家の手によって描かれているものを「描表装(かきびょうそう)」というそうだ。この作品では、首を垂れた女の幽霊が画面からこちらへ出てこようとしている。一緒に冷気までも漂ってくるよう。いいです、出てこなくて。
『正月飾図』 鈴木其一 (19世紀)
上方の立派な赤い伊勢海老と、下の方にこじんまりと鎮座する人物の対比に思わず笑ってしまった。優等生的な絵しか知らない私にとって、鈴木其一の作品で笑ったのは初めてかもしれない。
『としよりのよふな若い人だ』 歌川国芳 (1847-48年)
歌川国芳の人物を組み合わせて作る人の顔シリーズの作品と、歌川広重の障子に映る影絵で出来た隠し絵シリーズは、期間中展示替えが頻繁に行われ、私が行った時は国芳の作品は『人をばかにした人だ』が展示されていた。いずれにせよ、人体を組み合わせて顔を描くなどまさに奇想。決まった文字数に文字をはめ込んで句を作る俳句の意匠にも通ずるものを感じた。
第5章 20世紀の巨匠たち ―マグリット・ダリ・エッシャ―
イリュージョン効果を詐術的に操る手法の発展形の一つとして、20世紀のシュルレアリストの画家であるダリやマグリットの作品、そして視覚トリックと言えばこの人という感じのエッシャーの作品などを観ていく。
『囚われの美女』 ルネ・マグリット (1931年)
マグリットの作品が7点も並んでいてちょっとびっくり。確かに画面はトリッキーであるが、視覚で遊ぶというよりもイマジネーションを刺激され、静謐な思考へと誘ってくれるマグリット作品をだまし絵というカテゴリーで括られるのはちょっとした抵抗感がなきにしもあらず。とは言え、20年以上も前に東京国立近代美術館で開催された大がかりなマグリットの回顧展で観て、大判のプリントを買った『白紙委任状』(1965年)に再会できたのは感無量。
M.C.エッシャーの作品群も、皆楽しそうにのぞき込んでいた。
第6章 多様なイリュージョニズム ―現代美術におけるイメージの策謀
さて、ここでは現代美術におけるイリュージョニズムの例を探る。基本的にこれまでの章は2次元の絵画世界での勝負であったが、ここからは立体、映像、写真など表現手段は多様になる。
「small planet」シリーズより 本城直季 (2006年)
よくこんなに小さな人間の模型を作ったもんだ、と思ったら本物であるらしい。私は写真の撮影技術に関しては説明を読んでもよくわからないが、とにかくこの作家さんは実際の風景や人物をミニチュアのように見せる手法で写真を撮るそうである。周囲の風景がピンボケで、その中でうごめく人々がおもちゃのように浮き出る不思議な世界。
『虚空 No.3』 アニッシュ・カプーア (1989年)
最近よく名を聞くターナー賞受賞作家。この度、かのロンドンのロイヤル・アカデミーにて、現代美術家としては1988年のヘンリー・ムーア以来の個展を開くそうだ。それはともかく、この作品には虚をつかれた。横から観ると中が空洞の、黒い半球の断面であるのがわかるのだが、正面に回って対面すると、あるはずのない中の容量が存在を主張する。しばし横、正面と動き、不思議な感覚を味わった。虚空を見詰めるとはまさにこのこと。
『水の都』 パトリック・ヒューズ (2008年)
横長の作品で、ヴェネツィアの運河に立つ街並みが描かれている。その街並みが、自分の動きに合わせて動く。逆遠近法を駆使した手法だそうで、実は3Dの画面なのだが、本来出っ張るところを引っ込め、引っこんでいるところを出っ張らせるとこのような画面が出来るらしい。恐らくここが一番盛り上がっていたかもしれない。私が観に行ったときはマダムたちがそれは楽しそうにアクティヴに鑑賞していて、背後を注意しながらその隣の福田美蘭の『壁面5°の拡がり』(1997年)を鑑賞していたのだが、案の定マダムの一人に背中をドンと押された。第1章の『ルドルフ2世、マクシミリアン2世、フェルディナント1世の三重肖像画』同様、周囲の鑑賞者の動きに気をつけられたい。
冒頭に書いたとおり、混雑が予想される展覧会。公式サイトによると、夏休みに入り平日も混み出したが、まだ週末よりは平日の方が鑑賞しやすいとのこと。また、最終日まで連日21時まで夜間延長開館しているので、13時-16時のピーク時を外し、夕方以降の時間帯がお薦めだそうだ。8月16日まで。
まずは公式サイトから本展の趣旨を転載:
だまし絵」は、ヨーロッパにおいて古い伝統をもつ美術の系譜のひとつです。古来より芸術家は迫真的な描写力をもって、平面である絵画をいかに本物と見違うほどに描ききるかに取り組んできました。それは、そこにはないイリュージョンを描き出すことへの挑戦でもありましたが、奇抜さだけでなく、あるときは芸術家の深い思想を含み、また時には視覚の科学的研究成果が生かされるなど、実に多様な発展を遂げました。本展覧会では、16、17世紀の古典的作品からダリ、マグリットら近現代の作家までの作品とともに、あわせて機知に富んだ日本の作例も紹介し、見る人の心を魅了してやまない「だまし絵」の世界を堪能していただきます。
開催早々、週末に行列のできる人気の展覧会。主眼が「だまし絵」ということで、正直軽い気持ちで足を運んだのだが(そして中には詰めの甘さに突っ込みを入れたくなる作品もあるにはあったが)、一巡してみればヴァリエーションに富んだ、なかなか見応えのある楽しい展覧会であった。
本展の構成は以下の通り:
第1章 イメージ詐術(トリック)の古典
第2章 トロンプルイユの伝統
第3章 アメリカン・トロンプルイユ
第4章 日本のだまし絵
第5章 20世紀の巨匠たち ―マグリット・ダリ・エッシャ―
第6章 多様なイリュージョニズム ―現代美術におけるイメージの策謀
では、章ごとに追っていきたいが、実際の展示は2→3→1→4→5→6となっていることを付記しておく:
第1章 イメージ詐術(トリック)の古典
イタリア・ルネッサンスにおける遠近法の発達により、3次元の世界を2次元に再現することが可能に。この遠近法の応用で、正面からではなく、特定の位置に立って初めて何が描かれているのかがわかるアナモルフォーズ(歪曲像)と呼ばれる画法も生まれる。
『ウェルトゥムヌス(ルドルフ2世)』 ジュゼッペ・アルチンボルド (1590頃)
ちょっとグロテスクでもあり、摩訶不思議なこの肖像画のモデルは、古代ローマの果樹と果物の神、そして季節の移り変わりを司るウェルトゥムヌスになぞらえられたルドルフ2世。要するに皇帝の統治と繁栄を祝福している肖像画なのだが、ルドルフ2世は政治への関心は薄く、学問や芸術の庇護に力を入れた人であったらしい。アルチンボルドも、この王のために骨董や珍奇な動物などの買い付けも担当していたそうだ。果物、野菜、花を整合させて肖像画に誂えるこの発想の豊かさ。構図が決まったら、描いていて楽しかっただろうな。
『ルドルフ2世、マクシミリアン2世、フェルディナント1世の三重肖像画』 パウルス・ロイ (1603年)
自分の立ち位置を動かすと、画中の人物が二人になったり一人になったり。画面が蛇腹になっていて、角度を変えることにより観える面が切り替わる仕組み。皆絵の前で右往左往。
『判じ絵-フェルディナント1世』 エアハルト・シェーン (1531‐34)
正面からでは何が描かれているのかわからないが、画面左に体を移動させて横から観ると、鼻の高い男性の顔が立ち現れる。CGもないはるか昔、鑑賞されるべき視点を固定して、細かく対比を計算しながら引き伸ばしていったのだろうか。普通の遠近法ですら相当頭を使うと思うが、こんな芸当よく出来るものだ。
第2章 トロンプルイユの伝統
トロンプルイユとは「目だまし」のこと。モティーフを本物そっくりに写実的に描きつつ、3D効果のようにこちらに飛び出してくるように鑑賞者の視覚を惑わすような楽しい作品群。
『非難を逃れて』 ペレ・ボレル・デル・カソ (1874)
チラシの表紙にある、インパクト抜群の絵。初めて知る画家。写実的で、額縁からこちら側に逃げてこようとする少年の切羽詰まった表情は臨場感がある。タイトルも意味深だが、所蔵先がマドリードのスペイン銀行というのが面白い。日頃飾っているのだろうか?
『花瓶の花』 ヤーコプ・マレール (1640年以降)
実は純粋に絵画としては最も気に入った作品。まん丸い花瓶の中に映り込むアトリエの描写が秀逸。もし1枚好きな作品を持って行ってよいと言われたら、私はこれを選ぶ。
『ヴァニタス-画家とその妻の肖像』 アントニー・ヴァン・ステーンウィンケル (1630年代)
妻が背後から支える鏡に映り込む画家の肖像。画家の被る、大きな帽子が気になった。昔の美容院で使われていた、パーマをかけるときに被る器具、もしくはたらいのよう。
『珍品奇物の棚』 ヨハン・ゲオルク・ヒンツ (1666年)
1666年といえば、ヨーロッパは17世紀の大航海時代。棚の上には大小様々な貝殻やサンゴを始め、美しく彫りの装飾がされた花瓶、宝飾品などが並ぶ。同時にさり気なく髑髏も置かれていて、ヴァニタス画の雰囲気も。中央の棚に置かれた一対の杯の、右側のものが最後まできちんと描かれていないのは何故だろう?
『食器棚』 コルネリス・ノルベルトゥス・ヘイスブレヒツ (1663年)
紙のめくれ具合など、写実的に巧く描かれている。奥行きのある棚に物が置かれていると見せかけ、その棚が扉のように開きかけている。だまし絵の王道。
『狩りの獲物のあるトロンプルイユ』 コルネリス・ノルベルトゥス・ヘイスブレヒツ (1671年)
ウサギの毛並みなどはうまく写実的に描かれていると思うが、画面右にかかる青いカーテンの質感が硬すぎていまいち。ついでにアレクサンドル=フランソワ・デポルトの『果物と狩りの獲物のある静物』(1706年)も、解説に"だまし絵としてよりも静物画として優れた作品"とあるが、それほど巧いと思えなかった。画面が大きくなると、画家の技量が如実に出る。
ところで、壁に固定された紐やバンドに身の周りのものを挟み込む「伏差し」のモティーフは17世紀後半以降のトロンプルイユの典型的な意匠として人気があったとのことで、この章ではエーヴェルト・コリエの『壁の伏差し』(17世紀)、サミュエル・ファン・ホーフストラーテンの『トロンプルイユ-静物(伏差し)』(1664年)など、その意匠を汲む作品がズラリと並ぶ一角があった。新聞、ハサミ、櫛、メダル、ネックレスなどがたわわに差し込まれてとても賑やか。
第3章 アメリカン・トロンプルイユ
ヨーロッパで発達したトロンプルイユは、19世紀のアメリカで人気を博し、様々な作品が生み出される。CGを駆使した映画やイリュージョン系のトリックが大好きな現代のアメリカの人たちを思えば、いかにも彼らが喜びそうな世界ではなかろうか?
『インコへのオマージュ』 デ・スコット・エヴァンス (1890年頃)
インコの剥製が入ったケース。ガラスの割れ方がリアル。右下の紙には、このインコは生前フランス語を喋ったという説明が書いてあり、それには画家の「真似事が上手なのは、この画家もインコも同じ」というメッセージが隠されているそうだ。剥製であることも起因しているのだろうが、私には何やら内省的な気分になる絵だった。
『石盤-覚え書き』 ジョン・ハバリー (1895年)
私が一番だまされた絵。額縁が絵であった。つまり、他の作品同様、額に入っているものと思ってしまった。そうか、前章で観てきた伏差しの作品群も、描かれた当初は今自分が観ている状態とは異なって額に入らず、壁と一体になって皆を「だまして」いたのだ。
第4章 日本のだまし絵
西洋のだまし絵に対する日本の答えとも言うべき、幕末から明治にかけて日本の絵師たちが描いた多種多様のだまし絵作品が並ぶ。
『幽霊図』 河鍋暁斎 (1883年頃)
通常織物になっている掛け軸の絵の周囲(表具)の部分も、画家の手によって描かれているものを「描表装(かきびょうそう)」というそうだ。この作品では、首を垂れた女の幽霊が画面からこちらへ出てこようとしている。一緒に冷気までも漂ってくるよう。いいです、出てこなくて。
『正月飾図』 鈴木其一 (19世紀)
上方の立派な赤い伊勢海老と、下の方にこじんまりと鎮座する人物の対比に思わず笑ってしまった。優等生的な絵しか知らない私にとって、鈴木其一の作品で笑ったのは初めてかもしれない。
『としよりのよふな若い人だ』 歌川国芳 (1847-48年)
歌川国芳の人物を組み合わせて作る人の顔シリーズの作品と、歌川広重の障子に映る影絵で出来た隠し絵シリーズは、期間中展示替えが頻繁に行われ、私が行った時は国芳の作品は『人をばかにした人だ』が展示されていた。いずれにせよ、人体を組み合わせて顔を描くなどまさに奇想。決まった文字数に文字をはめ込んで句を作る俳句の意匠にも通ずるものを感じた。
第5章 20世紀の巨匠たち ―マグリット・ダリ・エッシャ―
イリュージョン効果を詐術的に操る手法の発展形の一つとして、20世紀のシュルレアリストの画家であるダリやマグリットの作品、そして視覚トリックと言えばこの人という感じのエッシャーの作品などを観ていく。
『囚われの美女』 ルネ・マグリット (1931年)
マグリットの作品が7点も並んでいてちょっとびっくり。確かに画面はトリッキーであるが、視覚で遊ぶというよりもイマジネーションを刺激され、静謐な思考へと誘ってくれるマグリット作品をだまし絵というカテゴリーで括られるのはちょっとした抵抗感がなきにしもあらず。とは言え、20年以上も前に東京国立近代美術館で開催された大がかりなマグリットの回顧展で観て、大判のプリントを買った『白紙委任状』(1965年)に再会できたのは感無量。
M.C.エッシャーの作品群も、皆楽しそうにのぞき込んでいた。
第6章 多様なイリュージョニズム ―現代美術におけるイメージの策謀
さて、ここでは現代美術におけるイリュージョニズムの例を探る。基本的にこれまでの章は2次元の絵画世界での勝負であったが、ここからは立体、映像、写真など表現手段は多様になる。
「small planet」シリーズより 本城直季 (2006年)
よくこんなに小さな人間の模型を作ったもんだ、と思ったら本物であるらしい。私は写真の撮影技術に関しては説明を読んでもよくわからないが、とにかくこの作家さんは実際の風景や人物をミニチュアのように見せる手法で写真を撮るそうである。周囲の風景がピンボケで、その中でうごめく人々がおもちゃのように浮き出る不思議な世界。
『虚空 No.3』 アニッシュ・カプーア (1989年)
最近よく名を聞くターナー賞受賞作家。この度、かのロンドンのロイヤル・アカデミーにて、現代美術家としては1988年のヘンリー・ムーア以来の個展を開くそうだ。それはともかく、この作品には虚をつかれた。横から観ると中が空洞の、黒い半球の断面であるのがわかるのだが、正面に回って対面すると、あるはずのない中の容量が存在を主張する。しばし横、正面と動き、不思議な感覚を味わった。虚空を見詰めるとはまさにこのこと。
『水の都』 パトリック・ヒューズ (2008年)
横長の作品で、ヴェネツィアの運河に立つ街並みが描かれている。その街並みが、自分の動きに合わせて動く。逆遠近法を駆使した手法だそうで、実は3Dの画面なのだが、本来出っ張るところを引っ込め、引っこんでいるところを出っ張らせるとこのような画面が出来るらしい。恐らくここが一番盛り上がっていたかもしれない。私が観に行ったときはマダムたちがそれは楽しそうにアクティヴに鑑賞していて、背後を注意しながらその隣の福田美蘭の『壁面5°の拡がり』(1997年)を鑑賞していたのだが、案の定マダムの一人に背中をドンと押された。第1章の『ルドルフ2世、マクシミリアン2世、フェルディナント1世の三重肖像画』同様、周囲の鑑賞者の動きに気をつけられたい。
冒頭に書いたとおり、混雑が予想される展覧会。公式サイトによると、夏休みに入り平日も混み出したが、まだ週末よりは平日の方が鑑賞しやすいとのこと。また、最終日まで連日21時まで夜間延長開館しているので、13時-16時のピーク時を外し、夕方以降の時間帯がお薦めだそうだ。8月16日まで。
もうツボにはまりました。
大人も子供も楽しめる素晴らしい展覧会でしたね。
展示替えがあったようなので、夏休み中に出かけようと思います。
私もヴァニタスの世界は心が落ち着くので、とても好きです。
おっしゃる通り、展示室の中は楽しげな話し声が充満していました。
日本画、特に浮世絵は細かく展示替えがあるから大変ですね。
コピーしか観られませんでしたが、国芳の「みかけはこはゐがとんだいゝ人だ」
というタイトルには笑ってしまいました。
仰るようなマグリットなど、これが「だまし絵?」と思う部分もありましたが、エンターテイメントとしてはなかなかの完成度を誇る展覧会でしたね。楽しめました。
マグリットの他、好きな其一、前期では抱一もあって満足出来ました。
もう一度とは思うのですが、ちょっと混雑が怖くて迷っているところです…。
本当に、よくあれだけ多岐に渡る作品を集め
ましたよね。皆楽しそうに鑑賞していて、
会話が弾んでいる様子が印象的でした。
日本画なども、あのようなシチュエーションで
鑑賞するとまた新鮮です。確かに押し合い
へし合いはイヤですが…。
やっぱり実物を見ると感激度合いが
違いますよね…驚きばかりですもん。
トラックバック、初めてなので
違ってたらすみません。
ボクのブログで、ここのブログを
紹介させていただきましたので
ご報告しておきます。
ありがとうございますm(__)m
こんばんは。
コメント、そして拙ブログをご紹介いただき
ありがとうございました。
洋の東西を問わずいろいろな仕掛けの作品が
並んでいて、理屈抜きに楽しかったですよね。
『水の都』の作者のサイトでは、作品を動画で
紹介していますが、やはり実物を観るに限ります。