l'esquisse

アート鑑賞の感想を中心に、日々思ったことをつらつらと。

ヴィクトリア駅

2008-10-27 | その他
ミレイ展の感想ついでに、イングランドでの思い出話をひとつ。

ある日、学校帰りにテイト・ギャラリー(現テイト・ブリテン)に寄って行こうと思い立った。思い立ったその瞬間から、頭の中にラファエル前派/ヴィクトリア朝時代の甘美な絵画群がフワフワと去来している。

地下鉄で行けば一番早いのだが、天気もいいし、特に急ぐ理由もない。たまにはバスの車窓からロンドンの街並を眺めながら行くのも悪くないなぁ、と思った。近場だとテイト・ギャラリー行きのバスはヴィクトリア駅から出ている。

ヴィクトリア駅は、ロンドンで最も大きなターミナル駅の一つ。長距離列車、地下鉄、バス、タクシーが行き交い、イギリス人のみならず世界中からやってくる観光者も含め、大勢の人々の群れがひっきりなしに往来している。

所定のバス停は、複数車線のある広い道路に面していた。時刻表なんてなかったと思うが、あっても無意味だろう。運がよければすぐ来るし(しかも2台連なって来たりして)、来なけりゃそんなバス存在するのかという不安に苛まれる。

この日も車の往来を眺めながら待つこと20分。このあたりでバスを諦めて地下鉄で仕切り直すか、いやいやここまで待ったのだから意地でもバスに乗ってやる、という葛藤が始まる。この日は天気もいいことから、後者を選ぶことにした。そうやって更に待つこと10分。おーっ!お目当ての番号を掲げたバスが角を曲がってくるではないか。ああ、良かった、と思ったその時だった。

私の肩の下あたりから甲高い女性の声が響いた。「スィーテン、プリーズ?」

へ?と思って目線を下げると、頭にスカーフを巻いた小柄なおばちゃんが、つぶらな瞳で私を見上げている。なんですと?聞き返すと、おばちゃんはバスの乗り場を私に聞いているらしい。バス亭前の、離れた車線に滑り込んできたバスの運転手さんに私は大げさに手を振り、「私、そのバスに乗りますから!」と無言の合図を送りつつバス停のポールを見上げた。上の方に、そのバス停に止まるバスの番号が表記されている。確かに『C10』というのがあった。私はおばちゃんに、「C10のバスはこのバス停に来ますから、そのままお待ちになったらいいと思います」と言い、彼女の"Thank you"という甲高い声を背に自分が待ち焦がれていたバスへ向かって急いで車線を渡って行った。

ところが、である。私がバスのドアの前まで行くのと同時に、私の鼻先でドアがプシュ~ッと閉められたではないか。

呆然と立ち尽くす私


が、ドアは再びすぐ開けられ、その先の運転台には「うそだっよ~ん!」というようなイタズラ顔を私に向け、ドアの開閉ボタンをニカニカ笑って押す運転手の顔があった。

あのさー、やっていいことと悪いことがあるんだってば

ジョン・エヴァレット・ミレイ展

2008-10-26 | アート鑑賞
2008年8月30日-10月26日 Bunkamura ザ・ミュージアム

かれこれ15年近く前になるが、学生としてロンドンに1年強住んでいた頃に、よくロンドン市内の美術館に足を運んでいた。テイト・ギャラリー(現テイト・ブリテン)もその一つ、特にヴィクトリア朝時代の作品の並ぶ展示室には飽きることなく通ったものだった。とりわけジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの「The Lady of Shalotte」がお気に入りで、この絵の前に立っている時間が一番長かったように思う。

しかしながら、ジョン・エヴァレット・ミレイの「オフィーリア」の密度の濃い緑の色彩は、作品としてはそれほど大きくないものの素通り出来ないオーラをいつも放出していて、ラファエル前派の展示室に入ると必ず目がそちらに泳いだ。勿論いく度となくこの絵の前に立ってじっくり眺めもしたが、今思えばなんて贅沢な時間だったのだろう。

そのミレイの「オフィーリア」が、日本にやってきた。それだけでも胸が高鳴るし、ミレイの作品をまとめて観る稀な機会(驚くことに、このようなミレイの大規模な回顧展は画家の没2年後の1898年にロイヤル・アカデミーで催された展覧会以来110年ぶりだという)を、日本にいながらにして得ることができたのは本当に喜ばしい。

展覧会を構成する七章は以下の通り:

Ⅰ ラファエル前派
Ⅱ 物語と新しい風俗
Ⅲ 唯美主義
Ⅳ 大いなる伝統
Ⅴ ファンシー・ピクチャー
Ⅵ 上流階級の肖像
Ⅶ スコットランド風景

個人的に印象に残った作品を、上記の章に従って記しておく:

Ⅰ ラファエル前派

「ギリシャ戦士の胸像」 (1838‐39)

石膏像のデッサン。「黒のチョーク、白のハイライト、紙」のみで、よく平面にこのような3次元の世界を出来させることが出来るものだと感嘆。そしてこれがミレイ9歳の時の作品と知って驚愕する。正に天恵の才、恐るべし。

「両親の家のキリスト(「大工の仕事場」)」 (1849‐50)

「おそらくラファエル前派兄弟団が生み出した最も悪評高い作品」と解説にあるが、ラファエル前派が標榜する芸術活動の趣旨、すなわちラファエロ登場以降の、「完璧な理想の美」を規範とする「アカデミズム」を否定するという点ではそれをよく体現している作品だと思う。登場人物の固い動き、美化とは無縁の優美さのない表情、平坦な画面。くっきりとした輪郭線も特徴的。

「マリアナ」 (1850-51)



アルフレッド・テニスンがシェークスピアの『尺には尺を』から引用して詠んだ詩「マリアナ」に基づく絵で、マリアナは「難破により持参金を失ったために婚約者アンジェロに捨てられ、堀で囲まれた館で孤独な生活を送る女性」。窓辺の机から立ち上がり、腰に手を当て軽く反り返るマリアナの虚ろな表情はまた、より普遍的な、女性が時々に感じる倦怠の時間を表しているようにも取れ、共感を覚える。女性の光沢ある紺のサテンのドレス、鮮やかなステンドグラス、机の上の刺繍などの質感描写等、ミレイの技量に浸れる作品。

「オフィーリア」 (1851‐52)



「オフィーリア」の画中に展開する水辺の緻密な描写は圧倒的だ。ミレイはサリー州ユーウェルのホッグスミル川で数カ月に渡ってスケッチを繰り返し、「植物学的な正確さに固執」した。ガーデニングもさることながら、学問的に資料と成り得るほどの観察眼が遺憾なく発揮されるボタニカル・アートも盛んなイギリスである。ミレイにその気質の伝統を見ることも可能ではないだろうか。ちなみにこの絵に描き込まれているヒナギクは純潔を、スミレは報われない愛を、ケシは死を象徴する。オフィーリアのドレスの模様も周囲の植物に呼応して美しい。

でもこの絵の吸引力は、何と言っても溺死する女性の姿(漱石流に言えば土左衛門!)をリアリスティックに描いた点にあると思われる。口を半ば開け、正気を失ったオフィーリアの死にゆく表情には鬼気迫る臨場感、恍惚感が漂う。オフィーリアを描いた作品は数あれど、このミレイの作品が一番生々しいのではないだろうか。何せロセッティの恋人エリザベス・シダルが、ミレイが古着屋で見つけてきた衣装を着て、湯を張った浴槽の中で何時間も忍耐強くポーズを取ったというのだから、妥協を許さず執拗にリアリズムに迫ったミレイの姿勢が見て取れる。これが24歳の時の作品だなんて甚だ恐れ入る。

Ⅱ 物語と新しい風俗

「1746年の放免状」 (1852‐53)

縦長の画面に左から看守、夫、妻と3人の大人が立ち、夫婦の間にいる大きな犬も後ろ足で立ち上がっている。左腕に赤ん坊を抱いた妻は、彼女の右肩に顔をうずめる夫の背中越しにイングランドの看守へ放免状を差し出しており、夫および差し出された放免状を覗き込む看守の二人の顔がうつむいて描かれている中、妻だけが顔を上げている。彼女のどこも見ていないような視線、固く結んだ口元。その表情から、戦地の同胞たちを残して自分の夫だけ帰還したことに対する複雑な心中を察するが、赤ん坊と夫を支える女性の強さをとても感じさせる。母の腕の中で寝入っている赤ん坊の握っている黄色い花は何だろう?

夫の履いている2色のウールの靴下や、黒い犬の長く伸びる背中の毛並の質感描写が素晴らしい。赤ん坊の着ている服や夫の履くキルトに見られるタータン・チェックの模様も、ミレイはきちんと氏族を考証して描いている。この絵において、後に彼の妻となるエフィー・ラスキンが初めてモデルを務めたそうだ。

Ⅲ 唯美主義

「安息の谷間 「疲れし者の安らぎの場」」 (1858)

美術雑誌で初めて観た時の異様な印象は、実作品を目の前にしてより増長された。観れば観るほど奇異な絵である。舞台は夕暮れの墓地。絵の構成としては比較的シンプルできっちりしている。前景に対照的な姿態で描かれる美しい尼僧が二人。一人は白い細腕に青筋を立てながら、墓穴を掘っている。今まさにシャベルで土をかき出そうとしており、半開きの口元からは荒い息遣いが聞こえてきそうだ。こちらが動ならもう一人は静。棺が埋められた後に立てるであろう墓石の上に姿勢正しく座り、膝の上で手を組んで身じろぎせず大きな瞳でこちらを見ている。中景には墓地が広がり、後景には糸杉やポプラが夕空を背景に真横に並び立つ。夕焼けの空には、糸杉同様死をシンボライズしていると思われる紫色の笠雲のような雲がポッカリ浮かぶ。右端の地面に置かれた二つの花輪は尼僧とキリストとの結婚を暗示しているというが、祝福や安寧のムードは余り感じられない。不吉な美しさが漂う、まさに唯美主義的な作品。

「エステル」 (1863‐65)

旧約聖書からの主題。大理石の柱と床の白、束ねていた長い髪を振りほどきながら、今まさにエステルが入ろうとしている部屋の前に下がる幕の青、エステルが着用している長い上着の黄色と、白・青・黄の3色で成り立っているような大胆な色彩。上着の下方の刺繍が施された部分の描写は随分粗いと思ったら、ミレイは上着を裏返しにしてモデルに着せていた。発光しているような輝きのある黄色の使い方がミレイらしい。

Ⅳ 大いなる伝統

「しゃべってくれ!」 (1894‐95)

ヴィクトリア時代に起こった超自然現象ブームにミレイも関心を寄せていたことがわかって興味深い。元恋人の男性の寝室に純白の花嫁姿で現れる女性の幽霊。怯えながらも手を必死に差し伸べる男性の影が、枕元のロウソクによってベッドの天蓋から下がる布に黒々と映し出される。この絵に描かれる四柱のベッドは、ミレイがわざわざこの作品のために購入したという。ランプも美術館で見つけた物の精巧な複製を作らせたという力の入れよう。この花嫁姿の人物が、幽霊なのか女性なのか見分けがつかないという感想に、ミレイは嬉しそうに「自分にも見分けがつかない、それにあの男も(人間なのか幽霊なのか)」と答えたという。ちょっと背筋が寒くなる。

この幽霊のモデルを務めたメアリー・ロイドについては、私はフレデリック・レイトンのお気に入りの女性モデルとして記憶していた。あの「灼熱の6月」でもポーズを取った女性。この「しゃべってくれ!」と、その「灼熱の6月」が、1895年にロイヤル・アカデミーの同じ部屋に並んで展示されたという事実を知り、また今回のミレイ展においても「聖ステパノ」や「使徒」など彼女をモデルとした作品数点を観るにつけ、ヴィクトリア朝時代を代表する二人のセレブ画家にこんなに描いてもらえたなんて何とも羨ましい女性だと思ってしまった。

Ⅴ ファンシー・ピクチャー

「はじめての説教」 (1863)



この絵を前にして微笑まない人がいるだろうか?教会の信徒席の上に、緊張に体を固くしながら、背筋を伸ばし、足を揃えて座る女の子。つぶらな瞳は不安げで、ふっくらとした頬に反して小さな口元はきゅっと結ばれている。子供ながらに必死にお行儀よくしていようと頑張る様子がいじらしい。背景の茶色がかったモス・グリーンの壁に少女の羽織る緋色のマントが美しく映える。このあどけない美少女はミレイの長女エフィー、当時5歳。ミレイが初めて自分の子供をモデルに描いた作品だそうだが、それにしてもミレイの子供たちは男女とも皆美形揃い。

ファンシー・ピクチャーには「空想的な絵画」との訳注がされていたが、「可愛いもの/センチメンタルな風俗画」というニュアンスの方が私にはピンとくる。今回のミレイ展にも展示されている国立西洋美術館所蔵の「あひるの子」は、私をイギリスで過ごした佳き日々にふわりと連れ戻す。ヴィクトリアン絵画、特にファンシー・ピクチャーと呼ばれる分野の絵は文房具屋で鈴なりに売られているグリーティング・カードによく使われているし、あまたあるアンティーク・ショップでは、必ず複製画をはじめ何がしかこのような絵柄を使った品物を見つけることができる。現代のイギリス人にとっても、英国が繁栄していたヴィクトリア朝時代のある種のノスタルジーを感じさせる図柄なのだろう。

Ⅵ 上流階級の肖像

「エフィー・ミレイ」 (1873‐74)

ミレイが45歳の妻エフィーを描いた肖像画。どちらかというと繊細でひ弱そうなミレイの風貌に対し、妻の目は鋭く、口元は言葉少なに要点だけをピシっと言いそうな感じに見える。間違いなくミレイは妻の尻に敷かれていたと想像してしまうが、ミレイの彼女に対する尊敬の念、愛情もまたそこはかとなく漂う。彼女の膝の上に置かれているのは「コーンヒル・マガジン」(小説なども載せていた当時の教養雑誌で、ミレイやレイトンなども挿絵を描いていた)で、指をさすのは脱穀の絵、すなわちエフィーが「絵を早く仕上げて新しい絵に取り掛かるよう始終夫を急かせていた」ことを表しているという。このような作品は、強い信頼関係で結ばれた夫婦であるが故に描かれ得たと思うし、きっとミレイもこの肖像画を描きながら笑みを浮かべ、出来上がった作品を観たエフィーも笑顔だったことだろう。尚、ミレイはその生涯に四人もの首相の肖像画を描いた。

Ⅶ スコットランド風景

ミレイの風景画は初めて観た。ミレイにとって風景画を描くこと、特に画業の後半に至っては、現場に立って目の前の自然を正確に画布に写し取ろうという意識よりも、一人自然と静かに対峙し、対話し、自分の心情を沈静させ投影しながら描くことの方が大事だったのではないだろうか。何せ11歳でロイヤル・アカデミーに入学し、24歳で「オフィーリア」を世に出した画家。その後も注文が引きも切らない人気画家であり続けたわけだから、若い頃から生涯を通じて彼の周囲は騒々しく、時として神経に堪える環境であったことだろう。そんな状況から逃避し、心身のバランスを保つためには、人気のないスコットランドの自然に包まれて絵筆を動かしている時間がとても大切だったのだろう。

大衆の嗜好に迎合し、商業主義に走って本来の才能を無駄にした画家という批判もあるようだが、「一筆たりともなおざりにしたことはなかった」という彼の言葉は、彼の画家人生の成功を何よりも物語っていると思われる。最後に欲を言えば、イギリスでの展覧会には含まれていた「イザベラ」と「ロンドン塔の王子たち」は観たかった。