l'esquisse

アート鑑賞の感想を中心に、日々思ったことをつらつらと。

没後120年 ゴッホ展 こうして私はゴッホになった

2010-11-21 | アート鑑賞
国立新美術館 2010年10月1日(金)-12月20日(月)



本展の公式サイトはこちら

タイトルに「こうして私はゴッホになった」とある通り、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)の太く短い画業の変遷を、本人の作品のみならず、影響を受けた芸術家たちの作品や関連資料なども交えて紹介する展覧会。ゴッホの油彩画36点、版画・素描32点、他の芸術家の油彩画31点、版画8点、その他の関連資料が16点、合わせて123点という作品構成になっている。

大がかりなゴッホ展といえば、2005年に近美で開催された展覧会が印象深いが(あれから5年も経つとは早いものです)、あの時私にとって発見だったのは、『レストランの内部』(1887年)という、スーラ風の点描技法で描かれた作品だった。私の不勉強もあるが、言ってみれば力でねじ伏せるような絵の具の厚塗り画面で描く人というイメージが強かったゴッホが、こんな柔らかい画風の絵も描いていたのか、と意外だった。

今回の展覧会は、この画家がどのように独自の画世界を築いていったのか、時代を追ってより深く探るもの。バルビゾン派、写実主義、オランダのハーグ派、ドラクロワの技法、印象主義、そして浮世絵。概ね独学だったという彼がインプット(他の画家の作品の模写など)とアウトプット(自作制作)を飽くことなく繰り返し、試行錯誤していく様は観ていてとても興味深い。

こんな言い方をしたらとても失礼かもしれないけれど、素人目にはゴッホの描いた模写作品などは技術的に余り上手に思えなかったし、彼自身の作品にしても、とりわけ後半の方の波打つ筆触の油彩作品は個人的にあまり得意ではなかった。

でも、ゴッホが絵描きとして過ごしたのはたったの10年間。その短い時間でこの精神活動の密度はやはり凄いことだと改めて驚くし、観ていくうちに、絵を描くことはゴッホにとって「自己の存在理由」に他ならないのだということがひしひしと伝わってきもした。

いきなり長々と書いてしまったが、本展の構成は以下の通り:

Ⅰ. 伝統―ファン・ゴッホに対する最初期の影響

Ⅱ. 若き芸術家の誕生

Ⅲ. 色彩理論と人体の研究―ニューネン

Ⅳ. パリのモダニズム

Ⅴ. 真のモダン・アーティストの誕生―アルル

Ⅵ. さらなる探求と様式の展開―サン=レミとオーヴェール=シュル=オワーズ

では、いくつか作品も挙げておきたいと思います:

『灰色のフェルト帽の自画像』 (1887年)『自画像』 (1887年)

  

自画像でもこの画風の差。帽子を被っている方は、背景の処理も含めてまるでモザイクのよう。絵の具を筆で塗るというよりは、木版画を彫刻刀で彫っているような、あるいは色をはめ込んでいくような力強さ。

『アルルの寝室』 (1888年) 



私が近美で観た同名の作品(オルセー所蔵)とちょっと違うなと思ったら、実はこの有名な作品は3点存在するそうで、オランダのファン・ゴッホ美術館所蔵のこちらがオリジナルとのこと。会場では絵の横にこの寝室が実物大に再現されていた。

『ゴーギャンの椅子』 (1888年) 



ゴッホが南仏アルルに芸術家仲間との共同体を夢見てコツコツと準備した「黄色い家」。結局ゴッホの呼びかけでやってきたのはゴーギャンただ一人、そしてその数ヵ月後にあの余りに有名な悲劇的結末を迎えてしまう。この家でゴーギャンが座っていた椅子に本と共に置かれた一本の蝋燭の灯に力はなく、祈りが通じなかったゴッホの無念を象徴しているようにも思える。

『ある男の肖像』 (1888年)



「ぼくは100年後の人々にも、生きているかの如く見える肖像画を描いてみたい」。ちょっと変わったアングルで男性の表情を捉えたこの肖像画は、そんなゴッホの言葉の通り、今にも語りかけてきそうだ。男性の上着と背景の色の対比も鮮烈。
 
『あおむけの蟹』 (1889年)



どんな対象物にも真摯に対峙したゴッホの描く蟹は、やはりすごい存在感を放つ。
   
『渓谷の小道』 (1889年)



私にはとても不思議な絵に映った。真ん中の下半分に髭を生やしたおじいさんの骸骨があり、山肌の紅葉した草木が燃えながら浮遊する人魂のようにも。いずれにせようねりまくった筆触に軽いめまいを起こしそう。

『アイリス』 (1890年)



背景のクローム・イエローはまさにゴッホの色。どの油彩絵もどうしても筆触の迫力に目が行ってしまうが、やはりゴッホは色彩の人だとしみじみ思う。

私が行ったのは10月下旬で、まだオルセー展ほど混んでいなかったけれど、今日本展のサイトを見てみたら入場者数も既に30万人を突破だそうです。来月はもう師走、これからという方も極力早目に行かれることをお勧めします。

隅田川 江戸が愛した風景

2010-11-15 | アート鑑賞
江戸東京博物館 2010年9月22日(水)-11月14日(日)

*会期終了



昨日で終わってしまったが、隅田川をテーマに企画された本展を観に、先月末に久しぶりに江戸東京博物館に行ってきた。途中浅草橋の駅を通った際に東京スカイツリーが目の前に現れ、テンションも急上昇。

会場入り口の解説パネルによると、この博物館は開館前から20年以上かけて様々な資料の収集や保管を行っていて、隅田川が描かれた絵もその対象の一つだったとのこと。聞くからに充実した内容が想像されるが、実際に構成も以下の通り、企画者の力の入れようが伝わってくるようなもの:

プロローグ 古典から現世へ

第一章 舟遊びの隅田川

第二章 隅田川を眺める
 (一)広やかな景色を楽しむ
 (二)隅田川界隈の名所絵さまざま
 (三)橋をめぐる光景

第三章 隅田川の風物詩
 (一)春
 (二)夏
 (三)冬

エピローグ 近代への連続と非連続
 (一)江戸から東京へ
 (二)都市東京の隅田川

それでは、印象に残った作品の画像を挟みながら、感想を留めておきたいと思います。

『上野浅草図屏風』 筆者不詳 (江戸前期・17世紀末頃)

上野の寛永寺と浅草の浅草寺、そこに詣でる人々やその周辺に広げた赤い敷布の上で太鼓を打ち鳴らして踊る人々、そして隅田川に浮かぶ満員御礼の沢山の屋形船などが詳細に描かれた六曲一双の屏風。桜が咲いているからすぐ春の情景とわかりますが、金粉も散らしてあり、華やかに、そしてとても細かく描き込まれています。

隅田川は解説にある通り、舟遊びの場として川自体が名所である上、両国橋界隈、浅草、向島界隈と江戸名所の宝庫。沢山の風俗画が生まれるわけですね。

『推古天皇三十六年戌子三月十八日三社権現由来』 歌川国貞(三代豊国) (1847~52年頃)

 部分

解説によると、浅草寺の本尊聖観音像は、推古天皇三十六年(628年)に宮古川(隅田川)で漁をしていた漁師の網にかかったものだと「縁起」にあるそうで、この作品はそれを題材にした3枚続の大判錦絵。3人の漁師が大げさなポーズで舟の上に網を引き揚げている場面で、まだ揚げ切らない網の先から光が放たれ、中に観音像がかかっていることを暗示する。光の直線的な表現が印象的。ちなみに同じ作者による、漁師たちを3人の女性に置き換えた『宮古川三社の由来』(1844~7年)と見比べるのも面白い。

隅田川の他の題材としては、『伊勢物語』第九段「東下り」(在原業平が隅田川のほとりで都鳥(ユリカモメ)を見て都をしのぶエピソード)と「梅若伝説」(都からさらわれてきて隅田川のほとりで亡くなった梅若の悲しいエピソード)がよく取り上げられているとのこと。やっぱり知らないことが多いなぁ。。。

『絵本隅田川両岸一覧』 葛飾北斎 (1801-3~1804-17頃)

 部分

三叉に分かれたこんなにごっつい釣針で何を釣っているのでしょう?しかもこんなに非活動的な格好で。。。

『隅田川風物図屏風』 鳥文斎栄之 (1826年)

川の流れをこれだけ長く一気に描いている屏風は他に例がないと解説にある通り、六曲一双の画面に広がる隅田川の大パノラマ。橋(それにしてもこんなに長い木造の橋がいくつもかかっているのはすごい。中にはお祭りで人が集まり過ぎて、永代橋が崩落するシーンを描いた作品もあったが)や寺社などの名前も書き込まれている。遠くには筑波山が霞み、川の上を白鷺のような白い鳥の群れが渡っていく。昔は視界を遮る高層建築もなく、川の景観はさぞやすっきりと開放感のあるものだったことでしょうね。

『蘭字枠江戸名所 隅田川』 渓斎英泉 (文政(1818年~29年)中頃)



突如洋風。

『名所江戸百景』 歌川広重 (1856年)



再度純和風。舟の上の、緑色の簾に映り込む女性の横向きの影。まだ少し空に明るみが残るが、やがて縁どりに迫る濃紺色が画面を覆ってしまうことでしょう。

『三囲神社を望む立美人図』 蹄斎北馬 (文政から天保(1818~43年)頃)

渡り船を待っている女性。今でいえば流しのタクシーを待つ女性かな、などと言うと味気ないが、たゆたう波が海のように広々としていて、背後の舟に乗る親子3人連れも微笑ましい。

『天明八戌申蔵江戸大相撲生写之図屏風』 凌雲斎豊麿 (1788年)

 右隻部分

六曲一双の作品で、右隻には隅田川の東にある回向院(えこういん)境内での相撲から引き揚げてくる力士たち、左隻には日本橋を左から渡ってくる力士たちが描かれている。絵だけでも迫力満点。

『向ふ嶌乃夜桜』 歌川国貞(三代豊国) (1860年)

 部分

三枚続の大判錦絵。満開の桜を背景に、各1枚に美人が一人ずつ描かれる。この右端の女性が持っている箱には江戸前のお寿司でも入っているのでしょうか?あるいはお団子みたいな甘いもの?

『蛍狩美人図』 蹄斎北馬 (江戸時代後期・19世紀前半頃)



江戸時代には隅田川にも蛍が生息していて、夏の風物詩として愛されていたそうだ。それにしてもこの二人の女性、害虫退治にでも向かうような戦闘モード。その勢いで団扇で叩いたら、か弱い蛍が死んでしまうのでは?

『両国橋夕涼花火見物之図』 作者不詳 (江戸後期~末期・19世紀頃)



「影からくり絵」。本紙の一部をくり抜いて薄紙を貼り、暗い所で後ろから光を当てるとその部分が光るという仕掛けになっている。前半にも同様の作品があったが、この作品は展示室で本当に光を当てたところを見せてくれる。画像では分かりにくいと思うが、上段の絵に光を当てると下段のように光がパッと灯る。家々の障子や屋形船の提灯に煌々と灯りが灯り、夜空に月や花火が浮かびあがる様はとても幻想的で、絵の中に入ってしまったような錯覚を覚えた。好きです、こういうの。

『東都両国夕涼之図』 歌川貞房 (天保(1830~43)頃)

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ひしめき合う人々の余りの多さに思わず笑ってしまったが(よく見ると、この大混雑の中スイカの大きな切り身を持って花火を見上げているツワモノも)、隅田川の花火大会は今も100万人を集めるビッグ・イベント。他にも花火を楽しむ人々を描いた作品、実に多し。

『東都名所四季之内 両国夜陰光景』 歌川国貞(三代豊国) (1853年)

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シルエットで浮かびあがる両国橋や屋形船を背景に、料亭でまったりと宴会中の女性6人。いわゆる女子会ってやつでしょうか。染付風の器に入ったお料理や徳利を前に、女性だけですっかり寛いでいる様子。画像では切れてしまっているが、髪を乱して既に出来上がってしまっている風の人も。

『江戸名所四季の眺 隅田川雪中の図』 歌川広重 (弘化から嘉永(1844~53)頃



雪の情景も風情があるが、裸足の足元がいかにも寒そう。後ろの船頭さんたちも薄着だし、昔の人はよくこんな薄着で冬を過ごせたもの。そういえば夏には酷暑で喘いだ今年も気づけば11月も早や半ばで、確実に季節は巡っている。今年の冬は雪は降るのかなぁ。。。イギリスでは例年より3週間早くシベリアから白鳥が渡ってきたので、厳冬が予想されると言っていたけど。

『東京二十景 新大橋』 川瀬巴水 (1926年)



時代は下って大正の景色。橋には西洋風の装飾が施され、空には電線が張り巡らされている。降りしきる雨の中、濡れた道路に反射してたなびく街灯の光が匂い立つ。

普段は、今に残る明治や大正時代の西洋建築に浪漫を感じてうっとり見ているのに、どうしたことだろう、この展覧会の終わりの方に西洋の事物が入ってくると、喪失感のようなものが込み上げてきた。隅田川に柔らかい放物線を描いて掛かる木の橋のような江戸時代の日本人の大らかさが、西洋建築の直線で断ち切られてしまったような、寂しい気持ちになってしまった。

いずれにせよ、いろいろな作品が観られてとても楽しい展覧会でありました。