l'esquisse

アート鑑賞の感想を中心に、日々思ったことをつらつらと。

レッド・バードレット

2009-09-27 | アートその他
今日、近所のスーパーに買い物に行った時、ある一角で私の足は止まった。

梨やら葡萄やら柿やらと秋の美味しそうな果物が並ぶ中、それは一つ一つ緩衝材の白い網に包まれて並べられていた。

西洋ナシの形をしているが、私は黄緑系のものしか見たことがない。この色は、まさに。。。

セザンヌ!

 ほら、ね?

私はスーパーのカゴを握りしめ、しばしその果物の山に目が釘付けになってしまった。

名前は「レッド・バードレット」というらしい。秋田県産。どれもグリーンと赤の入り具合が微妙に異なって、見ているだけでわくわくしてくる。だって、セザンヌの静物画が目の前で展開しているようで。

ようやく一つだけ選んでカゴに入れた。スーパーでこんなにハイ・テンションになっている客は私くらいでしょうね。

家に帰って、すぐさま今年のカレンダーをめくってみた。

あ、8月に使われているこの絵、ちょっと雰囲気が似ている。



今もPCの横にこの果物を置いて(香りはリンゴに似ているのね)、手の中で回しながら色を観察したり、ヘタの部分を見つめたり、ひっくり返したり、真上から見てみたり。

明日の朝、食べてみよう。

鴻池朋子展 インタートラベラー 神話と遊ぶ人

2009-09-25 | アート鑑賞
東京オペラシティアートギャラリー 2009年7月18日-9月27日



数度しか実作品を拝見したことはないが(私が初めて鴻池さんの作品に出会ったのは、2007年秋に開催された川口市アートギャラリー・アトリアでのグループ展、「物語の真っ只中」展だった)、私にとって鴻池朋子さんは卓越した画力の人、というイメージが強い。だから今回の個展も襖絵が一番の楽しみではあったが、作家さんご本人のお話を含め、数々のメディアで紹介される本展の趣旨を見聞きするうちに、別の次元で期待感が高まっていった。

「展覧会を観る行為を地中への旅に見立てた展覧会」という、大きなギャラリーを丸ごとインスタレーション作品にしてしまったような展覧会。あのオオカミやらナイフやら、恐らくまだ私の知らない諸々のモティーフが溢れる鴻池ワールドが全開され、すごい空間になっていそうだ。

チケットを購入し、入り口へ向かおうとすると、前方に立つ「地中へ 0km」という道しるべが目に入る。

そう、この展覧会の構成は地球の深度に合わせて章立てされている。[上部マントル]に始まり、[下部マントル]、[外核]、[内核]へ。各部屋の出口には幕が下がっており、作品を観終えたらそれを自分で押し開け、次の深度へと歩を進めていく。最後は地球の中心まで到達し、そしてまた地上へ還ってくる(はずだ)。

それともう一つ、インタートラベラーとは、「異なる世界を相互に往還し、境界をまたぐ人を指す、作家による造語」だそうで、作品では赤いシューズを履いた子供の下半身で表わされている。

では、この旅で心に残った作品を記しておきたい:

『隠れマウンテン―襖絵』 (2008)

4枚組のパネルに描かれた襖絵。182cmx544cm。富士山のような三角形の山に、人間の目、鼻、口が描かれている。パッチリした釣り目を覗きこむと、その瞳に山が映り込んでいた。まるで山が己の姿を宿しているように。山肌に走るのは神経細胞のようにも見える。顔の真ん中で襖は左右に開かれていて、その向こうに次の展示物が姿を現す。

絵本『みみお』原画 (2001)
『バージニア―束縛と解放の飛行』 (2007)
『ミミオ―冬の最後の日』 (1998)

椅子がグルリと渦巻きのように並べられ、その上にケースに入った『みみお』の原画が置かれている(ざっと数えたら38点あった)。『みみお』は鴻池さんのアニメーション作品に登場する、顔のないクリーチャー。解説によると、単に顔が描けないままに描き進めてこうなったそうだ。ふわふわとしたたんぽぽの種、松ぼっくり、植物類など、鴻池さんの鉛筆画はやっぱり上手だなぁ、と見入る。

同じ部屋にこのみみおの5分ほどのDVD作品、『ミミオ―冬の最後の日』 (1998)も流されていた。なんだか朴訥とした味わいがあり、昔の白黒のミッキーマウスのアニメを想起した。

頭上には、大きな立体作品、『バージニア―束縛と解放の飛行』が吊るされている。羽の生えた昆虫のように見えるが、鹿の角やインタートラベラーの2本足が生えている。

幕を押し開け、[下部マントル]へ。

『第4章 帰還―シリウスの曳航』 (2004)
『第3章 遭難』 (2005)
『第2章 巨人』 (2005)
『第1章』 (2006)

それぞれ220x630cmある大型の平面作品。四角い部屋の赤い壁の四方に1枚ずつかかり、部屋の真ん中には大きな白いユリが活けられている。この4作は特に関連性があるわけではなく、まず第4章が描き上げられ、続いて1年半の間に第3章、第2章、そして第1章と描き上げられたそうだ。どの作品にも、この作家さん独特のファンタジー・ワールドが展開する。鴻池さんの大胆かつ流れるように動的な画面構成と繊細な筆触、色彩が冴え渡る。やっぱり上手いなぁ、と展示室、いや、[下部マントル]をぐるぐる。ここに入った時は他に数人旅人がいたのに、我に返ったら私一人になっていた。さ、幕をくぐって[外核]へ。

『シラ ― 谷の者 山の者』 (2009)

それぞれ4枚のパネルから成る、3組の襖絵にコの字型に取り囲まれる。待ってました!

入って左手の一組目には、人間の足が生えた黒いアゲハ蝶が集っている。中央では三美神のごとく3人(羽)が円陣になっていたり、左端にはしゃがんで横顔を見せるものもあり。足は筋肉の解剖図を思わせるが、やはり羽の美しい描写に目が行き、幻想的な雰囲気に包まれる。全体的な蝶の配置のバランスも美しい。

正面に対峙するは、中央にドカンと鎮座する髑髏。歯の隙間から金粉を左右にゴーッと吐き出している。左上に惑星がポッカリ。宇宙的な画空間。

 部分

右手には、チラシ4枚に渡って分割で紹介されているオオカミの群れ。こちらは後ろ足2本だけ人間の足になっている。全部で6匹描かれているが、皆大きな口を開けて咆哮している。様々なポーズをとるオオカミたちのフォルム、体毛の緻密な描写が見事。記憶がおぼろげだが、解説パネルに「二つ足で見えない時は四足になってみろ」という言葉があった。このオオカミたちはやはり私たちの化身なのだろうか。

襖絵を十分堪能したあと更に歩を進めると、2007年に初見で魅了された『梵書―World of Wonder』(2007)が。本のページを開くと大洪水の水が大暴れ。ボートは宙を飛び、木々やオオカミは波に飲み込まれ。どうしたらこのような豊かな想像力が生まれるのでしょうか。



その後も澁澤龍彦の本の挿絵など平面作品が通路に連なり、それを覗きながら進んでいくと、さあ、いよいよ地球の中心へ。

『赤ん坊』 (2009)

大きな正方形の部屋に入ると、手すりが巡らされた自分の立ち位置より一段下になっている床の真ん中に、ミラーボールのような巨大な赤ん坊の頭部(310x170x234cm)。鏡の小さな断片を全面に貼り付けられたその頭部は、照明を浴びてゆっくり回転し、壁に銀河のような反射を放つ。壁の上を渦巻きのように回転していくその反射光に包まれているうちに、回転しているのは赤ん坊の頭部ではなく、自分であるような錯覚に陥る。私はすっかり酔ってしまい、赤ん坊や壁から目を離し、手すりにつかまってしばらく下の床を凝視して酔いを覚ました。この展示室の中に警備員さんが立っているので、千鳥足で出口に向かうのは恥ずかしい。「地球の中心で創造と破壊のうぶ声を上げながら回転する赤ん坊」に三半規管を破壊されてしまった。

『後ろの部屋』 (2009)

よたりながら『赤ん坊』の部屋から出て呼吸を整える間もなく、今度は目の前に10体ほどの、狼の全身の毛皮が天井からぶら下がっている。結構低い位置まで下がっていて、その間を縫うように通り抜けないと次に進めない。ふらつく頭にこの目の前の光景は現実味が薄く感じられる。入口で「動物の毛にアレルギーをお持ちの方は受付にお申し出下さい」とあったのは、このことだったらしい。ま、特に問題なくすり抜けたが。

ところで以前から私は鴻池作品を観る度に、小学生の頃行った自然史・郷土史系の博物館の展示物の雰囲気を思うことがあった。絶滅した動物をはく製のように再現したものや、狩りや火を起こす原始人たちの生活を再現したものなどが並ぶ、ちょっとカビ臭いような空間。そんな私には、このオオカミたちの作品は出会うべくして出会ったのだという気がした。

ここを出れば、再び地上の光の下へ。また現実の世界に戻ってしまった。でも「神話と遊べる人」とは、つまるところどこにいようと自分の感性と遊べる人なのだ、きっと。

出口に向かって歩いていると、横のベンチにインタートラベラーがちょこんと座っていた。これは写真撮影可なのだが、若い夫婦が赤ちゃんをインタートラベラーの横に座らせて楽しそうに撮影を行っていたので、このあと待ち合わせのあった私は諦めてそのまま去った。

今週末(9月27日)までなので、ご覧になりたい方はお見逃しなく!

尚、このあとインタートラベラーは鹿児島へ旅を続けるそうです。

インタートラベラー霧島編 「12匹の詩人」展
2009年10月9日(金)~12月6日(日)
鹿児島県霧島アートの森



このチラシでは、インタートラベラーは「孤高の旅人」風。

海のエジプト展~海底からよみがえる、古代都市アレクサンドリアの至宝~

2009-09-24 | アート鑑賞
パシフィコ横浜 2009年6月27日-9月23日

昨日で終わってしまったが、観に行った記録として残しておこうと思う。

     

初めて行くパシフィコ横浜。入口でもらった見開きガイドMAPの体裁が”すわ、テーマパーク?”という感じだったが、展示されているのは紛れもなくエジプトの歴史遺物であって、エジプト・マニアでもなんでもない私にも、非常にわかりやすく楽しめる構成になっていた。



とりあえず公式サイトから本展の趣旨を引用しておく:

2000年ほど前にクレオパトラの宮殿があったといわれる、エジプト第2の都市アレクサンドリア。「海のエジプト展」は、この地中海に面した街の海底遺跡から発掘された至宝を紹介する国際巡回展です。約5メートルのファラオの彫像や、ヒエログリフが刻まれたステラ(石碑)、スフィンクスや女神などの石像、金や宝石で彩られたアクセサリー、王の横顔が彫られたコインなど、約490点の作品すべてを日本初公開します。紀元前700年から後800年まで、古代エジプトの「末期王朝」から「プトレマイオス朝」、さらには「ギリシア」「ローマ」時代へとつながる1500年間の歴史をたどる展覧会です。

紀元前7000年頃に始まったエジプト文明のその長い歴史の中で、今回スポットライトが当たっているのは紀元前7世紀以降の終盤のところ。アレクサンドロス大王クレオパトラ7世などが登場し、ローマやギリシャの香りが漂ってくる、個人的には比較的取っつきやすい時代である。

横浜に来るまでにベルリンやパリなどヨーロッパの数都市を巡回し、200万人を動員したそうである。5メートルもある彫像3体を含め、各種石像などの重量級のものからコインなど細々したものまで、よくこの極東の島まで運んできたものだと思うが、それどころの話ではない。これらは天変地異で海底の奥底に水没した三つの古代都市、カノープスヘラクレイオンアレクサンドリアの遺物、すなわち海底から引き揚げられた発掘品。

私にとってアレクサンドリア以外は初耳のこの三都市だが、地図を見るとアレクサンドリアから北東の位置にカノープス、更にその東にヘラクレイオンがある。カノープス、ヘラクレイオンは水没してしまい、アレクサンドリアの海底遺物と共にずっと謎に包まれていたところをフランス人の海洋考古学者フランク・ゴディオ氏が1992年から調査を開始。地形探査による海底地図作りから始まり、15年をかけて三都市の大小様々な遺物を発見、引き揚げ作業を敢行。

一言で引き揚げ作業といっても、並大抵の仕事ではない。海底が粘土層である上に貝殻、砂、泥など様々な沈殿物が厚く堆積する中、巨大なバキューム装置で泥や海藻などを除去していきながら、丁寧に掘り起こしていく。引き揚げ前に現場写真を撮り、スケッチし、採寸し、記録を取る。ヒエログリフが刻まれた石碑などが出た日には、船上で作った大きなシリコン製シートを持って海に入り、表面に張りつけて型取り。これらの作業を全て、酸素ボンベを担いで海底で行うのである。

船上や陸地に引き挙げたら今度は真水に浸して塩抜きし、不純物を細心の注意を持って除去するなど、保存や修復のための多くの作業が待っている。とてつもない知力、精神力、体力、士気の高さ。

展示はシンプルに都市ごとに区分けされているだけだったが(見やすかった)、随所に3分ほどに編集された、それぞれの展示物の発掘シーンが映像で流れていて、思わず見入ってしまった。大きな石像の頭部が海底から出ている様子や、丁寧に泥や海藻をホースで吸い取っているうちに、暗い海底でもなお黄金色に輝くコインが姿を現す様子はスリリング。



ついでにこの壮大なプロジェクトを牽引したゴディオ氏の経歴である。大学で数学を学んだ後、フランス政府の財政顧問として働いていたが、37歳の時に1年間の休暇を取り、かねてから興味があった海洋考古学の本を読んで過ごす。そこから海洋考古学の世界へ入り、エジプトでこの成果を上げることに。かっこいい人生ですね。

前置きが長くなったが、このへんで印象に残った展示物をごく一部だが挙げておきたい:

カノープス

プトレマイオス朝の時代には「セラピス神」(エジプトの、死後の世界を司るオリシス神と聖牛アピスが融合して作られた神)が祀られる「セラピウム」という聖域があった。エジプトと地中海を結ぶ要所でもあり、奇跡の治癒力や商売の場を求めて様々な地域から大勢の人が訪れた。祭りや宴会も催され、巡礼地であると同時に享楽の都でもあった。

『セラピス神像の頭部』 大理石 高さ59cm (前2世紀頃)



巻き毛の頭髪と、豊かなあごひげ。頭飾りのオリーヴの枝。地中海の風が渡ってきそうだ。

『王妃の像』 花崗閃緑岩 高さ150cm (プトレマイオス朝時代 紀元前3世紀頃)



プトレマイオス朝時代の王妃の像の多くは、肩掛けを右胸の上でこのように結んでいるそうだ。解説にある通り、アフロディテとイメージが重なり、しばしうっとり眺める。海から上がり、身体に張りついた濡れ衣を思わせる流れるような襞。文字通りこの像は、水を滴らせながら海底から引き揚げられた。

ヘラクレイオン

ヘラクレス神殿があった場所。エジプト名では「トーニス」と呼ばれていた。エジプトの重要な玄関口の一つであり、神殿にはエジプトのアメン神が祀られ、プトレマイオス朝時代には重要な儀式が行われていたと推測される。

左 『プトレマイオス朝のファラオの巨像』 赤色花崗岩 高さ500cm (プトレマイオス朝時代)
右 『プトレマイオス朝の王妃の巨像』 赤色花崗岩 高さ490cm (プトレマイオス朝時代)



『豊饒神ハピの巨像』 赤色花崗岩 540cm (前4世紀~プトレマイオス朝時代初期)



それぞれ約5mあるこの3体が、伝統的なエジプト芸術の様式に沿い、左足を前へ踏み出したポーズで横に一列に並んで屹立する様は圧巻。漆黒の幕を背景に照明で浮き上がる巨像たちの、赤色花崗岩の色がまた美しかった。

ファラオの巨像の頭部が引き揚げられた際の写真を見れば、その大きさに改めて驚く。



『プトレマイオス3世の黄金の銘板』 金 (プトレマイオス朝時代) 部分



5cm x 10cm、厚み8mmの小さなものだが、角度を変えて見ると文字が点刻されているのがわかる。儀式での奉納品とともに埋められた記念版で、この5行半のギリシャ語の文章にはプトレマイオス王が競技場をヘラクレスに捧げたことが記されているという。海洋性堆積物のわずか20cm下に埋まっていたそうだ。

ネクタネボ1世のステラ(石碑) 花崗閃緑岩 高さ195cm (第30王朝 ネクタネボ1世の治世1年 前378年)



この石碑により、ヘロドトスやヘレニズム時代の地理学者によって言及されていた、所在不明の「トーニス」という町が、実は「ヘラクレイオン」のエジプト名であったことが判明。整然と刻まれたヒエログリフの繊細な彫り、上部の装飾性など、息を飲むほど美しかった。

アレキサンドリア

紀元前331年にアレクサンドロス大王によって建設された、プトレマイオス朝の都が置かれた都市。大図書館、ムセイオン(博物館)、「ファロスの灯台」(世界の七不思議の一つ)が建っていたことでも知られる。ヘレニズム文化圏の芸術・経済の中心地であり、クレオパトラ7世の悲劇でも知られる。

『ハヤブサの頭部を持つスフィンクス』 花崗閃緑岩 (前8~前7世紀(?) )



ホルス神の化身で、ファラオの守護神。人間の耳を持ち、鳥と人間のハイブリッド的な造形が不思議な魅力を放つ。プトレマイオス朝以来、古代エジプトの神々がギリシャ・ローマ神話の神々と同一視されるようになり、天の神であるこのホルスはギリシャ神話のアポロンにあたる。

『カエサリオン像の頭部』 花崗閃緑岩 (前1世紀頃)



クレオパトラ7世とユリウス・カエサルとの間に生まれた息子。目元がギリシャ彫刻を思わせ、への字に曲がった口元が特徴的。この像が置かれた一角でクレオパトラ7世の生涯を紹介する映像も流れていた。

本編とは別に、15分のバーチャル体験シアターやちょっとした参加型アトラクションなどがあったが、個人的にちょこっとテンションが上がったのが、センター・サークル内の「古代エジプトの香り体験」のコーナー。12種類ある香りの中に「乳香」があるではないか。ご存じ、西洋画の主題『東方三博士の礼拝』で、聖母に抱かれた幼児キリストに三博士が差し出す贈り物が「黄金」「没薬」、そして「乳香」である。この「乳香」とはどんな香りなのだろうと長年思っていた。樹脂であることも初めて知り、ドキドキしながら鼻を近づけたそれは、想像以上に柔らかい芳香であった。念願成就。

以上、本当にほんの一部の画像しか載せていないが、大小取り混ぜた膨大な展示品の数々及び各種映像を観ていったのに加え、上記のシアター鑑賞や香りのコーナーの列に並んだ時間なども加えると、3時間近くを費やした。楽しい展覧会だった。

イタリア美術とナポレオン展 ~コルシカ島 フェッシュ美術館コレクション~

2009-09-16 | アート鑑賞
大丸ミュージアム・東京 2009年9月10日-9月28日

イタリア美術とナポレオン、という展覧会名がなんとなく掴みどころがない感じではあるが、本展はナポレオン1世の伯父であるジョゼフ・フェッシュ枢機卿(1763-1839)の個人コレクションを基礎として設立されたフェッシュ美術館(フランス領コルシカ島のアジャクシオ市)の所蔵品を紹介する展覧会である。ご存じ、コルシカ島はナポレオン1世の生誕の地。

フェッシュ枢機卿はフランス本土の神学校を出て司祭になったが、1796年のナポレオン1世のイタリア遠征時には一時聖職を離れて従軍、その頃から熱心に美術品の収集を始めた。死後の目録によればその数は16,000点に及んだが、大部分が遺族に相続されるもほとんど競売にかけられ世界各国の美術館に散逸。郷土の文化教育に役立ててほしいと手元に残したイタリア絵画や彫刻、約姉から相続した肖像画など1000点がアジャクシオ市に寄贈された。

フランスにおいてルーヴル美術館の次に多くのイタリア絵画を持つのがこのフェッシュ美術館だそうである。特に17・18世紀のコレクションが充実。

ついでに、現在ヴァチカン美術館が所蔵するレオナルド・ダ・ヴィンチの『聖ヒエロニムス』の、頭部が切断された状態で売られていた絵を古物商で発見して買ったのもフェッシュ卿。メトロポリタン美術館が所蔵するジョルジョーネの『羊飼いの礼拝』も卿のコレクションだったそうな。

さて、本展は57点の絵画(うち1点は3部作)、4点の大理石彫刻、18点の資料からなるが、彫刻、資料は全てボナパルト一族を紹介するもの。絵画にもこの一族の肖像画が10点近く含まれる。

会場に入ると、やや暗めの細長い部屋にバロック絵画が連なり、なんとなくヨーロッパの個人コレクションを公開する邸宅系美術館に入りこんだような雰囲気。

構成は以下の通り、4つの章と二つのセクションから成る:

第1章 光と闇のドラマ―17世紀宗教画の世界
第2章 日常の世界をみつめて―17世紀世俗画の世界
第3章 軽やかに流麗に―18世紀イタリア絵画の世界
第4章 ナポレオンとボナパルト一族
*フェッシュ美術館所蔵のコルシカ風景画家
*ナポレオン関連資料

では、章ごとに印象に残った作品を記しておきたい:

第1章 光と闇のドラマ―17世紀宗教画の世界

『聖母子と天使』 サンドロ・ボッティチェッリ (1467-70年)



色が退色しているのだと思うが、全体に淡い色彩ながら(色大理石と思われる床は色が流れ出しているように観える)、聖母の薄いヴェールや流れるような衣襞が美しい。まだ師匠リッピの作風が色濃い、ボッティチェリ初期の貴重な作品。解説にある通り、この主題は上半身のみが描かれている場合が多いので、このように立ち姿が全身で描かれている作品はあまり観たことがない。

『聖母子』 ジョヴァンニ・ベッリーニ (1460-80年頃)



とても親しみを覚える、清楚な感じの聖母と可愛い幼子イエスの面立ち。優しく自然なポーズ、落ち着いた色彩で、観ていると心が休まる。そばで観ると光輪の打ち出し装飾がレースのように美しい。

『聖ヒエロニムス』 作者不詳 (17世紀前期)



大きな身振りで狼狽する聖人の、右肩や胸骨、みぞおちの辺りの描写に目が行く。身にまとう赤い布が暗い画面に鮮烈に浮かび上がり、ページがめくれる書物も強烈な陰影で描かれている。実は絵を観ているときは気づかなかったのだが、左上から出る手には聖人に向けられたトランペットが握られている。そこからは最後の審判のラッパの音が。

第2章 日常の世界をみつめて―17世紀世俗画の世界

『子供時代』 サンティ・ディ・ティート (1570年頃)



不思議な絵だと思った。両眼をパッチリ開けて、目の前に舞う2羽の蝶を凝視し、右手を伸ばす少女。軽く開いた口元には歯が覗いている。左手には小鳥を握りしめ、固まったようなポーズは人形のようでもある。ドレスの朱、袖の薄紫、オリーブ色の前掛けの布。宗教画に登場する人物たちが身にまとうような色合いの出で立ちのこの少女は何者なのだろう?

サンティ・ディ・ティートはフィレンツェの画家。この作品は人生の四段階を表わしたシリーズの1点で、他に『青年時代』『壮年時代』『老年時代』があるという(是非観てみたい)。この『子供時代』に描かれる少女は、ドレスの朱とコーディネイトしたような珊瑚の首飾りとブレスレットを身につけているが、これは魔よけとして少女を守っており、蝶も足元の風車も、子供時代の不安定さを強調しているとのこと。

『男の肖像』 カルロ・マラッタ (17世紀第四四半期)



遠目にもこの目力に射られる。この一帯は肖像画が並ぶが、この作品はひと際存在感を放つ。白い肌に紅い唇が強調される、中性的でちょっと爬虫類っぽい顔、胸元のレース飾り、大ぶりなリボン装飾がされた袖、と何だかゴシック・ロマン小説の主人公のようだ。

『風景』 パウル・ブリル (1590-1600年頃)



不思議な魅力を放つ風景画。ほとんど青系と茶系の二色の諧調で描きあげられていて、幻想的。ブリルはアントワープ出身で、プッサンやロランなどの古典風景画の先駆者、と解説にあった。

『トルコ絨毯と壁布のある静物』 フランチェスコ・レノッティ (17世紀中期)

とにかく絨毯の質感描写が緻密で見事。絵の具を織り目そのままに盛り上げるような描き方をしていて、そばにある葡萄の瑞々しさとの描き分けが映える。これは実作品を観なくてはわからない。

第3章 軽やかに流麗に―18世紀イタリア絵画の世界

『難破船を救う聖女カタリナ・トマス』 ベネデット・ルティ (1700-10年)



カタリナという聖女は沢山いてこんがらがるが、ここで登場するのはマヨルカ島出身のカタリナ・トマス(1531-1697)で、船乗りの守護聖女。この船、乗組員の数に対して小さすぎませんか?と思うが、マストにしがみつくカテリナの姿態が異様で印象に残ってしまった。

『リべカの出発』 フランチェスコ・ソリメーナ (1705-10年)



実は中央の一番下で、横顔を見せる犬がおもしろくてピックアップしてしまった。上で厳かに別れの挨拶がされている中、まるで呑気にマッサージを受けているような犬。画像ではちょっと切れてしまってイマイチわかりにくいが、会場でご覧になって下さい。

『サン・ニコラ・デイ・ロレネージ聖堂のドーム装飾のための習作』 コッラード・ジャクイント (1731年頃)



1731年にサン・ニコラ・デイ・ロレネージ聖堂の天井とドームに天国を主題とするフレスコ画を制作するよう注文を受け、その下絵として制作された作品6点のうち3点がフェッシュ美術館に所蔵され、その3点全てが今回展示されている。これはそのうちの1点で、描かれているのは聖ヒエロニムス、マグダラのマリア、聖女アニエス、天使たち。完成品を観たことがないが、下絵の淡い色彩と相まって、柔らかい筆遣いにこちらもふわふわした気持ちに。

第4章 ナポレオンとボナパルト一族

『フェッシュ枢機卿』 ジュール・パスクワリーニ (1855年)



こちらがジョゼフ・フェッシュ枢機卿。聖職者の紅の装束に身を包み、重厚な肘掛椅子の上でやや斜に構える。胸にひと際大きく描かれるのはレジオン・ドヌール勲章。卿の死後に制作された肖像画。

『戴冠式のナポレオン1世』 フランソワ・ジェラール (1806年)



よく見かけるナポレオンの肖像画。サイズ223x144cm。ナポレオンの親族に配るため多くのレプリカが工房で制作されたそうだが、本作はジェラールの直接の指示のもとに描かれた作品とのこと。ジェラールはナポレオン1世に何度も頼まれて、皇帝一家付きの肖像画家となったそうだ。ビロード、毛皮、絹、金糸、と質感描写は見事だが、それにしても頭のてっぺんからつま先まで、装飾品も含めコテコテの衣裳である。左足を差し出したポーズは、エジプトの神像の真似?

『エリザ・ナポレオーネ像』 ロレンツォ・バルトリーニ (1810年頃)



ナポレオン1世の姪っ子。解説にある通り、うっとりするほど美しい少女像。ふっくらとした頬、整った目鼻立ち。正面から観ると、その造形の完璧な愛らしさに見とれる。

フェッシュ美術館所蔵のコルシカ風景画家

『バルドニェッロの森』 ジャン=リュック・ムルテド (1866年)



コルシカ島についてほとんど知識がないが、この作品や港などを描いた他の数点の作品を観ると、起伏に富んだ、自然味溢れる島のようだ。1900年以降コルシカ島ブームが起こって、400人以上の画家がコルシカ島を描いた作品をパリの様々なサロンに出品したそうである。

ナポレオン関連資料

ナポレオンの記念メダルや小像などがこまごまと並ぶ中、『ナポレオンのデスマスク』にはビックリした。今までもいくつかデスマスクというものを観る機会はあったが、やはりいつ対面してもドキリとしてしまう。しかもナポレオン1世のそれは複製品が出回り、予約販売が計画されたとある。もの好きな人がたくさんいるんですね。

会期がとても短いので、ご興味のある方はどうぞお急ぎ下さい。

ゴーギャン展

2009-09-14 | アート鑑賞
東京国立近代美術館 2009年7月3日-9月23日

冒頭から何ですが、個人的にあまり得意ではない画家、ポール・ゴーギャン。観る機会も少なくなく、かくも目につく彼の作品が目の前に現れる度に、ああ、ゴーギャン、と思う。なのにその前にあまり長く留まった記憶がない。

彼の作品に私の関心が向かないのは、私がタヒチのような南国の自然やプリミティヴな文化にさほど興味がないことも一因かもしれないが、思えば個展という形でこの画家の作品をまとめて観たことがない。というより、私はこの画家の何を知っているのだろう?この展覧会を観れば、私が見落としているゴーギャン作品の何かが見えてくるだろうか?そんなことをぐだぐだと考えながら、私は近美に向かった。

個展と言っても、全出展数53点、うち油彩画は24点のみ。とはいえ、彼の最高傑作とされる『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこに行くのか』(ボストン美術館からアメリカの外に出るのは今回がたった3例目だそうである)というクライマックスを含め、彼の画業の変遷を追いながら展観できるようになっている。勿論これだけで彼を云々できるわけはないが(実際さまざまな疑問も浮かんだ)、それでも私なりに、今までよりはゴーギャンという画家への理解が深まる、有意義な展覧会だった。

公式サイトはこちら

本展の構成は、シンプルに以下の3章から成っていた:

第1章 野性の解放
第2章 タヒチへ
第3章 漂泊のさだめ

結局カタログは買わなかったので、メモを元に順を追って感想を残しておこうと思う。

第1章 野性の解放

ゴーギャンは17歳で船乗りとなり、その後株式仲買人に転じて成功。そう聞くと芸術にあまり縁のある人物に思えないが(ロンドンのシティでトレーダーの仕事をしていた友人の言葉、「この手の職業で成功するには教養は邪魔」という言葉が浮かぶ)、この人はもともと絵を描くのが好きだったらしく、印象派絵画のコレクターとなり、カミーユ・ピサロに絵の手ほどきを受け、ついには34歳で脱サラ、画家の道を歩み始める。これにより、結婚して四男一女までもうけて幸せに暮らしていた生活にもピリオド。

そんなゴーギャンの初期の作品がこの章には並ぶ。当然最初は印象派の影響が大きいが、そこからの脱却を図って移住したフランス北西部のブルターニュにて描かれた作品では画風ががらりと転換。

『オスニー村の入口』 (1882-83)

ピサロの教えを忠実に守って描かれたような、細かい筆触が印象派風の風景画。少量であるが、中景に固まって建つ家屋の屋根や木のハイライトなどに使われた朱色に目が行く。ただし、その屋根の集まり具合がぎこちない感じ。

『愛の森の水車小屋の水浴』 (1886)

芸術新潮7月号はゴーギャン特集だが、その中の記事にゴーギャンが同性愛の趣味も持っていたらしいことが書かれてあったので、裸の少年たちが並ぶこの作品もちょっとそんな目で観てしまう。特に左端の、体をしならせて座る少年のポーズは少女のようだ。

『アリスカンの並木道、アルル』 (1888)

損保ジャパン美術館で観るときと、こうしてゴーギャン展での一作品として展示されているのとではこうも観え方が違うものかと思った。前者ではいつもスルー状態だったが、今回は木からはらはらと落ちる紅葉した葉の繊細さに気づく。

『洗濯する女たち、アルル』 (1888)



川に向かって前かがみの姿勢で洗濯をする女たち。彼女らが身につけるスカートやスカーフなどは、くっきりとした輪郭線に縁取られてフラットに色塗りされている。印象派からの脱却とナビ派へ与えた影響を思う。左下に二つの中途半端な顔が唐突に描かれていて、いったい画家がどこからこの情景を観ているのかわからず、あやふやな画面にしている。しかも右側の人物の顔の上にはサインと年号が乗ってしまっている。

『家畜番の少女』 (1889)

この絵に左下から右上に伸びる対角線を引くと、右下側はいいとして左上側の、まるでほうれん草のお浸しみたいな木が好きじゃない。よく観ると細かく塗っているのだが。中央の木の左側に観える白いピラミッドのようなものは何?

『ブルターニュの少年と鵞鳥』 (1889)

少年が寄りかかる岩が不安定(底部が浮いているように観える)が気になる。右で羽を広げる鵞鳥は何か意味があるのだろうか?一瞬ブルターニュはフォアグラの産地で鵞鳥が一杯いるのかと思ったが、そうでもないらしい。

『海辺に立つブルターニュの少女たち』 (1889)



少女たちの顔や手、不釣り合いに大きな足の描き方を観て、タヒチに行く前からこんな画風で人物を描いていたのかと初めて知った。右側の少女の左肩から右上に伸びる木には、もはや初期の細やかな筆触はない。

『二人のブルターニュ女のいる風景』 (1889)



対角線状に右上に伸びる木の枝の下に、俯いて座る二人の女性。ブルターニュ特有の白い頭巾をかぶっている。構図、柔らかい色彩はとてもいいと思うのだが、左上の木がどうも好きじゃない。今後ゴーギャンはこんな風に木を描いていくことになるのだが。。。

『純潔の喪失』 (1890-91)

異質な作品。私にはあまりゴーギャンっぽく感じられない彩度の低い色の帯がやや単調に横にたなびき、これまたゴーギャンが描く裸体にしては異様に白い全裸の女性が横たわる。開いているのか閉じているのかよくわからない女の目元。彼女の胸に手を置き、意味ありげに目を吊り上げてこちらに視線を送る狡猾そうなキツネ、体に沿って置かれた女の右手が握る1輪の花、重ね合わされた女のつま先、丘の向こうからやってくる人の行列。ゴーギャンが孕ませた20歳のお針子がモデルで、しかも彼は身重の彼女を残してタヒチに行ってしまったという。タイトルといい、ゴーギャンはどんなつもりでこの作品を描いたのだろう?

ところで結局私は、ゴーギャンの作品としてはブルターニュ時代の絵が一番好きらしい。絵は線と色彩でできているという原初的なこと、そのことで観る者の心を豊かにしてくれるのが絵なのだ、と語りかけてくるような気がする。

第2章 タヒチへ

タヒチの原始や野性が自分の芸術の探求に新たな活力を吹き込むと信じたゴーギャンは、1891年にタヒチへ旅立つ。1歳から7歳までペルーのリマで育ち、「私の出生の背景はインディアンでありインカである」と自ら語るゴーギャンは、自分の中にある「野蛮人」の感性がタヒチで解放されることを願った。実際すでにこの地も西洋文明の洗礼を受けていたが、タヒチの風土の中にキリスト教的なモティーフが描かれたりと、独特な絵画世界が広がる。

『かぐわしき大地』 (1892)



「楽園追放」タヒチ・バージョン。タヒチにはリンゴと蛇が存在しないので(蛇がいないというのは意外)、真っ赤な翼を広げるトカゲが女性に何やらそそのかし、女性は花に手を伸ばす。大地を踏みしめる女性の大きな足が印象的だが、頭も画面に入りきらないほど女性が大きく描かれている。彼の作品には、人物が画面からはみ出している構図の絵が目につく。画面のプロポーションが何だというのだ、といわんばかりに。

『オヴィリ』 (1894-95)

彩色された、高さ75cmほどの石膏像。その手前、像の横には、この像と同じようなポーズをとる女性が描かれた油彩画、『エ・ハレ・オエ・イ・ヒア(どこへ行くの?)』 (1892)が置かれている。画中、その上半身裸の女が腰から下に両手で抱えているのは、はじめ黒い袋か何かと思ったら、ダックスフントのような犬だった。犬の腰から下が画面から切れてしまっていて、どんな抱え方をしているのか不自然な感じがするが、全身像であるこの石膏像『オヴィリ』では、同じように抱えられた動物の後ろ脚が女のふくらはぎに載っていて安定感がある。とはいえ、この像は「野性」の女神で、抱える動物は彼女の野性のパワーを表わしているという。足元にも女神に踏みつけられる獣がいて、解説にゴーギャンはこの像を自分の墓碑にすることを考えていたとあった。一瞬お墓を護る神様の像かと思ったが、ゴーギャンはこの像を「殺人者」とも呼んでいて、足元に踏みつけられる獣はゴーギャン自身という説もあるらしいので、実際の作品意図はわからない。

『パレットを持つ自画像』 (1984)

筆を握る右手が青白すぎるとか、パレットの上の絵の具が不自然とか、左目の下のシェイドが傷口みたいなどと思ったら、ゴーギャンに鼻で笑われそう。不敵な面構えにもまして私は背景の鮮やかなバーミリオンにゴーギャンの主張を感じる。やはり自画像、しかも画家であることを自負しているような作品の背景には、自分の勝負色を使いたかったのだと思う。

『ノアノア』連作版画

1回目のタヒチ滞在からフランスに帰国後の1893年、パリのデュラン・リュエル画廊にてタヒチで制作した作品のお披露目をするが、反応は芳しくない。まずは鑑賞者にタヒチの自然や文化について知ってもらう必要があると思ったゴーギャンは「タヒチ滞在記」を執筆することに。これが『ノアノア(かぐわしき香り)』で、その挿絵として制作されたのがこの連作版画。①自摺り版(数が少ない1点もの)、②ロワ版(友人ルイ・ロワに依頼して制作された30部のセット。朱色が特徴的)、③ポーラ版(ゴーギャンの4男ポーラによる1921年の後摺りで、限定100部。モノクローム)の3種類があり、作品によりこれらから2種類もしくは3種類が展示され、比較しながら鑑賞できるのは大変興味深い。モノクロームと朱が入るのとでは、同じ作品でも雰囲気ががらりと変わる。全般的には、ロワ版は朱が強すぎるだけでなく黒インクもつけ過ぎの感が否めないものがあったが、マリオの神話からインスピレーションを得たという#29 『テ・アトゥア(神々)』などは、逆光に浮かぶ神々の輪郭に朱がいい効果を出していた。ポーラ版は彫りがよく観て取れる。

第3章 漂泊のさだめ

1893年にパリに戻るも、タヒチで描いた作品は理解されず。幻滅したゴーギャンは二度とヨーロッパに戻らない覚悟で1895年に再びタヒチへ。健康状態も悪化、経済状態も逼迫した中で制作活動もままならない孤独の生活に、追い打ちをかけるように最愛の娘アリーヌの死の知らせが届く。ゴーギャンは絶望の淵へ投げ出され、生涯の集大成、『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこに行くのか』 を描いたのち、1901年にマルキーズ諸島に移住、1903年にこの地で波乱の人生の幕を下ろした。

『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこに行くのか』 (1897-98)



この絵が展示されている展示室の手前の部屋で、5分くらいの解説映像が流れている。解説と言っても小難しいものではなく、画面に描きこまれた図像のポイント各所をクローズ・アップしながら、鑑賞者の注意を喚起するもの。

これを観終えて隣の部屋に歩を進めると、展示されているのはこの作品1点のみ。縦139.1×横374.6cmの大作であり、ゴーギャンの画業の集大成と言われる通り、これまでの作品に登場した様々なモティーフが多数描きこまれている。「死ぬ前に、たえず念頭にあった大作を描こうと思い、まる一月の間、昼も夜もこの作品に取り組んだ」というゴーギャンは、実際この作品を仕上げたあとに大量の砒素を飲み込み、自殺を図る。文字通りゴーギャンが生命をかけて描き上げた渾身の一作に、どう対峙すればいいのだろう?

作品タイトルになっている問いと呼応させながら、画面を右から左へ追っていく。右端の赤ん坊、中央の若い青年、そして左端の老婆と平たく鑑賞していけば、これは人生の春夏秋冬を謳ったものにも観える。でも左の老婆のポーズがパリの博物館にあったペルーのミイラを源泉としていると聞くと、自分の出生の背景はインカであると自負するゴーギャンが自身の源泉と重ねているようにも思え、また右の赤ん坊へ輪廻していくようにも思える。

タヒチの神像、様々な姿態で描かれる画中の人物(像も入れれば13人)や動物たちを観ていく中、私が一番惹かれるのは神像の横に立つ少女である。その死により、画家に最後の力を振り絞らせ、この大作を描かた画家最愛の娘アリーヌと言われている。ゴーギャンがフランスからタヒチに去るとき、他の家族が皆冷淡だった中、彼女だけは父を気遣い、笑顔を見せたという。その笑みは、ほとんど死と隣り合わせにあるゴーギャンにますます幻想のごとく蘇ったのではないだろうか。そう思うと、この鬱蒼たる南国の風景は、すでに現世とも思えない雰囲気が漂ってくる。

『ファア・イヘイヘ(タヒチ牧歌)』 (1898)

右から左へ流れていく暖色のグラデーションが美しい。描き込みのバランスも良いせいか、それほど大きな画面ではないのに巻物のようなスケール感がある。特に青ざめた色彩の『我々はどこから来たのか~』の後に観ると、温かみが戻ってきたような心もちがする。

その他、朱色が復活する『テ・パペ・ナヴェ・ナヴェ(おいしい水)』 (1898)、両性具有の人物が描かれた『赤いマントをまとったマルキーズ島の男』 (1902)、自らが葬られることになる、丘の上の墓所の白い十字架が印象的な『女性と白馬』(1903)などが並ぶが、薄塗りの画面にはもはや豪胆な色彩も筆触もない。

こうして見ると、波乱に満ちているとは言え、55歳で幕を閉じたゴーギャンの人生は決して長くないし、何より絵を描いていた期間がたった20年強しかないのには改めて驚く。先に挙げた芸術新潮7月号のゴーギャン特集で彼の「下半身事情」を読むと、沢山の女性に(しかも特にタヒチではローティーンの少女にも)手を出し、身を孕ませながら責任を取らない態度は「野蛮性」云々の前にただの「野獣」じゃないかと辟易もした。でも最初にタヒチに行くときは画家として成功して家族を迎えに行く心づもりであったし、タヒチで絵画用の画布ではなく、穀物を入れる粗い麻袋に絵の具を節約しながら塗りこんで格闘していたのも、そして娘の死に打ちのめされ、あの大作を仕上げたのもゴーギャンなのである。いろいろな意味で稀有な画家であったのだとしみじみ思った。

「イタリアの印象派 マッキアイオーリ ―光を描いた近代画家たち―」 プレスリリース

2009-09-13 | アートその他
9月10日、イタリア文化会館にて開催された「イタリアの印象派 マッキアイオーリ ―光を描いた近代画家たち―」展のプレス・リリースにお邪魔してきました。



東京において現在開催中の「トリノ・エジプト展」、来週始まる「古代ローマ帝国の遺産展」、来年開催される「ボルゲーゼ美術館展」などとともに、本展は「日本におけるイタリア2009・秋」の基幹イベントの一つとして企画された展覧会の一つ。国内では広島のふくやま美術館(2009年10月3日~11月29日)と東京都庭園美術館(2010年1月16日~3月14日)の2か所で開催となり、東京の後はニューヨークに巡回するそうだ。

今回パネリストとして出席されたのは以下の4名の諸氏:

ヴィチェンツォ・ペトローネ氏 (駐日イタリア大使)
ウンベルト・ドナーティ氏 (イタリア文化会館館長)
塩田純一氏 (東京都庭園美術館副館長)
谷藤史彦氏 (ふくやま美術館学芸課長)

まずは「マッキアイオーリ」展について、ふくやま美術館のサイトから転載しておく:

  この秋、ふくやま美術館は、19世紀のイタリアの重要な芸術運動「マッキアイオーリ」を紹介する特別展を開催いたします。今回は初のイタリア外務省とイタリア文化財・文化活動省の共同企画として、ほとんどが本邦初公開となる珠玉の作品が集まりました。
  1856年頃、フィレンツェに集った若い画家たちは、因襲的なアカデミズムからの脱却と新しい芸術の創生を目指しました。大胆な斑点(マッキア)を用いた画法から、「マッキアイオーリ」と呼ばれるようになった彼らは、フランスの印象派にも先駆けて、自然における光の描写を追求していきます。 
  ときにイタリアは、統一運動(リソルジメント)の動乱のただなかにあり、画家のなかには運動に身を投じるものもいました。やがて彼らのなかには、自分たちの生きるこの時代を描くことこそ、近代画家の役割ではないかという意識が芽生えてきます。こうしてマッキアイオーリの画家たちは、新たに手にした表現によって、同時代の独立戦争、かけがえのない日常生活、そして雄大な自然をいきいきと描いていきました。このような近代イタリア、青春の軌跡を、フィレンツェのピッティ宮殿近代美術館、リヴォルノの市立ジョヴァンニ・ファットーリ美術館などの作品63点でたどります。

日本で「マッキアイオーリ」展が開かれるのは、1979年春に伊勢丹美術館で開催されて以来、実に30年ぶりとのこと。しかも今回総監修を担当する、フィレンツェ在住でマッキアイオーリ研究の第一人者である美術史家フランチェスカ・ディーニ氏のお父様は、その30年前の展覧会で監修を担当されたピエロ・ディーニ氏であったという因縁も。 

ここで、マッキア派(マッキアイオーリ)の絵画について、伺ったお話を元に少し補足してみたい。

マッキアをイタリア語の辞書で調べると、”染み”、”斑点”、”ぶち”などと載っている。「大胆な斑点(マッキア)を用いた画法」と言われれば私などは点描を思い浮かべてしまうが、正しくはマッキア派の画家たちによって1860年初めに編み出された、色の領域(ブロック)ごとに素早く対象の明暗を捉える技法のこと。ルネッサンス時は下絵を描く際の手法として使われていたが、マッキア派はそれを活用して絵を完成させた。

そう聞けば、油彩画の習作などに見られる、対象の色彩や明暗を大まかにブロックで捉えて素早く絵の具を置いていく画面が思い浮かぶ。外光表現などを即行的に捉えつつ、パリの印象派の作品とは異なって対象物の輪郭を失わないマッキアイオーリの画家たちの画面は、このような技を駆使しているからこそなのかもしれない。

尚、本来マッキアとは子供が誤って作るような染み、斑点を意味し、マッキアイオーリは1862年に批評家が冗談半分に作った新造語であるが、画家たちはそれを受け入れて自らそう名乗るようになった。

更にお話を伺っているうちに、マッキアイオーリの画家たちの活動とその意義を考える際、大きな三つのポイントが頭の中で整理されてきた。

一つはリソルジメント(イタリア統一運動)の時代という社会的背景の特殊性。マッキアイオーリが関わる部分を中心にざっと要約を試みると、リソルジメントとは19世紀にイタリアで起こった、イタリア統一を目指した社会運動。時期については諸説あるようだが、1815年のウィーン会議から始まり、幾多の戦争を経る中1861年にはイタリア王国が建国され、1866年にヴェネツィア、1870年にローマ教皇領も加わり、半島の一応の統一を見る。1870年にローマに遷都するまで、1865年から5年間はフィレンツェが首都であった。

ここで触れなければならないのは、カフェ・ミケランジェロ(当時はジョロと発音)。祖国統一を夢見る熱心な愛国精神で結ばれた、マッキアイオーリら進歩的な若い芸術家たちが1855年頃からフィレンツェにあるこのカフェに集まるようになった。本展には、このカフェに集うマッキアイオーリ達が描かれたアドリアーノ・チェチョーニによる水彩画が展示されるが、それぞれ人物に番号が振ってあり、欄外に名前が記載されているとのこと。ジョヴァンニ・ファットーリシルヴェストロ・レーガテレマコ・シニョリーニの3人の画家がその代表的なメンバーであるが、今回は彼らを中心に14名の作品が揃う。尚、このカフェが1906年に閉鎖された際には、埋葬の儀式が執り行われたという。

ジョヴァンニ・ファットーリ 『29歳の自画像』 (1854年) ピッティ宮殿近代美術館



このライオンのように立ち上げた髪型は、ファットーニがわざとやっていたそうだ。パンク・ロッカーのモヒカンのごとき反骨精神の現れ?

ジョヴァンニ・ファットーリ 『歩哨』 (1872年) 個人蔵



ファットーリは歴史小説を読むのが好きで、『ラングサイドの戦いにおけるメアリ・スチュアート』(1861年)は彼の好きなウォルター・スコットの小説が元になったアカデミックな絵画。これが『歩哨』では、今画家の眼の前で起こっている現実のリソルジメントの兵士たちの情景に。乾燥した大気の中、白い壁に映る色濃い影―。 

二つ目はアカデミック絵画からの脱却。当時アカデミーの美術教育が行き詰まっており、旧来の教育法に対する不満を持ち、宗教画、神話画中心のアカデミック絵画に見向きもしなくなった若い芸術家たちの関心は、同時代に起こっていることを主題に絵を描くことや、野外における光をどう表わすかというリアリズム表現であった。折しも1855年にパリ万博があり、そこでバルビゾン派の絵画を観たセラフィーノ・デ・ティヴォリらマッキアイオーリの画家たちがイタリアに戻り、その動向を伝えた。イギリスのターナーの風景画作品なども影響を及ぼしたという。

テレマコ・シニョリーニ 『セッティニャーノの菜園』 個人像



テレマコ・シニョリーニ 『リオマッジョーレの屋並』(1892-94年頃) ピッティ宮殿近代美術館



シニョリーニは自然主義に惹かれた画家。

シルヴェストロ・レーガ 『母親』 (1884年) フォルリ貯蓄財団



レーガは内省的な家庭や自然を多く描いた。この作品では、小さな娘は母親のドレスの上に乗って立ち、その姿に母親は優しい視線を送る。レーガはまた、リソルジメントの英雄、赤シャツ隊を率いたジュゼッペ・ガリバルディの赤シャツ姿の肖像も描いている。

三つ目は、トスカーナ賛歌。時代を切り取ることと並んで、トスカーナの田園もマッキアイオーリが愛して止まなかった主題。そしてマッキアイオーリの風景画に大きな役割を果たしたのが、批評家にしてコレクターでもあるディエゴ・マルティッリ。リヴォルノに所有するカスティリオンチェッロの広大な土地を芸術家たちに開放した。また、フィレンツェ近くの湿った美しい田園風景が広がるピアジュンティーナもマッキ派が好んで通った場所。

ジョヴァンニ・ファットーリ 『トスカーナ地方マレンマ』 (1880年頃)  ピッティ宮殿近代美術館

 

マレンマはかつて湿地だったが、根気強く干拓され、今ではトスカーナの台所に。しかし19世紀の中頃にはマレンマの貧しい農村生活がそこにはあり、貧しさから抜け出そうと必死に働く農民の姿があった。北米、ブラジル、アルゼンチンなどへ移民する農民も多数あった時代。 

オドアルド・ボッラーニ 『高地』 (1861年) ピッティ宮殿近代美術館

  

ファットーニの風景画同様、横長の画面。都市の華やかさではなく、田舎の生活を好んで描いたマッキアイオーリの画家たちは、パノラミックな風景に適した横に長いキャンバスや板をしばしば使った。

ところで、本展のタイトルは、英語表記では「The Macchiaioli, Italian Masters of Realism (伊語ではI Macchiaioli Maestri Italiani Del Realismo)」となっている。確かにマッキア派はバルビゾン派と印象派の中間に興り、その外光表現においてはパリの印象派に先駆けた動きと位置づけることができる。しかし、リソルジメントを背景に芸術と政治の活動が刺激し合い、「現代社会を率直に見詰め抜く」リアリズムから生まれた時事性もマッキアイオーリの大きな側面。なぜ日本語では「イタリアの印象派」?

私も疑問に思っていたところ、講演後の質疑応答でこの点が質問に挙がった。会見の冒頭で、塩田氏の「今まで日本における西洋画の展覧会は印象派主体であったが、去年のハンマースホイ展の成功に見る通り、日本の鑑賞者も成熟している」というコメントが聞かれたあとだけに。

さて、美術館側の回答によると、実際今回のタイトルのネーミングについては議論となったそうだ。結局のところ、やはりリアリズムと印象派では、印象派の方が一般的にわかりやすいということで落ち着いた模様。ふくやま美術館のチラシに使われているシルヴェストロ・レーガの『庭園での散歩』も、印象派っぽい作風の作品である。私見であるが、これは正解です。なぜなら「リアリズム」にも観点によって多様性があるし(日本ではまだまだ「写実主義」と同意語に近いのでは?)、聞きなれない「マッキアイオーリ」という言葉で敬遠されるには、この展覧会はあまりにも勿体ないから。

実のところ、「マッキアイオーリ」はトスカーナ周辺に限られたローカルな動きに過ぎず、統一運動が起こっていたとはいえ、なお地方主義の残る当時のイタリア全土にすら広まったわけではなかったとのこと。しかし現在においては19世紀イタリア絵画のもっとも重要な現象であったと考えられ、近年イタリア国内でも展覧会が続き、国際的な評価も高まってきているという。

お恥ずかしながら私も今回初めて知った「マッキアイオーリ」(最初は画家の名前かと思った)。ピッティ宮殿に近代美術館があると言われても、フィレンツェは何と言ってもルネッサンスの街であるからして、近代美術にまでなかなか気が回らない。そんなていたらくの私には、今回スライドに映し出される作品の数々はまさに魅惑の世界だった。ああ、また未知の油彩画の素晴らしい作品にたくさん出会えそうだ、と。

フランチェスコ・ジョーリ 『水運びの娘』 (1891年)フィレンツェ貯蓄財団



いかがでしょう、この叙情性。早く本物をこの目で観たい。

東京開催は来年の1月、とやや先であるが、もし10月、11月の会期中に広島に行くご予定の方がいらしたら、是非是非ふくやま美術館に足をお運び下さい。今一度展覧会スケジュールを書いておきます:

広島-ふくやま美術館 2009年10月3日-11月29日
東京-東京都庭園美術館 2010年1月16日-3月14日

尚、ふくやま美術館では関連イベントとしてディーニ氏の講演会が下記の通り予定されている。東京でもあるのかしら?

●記念講演会
「マッキアイオーリ:1861-69年、ヨーロッパの革新的芸術運動」
フランチェスカ・ディーニ(本展総監修者・美術史家)
10月3日(土) 午後2時~(12時開場)
美術館ホール(通訳付 先着150名 聴講無料)

最後に、「日本におけるイタリア2009・秋」の近々のイベントの一つとして「未来派の夕べ」というイベントが9月19日(土)15:00にイタリア文化会館にて開催。リーディング・ダンス・パフォーマンスだそうです。入場無料ですが、事前申込制だそうですので、ご興味のある方はどうぞ。

入場無料 E-mail で申し込み受付
申し込み宛先::件名を「未来派申込」として、希望者の住所、氏名、電話番号を明記の上、eventi.iictokyo@esteri.it まで。
会場:イタリア文化会館 B2 アニェッリホール
主催:イタリア文化会館、ミラノ市
お問い合わせ イタリア文化会館:☎03-3264-6011


東博 常設展

2009-09-01 | アート鑑賞
東京国立博物館 本館

平成館で開催中の「伊勢神宮と神々の美術」展と「染付」展(共に9月6日まで)を観た帰り、足は自然と本館の常設展へ。いくら疲れていても、この習性だけは治らない。でも治らなくていい。今回もいろいろな意味で夏らしい作品に出会え、そして初秋の香りもそこはかと感じることができた。特に印象に残ったものだけ書き留めておこうと思う。

『地獄極楽図』 河鍋暁斎筆 明治時代・19世紀 (9月6日まで)

私が勝手に「今日の1枚」と呼んでいる、「18室 近代美術」にある展示ケース。展示室を長方形に見立てると、複数の作品が収められている長い辺に沿ったケースではなく、1点のみ飾られる、短い辺に設置されたケース。もちろん2か所あって、一つには洋画、一つには日本画の大作が収められている(我ながら拙い説明だが、意味がわからなければ気になさらないでください)。

本館の正面入り口から入って時計回りに進めば洋画から観始まるが、その日は平成館から伸びる連絡通路を渡ってきたため、反対側の日本画から観ることになった。部屋に入って振り返り、「今日の1枚・日本画編」が目に飛び込んできた途端「おお~っ」。初めて観る作品だが、こんな戯画的で奇抜な画風、暁斎を置いて他に誰がいる?

まず目を引くのは、真ん中にどかんと描かれた冥界の総司、閻魔さまの存在感。そして、『地獄極楽図』と言いながら、圧倒的に地獄の様子の方が幅を利かせているのも一目瞭然。そりゃそうでしょう、暁斎は絶対極楽なんかより地獄が描きたいのだから。

机に向かって執務中の閻魔さまの横には大きな鏡があり、その前に立つとその人物の生前の悪行が映し出され、審判が下されるようだ。画中にも鬼にしょっ引かれて鏡の前に差し出された人間がいて、この男の場合、人に切りつけたり、沼に人(死体?)を投げ入れるところなどが映し出されている。それを見た閻魔さまの、両眼を飛び出さんばかりに見開いた怒りの表情。机上の書類に何やらドンっと判を押している様子だが、獅子のように大きく開けた口元は、「けしからん、地獄行きじゃーっ!」と叫んでいるようだ。

大きな画面に展開する拷問のシーンがまたすごい。両手を後ろ手に縛られ、顎の下に横にあてがわれた太い棒(多分人骨が茶色に変色したもの)と、足首のところで縛らた両足とを背中でつなぐ刑具をはめられた人々。皆苦しそうにエビ反り返っていて、これは見るからに辛そうだ。それから定番の、燃え盛る火の海に投げ込まれる人々・・・。怪談ではないが、夏に観るのにぴったりの、迫力ある作品であった。

ところで閻魔様の右隣に立つ役人の、豆鉄砲を食らった鳩のような丸い目玉はどうしたというのだ?

『金魚づくし・玉や玉や』 歌川国芳筆 江戸時代・19世紀 (9月6日まで)

「たまや~」というと打ち上げ花火を思い出すが、江戸時代のシャボン玉売りも「玉や玉や」と言いながら売り歩いたらしい。でも国芳のシャボン玉売りは赤白の金魚で、水中で商売をしている。二股に分かれた尻尾で直立し、肩に斜め掛けした箱を左の前ひれで抑え、右の前ひれでストロー(植物の茎だろうか?)を持っている。今しがた泡を吹いたばかりと見え、ストローからは泡が上方へブクブクと立ちのぼり、シャボン玉売りは口を四角く開けてその泡の行く末を見上げている。周りに集まっているのは、同じく赤白の金魚が2匹、足が生えたオタマジャクシ、そして亀の親子。おんぶしてもらっている子亀は、上へのぼっていく泡を追うように、親の背中から手をさしのばしている。

国芳は夏の風俗を主題に金魚を擬人化して描いたシリーズを残しており、8枚が確認されているとのこと。そのうちの1枚がこの作品である。楽しげで平和な夏の風情。

『地獄草紙(じごくそうし)』 1巻 紙本着色 平安時代 国宝 (10月4日まで)

また地獄である。こちらは平安時代に描かれた国宝。公式サイトの説明を転載しておく:

生前に犯した罪業によって堕ちるさまざまな地獄の有様を描いた絵巻。『正法念処経』の経文を解りやすい和文になおして詞書とし,それに対応する絵を添える。平安末期に流行した六道思想に基づくもので,罪人が種々の責苦に苛まれる苦悩と戦慄の模様を,赤と黒を主体とした色調で効果的に表現する。火焔地獄など四場面が描かれる。

メラメラと燃え盛る業火や血に染まった川を表現する朱の色が非常に鮮やか。その血の川で苦しそうにアップアップしながら流されて行く人々や、川辺で血を流しながらのたうちまわる人々のシーンのポストカードがあったが、一度手に取るもなんとなく怖くて買えなかった。

『芦雁図屏風』 筆者不詳 江戸時代・17世紀 (10月4日まで)

色の退色はあるが、このところ鶴の優美な屏風絵ばかり観ていたので、雁だけのこの作品は新鮮で愛らしく思えた。三羽がピッタリ寄り添って横に並び、首を垂れて地面をつつく様子や、地上の雁が上を見上げ、上空から舞い降りようとする雁とアイコンタクトをしている様子などに観入った。誰が描いたのでしょう。

『粟穂鶉図屏風』 土佐光起筆 江戸時代・17世紀 (10月4日まで)

たわわに実る粟の極小の実(というより粒)を根気強く点々と表現し、鶉の毛並みも細密に描写。粟穂と鶉の組み合わせは地味といえば地味なのかもしれないが、ススキ、桔梗など秋の草花も描きこまれ、また鶉の丸々とした身体のかわいらしさもあって、初秋を感じる素敵な作品だと思った。別室に光起の長子、土佐光成『秋草鶉図』 (こちらも10/4まで)が展示されているが、鶉は土佐家代々の十八番モティーフであるそうだ。

『柳蔭』 横山大観筆 大正2年(1913) (9月6日まで)



実はこの日一番心が躍った作品。六曲一双の大きな屏風画で、全面を柳の葉の柔らかな若草色が覆う。ポストカードは右隻の部分だが、左隻では川の青色や、家屋の二階でなにやら語り合う男性二人の顔も緑の垣間に覗く。そばに寄れば、柳の細長い若葉の色を調合しつつ一筆一筆置いていく大観の息遣いを感じ、離れて全体を見渡せば、大きな柳の大木の枝が揺れて涼風がそよそよと吹いてくるようだ。

上に挙げた作品には展示期間が9月6日までのものがありますので、お気をつけ下さい。もちろんこの他にも観るべき作品が満載です。