l'esquisse

アート鑑賞の感想を中心に、日々思ったことをつらつらと。

開山無相大師650年遠諱記念 特別展「妙心寺」

2009-03-31 | アート鑑賞
東京国立博物館 平成館 2009年1月20日-3月1日

  初期に入手したチラシ

  後期に入手したチラシ

前売り券2枚を購入し、年初から楽しみにしていた妙心寺展だが、なんとか前期、後期と1回ずつ足を運ぶことができた。40点ほど入れ替えがあり、前・後期それぞれに大きな目玉があるので、やはり両方観ないわけにはいかない。

もうとっくに閉会してしまったが(実は後期は閉会日に駆け込んだ)、学んだことや印象に残った展示品を記しておきたいと思う。

本展の構成は以下の通り:

■第1章 臨済禅 ―応燈関の法脈―
■第2章 妙心寺の開創 ―花園法皇の帰依―
■第3章 妙心寺の中興 ―歴代と外護者―
■第4章 禅の空間1 ―唐絵と中世水墨画―
■第6章 妙心寺と大檀越 ―繁栄の礎―
■第7章 近世の禅風 ―白隠登場―
■第8章 禅の空間2 ―近世障壁画のかがやき―

*本来、400年遠諱の再現を試みた第5章があるそうだが、東京では展示室の構造上、第1・2・4章に振り分けられれているとのこと

では、それぞれの章で印象に残った展示物を挙げていく:

第1章 臨済禅 ―応燈関の法脈―

『関山慧玄坐像』 吉野右京種次作 江戸時代(1656) 妙心寺

入り口でこの像に出迎えられる。木彫に彩色、玉眼。垂れ目気味の、端正な顔立ち。とはいえ、慧玄は自分の肖像を造ることを許さなかったので、実際の容姿は不明(ちなみに慧玄は臨終に際して頂相を描かないよう弟子に遺言、よって無相大師)。いずれにせよ、この像はプロポーションもよく、着物や袈裟の襞、模様なども美しい。何となくフィレンツェのバルジェッロ博物館にある、ドナテッロ作とされるテラコッタの胸像を想起した。また、この慧玄像の前には『銅三具足』(江戸時代・1664)も置かれていた。 三具足とは、仏前への供養の基本となる香、花、燈を供えるための、香呂、花瓶、燭台を一具としたもの。鳳凰がデザインに使われている燭台が装飾的に美しかった。

『六代祖師像』 西礀子曇賛 鎌倉時代 13世紀

禅宗の初祖達磨から六祖慧能までの六代祖師の頂相。これら六人の祖師が中国禅宗の源流をなすとみなされ、六代祖師をセットとしてまとめて描くことは、南宋時代から元時代に盛んに行われたそうだ。私がこのような頂相を観ていてどうしても気になるのは、僧の靴の脱ぎ方。たまに履いたままの人もいるが、たいてい脱いだ靴が足台(正式な名称わからず)の上に載っていて、揃っている人もいれば左右がバラバラに明後日の方向へ向いている人も。ここにも何か意味があるのだろうか?

『宗峰妙超墨蹟 「関山」道号』 鎌倉時代・嘉暦4年(1329)

この道号(禅僧が本師や恩師から授与される称号)は、宗峰妙超が弟子の慧玄に与えたもの。妙超48歳のときの墨蹟で、この道号により、慧玄蔵主は「関山慧玄」と名乗れるようになった。関の字の左側がしなっているのが印象的な、骨太で力強い筆致。慧玄と妙超の印可状も出展されていたが、かすれ気味で柔らかく、どちらかというと女性っぽい慧玄の筆致に比べて、妙超の墨蹟はくっきりしていて男性的。

『絡子 関山慧玄料』 南北朝時代・14世紀

絡子とは五条袈裟の一種で、いわば労働着。この飾り気のない、疲れた風合いの絡子を慧玄は愛用していたのだろう。形式にこだわることを嫌い、ひたすら弟子の指導に心血を注いだという慧玄の、質実剛健な人柄がしのばれる。

『瑠璃天蓋』中国 明時代・15~16世紀

ガラスの小玉(どちらかというと、色とりどりの不揃いのビーズといった感覚)で出来た天蓋。円筒の形をした内蓋の外側に、六角形の外蓋がかぶさるように出来ている。外蓋は、花など様々な形に編み込まれた長い「ビーズ作品」が、まるでアクセサリーのように上部の六か所のフックから吊り下げられているように見える。銅針金にビーズを通しているので、真っ直ぐ下がらず、全ての線、形が微妙に歪んでいるのがいい。柔らかい照明に照らされ、下の台に投影されていたガラス小玉の濃淡の影が、これまた幻想的で良かった。

■第2章 妙心寺の開創 ―花園法皇の帰依―

『山水楼閣人物図螺鈿引戸』中国 明時代・16世紀

精巧な螺鈿細工で描かれた山水楼閣人物図がはめ込まれた、絢爛たる引戸。それぞれ異なる絵図を持つ引戸は4枚並び、1枚180cmx72cmもある。螺鈿細工には夜光貝の薄貝を使っているそうだ。楼閣のきっちりした線、人物や山水、木々などの細かい描写に目を瞠る。すごい仕事ぶり。

■第4章 禅の空間1 ―唐絵と中世水墨画―

『菊唐草文螺鈿玳瑁合子(きくからくさもんらでんたいまいごうす』 朝鮮 高麗時代・12~13世紀

「洲浜形」と言われる、円を横に三つ並べて左右をちょっと下にずらしたような形の合子。高麗時代の希少な作品。横幅9.3cm、高さ3.5cmのとても小ぶりな入れ物だが、繊細な細工で黒地に朱色の花がたくさん散りばめられ、典雅。

『瓢鮎図(ひょうねんず)』 大岳周崇等31名賛、如拙筆 室町時代・15世紀

元旦から観るのを楽しみにしていた国宝。「丸くすべすべした瓢箪で、ねばねばした鮎をおさえ捕ることができるか」を主題に、足利義持が如拙に描かせたもの。空気遠近法ともいえる遠方にかすむ山並み、手前のしなる竹。やはり実作品でないと、絵の風格がわからないものだ(瓢箪の持ち方が変ではあるが)。絵の上には、五山の名僧31人による賛があり、「鮎は竹竿に上る」という故事に言及していると思われるものもある。いずれにせよ、いくら絵を観つめたところで私なんぞには何の考えも浮かびませんでした。

『鍾呂伝道図』 伝狩野正信筆 室町時代・15世紀

呂洞賓(りょどうひん)が、鍾離権(しょうりけん)から仙術の指南を受ける図。でっぷりした体格の鍾離権は色が黒く、目がギョロギョロしていて、足もとを崩してでんと座る。対峙する痩せた呂洞賓は、きちんと正座し、手もとの巻物に目を落とす。右手の人差指で呂洞賓を指しながら語っている鍾離権の様子は、「なぁ、よく聞けよ」と口調が荒っぽそうなイメージ。背景の松の木の描写は見事。

『浄瓶てき倒図』 狩野元信筆 室町時代・16世紀

「唐の懐海(えかい)禅師が、霊祐(れいゆう)禅師に瓶を示し、「これを瓶と呼ぶべからず。では何と呼ぶか」と問うたのに対し、霊祐は無言でその瓶を蹴り倒して去った」という故事を描いた作品。人の作ったこの世の概念など意味がないという禅の悟りをあらわすのだそうだ。倒れて転がる瓶の後ろで「おやおや」といった風情の懐海たちを尻目に、霊祐は目を吊り上げ、頬を膨らまし、口をへの字に曲げて憤然と去っていく。禅の悟りというと、あらゆる感情を克己した穏便な精神世界をイメージしていたので、プンプン怒りの感情を露わに足早に去っていく霊祐の表情が意外でおもしろかった。

■第6章 妙心寺と大檀越 ―繁栄の礎―

『玩具船』 安土桃山時代・16世紀

豊臣秀吉と側室淀殿(茶々)との間に、秀吉が50歳を過ぎて初めて授かった待望の息子が棄丸。ところが、棄丸は2歳2ヵ月という可愛い盛りに亡くなってしまう。その棄丸の葬儀が行われたのが妙心寺。

この玩具船は、その棄丸のために作られたもの。本体は木でできており、漆箔や彩色も施された、立派な作り。船の上の前後に社のような屋根の装飾がされ、真ん中にちょうと幼児が座れるようなスペースが設けてある。この船は車輪のついた台の上にしつらえられており、引っ張って動かせる仕組み。ふと、イギリスの某サッカー選手が息子に買い与えたという、高価なミニチュアのレーシング・カーを思い出してしまった。もとい、秀吉の息子に対する溺愛ぶりを如実に物語る玩具であり、またこの小さなスペースを見ると夭折した幼い棄丸の姿が偲ばれ、切なくもなった。

『桐竹雪文様打敷』 安土桃山時代・16~17世紀

橙色の地に、苔色や水色で刺繍された桐紋と笹の葉、間に白い雪が散る安土桃山のイメージにピッタリな文様。褪色が激しく、橙色に見えるのは本来紅色だったようだが、今の落ち着いた色彩、特に橙と苔色の対比がいかにも和的な色彩の調和を見せ、美しいと思った。

『瑠璃天蓋』 中国 明時代・16~17世紀

ガラス玉と針金で作られた六角形の天蓋。一つ目の天蓋と比べるとガラス玉の粒がそろっていて、六面それぞれが同色で固められていたり、色の配列が規則的だったりとより洗練された印象。ガラスというのはきれいなものだ。

『春日局消息』 江戸時代・17世紀

ほとんど読めないが、しなやかで勢いのある線がアートを感じさせる筆跡で、印象に残った。

■第7章 近世の禅風 ―白隠登場―

『雲居希膺墨蹟 法語』 江戸時代・17世紀

日常を後悔のないように生きよ、と平易な十の条文で戒める法語。誰が見ても読みやすい文字で、整然と十行。その条文の後に「万事一失悔不回」、後悔先に立たず。セネカの『人生の短さについて』までも思い出し、胸に染み入った。

『達磨像(だるまぞう)』 白隠慧鶴筆 江戸時代・寛延4年(1751)

縦222.8cm、横136.3cmの大画面にドンと墨で描かれた達磨の上半身像。大きな目玉は左上方をギョロリと見据えている。首から上はほぼ右半分に納まっているが、蛇行する川のように右から左へ太い筆で力強く引かれた線一本で見事に表された衣服の線は、左端まで届く。空間表現が効いた、ダイナミックな達磨像。

■第8章 禅の空間2 ―近世障壁画のかがやき―

『楼閣人物螺鈿座屏』伊勢谷直七 江戸時代・嘉永2年(1849)

美しく装飾された台足および透かし彫りの額に、精緻な螺鈿細工の飾り板がはめられた一対の座屏風。エメラルド、ルビー、サファイヤの如く、緑、ピンク、青の魅惑的で微妙な光を放つ楼閣や人物たち。つま先立ちしたり、しゃがんだり、斜めから観てみたりと、しばしその魔法のように美しく色を変える螺鈿の世界を堪能した。

『枯木猿猴図』 長谷川等伯筆 安土桃山~江戸時代・16~17世紀

マニエリスムのように引き伸ばされた猿の肢体。チョンチョンと描かれた顔。子を肩車する親の猿は笑っているし、一人で木にぶら下がって戯れる猿は、まるで次のいたずらを考えているようなヤンチャな顔。フサフサと柔らかそうな毛並みのデリケートな表現と、木の枝の流れるような筆捌きが印象的。

『龍虎図屏風』 狩野山楽筆 安土桃山~江戸時代・17世紀

妙心寺の図屏風は、標準サイズの屏風に対して縦25cm弱大きいそうだ。図録に京都国立博物館の山下氏の「ふつうの屏風のつもりで持ち上げようものなら、ぎっくり腰を起こす危険さえある」というご苦労話が載っているが(前任者に「妙心寺図屏風をひとりでかかえられるようでないと、京博の近世担当は勤まらない」と言われたとのこと)、購入する際に販売員の方が「重いのでお気をつけてお持ち下さい」と手渡してくれた図録の重さに驚いている場合ではないのである。25cmと言われてもピンとこないが、実際に対面するとかなり大きいのがわかる。その大画面を遺憾なく活用し、大迫力で迫ってくるのがこの『龍虎図屏風』。右隻には、天からまるで隕石が落ちてくるような疾走感で降りてくる龍の頭部。左隻には虎のつがいがいて、雄は背後の雌を守るがごとく、首をねじりながら龍に向かって目をむき、大きな口を開けて咆哮している。繊細な筆遣いで描かれた毛並みに目をこらし、しなる背中を背後から目で追って、牙をむき出す顔に行き着いたとき、ゾクゾクした。

『花卉図屏風』 海北友松筆 安土桃山~江戸時代・17世紀

左隻には苔むした岩を前景に、左に梅の木が立ち、上へ伸びる梢はいったん画面上では寸断されながら、中央で再び枝が下りてくる。梅の木の周りには椿の幹、花をつけた枝。右隻には、たわわに開花した牡丹の花が画面一杯に咲き誇る。『龍虎図屏風』と共に、チラシに使われていたもう一つの作品。ちょうど近くにあった、同じ作者による『寒山拾得・三酸図屏風』と比べると、金地の色がより濃く、黄土色に近いのに気づく。まさに装飾の美。

『寒山拾得・三酸図屏風』 海北友松筆 安土桃山~江戸時代・17世紀

様々な作品で見かけるちょっと異様な風貌の寒山と拾得の二人は、中国唐時代末頃に天台山清寺に住んだ隠者。この作品では、寒山が両腕をいっぱいに広げて持つ、U字型にたわむ経巻を、背後から箒を持った拾得が覗き込んでいる。もう一つの『三酸図屏風』共々、ほぼ全面に渡って金箔で覆われた中に墨で人物や背景が描かれており、普通は平面性が強調される金箔の中に奥行きが出ている。

『老梅図襖』 旧天祥院障壁画 狩野山雪筆 江戸時代・17世紀 アメリカ・メトロポリタン美術館蔵

苔の貼りつく幹や枝が、あり得ない角度であたかも増殖していくように画面左方向へ伸びていく。山という字のごとく、90°にカクカクと生える枝ぶりは強烈な印象。今にも画面からこちらの方角へニョッキリ枝が出てきそうだ。瀕死の老木が最後の力を振り絞り、執念で花を咲かせているようでもあり、あるいは絡みつくような妖気を発する老木の精霊であるようにも感じた。

六本木アートナイト

2009-03-22 | アートその他


来る3月28日から29日にかけて、六本木にて「六本木アートナイト」というイベントが開催される。「六本木アートナイトは、街全体を美術館に見立て、夜を徹してアートを楽しむ一夜限りのイベントです」(チラシより)。3月28日17:59から29日5:32がコアタイムで、現在国立新美術館で開催中の「アーティスト・ファイル2009-現代の作家たち」も28日は入場無料。その他各所に現代作家たちのインスタレーション作品が設置されたり、パフォーマンスやトーク・イベントが開催されたりなど盛りだくさんの内容。

その中で、私の一押しはヤノベケンジ氏の「ジャイアント・トらやんの大冒険」

話は2007年の夏にさかのぼる。

2004年のダブリンでの苦しい思い出の記憶もまだ色あせない中、会社合併に伴う新システム導入(そう、ダブリンであれだけ苦労して構築したシステムは、たった3年であえなく没!)のプロジェクトに投入された私は、5月からインド人のITの人々とほとんど缶詰状態で働き続け、ついには7月あたまにひどい夏風邪を引いて寝込み、社会人になって初めて1 週間近く会社を休んでしまった。

そんな7月中旬の週末、傘をさしてフラフラと横須賀美術館に向かう病み上がりの私がいた。あまつさえ埼玉県民にははるか彼方の横須賀だというのに、追い打ちをかけるように台風が神奈川に向かって接近中であった。なんでそんな無茶を?

なぜなら、この日しか観られない『ジャイアント・トらやん』の火噴きパフォーマンスを、どうしてもこの眼で観たかったから。

実は作者のヤノベケンジ氏や「トらやん」について、十分な知識があったわけではない。自分の好きな作家さんが数名参加されていた、横浜美術館で開催中の「生きる」展(2007年4月28日にオープンした横須賀美術館の開館記念展)にまずは興味があり、その出展者のお一人がヤノベ氏であった。

「トらやん」とは何者か?

この日横須賀美術館にて、パフォーマンスの前にヤノベ氏が披露された「トらやん」の誕生秘話を、かいつまんで記しておこう:

ヤノベ氏のお父様はとても真面目な会社員で、ヤノベ氏が芸術の道へ進む際には「まっとうな会社員になれ」と反対するほどだった。結局ヤノベ氏は京都市立芸術大学に進み美術家になったが、ある日実家に行くと、居間にゴロリと不自然に寝転ぶ幼児の姿が。ヤノベ氏はその光景に一瞬「猟奇的なものを感じた」。しかしそれは、仕事一本できた堅物のお父様が、勤め上げた会社を定年退職されたあと急に趣味に目覚めて始めた腹話術のお人形、「けんちゃん」であった。

ところが悲しいかな、お父様の「ダミ声」はかわいい顔をした「けんちゃん」のキャラと全く一致せず、家族から非難ごうごう。腹話術は諦めて何かほかの趣味を見つけるよう説得され、ご本人もついにはそのお人形を売りに出すことで合意。

しばししてヤノベ氏が実家に行くと、とっくに売られたと思っていた人形は、なんとバーコード頭にちょび髭を生やした不気味なおっさんに変貌を遂げていた。そう、お父様は自分の声に合うキャラクターに人形を変身させていたのだった。お父様がファンだというタイガースのユニフォームを着て、名前も「けんちゃん」から「なにわのとらやん」に。

ヤノベ氏が2003年に地元大阪の国立国際美術館で「MEGALOMANIA」展を開いた際、お父様も腹話術で参加したいと強く申し出た。結局ポスターにはヤノベケンジの名と共にお父様の腹話術の文字が(これを見た人々には、「いっこく堂が来る」と誤解されたという)。いずれにせよ、この展覧会のオープニング・イベントで「トらやん」はデビュー。このとき、以前ヤノベ氏がアトムスーツ・プロジェクトで訪れた、チェルノブイリで出会った3歳の子供用に作ったアトムスーツが見当たらないと思ったら、お父様が「トらやん」に着せていた(腹話術の人形も3歳児のサイズだった)。

その後、お父様と「なにわのとらやん」のパフォーマンスは『青い森の映画館』という作品になり、「トらやん」として増殖、発展を遂げ、ついには火を噴くロボット『ジャイアント・トらやん』が誕生する。

以上。

さぁ、火噴きパフォーマンス、『ジャイアント・トらやん・ファイアー』である。『ジャイアント・トらやん』は、立ち上がると高さ7.2メートル、この日のように座っていても5mを超える可動式ロボット。頬がふっくらと愛らしく、ロボットといいながら、どちらかというとメカニックな印象よりも暖かく和み系な雰囲気。それもそのはず、もとはかわいい3歳児のお人形なのだから。

消防法の関係で、この火噴きパフォーマンスを屋内で実現出来るのは、関東では横須賀美術館だけとのこと。また、この日はpasadenaというバンドとのコラボであった。

イベントが始まる前に、『ジャイアント・トらやん』および関連作品は一通り観ていた。しかし、係の人の誘導でパフォーマンスの準備の整った展示室に改めて入り、早く行ってゲットした整理券のおかげで一番前の床の上に座って、目の前の巨大な『ジャイアント・トらやん』を観上げているうちに、私の胸のうちに何かしら熱くこみ上げてくるものが。よくもまぁ、こんな大きなものを造ったもんだ。陳腐な表現だが、そのとき私は本当に思った。"人生ってなんだろう?"

pasadenaによる、自然に体が動いてしまうような気持ち良い演奏に合わせて動き出したジャイアント・トらやん。大きな目でガシャン、ガシャンと瞬きをし、首を左右に動かしたり、腕を前後に振るその姿は、まさに音楽に反応して踊っているよう。トらやんの足元で演奏しているpasadenaのギターの人も、弾きながら踊るトらやんを時折観上げては、語りかけるようなまなざしを投げたり、微笑みかけたり。この、ロボットと人間の交流している姿が何ともファンタジック。このバンドは以前にもジャイアント・トらやんと共演したことがあるそうで、MCで彼が「初めてトらやんと共演したときは涙が止まらなかった。今回の企画を聞いて、是非またやらせてくださいと申し出た」という話を披露。

途中まで軽やかだったpasadenaの演奏が加速され、トランペットも加わり、その場の空気が和やかなものからにわかに熱気を帯びたものに変化していく。ヤノベ氏がマイクを取り、"皆が明るくいられるよう、そして外の台風を吹き飛ばすために"ということで、氏の「僕らの上に!」という掛け声に、私たち観衆が「太陽を!」と返すパフォーマンスが始まる。この掛け合いを、演奏にのって幾度となく繰り返し、ヤノベ氏の声も、私たちの声もどんどん大きくなり、ヒート・アップ。

最後、ヤノベ氏の声が絶叫調になった。

「ぼーくらのうえにー!」

「たーいようをー!」

クライマックスに達したと思われたそのときだった。『ジャイアント・トらやん』の胸がパカッと開き、その中に潜んでいた、発射装置が置かれた机の前に座る『トらやん』がこちらを向いて、発射ボタンをスィッチ・オン!

その仕掛けに意表を突かれたが早いが、間髪入れずに可愛いジャイアント・トらやんの口からゴオォォォーーーッという、かつて実生活で見たこともないような太いオレンジ色の炎が私たちに向かって噴射された。

一番前にいた私は、本当に顔に火が届いたかと思うほどの熱波を感じ、文字通り腰を抜かした体で身じろぎ一つ出来なかった。うおぉぉぉーっというどよめきをあざ笑うかのように、この噴射は4度繰り返された。終わった後は、しばし呆然自失。触ると顔が熱かったのは、興奮もあるだろうが、あの火炎にあぶられたせいもあったに違いない。

ふぅ。。。 六本木アートナイトのご紹介のつもりが、トらやんのことを書き出したらつい止まらなくなってしまった。

とにかく皆さん、六本木アートナイトに行かれたら、『ジャイアント・トらやん』の火噴きパフォオーマンスをお見逃しなく。六本木では野外で、立ち上がった姿での噴射だから、私が体験したような衝撃は若干弱められるかもしれないが、絶対一見の価値ありだと思います。本当にすごいんだから!



ハイゲイトの森

2009-03-08 | その他


これは、先月三瀬夏之介さんの個展「夏の冬」を観に信濃町の佐藤美術館に行く途中、お隣の千駄ヶ谷駅のホームから思わず携帯で撮った写真。

線路や電線が写り込んだこの写真の何が?と思われそうだが、私の注意を引いたのは、新宿御苑を囲むこの木の柵。きれいに揃いすぎではあるが、ふいに自分が住んでいたロンドンの街を思い出させた。

私がロンドンで1年強住んでいたのは、北部のムズウェル・ヒル(Muswell Hill)というこじんまりした街だった。築100年くらいの赤レンガのヴィクトリアン・ハウスが、碁盤の目のように走る通りに整然と建ち並ぶ、落ち着いた風情のエリア。周囲は緑に恵まれ、歩いて数分のところにはアレクサンドラ・パーク(Alexandra Park)、ちょっと足を延ばせばハムステッド・ヒース(Hampstead Heath)やハイゲイト・ウッズ(Highgate Woods)が広がっている。

アレキサンドラ・パークは、公園というにはあまりに広大な、しかも起伏に富んだ丘の上に広がる緑地で、散歩やジョギングによく通った。頂上にはパブもあり、夜10時くらいまで明るい夏の日には、夕食後に新聞と数ポンドの硬貨を持って出かけ、芝の上でビールをチビチビ飲みながら新聞を読んで過ごしたりした。頂上から眼下に眺める都心の夜景もなかなかのもので、よくロンドンっ子のデート・コースに組み込まれるらしい。

フェルメールレンブラントなどの名画を所有するケンウッドハウスが敷地内に建つハムステッド・ヒースにも、途中の道々に並ぶ大豪邸をフェンス越しに見学しながら歩いて行くことが出来た。夏の夜には野外オペラやクラシック・コンサートが上演され、私も一度行ってみたが、日本のようにビニール・シートではなく、タータン・チェックの大きな敷布を芝に広げ、蝋燭のともるカンテラを傍らにシャンパンをあけるロンドン人たちの姿にはなんとも羨ましいものがあった。

そんなムズウェル・ヒルだが、毎日ロンドン中心部へ通わなくてはならない通勤者や通学者にとっては難点が一つ。ウェスト・エンドに出るバスはあるものの、地下鉄の最寄り駅がない。ロンドンを南北に走るノーザン・ラインのハイゲイト駅(Highgate)か、ピカデリー・ラインのバウンズ・グリーン駅(Bounds Green)へはバスに乗ることになる。

ただし、どちらの駅も歩こうと思えば歩けない距離ではない。平日の朝は無理だが、季節がよければ帰りや週末はバスに乗らず、歩くのも一興だった。

15年前当時、ハイゲイト駅のエスカレーターは木製だった。そのガタンゴトンと呑気な音をさせながら、私たちを地上へと運んでくれるレトロな乗り物で暗闇から陽光のまぶしい外へ出ると、数十分前に地下鉄に乗り込んだセントラル・ロンドンとは明らかに異なる空気感に包まれる。ちょっとしたカントリーサイドに来てしまったような感覚。空気は澄み、気温も心なしか下がり、都会の雑踏の喧騒と対照的な小鳥のさえずりが聞こえてくる。その小鳥たちがいるのは、駅から家に向かう大通りに沿って、左側に広がるハイゲイト・ウッズ。それほど大きくない森だが、木立のたたずまいが美しく、散策には楽しい。

説明が長くなったが、道なりに続く、その森を囲む木の柵が、この写真に撮った柵の風情に似ていた。私の記憶の中では、ハイゲイトの森の方はもっと不ぞろいで、しかもところどころ数本単位で仲良く斜めに与太っていたりもするのだが。

偶然ながら、同じ街に住んでいたことのある会社の同僚にこの写真を見せたら、あ~、似ている、懐かしいなぁ、と目を細めていた。

実はこの写真、おっちょこちょいな私が駅を間違えて、一つ手前で降りてしまったために撮れたものでした。

加山又造展 KAYAMA MATAZO RETROSPECTIVE 1927-2004

2009-03-07 | アート鑑賞
国立新美術館 2009年1月21日-3月2日



初めて拝見する加山又造さんの大がかりな回顧展。閉会ギリギリに駆け込んだ。

日本画の知識も乏しく、加山さんについても先日放映された「新日曜美術館」で得た情報がほぼ全て。たいしたことは書けそうにないが、自分なりに感じたことをつらつらと。

本展の構成は以下の通り:

エントランス
第1章 動物たち、あるいは生きる悲しみ―様式化の試み
第2章 時間と空間を越えて―無限の宇宙を求めて
第3章 線描の裸婦たち―永遠のエロティシズム
第4章 花鳥画の世界―「いのち」のかたち
第5章 水墨画―色彩を越えた「色」
第6章 生活の中に生きる「美」

印象に残った作品を章ごとに:

エントランス

『雪』『月』『花』(1978年)
エントランスを入ると、それぞれ350.0 x 430.0cmもある『雪』『月』『花』の三部作に出迎えられ、その迫力ある画面にいきなり目を瞠る。東京国立近代美術館の依頼で、8年の歳月をかけて完成させた3部作だそうだ。勉強ついでにカタログから引用すると、"「雪月花」とは、やまと絵にみられるように、古くから日本画の代表的な画題として描かれてきたもので、春の桜、秋の月、冬の雪と、それぞれの季節を代表する風物をとり合わせて描き、三幅対の形式をとるものが多い"

美しい群青色のグラデーションの上に金箔が施された川(?)が横切り、雪の部分がやや漆喰のような絵肌を思わせる、手の込んだ画面の『雪』。 飲み込まれそうなモノクロームの波濤模様の上に浮かぶ、独特のフォルムをした上弦の月が直球で迫る『月』。漆黒の背景に彫塑的な赤い炎が立ち上り、それに照らし出されてところどころ赤く染まる夜桜を描いた『花』。


  『雪」はチケットに使われていた。

第1章 動物たち、あるいは生きる悲しみ―様式化の試み

それぞれの作品に描かれるのは、草原、トロピカルな森、湖、砂漠などを背景に、牛、犀、馬、縞馬、鹿、駱駝、狼、烏、フラミンゴ、キリン、象など、様々な動物たち。隙間なく濃い色が敷き詰められた画面は、西洋画のそれに近いものを感じる。

『月と駱駝』(1957年)



夜の砂漠に、目をつぶったラクダが三頭寄り添い、丸い形に固まっている。ラクダの体には木の年輪のような線が走り、まるで木で彫ったような質感。空に浮かぶ月も、その三頭の反復。静寂の世界。

『冬』(1957年)



ぱっと観て、ブリューゲルの『雪中の狩人』が頭に浮かぶ。ただし、加山作品には人間の姿や家屋はなく、雪山の上に狼が2匹、木の上に独特のフォルムをした大きなカラスが1羽、そして谷間に飛び交う無数のカラスの群れだけ。遠方に連なる雪山、落ち込んだ谷、手前の木立、と西洋画の遠景、中景、前景をきっちり構成した遠近法が用いられている。木の上のカラスは、まるでその出来栄えを観ている加山さん自身のようにも思えた。

『木枯』(1959年)
やや茶味を帯びた黄金色に大きく広がる暮れの空。手前の雑木林から飛び立ったたくさんの鳥たちが、渦を巻くように上空の一点に集約されていく。心に染みる色、情景。

第2章 時間と空間を越えて―無限の宇宙を求めて

大和絵や琳派など、日本の古典絵画に倣った作品を手掛けるようになった頃の作品群。横幅350㎜以上ある、きらびやかな屏風絵が6点も展示室にたなびいていた。

『春秋波濤』(1966年)
チラシに使われている作品。ほぼ中央に、薄いピンク色の桜の花が満開の山。左手下には、紅葉した紅葉の赤が燃える山。その二つの山の間には縦横無尽に波濤が流れ、空には満月。紅葉の山の中央にふんだんに散らばる「切金」の技法習得に、7年かかったと聞いた。加山さんが追い求めた、日本の装飾美の極致と言える作品ではないだろうか。

『天の川』(1968年)
大きく分けて横に三層に分かれる画面構成。最上部には、濃紺の夜空に銀の粉が散ったような銀河。その下に流れるのは茶を帯びたグレーの地に白い線が渦巻く波濤。一番下は青い桔梗や黄色い女郎花の咲く緑の野原。右側には黄色い満月、左には白い半月。緑の野原の占める割合が大きいせいか、清々しい印象。

『七夕屏風』(1968年)



天の川、波濤に笹の葉がモティーフに加わる。左の方に少し入る青緑と朱の色がいい。色合いの妙。

第3章 線描の裸婦たち―永遠のエロティシズム

場面が急展開。全裸の裸婦が次々と登場。事前に情報を得ていたのでよかったが、何も知らずに行ったらさぞや面喰ったことだろう。さすがに髪型や化粧がレトロな感じはするが、フジタを思わせる線描や肌の色は美しいと思った。『黒い薔薇の裸婦』(1976年)など、女性が羽織るレースの布や、同じくレースのような模様が入った背景などが装飾美といえばそうかもしれないけど、当時このような作品を日本画の画壇に発表するには相当の勇気が要ったのではないだろうか?

第4章 花鳥画の世界―「いのち」のかたち

『彌生屏風』(1969年)
金色の雲がたなびき、黒い月が浮かぶ空に、左下方から黄色い蝶の群れ、そして右上方から白い蝶の群れ。双方とも中央の月に向かって舞い飛び、月の上で両者の色が入り交る。幻想的な世界。

『華と猫』(1973年)
大きなシャクヤクの花の下に伏せるシャム猫。首を反らし、瞳を大きく見開いて上方を凝視している。海の波の波頭を思わせるシャクヤクの花弁は白く浮き立つが、全体に暗色が支配しているので、猫の濃いターコイズ・ブルーの瞳が強い印象を残す。体の毛のふわふわした感じや、前足の先からのぞく細く鋭い爪の感触が手に取るように伝わってくる。加山さんは猫がとてもお好きだったらしい。他にも猫がモティーフの作品が二点展示されていたが、日頃から愛情を持って猫たちをよく観察していたことがうかがえる。

『夜桜』(1998年)
やや霞んだ大きな満月が浮かぶ夜に、満開の花を咲き誇らせた桜の大木の威容が浮かび上がる。外側の花々は闇に紛れて輪郭がはっきりせず、まるで滝の水しぶきがけぶっているようにも見える。幽玄で、美しいながらもちょっとした怖さも感じる。

第5章 水墨画―色彩を越えた「色」

『風』(1974年)


若冲を想起させる、繊細な羽毛の描写に魅せられる。墨絵風の黒い笹の葉を背景に、純白の鳥の体が高貴に浮き立つ。

『凍れる月光』(1981年)
夜の海、岩に砕け散る波を、モノクロームの墨で迫力満点に描いた『月光波濤』(1979年)について語った「私は、音にならぬ音、停止した動感、深い、静けさを表現したいと思った」という加山さんの言葉は、この『凍れる月光』の大画面にも感じ取れる。手前の薄暗い森から画面中央に視線を上げると、遥か向こうにひっそりとそびえる山の峰。雪を頂いた白い山頂のみが月光に照らし出され、暗がりに浮かぶ。まるで生命が宿っているようで、山に太古から息づく、音にならぬ音が聞こえてくるような感じを覚える。

『啼』(1980年)
三羽のタンチョウが、首を真っ直ぐ上に伸ばし、天に向けてくちばしを開けて啼いている。単純にコンポジションが美しいと思った。

第6章 生活の中に生きる「美」

加山さんは、絵画以外に様々なもののデザインなども手掛けられた。食器、着物、装飾品、果てはスポーツ・カーまで。「美とは特別なものではなく、もっと普段の生活の中でも生かされるべきだ」との強い思いもおありだったらしい。着物のデザインにもうっとりしたが、このコーナーで印象に残ったのは、メゾチントの一連の作品。又造先生デザインの食器などを日常生活で使うなど私にはあり得ないことだが、このメゾチントの作品の複製なら部屋に飾って愉しめそうだ、と思った。

それにしても、本展でざっとその画業を振り返ってみても、これ全てが一人の画家の手による作品かと恐れ入る作風の多様さ。一つのところにとどまらず、西洋画、琳派、水墨画、と貪欲に研究し、その旺盛な探究心は晩年にコンピューター・グラフィックにまで手を伸ばすなど、最後まで途切れることはなかったようだ。「日本画を描くとはどういうことか、寝ても覚めてもそればかりを考えていた」と語る加山又造さんの作品に一貫して感じられるのは、自分の内なる声に耳を傾け続け、その想いを誠実に作品に注入し続けたのだ、ということであった。