l'esquisse

アート鑑賞の感想を中心に、日々思ったことをつらつらと。

ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情

2008-12-31 | アート鑑賞
2008年9月30日-12月7日 国立西洋美術館



ヴィルヘルム・ハンマースホイ(1864-1916)というデンマーク人画家は、今回初めて知ることとなった。あとで知ったことだが、2007年に東京都美術館で開催された「オルセー美術館 19世紀 芸術家たちの楽園」にて『室内、ストランゲーデ30番地』(1904年作)が展示されており、私も観ている筈なのだが、例によって節穴だらけの私の眼はその絵の前をさしたる注意を払うことなく、まんまと通過したらしい。今思えばハンマースホイに刺激を与えたというジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラーの、『灰色と黒のアレンジメント第一番、画家の母の肖像』が同展に展示されていて、その印象があまりに強烈だったからかもしれない。いずれにせよ、今年初めに本年度の展覧会の案内で『背を向けた若い女性のいる室内』(1904年作)を観た瞬間心をつかまれ、誰この画家?と非常な興味を引かれて、それ以来ずっと楽しみにしていた。

画家の大回顧展である本展覧会は、以下のように構成されていた:

Ⅰ. ある芸術家の誕生
Ⅱ. 建築と風景
Ⅲ. 肖像
Ⅳ. 人のいる室内
Ⅴ. 誰もいない室内
Ⅵ. 同時代のデンマーク美術―ピーター・イルステズとカール・ホルスーウ

Ⅰ. ある芸術家の誕生
”このセクションは、この展覧会の導入部でありながら、じつはハンマースホイの画業の全容を知ることのできるクライマックスでもある”という解説通りの作品群。

画家の2歳年下の妹を背後から描いた『若い女性の後姿(アナ・ハンマースホイ)』(1884年作)の青白いうなじにドキリとした。それほど写実的に描かれているわけではないのに妖気のようなものが絵から漂う。だいたいこの角度で上半身を画面一杯に描くだろうか?誰もいない室内を描いた『白い扉』(1888年作)はその後繰り返し描かれて発展していくモティーフだし、後ろ姿の人物、女性たちの着る黒っぽいドレス、背景のグレーや灰褐色の色など、画家の視点、興味の対象、使うべき色彩などが初期の段階で既に確立しており、彼の画業を通して不変であったことが、展示室を進んでいくうちに理解される。

Ⅱ. 建築と風景
コペンハーゲンの街の中心に位置するというクレスチャンスボー宮殿の絵が大小数点。これといって優美な感じでもなく、とにかく大きな石の建造物といった風情の宮殿を、晩秋や雪景色の中に落ち着いた柔らかい色調で描いている。他には『旧アジア商会』の建物や倉庫などを暗い色彩の中に写し取っているが、どの絵にも人影はなく、無機質な感じだ。『若い樫の木』(1907年作)で描かれる若木も、なんだか頼りなげでこれから成長していくという生命力があまり感じられない。ハンマースホイの絵には、モティーフが何であれ、有機的な要素があまり感じられない。

イタリアに3度も行っているのに1点しか作品を残さず、反対にロンドンでは何点も描いているという事実には頷ける。どう考えてもハンマースホイの気性、嗜好にラテンな都市は合わなさそうだし、同じ北ヨーロッパ圏内でどちらかというと内省的なイギリス人気質の方がはるかに彼のそれに近いと思われる。彼がロンドンで滞在したエリアは、大英博物館、ロンドン大学が所在するほか、ブルームズベリー・グループが誕生したことでも知られる地区で、文学者、芸術家、学者などを呼び寄せる独特な雰囲気があることが想像される。

Ⅲ. 肖像
この画家は極度に内向的で、あまり外へ向けて心を開くことのない人だったのだろう。人づきあいは恐らくもっとも苦手なことだったに違いない。友人や家族以外の肖像画を残しておらず(親しくもない人と部屋の中に二人きりでこもり、何時間も何日間も対面していることなど、彼には耐えられないことだったのだろう)、義理の兄の妻、妹、自分の妻の3人の女性を描いた『3人の若い女性』(1895年作)の中でも、3人は視線を交わすことなくそれぞれの思考に沈んでいるような風情。同じ室内に並んで座っているのに、あたかも自分以外には誰も存在しないかのように。

それにしても、画家の妻イーダを描いた『イーダ・ハンマースホイの肖像』(1907年作)。ウワサには聞いていたが、実作品を目にして思わず苦笑してしまった。いくらなんでも、これはないだろうと思った。このときイーダは38歳だったそうだが、額に太く浮き上がった血管、たるんだ眼の下、憔悴したような表情はとても30歳代には見えない。顔や手などの肌の色は不気味な緑色で、まるで異星人のよう。その約10年くらい前に描かれた『二人の肖像』(1898年)では、彼女は頬もふっくらしていて歳相応に健康的な女性に見える。10年間でこんなに激変してしまうなんて、ハンマースホイとの結婚生活がよほど辛かったのだろうか?などと勘ぐってしまう。もしかして短命だったのかと思ったら、実際は彼より33年間も長生きしていたが。

Ⅳ. 人のいる室内

  
主に、画家夫妻が暮らしたストランゲーゼ30番地の室内画が並ぶ。画中に妻のイーダが描かれるが、ほとんどが黒いドレスをまとって髪を結い上げた後姿。窓辺やピアノの前に佇んでいたり、テーブルやピアノに向って座っていたり。正面や斜めに顔が見えるものもあるが、ほとんどが伏し目がちでぼやっと描かれ、表情はあまりはっきりとは読み取れない。顔の描写に画家はさほど関心を持っていなかったように思えてしまう。

彼の室内画はフェルメールなどのオランダ絵画から着想を得ているとのことだが、確かに構図にその点が見て取れるとは言え、彼が絵に据え置く主眼はフェルメールとは全く異なるように私には思える。その思いは、続く「誰もいない室内」にて展示されている作品群でますます強くなっていく。

Ⅴ. 誰もいない室内

  

人の気配のない部屋を描いた作品が連綿と続く展示室。グレイのグラデーションの世界が延々と続く。きっと限られた数種類の、同じ色の絵の具ばかり減ったことだろう。特にホワイトの消費量は半端じゃなく大量だったに違いない、などと思ったりしながらぐるりと見渡して、この画家の精神状態は正常ではない、という思いも頭に浮かぶ。ある意味、自閉症的な内的世界。そして、絵画としてはこのような世界にどこか惹かれて観入ってしまう自分。

実際の部屋には花などもあったようだが、絵では有機的なものは一切削除されている。あるのは閉ったり開いたりしている白い扉、窓、椅子やソファなどの家具、調度品、イーゼル、窓から差し込む陽光、それを反射したり、影を映じる壁や床。

実際のところ、無人の部屋を執拗に描き続けたハンマースホイの心境を、他者である私が推し量っても余り意味はないのかもしれない。一つだけ私の中でリンクしたのは、昔聞いたイギリス人にとって家は「魂の器」であるという言葉。人間であれ植物であれ、有機的生命体は朽ち果てるが、建造物はずっとそこにあり、これら生命体が生まれ、死んでいくのを見守っている。言いかえれば、詰まるところハンマースホイの関心は常に人間にあったのかもしれない。



丸紅創業150周年記念 丸紅コレクション展-衣裳から絵画へ 美の競演

2008-12-28 | アート鑑賞
損保ジャパン東郷青児美術館 2008年11月22日-12月28日



数ヶ月前に、ボッティチェリ作『美しきシモネッタ』が使われた本展のチラシを観た瞬間から行く気満々だったのに、ふと気づいたら今日が最終日。ただただこの作品を観たくて、大掃除を投げ打って新宿へ向かった。

やはり最終日ということでエレベーターの前には列ができており、少し待つこととなった。エレベーターを降りて、チケット売り場の手前でお財布を出そうとバッグに手を突っ込んでガサゴソやっていると、見知らぬシルバー・グレイのおじさまが近寄っていらして「どうぞ」と招待券を下さった。嬉しい。ありがとうございます!

本当は『美しきシモネッタ』以外はざっと観て、すぐ家に帰って大掃除に戻るつもりであったが、最初の部屋に展示されていた第1部「衣裳(きもの)」からしてその美しさに足が止まってしまった。このところ忙しなく、味気ない日々が続いていたので、綺麗な色彩がとりわけ胸に染みたのかもしれない。結局、続く「意匠図案」、「近代日本の絵画」、「西洋の絵画」と4部構成で展示されていた全作品を、一つ一つ解説を読みながら観ることに。特に「近代日本の絵画」と「西洋の絵画」では名だたる画家の作品が揃っていて、珍しいものも多かったように思う。例えば「近代日本の絵画」では、熊谷守一(1880-1977)の『熱海』や肌の微妙な陰影が素晴らしい小磯良平(1903-1988)の『横向裸婦』が良かったし、「西洋の絵画」では以下の作品が印象に残った:

『イオカステ(神殿の舞)』(1895年作) ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919)
オイディプス王の悲劇を題材にした、ルノワールっぽくない珍しい作品。夫を殺した自分の息子と結婚してしまったという事実を知り、驚愕のあまり身をよじるイオカステの姿態はこの大きさだからいいが、もっと大きい作品だったら崩れそうな気もする。個人的には苦手な画家だが、もう一つの風景画『エスタックのオリーブ畑』も悪くはなかった。

『池の端』(1911-12頃作) モーリス・ド・ヴラマンク(1876-1958)
今年の個展でも強烈な印象を残したヴラマンクの、セザンヌの影響を感じさせる風景画。筆致こそセザンヌを思わせるが、この人の紺がかった緑色の深さは独自の色。

『冬景色』(制作年不詳) 同
スピード感のある筆捌きで描かれた雪景色の大作。解説にあった「自分が何か速い乗り物に乗っているような気になる」は言い得ている。息を吸い込むと、湿気をはらんだ冷気が鼻の奥を刺しそうだ。今の季節に鑑賞するにはぴったりの作品。

『ミモザの花』(1952年作) モイーズ・キスリング(1891-1953)
画面の大部分を占める黄色い花の部分の、フジツボが貼りついたような絵の具の盛り方がおもしろい(絵の具のチューブから少しずつ絞り出して、そのまま点描のようにキャンヴァスに載せていったのだろうか?)。離れて観てみると、花が立体的に立ち上がる。

『木のある風景-乳搾りの娘に求愛する農夫』(1755-59作) トーマス・ゲインズバラ(1727-1788)
久しぶりに観るイギリス人画家の風景画。年末の慌ただしい時に、このような落ち着いたイングランドのカントリー・サイドの情景を観ると気分がほっとするものだ。ゲインズバラは、肖像画家としてより名声を馳せた画家だが、私は肖像画より彼の風景画の方を好む。ところで画中の娘はなぜこんなに浮かない顔をしているのだろう?
 
『夜明け(羽毛のような雲あるいは湖と空あるいは農園)」(制作年不詳) エドワード・バーン=ジョーンズ(1833-1898)
長い題名のごとく、90cmx213cmの横長の作品。もともと上・中・下の縦三連の「上」の部分として描かれていたとも考えられるとあるが、確かに大きい割には主題が判然としない作品。彼のこのような作品は初めて観た。

『美しきシモネッタ』(1480-85頃作) サンドロ・ボッティチェリ(1444/45-1510)
日本にある唯一のボッティチェリ作品で、1969年に開催された展覧会以来まだ5回しか一般公開されていないそうだ。私は今回が初見。イタリア・ルネッサンス、フィレンツェが大好きな私には、直球でストライク・ゾーンに入って来る作品である。

シモネッタは絶世の美女で、美男の誉れ高いジュリアーノ・メディチ(ロレンツォ豪華王の弟)と恋仲であったとか、ボッティチェリの『春』の登場人物としても描かれているとか、彼女が23歳の若さで亡くなったことから「命短し、恋せよ乙女」という詩が生まれた等、様々なエピソードを残す伝説的な美女だ。

この作品ではほぼ真横から描かれているが、色白で鼻筋の通った、すっきりとした端正な顔立ちの女性。広い額、グレーの瞳、ややひしゃげた顎をもつ彼女は、落ち着いていて可愛いというよりハンサムな感じである。髪の毛は、実際こんな風に仕上げられるのかと思うほどとても複雑に編み込まれ、紫の布と真珠で飾られている。赤い布を薄いレースで覆ったドレス生地はふんわりと柔らかく彼女の腕を包む。綺麗だなぁ、としか言いようがない。観にきてよかった。

クリスマス・カード

2008-12-18 | その他
この10年来毎年のことだが、今年も最初のクリスマス・カードはイングランド在住の友人、アニータとフランシス夫妻から届いた。今回は珍しく絵だ。



その昔、イングランド西部のブリストルという街でホーム・ステイしたことがあり、その家のランドレディであったレベッカの継母・実父にあたるのが彼ら。今は別の場所に越してしまったが、当時はイングランドからセヴァーン川を渡り、ウェールズに入ってほどなくの街にある、大きな美しい邸宅にお住まいだった。絵や彫刻など芸術品がそこかしこに飾られた瀟洒な邸宅もさることながら、車で森の小道に入り込んだところからその家の敷地だと聞かされたから、敷地面積は相当の広さだったと思う。

美しい庭と共にちょっとした菜園もあって、旬の季節にはそこで収穫された、真っ赤に熟れた立派なルバーブがダンボール箱一杯レベッカの家に届き、料理上手の彼女が作る美味しいルバーブのコンポートに舌鼓を打ったりした。初夏に訪ねれば、そこの一角に実ったサヤエンドウをちぎって、そのまま生で食べたりもした。え、生で、と思いつつ促されるままに口に入れると、あまりに柔らかくて甘いので驚いたものだった。

お会いする前、アニータは彫刻家だ、とは聞いていたが、実際どのような作品を作るのか知らずにいた。

初めて彼らの家に招かれてダイニング・ルームに入ったとき、ピカピカの長いダイニング・テーブルやその上に載った銀の蜀台などに目を奪われつつ、出窓のところに置かれたチャールズ皇太子の石膏の胸像が目に入った。日本でも皇室のカレンダーなどを飾っているお宅があるので、そんなノリなのだろうか?などと暢気に思いながら、横に立つアニータに伺ってみた。あの胸像は?

彼女は、こともなげに答えた。「あぁ、あれは私が作ったんですよ。バッキンガム宮殿に招かれて、ご本人にもお会いして。いい方でした」

そして、家の奥の方にある彼女のアトリエに連れて行かれ、中に招じ入れられると、等身大の躍動感あるバレリーナのブロンズ像に迎えられた。これも最近の作品だろうか?

「これはね、私が18歳のとき、ロイヤル・アカデミーに入るときに作った作品です」

今となっては記憶が曖昧だが、確かオーストリアかドイツの美術館から修復を依頼されたという、200年くらい前の風景画も普通に足元に立て掛けられてあった。

なんだかすごい人と知り合ってしまった、と思った。でも、彼女の控え目で温厚なお人柄に私も緊張することなくいろいろお話を伺えたし、それ以後も私が滞英中お会いする度に本当に良くして下さった。彼らの家で過ごした夢のようなクリスマスは、一生忘れることがないだろう。

あれ以来、残念なことにお二人にお会いする機会はないが、こうして毎年欠かさず、温かい言葉を添えてクリスマス・カードを送って下さる。たいてい彼女の彫刻作品を使用したグリーティング・カードだが、今年は珍しく彫刻作品の習作画。レオナルド・ダ・ヴィンチだそうだ。ブロンズ像が出来上がったら、是非また写真でもいいから拝見したい(本当は実作品を拝見したいけど)。

ついでに、これは彼女が写真に撮って送って下さった、2005年の彼女の作品『アラビアのロレンス』。5m近い大作だ。そばに寄ったら、すごい迫力だろう。



さて、私が今年お二人にお送りしたクリスマス・カードは、俵屋宗達の『風神雷神図屏風』。今年はやはりこれでしょう。



先だっての「大琳派展」は、私は前期しか行けなかったので、俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一、鈴木基一の4人による『風神雷神図屏風』4作品揃い踏みには行けなかったが、実際観た光琳の作品でも、神々のダイナミックな姿態と同じくらいに背景のスペース感に惚れ惚れした。これでもかと描き込む西洋画と対極をなす日本の美。

アニータとフランシスに少し説明せねばと、余り考えずに「カードの表は"The God of Wind"、裏は"The God of Thunder"です」と直訳してしまったが、流石に琳派はRinpa Schoolじゃないよな、ニューリン派(Newlyn School)みたいなのとは明らかに違うし(あ、例が渋すぎ?)、と思って何気なく展覧会のチラシを見てみたら、Rinpa Mastersと書いてあった。助かった

石田徹也―僕たちの自画像―展

2008-12-17 | アート鑑賞
2008年11月9日-12月28日 練馬区立美術館



冬空の曇天が広がる冷え冷えとした土曜日の午後遅く、石田徹也(1973-2005)の個展を観に行ってきた。美術雑誌やテレビなどのメディアを通じてたびたび彼の作品を目にしたことはあったが、実作品を、しかも個展という形でまとめて観られる機会を今回初めて得ることとなった。

31歳で夭折したこの画家は、あんなに絵が上手なのに、ただでさえ短い制作活動期間の中であんなに苦しそうな絵ばかり残して、いったい人生に何を見てしまったというのだろう?という私の暗澹たる想いは、作品によってさらに深まったり、あるいは新しい発見によって少し楽になったりした。

 

石田の初期の作品では、たいていネクタイを締めたスーツ姿の若い男性が、車輪、飛行機、車両、学校の建物などに閉じ込められたり、合体していたり、何かを背負わされたりして、自由に動けずがんじがらめになっている。眉を八の字に曲げ、困惑し切ったような顔をしているか、あるいはすべてを諦めたような虚ろな表情を浮かべている。その奇想ともいえる発想に感嘆しつつ、コンピューターや携帯を持ち歩き、常に”囚われの身”である会社員として、自分も同じ視線で共感できる部分が多々あるともいえる。どちらかというと分かり易い作品群だ。

しかし年を追うごとに、石田作品はもっと深遠な、計り知れない絶望感を漂わせ、表現もより奇抜になっていく。2004年の『体液』では、男性が洗面台と合体し、目からとめどもなく涙を流している。その涙が溜まった洗面台の中には、1匹の三葉虫。虫類の苦手な私は、初めてこの絵を雑誌で観たとき、正直あまりに生臭い感じがして生理的に受けつけなかった。しかし実際の作品の前に立った時、三葉虫よりも何よりも私はその涙に胸が締めつけられた。泣き顔というのは、それまでの作品には観られない、ある意味とてもダイレクトで人間的な感情表現だ。それまで画中の男の人は、困り果てながらも感情を無理に押し殺して何とかやり過ごしている風だが、ずっと堪えてきたものがここにきて崩壊し、とうとう落涙に至ったように思えてならない。

後期の作品では、象徴的だったスーツ姿の男性が姿を消し、白いTシャツを着た普通の若い男性が主人公になる。彼もまた何かに悩み、怯え、苦悶している。病的に横たわった姿も多くなり、前期では感じることのできた、逃げようとする気力すら感じられない。最後の方に展示してあった、2004年制作の『無題』で、何もない部屋で壁にしなだれかかり、座っているというよりもやっと首から上を起こしているような男性は、もはやもぬけの殻といった態だ。Tシャツがめくれ上がった上半身、そして何も身につけず露わになった両ももの上には、目を閉じた死人のような顔がいくつも浮かび上がっている。まるで生きる屍状態。観ているこちらも息が詰まる。

ただし、同じ2004年に制作された『触手』と、やはり海を描いた『無題』は他の作品群と異なる印象を残す。『触手』では、透明なクラゲに包まれた男の子を女性が優しく両腕に抱くという絵。女性が額や腕に怪我を負っているのが暗い影を落とすが、ふわりとしたクラゲに包まれた男の子は安らかな寝顔を見せる。1997年制作の『クラゲ』に共通する主題に思われるが、子宮の中の胎児のイメージであろう。人間は疲れると海を見たくなるが、それは海の波の音が子宮の羊水の音に似ているからだと聞いたことがある。この世の苦悩を知る前の胎児のイメージを膨らますことは、石田にとってしばしの安寧を得られる、心の逃避だったのだろうか。

初期の作品に戻るが、1995年制作の、『ビアガーデン発』と『居酒屋発』の2 作品では、それぞれに登場する3人の男性が、驚くことに朗らかな笑顔を見せている。こんな絵も描いたのか、と一瞬思ったが、あとでこれは石田の本意ではないのではないかと思い直した。この2作品は、毎日広告デザイン賞優秀賞を受賞している。図録に収録されている横山勝彦氏(練馬区立美術館副館長)の”石田徹也論のための覚書“に、『当然のことながら、他人に受け入れられることを前提とするデザインやイラストレーションの世界では、注文主の意向など多様な配慮が要求される』とある。『イラストレーションの仕事をこなしながら、一方では、「自分のためだけによい絵を描いていきたい」との思いを強くしていったのではないだろうか』と。この2作品についての指摘ではないし、実際石田がどのような経緯でこの作品を制作したのかわからないが、広告デザイン用の、割り切った絵と私には映る。

また、石田作品には本人のサインが描かれていない。展示作品の中では唯一2003年制作の『無題』となっている、野原に立つ子ども(膝、肘、首などが切断されて体のパーツがずれていて、右腕は下に落ちている)を描いた作品に、落款風に四角く囲んだ徹也の朱色の文字があるだけだ。確かに現代作家の作品にはサインがないものが多いような気もするが、石田が署名を入れなかったこと、あるいはこの一作品だけに徹也と入れたのにも意味があるように思われる。そして具象画なのに『無題』が目立つのも特徴的。出品リストを見ると、大学ノートのアイデア帖を除いて72点の出展作品中、実に25点が『無題』だ。

今回実作品を目の当たりにして改めて気付かされたのは、その卓越した画力だった。石田は武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科を出ている。きっとデザインを学んだ人だからであろう、画面構成がしっかりしていて、細かい線描も正確で妥協がない。草や木、部屋の床や諸々の置物も写実的に丹念に描かれているし、消防士が赤ちゃんを助け出すシーンを描いた作品(2000年頃作 『無題』)に観られる、消防士の乗るゴンドラの、網目の防御カバーの描写など職人的ですらある。

アイデア帖として展示されていた大学ノートへの書き込みも大変興味深かった。「僕の求めているものは、悩んでいる自分を見せびらかすことではなく、それを笑い飛ばす、ユーモアのような物なのだ。ナンセンスに近づくことだ」という言葉は、こちらが作品から想像するほど石田自身が絶望感に捕らわれておらず、実は精神的に余裕があったのかと思わせる。イギリスかアメリカへの留学も考えていたようで、費用の概算や買うべき辞書なども几帳面に列記されていて、今後の活動への希望、期待、前向きさも伝わってくる。石田が海外に出ていたら、どんなことを絵に切り取っただろう?

1枚だけ展示されていた石田徹也の写真は、ごく普通の温和そうな青年に見える。でもその風貌からは想像し難い鋭い感性の持ち主であるこの画家が、もう二度と作品を生み出すことはない。それが非常に惜しまれる。

WOOLWORTHS

2008-12-12 | その他
今日、ネットでイギリスの新聞「The Independent」のオン・ライン・ニュースを見ていたら、Woolworths(愛称Woolies)が街の目抜き通りから消える、つまり倒産するとの記事が出ていた。

Woolworthsは、イギリスに住んだことがおありの方にはお馴染みの、イギリス全国どの街にもあるチェーン店で(815店舗あるそうだ)、生鮮食品以外の種々雑多な生活用品(文房具、台所・バスルーム用品、寝具類、調理器具、電気製品、DIY用品、洋服・服飾品、お菓子、オモチャ、DVDなど)が並ぶお店。デパートや広大な売り場面積を持つスーパー・マーケットのような規模ではなく、私の知る限りハイ・ストリートに面したそれほど広くない1フロアーに、適度な量の商品が分野ごとにこじんまりと置かれ、レジも一箇所という感じだ。

私がその昔、1年ちょっと住んでいたロンドン北部のMuswell HillにもWoolworthsはやはり街の中心部にあり、スーパーの帰りなどに立ち寄ったりしていた。実際買ったのはグリーティング・カードくらいだったが、このお店の中はどことなくホッとする庶民的な雰囲気があり、またグリーティング・カードなども高級すぎず、安っぽすぎず、ちょうどいい感じのものが手に入った。記事を読むと、衣類など他の商品に関してもほどよい商品の選択の幅と、リーズナブルな価格が魅力という消費者の意見が目についた。

私も今回初めて知ったが、創業99年だそうだ。特に年配以降の、若い頃から長年このお店を愛用してきたイギリスの人たちには、あの赤いWOOLWORTHSの文字がハイ・ストリートから消えるのは寂しいに違いない。

記事では倒産を惜しむお客さんのコメントがいろいろ載っていて、その中の、”I buy bits and pieces”(あれやこれや買っていたのに)という表現はとてもよくわかる。しかし、この” bits and pieces”というのが問題の一つである、と記事は伝える。高級文具店とか、ベルギー・チョコレート専門店とか、一つの商品を専門的に売る店が流行る今のご時世、こういう焦点の定まらない”よろずや”的な商売は成り立たない、と。

ここで私は、もう何年も前にロンドン在住のイギリス人の友人ディヴィッドが東京に来たときに交わした会話を思い出した。

D:「日本は物が豊富でいいよ。例えば東急ハンズに行ったら、ボールペンだけで100種類もある」

YC:「ボールペンはボールペン。1種類ありゃ十分だと思うけど」

D:「そりゃイギリス的な考え方だな。イギリスはボールペンくれ、って言ったらどれ?なんて聞かれないもん。選択の余地なし」

そのイギリスも、もはや1種類のボールペンじゃ飽き足らない消費文化に浸かっているということなのだろう。


ダブリン出張の思い出

2008-12-08 | その他
今回のフェルメール展に、アイルランドの首都ダブリンにあるアイルランド・ナショナル・ギャラリー所蔵の『手紙を書く婦人と召使い』が滑り込みで貸し出されて展示されたということで、昔のダブリン出張の思い出を一つ。始めに断っておくが、アートとは全く関係のない話なのであしからず。

2004年秋、勤め先の会社で全社的に新しい社内統一システム(いわゆる"Quote To Cash"、要するに見積に始まり顧客からの入金までを一括管理するシステム)を導入することになった。正確に言えば、その2年前に先陣を切ったアメリカや韓国などに続いて、日本も残りの未導入の国々と共にそのシステムを導入せよ、とのお達しが本社から出た。

そのシステムの検分目的で、日本の他ヨーロッパや南米の国々など13ヶ国から関連部署の代表がダブリンに呼ばれ、私も東京オフィスの同僚数名と共に5週間をダブリンで過ごす破目になった。代表と言うと聞こえがいいが、私の場合とりわけシステムに強いからとかではなく、単に人材不足のせいで選ばれてしまった次第

詳しいことは省くが、これがとんでもなくキツイ作業で、毎日朝食もそこそこに7時にホテルを出てオフィスまで車で1時間をかけて通勤(幸か不幸か私はペーパーなので、運転は同僚任せ。スミマセン)、夜遅くにホテルに帰って夕飯もそそくさと済ませて寝るのがやっと、という日々を繰り返し、土日も基本的にナシであった。私は連日のようにホテルの近くのコンビニに通っていたので、しまいには店員に「ダブリンに住んでるの?」と聞かれる始末。体調を崩す人も多く、スペインなどは途中で選手交代もありだったが、我々極東の日本チームはそうもいかず、4人で最後まで頑張った。リーダーなどは4kgも痩せてしまったし、後にこの出張を「ダブリン・島流し」と言った人がいたが、まさに言いえて妙

話が前後するが、私がおかしく思い出すのはダブリンへ向けて出発したときのこと。

ダブリンへの直行便はないので、同僚はそれぞれお気に入りの航空会社、ルートでダブリンに向かった。私はBAでロンドン経由にしたのだが、ヒースローに着いてみると物凄い混雑ぶりでウンザリしてしまった。入管はどこの窓口も長蛇の列で、一体いつ通り抜けられるのだろうと途方に暮れる。あぁ、こんなことなら180度のリクライニング・シートじゃなくてもKLMでアムステルダム経由にしとくんだったなぁ、などと思っているところに、空港の係員が来て列の整理を始めた。列を適当に区切り、はい、ここまでの人は何番窓口へ。はい、ここまでの人は。。。とやっている。

私の前には派手なスポーツ選手の一団がいた。褐色の肌のくっきりした目鼻立ちの人たち。レゲエ風のドレッド・ヘアーの人もいる。何のスポーツかわからなかったが、男女とも皆スポーツ・バッグを持ち、上は赤、下はグレーというお揃いのスポーツ・ウェアーを着ていた。赤い上着の背中にはくっきりとOMANの文字が。へぇ、オマーンの人たちとは珍しいなぁ。。。

と、さっきの係員が私たちのところにもやってきて、私の背後に手を差し入れ、はい、ここ(私)までの人は○番へ、と言った。あれ、何で私だけオマーン・チームに入れられたの?と思った瞬間、自分の服装に仰天した。スポーツウェアではないにしろ、上下ともオマーン・チームのチーム・カラーと全く一緒だったのだ。赤の長袖Tシャツに、グレーのカーゴ・パンツ。

でも、背中にOMANって入ってませんから

ま、それはさておきやっと入管の順番が回ってきた。ビジネス・トリップということで社名を聞かれ、答えると「あぁ、システムのトレーニングでしょう?」。なるほど、ウチの社員が既に沢山この入管を通ったらしい。そんなわけで入管はあっさり終わったが、そこからゲートへの道のりが遠かった。歩いても歩いても着かない


のちに現地のダブリン・オフィスで落ち合った、やはりロンドン経由でダブリン入りした同僚は「このまま歩いてダブリンに着いちゃうかと思った」と言っていたっけ。

フェルメール展 光の天才画家とデルフトの巨匠たち

2008-12-07 | アート鑑賞
2008年8月2日-12月14日 東京都美術館





2004年に東京都美術館にて開催された「ウィーン美術史美術館所蔵 栄光のオランダ・フランドル絵画展」で初めてヨハネス・フェルメール(1632-1675)の『絵画芸術』の前に立ったときの、波紋のように幾重にも広がる静かな衝撃は忘れられない。今自分の目の前で、絵の中でこちらに背を向ける画家の筆がキャンバスをこすった音がしたように思えた。モデルに視線を走らせる画家の頭がほんの少し傾げられたような気もした。

翌2005年、国立西洋美術館の「ドレスデン国立美術館展」に展示された『窓辺で手紙を読む若い女』を観たときも同様の気分に陥った。夕暮れ時だろうか、黄金色の光に包まれ、窓辺で手紙に見入る女性。何かの振動で内側に開かれた窓が微動し、そこに映る女性の顔が揺らいだように感じた。

フェルメールの作品をじっと観つめているとき、私は耳を澄ませている自分に気づく。描かれたもの全てが放つ実在感は、写実的であるとか、完璧な遠近法が使われているとか、3次元の世界を2次元の世界に再現するということを超越して、何と言おうか、まるで絵の錬金術を目の当たりにしているような心持がする。

2008年、フェルメールの作品が7点も東京に集まる、とのニュースに、興奮もし、戸惑いも覚えた。あの『絵画芸術』にまた逢える。そして、前から観たいと念じていたフェルメール作品の珠玉の1枚、『小路』に。でも、2007年に国立新美術館で展示された『牛乳を注ぐ女』を思い出して不安もよぎった。先に挙げた『窓辺で手紙を読む若い女』は、他の展示作品同様に通常の柵で囲ってあるだけだったので、そばに寄ることが可能だった。と言うより、(押し合いへし合いは目をつぶるとして)これが絵の鑑賞というものではないのだろうか?『小路』のような小さな作品を、『牛乳を注ぐ女』のように隔離されて展示されては、フェルメールの魔法に浸ることは難しい。

結局『絵画芸術』の出展は取りやめになってしまい、楽しみにしていた再会はならなかったが、結果的に展示法の心配は杞憂に終わり、そしてやはりこんなに沢山のフェルメール作品を一度に東京で観られるというのは本当に贅沢なことで、そばで『小路』にお目にかかれるだけでもありがたかった。

今回召集されたフェルメール作品は以下の通り:

『ワイングラスを持つ娘』 (1659-1660年頃) アントン・ウルリッヒ美術館所蔵
『小路』 (1658-1660年頃) アムステルダム国立美術館所蔵
『ヴァージナルの前に座る若い女』 (1670年頃) 個人蔵
『手紙を書く婦人と召使い』 (1670年頃) アイルランド・ナショナル・ギャラリー所蔵
『マルタとマリアの家のキリスト』 (1655年頃) スコットランド・ナショナル・ギャラリー所蔵
『ディアナとニンフたち』 (1655-1656年頃) マウリッツハイス王立美術館所蔵
『リュートを調弦する女』 (1663-1665年頃) メトロポリタン美術館所蔵

今回一番心に残ったのは、やはり『小路』だった。言ってみれば、デルフトのどこかの、住宅街の一角を切り取っただけの景観図。と思いきや解説を読むと、窓の非対称性などフェルメールは構図の調整をいろいろと行っている。雲のたなびく青空を背景に建つ赤レンガのオランダ家屋を描いた絵が、こんなにまで観る者の心を掴んで離さないのは、鑑賞者に違和感を抱かせることなく、絵画として「こう観えるべき」という観点から完璧に仕上げるフェルメールの天才的な技があってのこと。

それにしてもこの家屋のファサードのレンガの色はなんて美しいのだろう。斜めから観ると照明が当たってキラキラと輝いていて、ついさっきまで筆が入っていたかのようだ。どんなに観続けても離れがたい。53.5x43.5cmという、決して大きくはないこの絵の求心力の前に、展示室を去る時は本当に後ろ髪を引かれる思いだった。

ところで、今回は「光の天才画家とデルフトの巨匠たち」とある通り、デルフトで活躍した他の画家たちの作品もたくさん展示されていた。中でも、フェルメールとの関連で名前を頻繁に聞くことはあっても実作品を観る機会のなかった、現存作品数が少ないカレル・ファブリティウス(1622-1654)の作品が4点も並び(プラス帰属作品1点)、興味深かった。特に『自画像』はなるほどこれはレンブラント作と思われても仕方がないと思った。それから、格子状の模様の床にしつらえられた展示室に集められた、8点ものピーテル・デ・ホーホ(1629-1684)の作品に囲まれるというのも貴重な機会だった。フェルメール作品と並んでしまうとどうしても「もう一歩」と思ってしまうが、私の勉強不足もあるので、この画家の17Cデルフト絵画への貢献度、位置づけは今一度おさらいしてみようと思う。

もう一つ印象に残ったのは、第1展示室に並んだ、ヘラルト・ハウクヘースト(1600‐1661)や他の画家によって描かれた、デルフト新教会内部を描いた作品群。どの作品も、これでもかというくらいに林立する立派な白い列柱が並ぶ。もしデルフトに行ってこの教会に入ることが出来たら、きっとこの展覧会のことを思い出すだろう。

やっぱり一度はデルフトに行ってみたいな。

Piacere! (ご挨拶)

2008-12-02 | その他
今更ではありますが、初めまして。YCと申します。

ブログを始める際、マニュアルっぽいものを読むとたいがい「挨拶」から始まっているので、一応私もそのようにしようと書き出したのですが、「初めまして」とか、こういう者です、とか書いているうちに「一体私は誰に向かって書いているのだ?読んでくれる人がいるかどうかもわからないのに?」という釈然としない気分に陥って、結局いきなり美術展の感想文から始めてしまいました。

しかも始めた途端風邪を引いて熱を出し、あわや三日坊主という事態に。その後も体調がぱっとせず、11月は2回しか記事を書けませんでした。美術展の鑑賞も閉会に追われて駆け込んで観ている始末です。そんな体たらくなので、せめて週に1回はアップしたいというのが目下の目標であります(我ながら低い目標だとは思いますが)。

そんなブログなのに、訪問者数を見るとのぞきに来て下さっている方がいらっしゃるようなので、物凄くビックリして慌てて今頃ご挨拶を書いている次第です。

私は写真は撮るのも撮られるのも苦手。文章も不得手。そして元来アナログ人間で、たまに周りを失笑させるほど大雑把な性格です。こんな人間にブログができるのか?と自分でも訝しく思いますが、このところずっと低空飛行(無気力状態)が続いているので、そんな自分に活を入れるのにブログはいいかもしれないと考えて始めました。また、美術鑑賞の感想なども書き留めておけば、自分用の記録にもなろうかと。

ブログのタイトルはフランス語の「エスキース」。美術用語ではスケッチや素描を、文章では下書きなどを指すようです。挨拶も気取ってピアチェーレ!とイタリア語で書きましたが、フランス語もイタリア語も出来ません。

仕事はごく普通の会社員です。趣味は美術鑑賞、音楽鑑賞、油絵、読書、サッカー観戦など。

どんなブログになるやら心許ないのですが、読んで下さる方がいらっしゃればとても嬉しく思います。コメント、トラックバックなども大歓迎です。どうぞよろしくお願いいたします。