東京国立博物館 平成館 特別展示室第1・2室 2009年7月14日-9月6日
まずは、「染付」の説明を公式サイトから抜粋:
染付(そめつけ)とは白磁の素地にコバルトを含んだ顔料(がんりょう)を用いて筆で文様を描く技法をいう。透明釉(とうめいゆう)を掛けて焼成すると、文様は鮮やかな藍色に発色。中国では「青花(せいか)」、欧米では「ブルー・アンド・ホワイト」、日本ではきものの藍染(あいぞめ)を思わせることから「染付」とよばれる。
ちなみに本展を観に行った日、本館にちょうどコバルト顔料の見本が小瓶に入れられて手に取って見られるようになっていたが、展示室の照明の下では鶯色っぽく見えた。
もとい、本展では染付の技法が確立した元時代を起点に中国における染付の変遷を辿るとともに、その技法が伝播したベトナムや朝鮮、日本の作品も概観。12章に分けられ、200点ほどが並ぶ。その展示風景を含め、この展覧会の意義についても素晴らしいまとめをされているTakさんの記事はこちら。
では、本展を構成するその12章を以下の通り書き出しておく:
1 元時代の染付
2 明時代前期の染付
3 雲堂手―民窯の染付―
4 明時代後期の染付
5 ベトナムの染付
6 朝鮮の染付
7 明末清初の染付
8 伊万里と鍋島の染付
9 清時代の染付
10 京焼と地方窯の染付
11 伊万里染付大皿―平野耕輔コレクション―
12 染付の美を活かす
何せ200点余の出展数。切りがないので、画像は各章1点ずつ選びながら、順を追って観ていこうと思う:
1 元時代の染付
染付の技法は中国江西省の景徳鎮窯において元時代(1271~1368)に完成。筆描きによる文様装飾が主役で、「空間恐怖」ともいわれる濃密な文様構成に特徴。元時代の染付は西アジアまで伝播し、景徳鎮は揺るぎない地位を築く。
『青花蓮池魚藻文壺』 中国・景徳鎮窯 (元時代 14世紀) 重要文化財
ぐるりと四方から。
泳ぐ魚たち、たゆたう藻や蓮の花。一周すると、解説にある通り回り灯籠を観ているよう。胴の上下の各仕切りにも波濤文や唐草文が施され、余白部分が少ない。
2 明時代前期の染付
明時代(1368~1644)には宮中の御用品を焼く官窯が景徳鎮に置かれる。官窯の特色がはっきりと示されるのは宣徳年間(1426~35)であり、「大明宣徳年製」の款識(かんしき)を入れることが一般化。純白の白磁が完成され、表面には橘皮文(きっぴもん)と呼ばれるかすかな凹凸がある。蘇麻離青(そまりせい)とよばれる良質のコバルト顔料が用いられ、白磁を引き立てる。文様は元時代の力強さから優美で洗練されたものへ。
『青花牡丹唐草文水注』 中国・景徳鎮窯 (明時代 14世紀)
この作品で使われているコバルトはそれほど良質ではなく(イスラム圏との交流が途絶えて、良質のコバルトが入手できなかった時期に作られたらしい)、青色が灰がかってくすんでいる。が、個人的にはこのような色も目にやさしくて好きである。文様も、第1章で目にした絵画的な作品群と異なり、あくまで装飾的。口の裏まで唐草が這いずりまわるように描きこまれている。
3 雲堂手―民窯の染付―
官窯に対し、一般の需要に向けた陶磁器を焼く窯を民窯(みんよう)という。「雲堂手(うんどうで)」とは明時代前期に民窯で焼かれた染付の一群をさす。楼閣と渦を巻いたような特徴的な雲気文が描かれていることに由来。
『青花楼閣人物図壺』 中国・景徳鎮窯 (明時代 15世紀)
楼閣の脇にもくもくとわき立つ雲。太い輪郭線の内側に、感覚的な細い線がちょこちょこ加筆されていて、魚の鱗のようでもある。肩の部分の背景に描きこまれているのは「七宝繋ぎ」という文様だそうだ。
4 明時代後期の染付
明時代になると次第に色彩への関心が高まり、釉上彩(ゆうじょうさい)、すなわち上絵付けの技法が盛んに。上絵付けとは、素地をいったん高温で焼き、様々な色の上絵具で彩色を施し、錦窯(きんがま)で焼く技法。これにより多色を用いることが可能になり、染付も華やかなものになっていく。嘉靖年間(1522~66)には、新たに西方から輸入されるようになった回青(かいせい)とよばれるコバルト顔料が用いられるようになり、やや紫がかった染付が作られる。万暦年間(1573~1620)になると回青の入手が困難になり、次第に染付の色が黒ずんでくる。濃染め(だみぞめ=むらなく塗りつぶす技法)を施し、びっしり描きつめられた文様は、江戸の文人にも愛された。
『青花蝶文双耳瓶(せいかちょうもんそうじへい)』 中国・景徳鎮窯 (明時代 万暦年間)
上の説明にはそぐわない作品だが、爽やかな青の諧調で描かれた舞い飛ぶ蝶のごとく、観ているこちらの心も弾んだ。
5 ベトナムの染付
ベトナムでは、14世紀中頃からコバルトで文様を施したやきものが作られた。ただし磁器ではなく、半磁質の胎(たい)に白化粧をしたもの。生産当初から優れた轆轤(ろくろ)挽きの技術を持ち、文様表現には中国の染付の影響が認められる。15~16世紀にはベトム染付の最盛期を迎え、周辺諸国にも輸出されたが、次第に中国製の染付・五彩への需要が高まり、16世紀末には国内向けに縮小。
『青花鹿山水図大皿』 ベトナム 15~16世紀 重要美術品
黄味がかった地に、黒っぽい発色のコバルト色。真ん中で疾駆する鹿はもとより、全体の装飾文様も筆に勢いがあって、躍動感のある図柄。
6 朝鮮の染付
朝鮮の染付は京畿道広州(キョンギドクアンジュ)におかれた官窯において15世紀中頃に生産が始まったと考えられている。都から宮廷画家が広州に派遣されて絵付けを行ったという記録も残る。16世紀末に豊臣秀吉の侵略という国難に見舞われ、朝鮮の窯業は大きな打撃を受けるが、18世紀前半には金沙里(クムサリ)の官窯にて朝鮮独特の様式の染付が完成。
『青花松竹図壺』 朝鮮時代 15~16世紀
文様に仕切りが全くなく、全面を1枚の絵画が覆っているような作品。枝ぶりがちょっぴり狩野派を思わせた。
朝鮮の染付は、大きな余白にささっと野花が線描されているような作品が目立ち、和的な感じもした。実際「秋草手」は昭和初年ころから日本人に親しまれてきたと解説にあった。
7 明末清初の染付
明時代後期になると、景徳鎮民窯が目覚ましい発展を遂げ、ヨーロッパを含め世界各地に運ばれていった。「芙蓉手(ふようで)」(中央に大きく円窓を設け、外周を均等に区画して、それぞれの中に文様を配する染付)は主にヨーロッパに輸出。天啓年間(1621~27)頃には山水などが描かれた「古染付(こそめつけ)」が焼かれる。虫喰いと呼ばれる釉の剥落が生じた粗雑な作風は日本の茶人に愛され、茶器のオーダーメイド品が中国に発注された。崇禎(すうてい)年間(1628~44)になると、良質の素地に鮮やかな発色の染付で瀟洒な文様が描かれた「祥瑞(しょんずい)」が日本の茶人のために焼かれるようになる。ただしこれらはほんの一部で、この時代の景徳鎮では多様な染付作品が焼かれた。また、福建省南部の漳州(しょうしゅう)周辺の窯では呉須(ごす)染付が量産され、東南アジアや日本に向けて輸出された。
『祥瑞捻文瓢形徳利(しょんずいねじもんひょうけいとっくり)』 中国・景徳鎮窯 (明時代 17世紀)
画像では分かりにくいかもしれないが、その捻じ曲がった形、それに寄り添って縦に仕切る歪んだ帯模様、その間に描かれた文字や楼閣山水人物図と独特の意匠。素地の光沢、コバルトの発色も素晴らしく、美しい作品だと思った。
また、6種類ほど香合が並んだケースがあったが、それぞれ古染付、呉須染、祥瑞とばらばらの技法ながらどれも何とも言えずかわいらしく、ケースの周りを2周しまった。特に茄子をかたどった『祥瑞茄子香合』は、てっぺんのヘタの傾げ具合がたまらない。とにかくこのセクションは、染付技法もさまざまな多様な作品が並んでいて、もっとも見応えがある。
8 伊万里と鍋島の染付
日本の染付は、朝鮮半島から渡来した陶工によって技術が伝えられ、江戸時代初頭に有田で生産が始まった。積出港の名をとって伊万里焼と呼ばれる。伊万里焼は急速に技術を高め、寛文年間(1661~73)には大胆な構図と力強い筆づかいによる雄渾な作風、さらに延宝年間(1673~81)頃になると繊細な濃染めを駆使した、日本独自の優美な様式の染付が完成。有田を領内に持つ鍋島藩は、藩窯を置いて将軍家・大名への献上品、贈答品を焼く。
『染付蓮鷺文三足皿(そめつけれんろもんさんそくさら)』 鍋島 江戸時代 17~18世紀 重要文化財
濃染めと聞くと、なんとはなしに濃い色で塗りつぶされるようなイメージが湧くが、濃淡ではない。この作品のように薄い色合いで広い範囲をむらなく塗るには大変高度な技術が必要とされるそうだ。そんな淡い濃染めの余白を大きく取った三羽のサギのポジショニングも絶妙、優雅な作品である。
9 清時代の染付
明末清初の動乱が収まり、康煕(こうき)19年(1680)に官窯の操業が再開。新しい気風のもと、素地、形、筆遣いも洗練されてくる。コバルト顔料も精製され、優美であると同時に冷たい印象を与える。筆を重ねて濃染めを施す手法はこの時期特有。一方で、清時代の官窯では、永楽・宣徳期の再現を目標に中国歴代のすぐれた磁器の模倣が活発に行われた。
『青花木蓮文瓶』 中国・景徳鎮窯 清時代 17~18世紀
木蓮のやや大ぶりな白い花びらの周りだけ濃染めで影がつけられている。横に走る筆触がよく残り、水彩画のようだ。白い余白が大きいのに夜を思わせる不思議な文様。
10 京焼と地方窯の染付
京都でさかんに磁器が焼かれるようになるのは江戸時代後期のことで、奥田穎川(おくだえいせん 1753~1811)がその基礎を築いたとされる。門下の青木木米(あおきもくべい 1767~1833)らによってさらに多様に。19世紀に入ると、日本各地で染付の生産が活発になる。瀬戸における染付は、肥前で技術を学んだ加藤民吉(かとうたみきち 1772~1824)により文化4年(1807)に始められ、明治時代になると輸出向けの染付が量産されるようになる。
『染付龍濤文提重(そめつけりゅうとうもんさげじゅう)』 京焼 青木木米作 江戸時代 19世紀 重要文化財
高さ23㎝ほどの、それほど大きくない作品だが、色も形もどっしり主張する作品。余白がほとんどないほど塗りこまれ、描きこまれ、横には透かし彫りと、さまざまな技巧が凝らされている。虫喰いは意図的に作り出しているそうだ。
11 伊万里染付大皿―平野耕輔コレクション―
元商工省陶磁器試験所所長の平野耕輔氏(1871~1947)からの寄贈コレクション。伊万里染付大皿224点(その多くは江戸時代後期の天明(1781~89)頃から幕末頃に作られたもの)から50点以上と、中国清時代の染付大皿が5点並ぶ。
『染付鶴繫文大皿』 伊万里 江戸時代 19世紀
展示室の長い2面の壁に、大皿を上に、小皿を下に置く形で約60枚がずらりと並ぶさまは圧巻。図柄も日本地図や東海道五十三次、虎、鷲、鯉、兎などの動物たち、植物、各種文様、変わった形のものと多様。その中で選んでみたのは、このスタイリッシュな大皿。濃染めと線描のコバルト色の対比も美しい。スカーフなどに転用したらきっとおしゃれ。
ついでに、『染付網目文大皿』にはエビなど海の幸が、『染付羊歯文大皿』には松茸が載せて展示されてあった(もちろん本物ではないが)。そばにフランス人父娘がいたが、小学生くらいのその女の子は「パパ~、シャンピニョ~!」と大喜びであった。
12 染付の美を活かす
最後は、染付の器を中心に添えて様々な焼き物をコラボさせたテーブル・セッティングの試み。朝食、お茶のおもてなし、お酒のおもてなし、というようにシチュエーション毎に選ばれた器が並ぶ。
お酒のおもてなしセッティングで、あの捻れた徳利があった。あれ、途中でどひゃーっと出たりせずに、普通に注ぐことができるのでしょうか?
この展覧会も9月6日までなので、お急ぎください。この期に及んで今更な情報ですが、「伊勢神宮と神々の美術」とのセット券は1600円ととてもお得です。本館の常設展にも興味深い作品が多々ありますので(コバルト顔料の確認も!)、1600円で本当に贅沢な一日が楽しめます。
まずは、「染付」の説明を公式サイトから抜粋:
染付(そめつけ)とは白磁の素地にコバルトを含んだ顔料(がんりょう)を用いて筆で文様を描く技法をいう。透明釉(とうめいゆう)を掛けて焼成すると、文様は鮮やかな藍色に発色。中国では「青花(せいか)」、欧米では「ブルー・アンド・ホワイト」、日本ではきものの藍染(あいぞめ)を思わせることから「染付」とよばれる。
ちなみに本展を観に行った日、本館にちょうどコバルト顔料の見本が小瓶に入れられて手に取って見られるようになっていたが、展示室の照明の下では鶯色っぽく見えた。
もとい、本展では染付の技法が確立した元時代を起点に中国における染付の変遷を辿るとともに、その技法が伝播したベトナムや朝鮮、日本の作品も概観。12章に分けられ、200点ほどが並ぶ。その展示風景を含め、この展覧会の意義についても素晴らしいまとめをされているTakさんの記事はこちら。
では、本展を構成するその12章を以下の通り書き出しておく:
1 元時代の染付
2 明時代前期の染付
3 雲堂手―民窯の染付―
4 明時代後期の染付
5 ベトナムの染付
6 朝鮮の染付
7 明末清初の染付
8 伊万里と鍋島の染付
9 清時代の染付
10 京焼と地方窯の染付
11 伊万里染付大皿―平野耕輔コレクション―
12 染付の美を活かす
何せ200点余の出展数。切りがないので、画像は各章1点ずつ選びながら、順を追って観ていこうと思う:
1 元時代の染付
染付の技法は中国江西省の景徳鎮窯において元時代(1271~1368)に完成。筆描きによる文様装飾が主役で、「空間恐怖」ともいわれる濃密な文様構成に特徴。元時代の染付は西アジアまで伝播し、景徳鎮は揺るぎない地位を築く。
『青花蓮池魚藻文壺』 中国・景徳鎮窯 (元時代 14世紀) 重要文化財
ぐるりと四方から。
泳ぐ魚たち、たゆたう藻や蓮の花。一周すると、解説にある通り回り灯籠を観ているよう。胴の上下の各仕切りにも波濤文や唐草文が施され、余白部分が少ない。
2 明時代前期の染付
明時代(1368~1644)には宮中の御用品を焼く官窯が景徳鎮に置かれる。官窯の特色がはっきりと示されるのは宣徳年間(1426~35)であり、「大明宣徳年製」の款識(かんしき)を入れることが一般化。純白の白磁が完成され、表面には橘皮文(きっぴもん)と呼ばれるかすかな凹凸がある。蘇麻離青(そまりせい)とよばれる良質のコバルト顔料が用いられ、白磁を引き立てる。文様は元時代の力強さから優美で洗練されたものへ。
『青花牡丹唐草文水注』 中国・景徳鎮窯 (明時代 14世紀)
この作品で使われているコバルトはそれほど良質ではなく(イスラム圏との交流が途絶えて、良質のコバルトが入手できなかった時期に作られたらしい)、青色が灰がかってくすんでいる。が、個人的にはこのような色も目にやさしくて好きである。文様も、第1章で目にした絵画的な作品群と異なり、あくまで装飾的。口の裏まで唐草が這いずりまわるように描きこまれている。
3 雲堂手―民窯の染付―
官窯に対し、一般の需要に向けた陶磁器を焼く窯を民窯(みんよう)という。「雲堂手(うんどうで)」とは明時代前期に民窯で焼かれた染付の一群をさす。楼閣と渦を巻いたような特徴的な雲気文が描かれていることに由来。
『青花楼閣人物図壺』 中国・景徳鎮窯 (明時代 15世紀)
楼閣の脇にもくもくとわき立つ雲。太い輪郭線の内側に、感覚的な細い線がちょこちょこ加筆されていて、魚の鱗のようでもある。肩の部分の背景に描きこまれているのは「七宝繋ぎ」という文様だそうだ。
4 明時代後期の染付
明時代になると次第に色彩への関心が高まり、釉上彩(ゆうじょうさい)、すなわち上絵付けの技法が盛んに。上絵付けとは、素地をいったん高温で焼き、様々な色の上絵具で彩色を施し、錦窯(きんがま)で焼く技法。これにより多色を用いることが可能になり、染付も華やかなものになっていく。嘉靖年間(1522~66)には、新たに西方から輸入されるようになった回青(かいせい)とよばれるコバルト顔料が用いられるようになり、やや紫がかった染付が作られる。万暦年間(1573~1620)になると回青の入手が困難になり、次第に染付の色が黒ずんでくる。濃染め(だみぞめ=むらなく塗りつぶす技法)を施し、びっしり描きつめられた文様は、江戸の文人にも愛された。
『青花蝶文双耳瓶(せいかちょうもんそうじへい)』 中国・景徳鎮窯 (明時代 万暦年間)
上の説明にはそぐわない作品だが、爽やかな青の諧調で描かれた舞い飛ぶ蝶のごとく、観ているこちらの心も弾んだ。
5 ベトナムの染付
ベトナムでは、14世紀中頃からコバルトで文様を施したやきものが作られた。ただし磁器ではなく、半磁質の胎(たい)に白化粧をしたもの。生産当初から優れた轆轤(ろくろ)挽きの技術を持ち、文様表現には中国の染付の影響が認められる。15~16世紀にはベトム染付の最盛期を迎え、周辺諸国にも輸出されたが、次第に中国製の染付・五彩への需要が高まり、16世紀末には国内向けに縮小。
『青花鹿山水図大皿』 ベトナム 15~16世紀 重要美術品
黄味がかった地に、黒っぽい発色のコバルト色。真ん中で疾駆する鹿はもとより、全体の装飾文様も筆に勢いがあって、躍動感のある図柄。
6 朝鮮の染付
朝鮮の染付は京畿道広州(キョンギドクアンジュ)におかれた官窯において15世紀中頃に生産が始まったと考えられている。都から宮廷画家が広州に派遣されて絵付けを行ったという記録も残る。16世紀末に豊臣秀吉の侵略という国難に見舞われ、朝鮮の窯業は大きな打撃を受けるが、18世紀前半には金沙里(クムサリ)の官窯にて朝鮮独特の様式の染付が完成。
『青花松竹図壺』 朝鮮時代 15~16世紀
文様に仕切りが全くなく、全面を1枚の絵画が覆っているような作品。枝ぶりがちょっぴり狩野派を思わせた。
朝鮮の染付は、大きな余白にささっと野花が線描されているような作品が目立ち、和的な感じもした。実際「秋草手」は昭和初年ころから日本人に親しまれてきたと解説にあった。
7 明末清初の染付
明時代後期になると、景徳鎮民窯が目覚ましい発展を遂げ、ヨーロッパを含め世界各地に運ばれていった。「芙蓉手(ふようで)」(中央に大きく円窓を設け、外周を均等に区画して、それぞれの中に文様を配する染付)は主にヨーロッパに輸出。天啓年間(1621~27)頃には山水などが描かれた「古染付(こそめつけ)」が焼かれる。虫喰いと呼ばれる釉の剥落が生じた粗雑な作風は日本の茶人に愛され、茶器のオーダーメイド品が中国に発注された。崇禎(すうてい)年間(1628~44)になると、良質の素地に鮮やかな発色の染付で瀟洒な文様が描かれた「祥瑞(しょんずい)」が日本の茶人のために焼かれるようになる。ただしこれらはほんの一部で、この時代の景徳鎮では多様な染付作品が焼かれた。また、福建省南部の漳州(しょうしゅう)周辺の窯では呉須(ごす)染付が量産され、東南アジアや日本に向けて輸出された。
『祥瑞捻文瓢形徳利(しょんずいねじもんひょうけいとっくり)』 中国・景徳鎮窯 (明時代 17世紀)
画像では分かりにくいかもしれないが、その捻じ曲がった形、それに寄り添って縦に仕切る歪んだ帯模様、その間に描かれた文字や楼閣山水人物図と独特の意匠。素地の光沢、コバルトの発色も素晴らしく、美しい作品だと思った。
また、6種類ほど香合が並んだケースがあったが、それぞれ古染付、呉須染、祥瑞とばらばらの技法ながらどれも何とも言えずかわいらしく、ケースの周りを2周しまった。特に茄子をかたどった『祥瑞茄子香合』は、てっぺんのヘタの傾げ具合がたまらない。とにかくこのセクションは、染付技法もさまざまな多様な作品が並んでいて、もっとも見応えがある。
8 伊万里と鍋島の染付
日本の染付は、朝鮮半島から渡来した陶工によって技術が伝えられ、江戸時代初頭に有田で生産が始まった。積出港の名をとって伊万里焼と呼ばれる。伊万里焼は急速に技術を高め、寛文年間(1661~73)には大胆な構図と力強い筆づかいによる雄渾な作風、さらに延宝年間(1673~81)頃になると繊細な濃染めを駆使した、日本独自の優美な様式の染付が完成。有田を領内に持つ鍋島藩は、藩窯を置いて将軍家・大名への献上品、贈答品を焼く。
『染付蓮鷺文三足皿(そめつけれんろもんさんそくさら)』 鍋島 江戸時代 17~18世紀 重要文化財
濃染めと聞くと、なんとはなしに濃い色で塗りつぶされるようなイメージが湧くが、濃淡ではない。この作品のように薄い色合いで広い範囲をむらなく塗るには大変高度な技術が必要とされるそうだ。そんな淡い濃染めの余白を大きく取った三羽のサギのポジショニングも絶妙、優雅な作品である。
9 清時代の染付
明末清初の動乱が収まり、康煕(こうき)19年(1680)に官窯の操業が再開。新しい気風のもと、素地、形、筆遣いも洗練されてくる。コバルト顔料も精製され、優美であると同時に冷たい印象を与える。筆を重ねて濃染めを施す手法はこの時期特有。一方で、清時代の官窯では、永楽・宣徳期の再現を目標に中国歴代のすぐれた磁器の模倣が活発に行われた。
『青花木蓮文瓶』 中国・景徳鎮窯 清時代 17~18世紀
木蓮のやや大ぶりな白い花びらの周りだけ濃染めで影がつけられている。横に走る筆触がよく残り、水彩画のようだ。白い余白が大きいのに夜を思わせる不思議な文様。
10 京焼と地方窯の染付
京都でさかんに磁器が焼かれるようになるのは江戸時代後期のことで、奥田穎川(おくだえいせん 1753~1811)がその基礎を築いたとされる。門下の青木木米(あおきもくべい 1767~1833)らによってさらに多様に。19世紀に入ると、日本各地で染付の生産が活発になる。瀬戸における染付は、肥前で技術を学んだ加藤民吉(かとうたみきち 1772~1824)により文化4年(1807)に始められ、明治時代になると輸出向けの染付が量産されるようになる。
『染付龍濤文提重(そめつけりゅうとうもんさげじゅう)』 京焼 青木木米作 江戸時代 19世紀 重要文化財
高さ23㎝ほどの、それほど大きくない作品だが、色も形もどっしり主張する作品。余白がほとんどないほど塗りこまれ、描きこまれ、横には透かし彫りと、さまざまな技巧が凝らされている。虫喰いは意図的に作り出しているそうだ。
11 伊万里染付大皿―平野耕輔コレクション―
元商工省陶磁器試験所所長の平野耕輔氏(1871~1947)からの寄贈コレクション。伊万里染付大皿224点(その多くは江戸時代後期の天明(1781~89)頃から幕末頃に作られたもの)から50点以上と、中国清時代の染付大皿が5点並ぶ。
『染付鶴繫文大皿』 伊万里 江戸時代 19世紀
展示室の長い2面の壁に、大皿を上に、小皿を下に置く形で約60枚がずらりと並ぶさまは圧巻。図柄も日本地図や東海道五十三次、虎、鷲、鯉、兎などの動物たち、植物、各種文様、変わった形のものと多様。その中で選んでみたのは、このスタイリッシュな大皿。濃染めと線描のコバルト色の対比も美しい。スカーフなどに転用したらきっとおしゃれ。
ついでに、『染付網目文大皿』にはエビなど海の幸が、『染付羊歯文大皿』には松茸が載せて展示されてあった(もちろん本物ではないが)。そばにフランス人父娘がいたが、小学生くらいのその女の子は「パパ~、シャンピニョ~!」と大喜びであった。
12 染付の美を活かす
最後は、染付の器を中心に添えて様々な焼き物をコラボさせたテーブル・セッティングの試み。朝食、お茶のおもてなし、お酒のおもてなし、というようにシチュエーション毎に選ばれた器が並ぶ。
お酒のおもてなしセッティングで、あの捻れた徳利があった。あれ、途中でどひゃーっと出たりせずに、普通に注ぐことができるのでしょうか?
この展覧会も9月6日までなので、お急ぎください。この期に及んで今更な情報ですが、「伊勢神宮と神々の美術」とのセット券は1600円ととてもお得です。本館の常設展にも興味深い作品が多々ありますので(コバルト顔料の確認も!)、1600円で本当に贅沢な一日が楽しめます。