l'esquisse

アート鑑賞の感想を中心に、日々思ったことをつらつらと。

国立トレチャコフ美術館展 忘れえぬロシア

2009-06-21 | アート鑑賞
Bunkamura 2009年4月4日-6月7日



激しい気候の変化についていけなかったのか、5月中旬から咳が止まらなくなり(折しも巷ではインフルエンザで大騒ぎだったが)、夜も咳き込んで眠れず、以来会社に通うのがやっとの体たらくで美術館やブログから遠ざかってしまった。6月も1週目を過ぎる頃やっと復活し、はたと気づけば見落としそうな展覧会多数。これはいかん、一つでも観に行かねばと急に夏日になった今月7日の日曜日、私は日傘を握りしめて渋谷の雑踏をBunkamuraに向かった。数ヶ月前から「いつ観に来てくれるのよ?」と言わんばかりの熱い視線をチラシから投げかける美貌のロシア人女性に会いに、閉会日ぎりぎりに。

前置きが長くなるが、2007年に東京都美術館で観た「国立ロシア美術館展」が、私がロシア絵画(油彩画)を意識した最初だった。不勉強でほぼ何の予備知識もなく出かけたそれは、それ故になおさら私にとってまさに鮮烈な驚きだった。ジャンルとしては肖像画か風景画、もしくは風俗画がほとんどだったが、私は特に彼らの風景画を描く技量に魅了された。とりわけ雪景色はロシア人の画家に限る、とすら思ってしまった。ユーラシア大陸の積雪の多い土地で、長らく雪に覆われた景色をじっと見詰め続けた眼が捉えた雪景色の美しさは比類がないように思えた。同時に、1年の間に短い期間しか享受できないであろう陽光に対する感受性も研ぎ澄まされているように感じ、ロシア人画家の描く風景画に発揮される「鋭敏な観察眼」は強く私の心に残った。

その「国立ロシア国立美術館展」で私の心を魔法のように取り込んでしまった1枚。習作ということは、どこかに完成作品があるのだろうか。
  イヴァン・シーシキン 『セリの草むら、パルゴロヴォにて(習作)』(1884/85)

さて本題。今回のトレチャコフ美術館展は、そんな思いを抱いた「国立ロシア国立美術館展」と基本的に同じような印象を受ける作品群だったが、主眼は19世紀半ば以降の作品に置かれており、38作家による75点の油彩画で構成。そのうち50点以上が日本初出展とのこと。大作はないが、ぺローフ、シーシキン、ポレーノフ、クラムスコイ、レーピンなどをはじめ見ごたえある作品が並んだ。中でもチラシに使われているイワン・クラムスコイの『忘れえぬ女(ひと)』は随一の呼び物となったに違いない。

本展の構成は以下の通り:

第1章 抒情的リアリズムから社会的リアリズムへ
第2章 日常の情景
第3章 リアリズムにおけるロマン主義
第4章 肖像画
第5章 外光派から印象主義へ

今回は細かくメモを取る気力もなく、図録も買わなかったので、作品リストを追いながら印象に残った作品だけ挙げておく:

第1章 抒情的リアリズムから社会的リアリズムへ

『眠るこどもたち』 ワシーリー・ペローフ (1870)
遠目に観ると、まだ年端のいかない男の子が二人並んですやすやと寝ている図。暗い部屋に差し込む柔らかい光が、右側の子どもの全身を浮かび上がらせる。何となくカラヴァッジォの『眠るクピド』が浮かんだが、近寄るとそれは薄暗い納屋の中、ほつれた粗末な服を着た二人の足の裏は汚れている。その日の労働から解放され、藁の敷物の上にぼろ布を敷いて、倒れこむように眠ってしまったのだろう。社会派の視線でペローフが描いた、美しくも哀しい絵。

第3章 リアリズムにおけるロマン主義

『帰り道』 アブラヒム・アルヒーポフ (1896)
ほとんどクレーの色調で描かれた殺風景な草原を、2頭の馬が引く荷馬車が走っていく。馬車を引く茶色い馬も、白馬も、乗っている男も、空の荷台も皆後ろ姿。砂埃を上げながら走る馬の足元、風になびくたてがみを観ていると、彼らが今目の前を走って行くような独特の叙情性に包みこまれる。彼らの向かう先にも、どこにも、何か特別なものが描かれているわけではないのだが、毎日特別なことなど何もないのだ、という彼らの日常を一緒に味わっているような気持ちになる。

『髪をほどいた少女』 イワン・クラムスコイ (1873)



ブロンドの長い髪を垂らし、ソファに寄りかかる少女の表情は優れない。病み上がりなのか(それは私か)、恋わずらいか、多感な年頃にありがちな理由なきふさぎ込みか。私にはそれほど魅力的な少女には映らないが、ただひたすら、光を反射するブロンドの髪やまつ毛の描写に魅入った。

第4章 肖像画

『忘れえぬ女』 イワン・クラムスコイ (1883)
女の着る漆黒のドレスの、襟や袖口などの縁を装飾する毛皮や光沢あるサテンのリボン、帽子についているフワフワの白い羽飾りなどディテールの質感描写が見事。女の顔も美しく描けている。だが、どうしたことだろう、皆が賞賛しているように見受けられるこの”ロシアのモナリザ”は、思いのほか私の胸に迫ってこない。馬車の高い座席から地上の我々に落とされる視線は、釣り上がった太い眉(ゲジ眉と言ったら言い過ぎか)や、やや被さり気味の上瞼のせいか、あるいは単純に自分が同性であるためなのか、私を寄せつけてくれない。瞳には確かに憂いが漂うが、観ている私には感情移入というか、共鳴することができない。チラシでは女の姿態がアップになっているので気にならなかったが、実際は横長の画面におぼろげな雪景色の街が背景に描かれている。その淡い色調とこのくっきりした人物像のバランスがやや唐突に思えもした。近寄ったり、離れたり、振り返ったりして何度も観たのだけど、印象変わらず。私の体調が万全でないため、感受性が更に鈍感になっていたのかもしれない。元気なときに再度観たら、また違った感想になるだろうか。

第5章 外光派から印象主義へ

『モスクワの庭』 ワシーリー・ポレーノフ (1877)


この画家は繰り返しこの絵と同じタイトルの絵を描いたらしく、国立ロシア美術館展にもこれより後に描かれた同題の作品が展示されていた(調べると他にも人物が描き込まれたものもあったが、風景だけの方がいいように思える)。後景に小さくのぞくクレムリンの黄金の玉ねぎ屋根がちょっとエキゾチックではあるが、主題となっている何の変哲もない芝地の庭にこそこの画家は美を見出していたのだろう。ポレーノフといい、冒頭に挙げたシーシキンといい、ロシア人画家の”緑色さばき”が私は好きである。

『三月の太陽』 コンスタンチン・ユーオン (1915)



真っ白な雪がしんしんと積もる真冬の銀世界もいいが、この雪解け間近の雪景色も素晴らしい。徐々に伸びる日照時間、少しずつだが確かに日々上昇していく陽光の温かさ、青みを増していく空。そして何より、今なお地面全体を覆っているが、溶けてなくなる日が近いことを伺わせるブルー・グレーの雪の色。光と影の諧調が素晴らしく、瑞々しい大気が画面から漂ってくるようだ。

『劇作家レオニード・アンドレーエフの肖像』 イリヤ・レーピン (1904)
背景の塗り残し部分も多く、モデルの着る白いシャツも勢いのある早描きで仕上げられているのに対し、顔だけ丁寧に色が塗り込められている。ともすればアンバランスになりそうなほどの落差だが、その手法はこの作品においては人物の存在感を見事に引き出しているように思う。『忘れえぬ女』の緻密な描き込みと対照的な肖像画であり、この日の私にはレーピンに軍配が上がった。