l'esquisse

アート鑑賞の感想を中心に、日々思ったことをつらつらと。

VOCA展2010 -新しい平面の作家たち-

2010-03-29 | アート鑑賞
上野の森美術館 2010年3月14日(日)-3月30日(火) 会期中無休



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まずは本展の概要について、チラシから転載しておきます:

1994年に始まったVOCA(ヴォーカ)展は今回で17回目を迎えます。VOCA展は全国の美術館学芸員、ジャーナリスト、研究者などに40才以下の若手作家の推薦を依頼し、その作家が平面作品の新作を出品するという方式により、毎回、国内各地から未知の優れた才能を紹介してきました。

去年に続いて、この短い会期に何とか間に合って足を運ぶことができた。今年は35名の作家の作品が集結。私にとってこの展覧会は、未知の日本人作家のおもしろい作品に出会えるのが一番の楽しみ。

会場に入って一番最初に目に飛び込んできた作品が、現代美術に疎い私ですら既にビッグ・ネームに思える石川直樹の作品だったのはちょっと意外だったが、去年も名和晃平、三瀬夏之介、小金沢健人らの作品が出ていた。結局のところ、今回私が既知の作家はその石川直樹の他には齋藤芽生ましもゆきのお三方くらい。

今回の各賞受賞者は以下の通り:

VOCA賞 三宅沙織 『内緒話』『ベッド』

VOCA奨励賞 中谷ミチコ 『そこにあるイメージⅠ』『そこにあるイメージⅡ』

VOCA奨励賞 坂本夏子 『BATH, L』『Funicula(仮題)のための習作b』

佳作賞 清川あさみ 『HAZY DREAM』

佳作賞/大原美術館賞 齋藤芽生 『密愛村~Immoralville』

上記作品の中で、私が個人的に最もインパクトを受けたのが中谷ミチコの作品。石膏、ポリエステル樹脂を使用したどちらかというと立体作品の範疇に入りそうな作風だけれど、とにかく実作品を観ないことにはその仕掛けの面白さはわからない。彼女らの目を覗き込んだら最後、右に動こうと左に動こうと、あなたを追いかけてきます。

VOCA賞の三宅沙織の作品は、一見普通の白黒の平面作品に観えるけれど、フォトグラムという古い写真技法を用いて制作されているそうだ。清川あさみも、写真の上にビーズやスパンコールなどが縫いつけられた、手の込んだ作品。受賞は逃したけれど、線香で和紙を焦がしながら作成するという市川孝典もいて、現代作家の作品を観るにはその手法も前知識として持っていないと鑑賞の楽しみも半減してしまうということが最近やっとわかってきた(レベルの低い話で・・・)。

話を受賞作家に戻し、坂本夏子の油彩画は歪んだ、ちりめんのような画面がユラユラ。齋藤芽生は相変わらずヒッソリと毒を吐いているような、怖くて美しい独特の世界。

勿論受賞作品以外にも個人的に目を惹いた作品がいろいろ。いくつか挙げておきたいと思います。

山本理恵子 『おばあちゃんと椅子』『生花』『お夜食』
それぞれのタイトルのモティーフが、言われてみれば頷けるという程度に抽象化された形で描かれている。絵具がとてもきれい。虹のようなグラデーションがひかれた、しっかり色が塗られた部分と、薄く溶いた絵具が染み込んでいる部分があり、色彩感覚が目に楽しい。

ましもゆき 『永劫の雨』
本作は真ん中にドンと鳳凰が構えていて、とても華やかでかっちりした構成という印象。相変わらずペンとインクによる緻密な描き込みは見事で、うっとりする。お馴染みのヒヤシンスの根っこのようなものも健在だったけれど、個人的にはもっと脳の営みが拡散したような、得体の知れない世界が好きかもしれない。

大庭大介 『SAKURA』
画面全体が淡い色で描かれ、しかもパールのような光沢を放つ作品。アクリル絵具でこんな典雅な画面が出来上がるのか、と新鮮にも感じた。美しいです。

以上、次回も多様な作品に出会えるよう期待したいと思います。

没後400年 特別展「長谷川等伯」

2010-03-28 | アート鑑賞
東京国立博物館 平成館 2010年2月23日(火)-3月22日(月・祝)
*会期終了



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長谷川等伯(1539~1610)の没後400年という節目の年に開かれる、チラシによると「史上最大にして最上の大回顧展」。国宝3件、重要文化財30件を含めて約80件の作品で展観。

そんな貴重な展覧会なのに、東京での開催期間はたった25日間。早く行かなかった自分が悪いとは言え、最終週は平日ですら午後3時前でも長蛇の列。平成館と本館の間に姿を現した、建築中の東京スカイツリーを見やりつつ、何度か折り返しながら牛歩のごとく列を進むこと1時間弱。やっと中に入るも、当然ながらどの作品の前にも分厚い人垣が出来ていて、思うように鑑賞出来ず。それでも閉館時間ギリギリまで第1会場、第2会場と二順し、頑張ってはみたものの・・・(ため息)。

余談ながら、3月21日の鳩山首相のスケジュールに、“午後0時20分、特別展「長谷川等伯」を鑑賞”とあり、しかも“1時、公邸”とある。あの混雑の中、その短い滞在で(もっともその前に館長さんに会われていたようですが)、首相はどんな鑑賞をされたのでしょうか?

何はともあれ、長谷川等伯についてはほとんど『松林図屏風』のイメージしかない自分にとって、本展はとりあえずこの絵師の画業を知るよい機会となったことは事実。自分にとって印象に残った作品を、章ごとに挙げておきたいと思います。

第1章 能登の絵仏師・長谷川信春

等伯は石川県七尾(ななお)市生まれ。自身が熱心な法華信徒で、能登時代には信春(のぶはる)と名乗り、仏画を描く絵仏師として活動していたとされるそうだ。本展でも、信春時代に描かれた作品には「長谷川等伯(信春)筆」と明示してある。

『日蓮聖人像』 (1564) 重文



これは法華経の宗祖、日蓮の肖像画。聖人が身にまとう着物や、その前に置かれた机、その上にかけられた布、頭上の天蓋など、すべて細密にしっかり描き込まれ、絵師としての卓抜した腕が知れる。

『善女龍王像』



小さい作品(縦約35cm)ながら、遠目にも一目で惹かれた。解説によると、善女龍王は空海が旱魃(かんばつ)にあたり、雨乞いを行ったときに愛宕山に現れて雨を降らせた神様。幼女のような風貌の神様と、彼女を護る龍という図像がどことなく観ている側の母性をくすぐるような感じがする。大きく蛇行する龍のプロポーションも見事。

第2章 転機のとき―上洛、等伯の誕生―

1571年、等伯は33歳にして妻と幼い息子、久蔵(きゅうぞう)をともない京都に上京。本法寺の世話になりながら活動を開始するも、大徳寺の仕事を請け、絵師としての頭角を現したのは上京18年後、51歳のとき。

『牧馬図屏風』 重文

  部分

屏風絵に関しては、今回どの作品も一歩下がって全体を見渡すという本来の鑑賞がかなわなかった。よって、近視眼的な鑑賞になってしまったが、思った通りに記しておきます。

この作品には毛色や模様も多様な馬が沢山描かれているけれど、等伯の描く馬は割と個性的(と私には思えたが、もしかしたらこれが当時の馬の描き方のスタンダードだったのでしょうか)。たてがみも毛のフサフサ感というよりは固形の肌触り、中には立てたモヒカンみたいなのも。模様も苔むしたようだったり、魚のウロコ風だったり。そして口元がぐにゃぐににゃ。

『春耕図』



この作品を観た瞬間、木の枝ぶりや足元の岩場(?)など、直線とチョンチョンという点の描線が狩野派っぽいなぁ、と思ったら、上京後にのちのライバル狩野派の門をたたいて、絵のテクニックを磨いていた可能性があるとのこと。

『山水図襖』 (1589) 重文

  部分

派手な地の模様(雲母(きら)刷りの桐紋様)が邪魔して、水墨画が埋没しているような妙なこの襖絵。実は、大徳寺の塔頭(たっちゅう)である三玄院の襖絵を描きたいと等伯が懇望していたにもかかわらず、開祖の春屋宋園(しゅんおくそうえん)が一向に首を縦に振らないので、その留守中に等伯が強引に上がり込んで一気呵成に描き上げた、と伝わる作品だそうだ。確かに何らかの理由がなければ、このような襖に水墨画は描かないでしょうね。

同じ年に、等伯は千利休を施主として同じ大徳寺の三門楼上の仕事を請け負っているとのことで、やはりこの強行突破作戦が功を奏したと想像すると、等伯のガッツに拍手を送りたくなります。

『臨済・徳山像』



弟子との問答に常に竹箆(しっぺい:禅宗で、自分を戒め、または人を打つのに使う平たい竹製の杖/角川の国語辞書より)を持って打ったという徳山と、大喝をもって弟子の禅機(ぜんき:禅の修行によって得た無我の境地から出る心の働き/同)を開発したという臨済。右手をこぶしに握りしめ、目を剥きだす臨済の形相も迫力があるが、無表情な顔で竹箆を持つ徳山はドS的な怖さがある。

第3章 等伯をめぐる人々―肖像画―

このセクションには、等伯が手がけた僧侶、武将などの肖像画が並ぶ。信春と名乗っていた時代の作品と、等伯と改名した後の作品が半々。

『千利休像』 (1595) 重文



これは等伯筆となっている。装飾的な僧衣をまとった僧侶たちの肖像画も微細な描き込みが素晴らしけれど、それこそ侘寂(わびさび)という言葉が浮かぶようなこの千利休の肖像画はとても美しいと思った。じっと対面していると静謐な空気が漂ってきて、心が穏やかにも、身が引き締まるような気持にもなる。

第4章 桃山謳歌―金碧画―

狩野派の独占状態にあった京都御所障壁画制作への割り込みを図った等伯、そしてそれを必死に阻止した狩野永徳。しかし等伯はついに豊臣秀吉から大きな仕事をもらい・・・という辺りのドラマを、NHKの特番や「美の巨人たち」で予習バッチリ、とても楽しみにしていたのだが、解説にあるような「壮大なスケール感」を堪能するような満足いく鑑賞ができなかった。残念。

『楓図壁貼付』 (1592頃) 国宝

チラシ(左側)に使われている、絢爛たる作品。狩野派の嫌がらせからほどなくして、豊臣秀吉から受注して制作されたもので、3歳で亡くなった秀吉の子供、鶴丸(昨年の妙心寺展でもこの鶴丸に関する作品が数点出ていて、この子に対する秀吉の寵愛ぶりを伺い知った)のために創建された祥雲寺の金碧障壁画の一つ。本展にはもう一つの作品、『松に秋草図屏風』も並んでいた。

とりあえず列に加わって、ケースの前をじりじり移動しながら端から端まで観て行った。右端から左方を観たとき、構図のアクセントともなっているように思える群青の川に差し掛かる、ピンクに色づいた楓の葉が光って見えた(チラシにあるのがちょうどその部分)。恐らく顔料が剥落して、元は赤かったのがピンク色のようになってしまっているのかもしれないが、他の部分でも散らばるこのピンク色が、画面をより柔和で華やかな雰囲気にしているように思えた。

『柳橋水車図屏風』

  部分

数多くの作例が存在する、長谷川派のベストセラー作品だそうだ。銀色の川、柳の木以外はほぼ全て金色。画像では右下が潰れてしまってわかりにくいが、若い柳のチリチリした葉の表現が細かい。

『波濤図』

  部分

この作品以外にも登場するが、等伯の描く岩が私には氷山に見えて仕方がない。

第5章 信仰のあかし―本法寺と等伯―

等伯が上京後にお世話になった京都・本法寺に伝わる品々。等伯の画の他、等伯がこのお寺に寄進した日蓮や日親の書なども。

『仏涅槃図』 (1599)

 1599年作  1568年作

等伯が本法寺に寄進した、高さ10m、横6mもある大きな涅槃図。全体を壁に掛けるには会場の高さが少し足りず、下の方は床に寝かす形で展示されていた。とにかくその大きさには圧倒される。裏には本法寺の歴代住職や長谷川一族の名前が記されているそうだ。第1章にも、信春と名乗っていた頃に描かれた『仏涅槃図』が展示されていたが、見比べてみると仏のポーズも異なるし、背景の描き方はこちらの方がすっきりしている。

第6章 黒の魔術師―水墨画への傾倒―

祥雲寺の煌びやかな金碧画作品を描いた等伯は、それ以降水墨画制作に注力していった。その理由は判然としない、と解説にあったが、素人考えでいろいろ想像してしまった。まずは需要の求めありきなのでしょうけれど、装飾の極致を極めた金碧画制作に描き手として飽食した反動とか、年齢を重ねるごとに余分なものを削ぎ落としていく心境があったとか、画業の後半戦として、より高度な精神が試される水墨画への古典回帰の念に囚われたとか。そういえば、加山又造も最後は水墨画に行き着きましたね。

『豊干・寒山拾得・草山水図座屏』

 裏面(草山水図)

展示ケースの中に2基の座屏が並んでいて、1基の表面には虎にまたがる豊干の姿、もう1基には寒山拾得が描かれているが、ここに載せた画像はそれぞれの裏側に描かれた草山水図。等伯が強い関心を示した中国の水墨画の名家の一人として玉澗(ぎょっかん)の名が挙げられているが、この作品はその玉澗様による草体の水墨山水画だそうだ。皮膚呼吸を封じられたような金碧画と正に対極的な、清澄な空気感を感じる。

『竹林七賢図屏風』 (1607)

  部分

この作品のみならず、等伯は竹をこのように直線的に描く。何だか私には合点がいかないのですが…。

『枯木猿猴図』 重文

  部分

前期のみ展示の『竹林猿猴図屏風』は今回見逃してしまったが(去年の妙心寺展で観たけれど)、図録で両者を見比べてみると、こちらの方がちょっと粗い感じ。でも闊達な筆の動きが躍動していて、猿の表情にも和む。

第7章 松林図の世界

等伯といえば、の国宝『松林図屏風』。この章では、それに加えて『月夜松林図屏風』、『檜原図屏風』の三点が展示。

『松林図屏風』 国宝



この作品は数年前のお正月にも東博で観ているのだが、故郷七尾の風景であるとか、千利休や殺されたという説もある息子・久蔵への想いが込められているとか、継ぎ目がずれているから誰かが後に並べて構成したのだとか、直前にテレビでいろいろ知恵をつけられていたので、今回どのように観えるか楽しみにしていた。しかし人波に負け、時間も切れてまともな鑑賞ならず。またいつかゆっくりお目にかかれる日を期待したい。

尚、本展は京都に巡回します:

京都国立博物館
2010年4月10日(土)-5月9日(日)

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絶対早目に行かれた方がいいですよ!GW中なんて、きっととんでもないことに…。

マッキアイオーリ 光を描いた近代画家たち

2010-03-21 | アート鑑賞
東京都庭園美術館 2010年1月16日(土)-3月14日(日)
*会期終了



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この展覧会のプレス・リリースにお伺いしたのが昨年の9月。残暑の中、来年なんてまだまだ先だなぁ、なんて遠い目で思っていた東京での展覧会が、はたと気づけばあと1週間でおしまいとなっており、泡を食って出かけて行った。時の流れ、恐るべし(というより、私の計画性のなさが恐るべし)。

では、章ごとに感想を残しておきたいと思います。今回ポストカードは売られておらず、一応図録を買ったものの残念ながら作品の印刷状態が今一つで、しかも見開きになっているものも多く、あまり取り入れられませんが:

第1章 カフェ・ミケランジェロのマッキアイオーリ

本展で初めて知った「マッキアイオーリ(またはマッキア派)」という画派。1855年頃にフィレンツェで興り、当時の硬直した美術学校の教育に疑問を呈した芸術家グループ。カフェ・ミケランジェロは、そんなマッキア派の画家たちが集い、議論を交わしたフィレンツェのラルガ通りにあるカフェ。この章には何人かの画家の初期の作品が並び、主題も歴史画、肖像画とまちまちでイントロダクション的な構成。本展ではこの章に限らず、各作家の細かいプロフィールや、全作品に解説がついているのにはちょっと驚かされた。

『カフェ・ミケランジェロ』 アドリアーノ・チェチョーニ (1866頃)



カフェ・ミケランジェロに集う芸術家24名が風刺的に描かれた水彩画。各人物に番号がふってあり、誰であるかわかるようになっている。資料的作品。このカフェが1866年末に閉鎖されたとき、埋葬の儀式が執り行われたそうだ。

『ジュゼッペ・ガリバルディの肖像』 シルヴェストロ・レーガ (1861)



マッキア派の活動の背景にある特殊な事項、リソルジメント(イタリア統一運動)。言われてみれば、5世紀の西ローマ帝国の崩壊後、政治的な統一を失っていたイタリア半島がやっと部分的な統一をみたのが1861年。イタリアの歴史に詳しくない私も、赤シャツ隊は耳にしたことが。リソルジメントで貢献した軍事家、ガリヴァルディが率いた1000人の義勇軍「千人隊」の別称が「赤シャツ隊」。皆こんな赤シャツを着て戦っていたのですね。

第2章 マッキア(斑点)とリアリズム

私が理解した範囲で平たく言えば、マッキアとは斑点を意味し、対象を明暗の中に素早くブロックで捉えて描く手法。マッキア派の画家たちの作品が登場した時、批評家たちはそれらに習作以上の価値を認めることができず、1861年に「マッキアイオーリ」(子供が誤ってつくるようなシミや斑点の意)という新造語の蔑称を与えた。画家たちもあえてこれを受け入れ、自らをマッキア派と名乗るようになる。

『糸つむぐ人』 ヴィンチェンツォ・カビアンカ (1862)



暖かい陽光が照り出す白壁や女性たちの白い頭巾やブラウス、そして暗い影。初秋の午後の穏やかな暖かさと、じきに忍び寄るひんやりした空気が漂ってくるような作品だった。

同じく夕暮れ時の逆光の中に農民たちの姿を描いたクリスティアーノ・バンティ『農民の女性たちの集い』(1861)もよい作品だった。

『わんぱく坊主』 ラファエッロ・セルネージ (1861)



なんてことはないシーンだけれど、イタリアの濃く青い空、白い壁、赤い扉という明快な色構成が目に心地よい。左側の塀など、太めの筆で一気に描き上げられている。よく観ると、いちじくを放ろうとしている少年の左側にある暗い部分は何なのだろうと思うが。この絵を描いたセルネージは、第三次独立戦争に参加して1866年に28歳で夭折。

『回廊の内部』 ジュゼッペ・アッバーティ (1861-1862)



ああ、これがマッキア派ね、と頷く。文字通り石のブロックが色彩のブロックでさっと捉えられている。まあ確かに絵画作品の完成度としてどうかと思わなくもないけれど、彼らがやろうとしていることはよくわかる例だと思う。

第3章 光の画家たち

マッキアイオーリの最大の支援者であった評論家ディエゴ・マルテッリは、自分が相続したリヴォルノ近郊のカスティリオンチェッロの広大な土地をマッキア派の画家に開放。フィレンツェ近郊のピアジェンティーナもマッキア派が好んで通った田園地帯。この章ではそれらの場所などで描かれたトスカーナの風景画が並ぶ。

『カスティリオンチェッロの谷』 ジュゼッペ・アッバーティ



明暗対比に重きを置いたマッキア派にとって、やはり室内より郊外での制作活動だろうな、と思う。このセクションには横長の風景画の作品が多く(アッバーティ『カスティリオンチェッロの眺め』(1867)なんて10x86cm)、図録も見開きになっていて画像が取り込めない。でもこの作品からも、カスティリオンチェッロがどういう場所なのか何となく伝わってくる。他の作品からは、この場所が海の入り江に近いこともうかがい知れるが、赤茶けた土や岩やコバルトブルーの海が印象的な、自然味溢れる所なのでしょう。

『荷車をひく白い牛』 ジョヴァンニ・ファットーリ



ファットーリは今回もっとも出展数が多い画家だが、やたら白い牛を描く人だなぁ、と思っていると解説が。それによると、「それは奥深い田舎の地帯であるマレンマをふちどるトスカーナの海岸における重要で特徴的なもの」であり、アッバーティとファットーリはカスティリオンチェッロで白い牛の研究に熱心にとりかかった、そうだ。恐らく光の反射を捉えるのに格好のモティーフだったのでしょうね。この作品では、牛の眩しそうな顔が印象的。

第4章 1870年以降のマッキアイオーリ

1870年にローマの併合によりイタリア半島の統一を見るのに伴い(1865年から1970年まで首都であったフィレンツェからローマへ遷都)、マッキアイオーリの芸術運動も凋落し始め、画家たちはそれぞれの芸術の道を進み始める。

『セッティニャーノ通りの子供たち』 テレマコ・シニョーリ (1883)



ちょっと印刷が今ひとつなのだが、いい作品だった。高台の、陰になった通りに子供たちが佇んでいるだけなのだが、冷んやりした大気と、左にある家の白壁に射す陽光の照射がこの場所の空気感を運んでくる。セッティニャーノはフィレンツェ近郊の丘の上の村だそうだ。

『母親』 シルヴェストロ・レーガ (1884)



こんなに大きい作品(191x124cm)だとは思わなかった(ちなみにチラシに使われている、同じくレーガの『庭園での散歩』は小さくて驚いたが)。ガリバルディの肖像を描いた人が、20年後にこのような作品を描いているなんて、時代の変化を如実に感じる。

第5章 トスカーナの自然主義たち

1870年代以降、マッキアイオーリの画家の中にはイギリスやフランスなど海外に活路を見出す画家も相次ぎ、グループの結束も失われ、ついには消滅へとつながる。その一方でマッキアイオーリ第二世代たちも育ち、この章ではそんな画家たちの作品をみていく。

『水運びの娘』 フランチェスコ・ジョーリ (1891)



プレス・リリースで初めて目にして以来、実作品を観るのをとても楽しみにしていた作品。実際に対面してみると、縦に147cm ある、結構大きい作品だった。女性の立つ野原などは感覚的に素早く絵の具が置かれている。よくよく考えれば、労働に従事する女性の後ろ姿が単体でこんなに大きく描かれる構図は斬新でもあるかもしれない。少しだけのぞく横顔やほつれ髪を見ながら、女性の顔を想像したりした。髪の色からいって、力強い眉の、目鼻立ちのくっきりした顔ではなかろうか。

以上、一通りざっと書き出してみたけれど、19世紀中頃のフィレンツェでこのような芸術の動きがあったこと自体全く知らなかったので、本展はそれに触れられる良い機会となった。

もう少し言えば、イタリアには何度か行ったことがあるけれど、言うまでもなくルネッサンス及びその前後だけで質・量ともに観切れない芸術品に溢れているので、観光者の短い滞在では近代美術にまでとても手が回らないというのが正直なところ。実際2006年に訪れたミラノのブレラ美術館の図録をめくってみると、ファットーリ、レーガらの作品がちゃんとあるのに、ほとんど記憶にない。でも今はほら、一目で「おお、ファットーリ!」とわかるようになりました。

AC/DC 来日公演

2010-03-17 | その他
AC/DC さいたまスーパーアリーナ 2010年3月12日(金)

LPジャケットの内側は見開きでこんな感じ

久々にロック・コンサートに足を運んだ。AC/DC、祝来日!!

などと冷静に書けるバンドではない。実は1982年、中学生の時に彼らの武道館公演のチケットを買っていたにも関わらず、学校のキャンプが入ってしまって行けなかった不運な私は、その19年後の2001年の来日公演を観る機会も逸し、およそ30年の時を経て、やっと、やっと彼らの生ライヴを観ることができたのだから。

一応、現メンバーを書いておこう:

アンガス・ヤング(b.1955) - リードギター
マルコム・ヤング(b. 1953) - リズムギター
ブライアン・ジョンソン(b.1947) - ヴォーカル
フィル・ラッド(b.1954) - ドラム
クリフ・ウィリアムズ(b.1949) - ベース

セットリストは以下の通り(ソニーのオフィシャルサイト参照):

1. Rock N' Roll Train
2. Hell Ain't a Bad Place To Be
3. Back In Black
4. Big Jack
5. Dirty Deeds Done Dirt Cheap
6. Shot Down In Flames
7. Thunderstruck
8. Black Ice
9. The Jack
10. Hells Bells
11. Shoot to Thrill
12. War Machine
13. High Voltage
14. You Shook Me All Night Long
15. T.N.T.
16. Whole Lotta Rosie
17. Let There Be Rock
(アンコール)
18. Highway To Hell
19. For Those About To Rock (We Salute You)

さて、冒頭に書いた理由により、2階席からまだ主役の登場していないステージを見降ろしつつ、私の心はこの30年間を行きつ戻りつしながら万感の思いに囚われていた。洋楽のロックを聴き始め、初めてエレキギターを手にした中学生時代の、呑気で屈託のない日々。英語を一生懸命勉強して(お陰さまで英語だけは学年1位の成績でした)、AC/DCの「悪魔の招待状」を飽くことなく聴いていた。その頃中野サンプラザで、ヘヴィ・メタルのPVを観るという今では牧歌的にすら思えるイベントも開催され、アンガス・ヤングのそっくりさん大会なんてのも行われたのを覚えている。彼のストリップを真似て、本当にお尻を出した人もいた。みんなアンガス・ヤングが大好きだった。

「お待たせしました―」という開演を告げるアナウンスと、湧きあがる2万人の大歓声で我に返る。

何故だろう、開演時間を10分ほど押してやっとステージの幕が切って落とされ、巨大なスクリーンに映し出された、メンバーがコミカルに登場するアニメーションに興奮を煽られたところまでは覚えているのに、メンバーが姿を現した瞬間がストンと記憶から欠落している。

気づいたら、お馴染みのハンチング帽を被ったブライアンがあの金切り声でシャウトしていて、夢にまで見たスクール・ボーイ姿の我がギター・ヒーロー、アンガスが頭を振りながらSGをかき鳴らしていた。右足と左足を2回ずつ交互に踏む、あの独特のステップを踏みながら。

ねえアンガス、嬉しくて涙が出るよ。

アンガスは身長が160cmに満たないと聞いている。しかし、ステージでは何と大きく感じることだろう。ネクタイにブレザー、半ズボンという色モノともいえる姿で何十年も世界中のステージに立ち続け、ファンにエネルギーを注ぎ続けてきた小さな巨人。演奏中、彼が右腕を上げて人差指で天を指す度に、まるで放電が起こったかのように熱いものが私の身体を駆け巡る。

ギター・ソロでのお約束のストリップでエンターテイナー振りを発揮した後は、上着とシャツを剥いだ半ズボン姿で演奏を続ける。タトゥーの全く入っていない、引き締まった上半身。その姿を観ながら私は、黙々とロックし続けることによってロック・ミュージシャンとしての本分を貫いてきた彼の姿勢を思わずにいられなかった。激しく動き回る彼のステップを支える軸足のように、自分のしたいことに全くブレがないのだ、きっと。25歳のときも、55歳の今も。え、55歳?

今年63歳のブライアンを最年長に、メンバーの平均年齢はほぼ60歳に届こうとしている。なのに、2時間ヴォルテージが下がることなく、というより、クライマックスに向けてどんどんエネルギッシュになっていくようにも感じる彼らのパフォーマンスはまさに驚異的。アンガスも、髪がちょっと寂しくなったとはいえ、ヘッドバンギングをしながら喘ぐように口を開けたあの表情は、20代の頃と全く同じじゃないか。

今回チケットが12000円もするのにはちょっと驚いたが、ステージセットに5億円かかっていると聞けば納得するし、たった3回の公演のためによく極東の島まで持ってきたと思う。実際ステージ上では曲に合わせて随所で趣向を凝らした演出が繰り出され、目を楽しませてくれた。しかし2階からステージを見下ろしていて改めて気付かされたのが、マルコム、クリフ、フィルのリズム隊の素晴らしさ。

リズム・ギターのマルコムは弟のアンガス同様とても小柄な人で、身体でリズムを取っているとはいえ足を開いてほぼ仁王立ちのような動きの少ない人。ベースのクリフもドラムのフィルも目立つような大きなアクションはなく、3人はひたすらリフやリズムを刻み続ける。前方で暴れるブライアンとアンガスの後ろでパフォーマンスの屋台骨を支える彼らのタイトな演奏は、難攻不落の城塞のようでもあった。

実際この3人は不可分とでもいうように、マルコムとクリフはフィルの座るドラム台の横にピッタリと寄り添うように立って演奏しているが(向かって左側にマルコム、右側にクリフ)、コーラスの時だけ前方に設置されたマイクスタンドに歩み寄る。そしてコーラス部分が終わるや否や、二人ともすぐ元のドラム台横の定位置に引き下がる。ほとんど無表情にどの曲でも繰り返される彼らのこのパフォーマンスが、何とも言えずかっこよかった。

実は、彼らの新譜はおろか、私は彼らの作品はほとんど80年代のものまでしか聴いていない。でも今回それは何の懸念にもならなかった。なぜならAC/DCだから。彼らならではの(彼らにしか出せない)AC/DCの音やリズムの普遍的魅力は、初めて耳にする曲だとしても聴き手の身体を自然に動かしてしまう。今回も然りだった。

最後の最後、6基の砲台が姿を現した。ついにこの時が来た。『For Those About To Rock (We Salute You)』。28年間聴き続けた我々のアンセム。ブライアンのFire!やShoot!というシャウトに合わせてドカン!と何度も炸裂する大砲。バンドからファンへの意思表明であり、それに応えるファンからAC/DCへの、歓喜の祝砲でもある。

WE SALUTE YOU - リスペクトと感謝をこめて。

カラヴァッジョ―天才画家の光と影

2010-03-09 | その他
カラヴァッジョ―天才画家の光と影



銀座テアトルシネマで、映画「カラヴァッジョ―天才画家の光と影」を観てきた。上映時間2時間を超す大作だが、画家カラヴァッジョの波乱に満ちた38年間の人生を追いかけてスピーディーに展開していく迫力あるシーンの連続に、そして妥協のない映像の美しさに息を詰めて観入っているうちに終わってしまった。連日大入りだそうですが、まだご覧になっていない方には是非ともお勧めします。

映画の中で、親しい人にはミケーレと呼ばれていたミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571-1610)。資料によってはカラヴァッジョはミラノ生まれとあるが、いずれにせよ20歳前後に彼は大志を抱いてロンバルディア(州都ミラノ)から芸術の都ローマに向かい、かの地で名を問われて「ミケランジェロ・メリージ。カラヴァッジョ出身(ダ・カラヴァッジョ)の」と名乗る。この映画では、それ以降のカラヴァッジョが辿る人生を描いていく。

カラヴァッジョの人生についてざっと触れておくと、ローマではデル・モンテ枢機卿という強力なパトロンを得て次々に名作を描き上げる傍ら、その激しい性格から殺人事件を起こしてしまい、ナポリへ逃亡。死刑判決を下され、逃亡の旅はマルタ(ここでも傷害事件を起こす)からシチリアへと続き、最後は恩赦が出て再びナポリに戻るもローマへ向かう途中で熱病が元で客死。

滞在する先々で請われて作品を残し、“芸は身を助ける”という言葉が浮かんだりもしたが、実際のところそんなに平和な状況にはなく、ローマを出てからのカラヴァッジョは常に追われの身。死の恐怖に脅え、悪夢にうなされ、心身共に逼迫した中で絵筆をふるいまくるその姿はある意味狂気じみてもいて痛々しい。

この作品の見どころの一つは、やはり今日私たちが観ることのできるカラヴァッジョの名作の数々が描かれるシーンが、あたかも本当に今目の前で油絵具の匂いを漂わせながら描かれているような臨場感を持って、随所に登場するところだろう。

『果物籠を持つ少年』は、カラヴァッジョ本人の自画像説もあるようだが、この映画ではカラヴァッジョがローマで知り合ったマリオという画家をモデルに描かれたことになっている。右肩をはだけた白いシャツに身を包み、果物を盛った籠を手にポーズをとるマリオが陰の中に浮かんだ時は全く絵そのもの。ちなみにこのマリオ、『とかげにかまれた少年』のポーズを取らされるシーンもあるが、実際にトカゲを持たされて何度も顔をしかめ、リアルさを追求するカラヴァッジョに協力。『馬丁たちの聖母(蛇の聖母)』では、蛇を踏むキリスト役の子供がほとんど半べそ。

更にこちらの高揚感が煽られるのは、出来上がった作品を観る人々の反応を捉えたシーン。例えばローマでの彼の名声を決定づけることになった、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂に納められた『聖マタイの召命』『聖マタイの殉教』のお披露目の時の様子。絵を覆っていた幕がさっと開けられて作品が姿を現した瞬間、その前に集った聖職者たちや地元の人々が一様にどよめき、畏怖の面持ちで口を半開きにして観上げる場面など、実際こんな感じだったのだろうとこちらも興奮を覚える。

登場人物たちの衣装や髪型も、本当に作品からそのまま出てきたような美しさだった。ローマの聖職者たちの緋色の聖職服、マルタ騎士団の白黒の制服、貴族の女性たちの美麗なドレス姿。美術史家なども監修に携わっているとのことなので、時代考証もいろいろなされているのでしょう。

そして屋内外問わず「光と影」の表現に徹底的にこだわった映像は、さながら明暗を強調したカラヴァッジョ作品がそのまま動画になったようですらある。改めて思えばカラヴァッジョの時代には当然ながら電気もなく、自然光と蝋燭の光が全てであり、カメラだってなかった。だからこそのあの明暗表現、質感描写なのだろうし、出来上がった作品を観た人々は「本物のようだ」と感嘆したのでしょうね。

主役のカラヴァッジョを演じたアレッシォ・ボーニは、笑った顔がややラモス瑠偉に似てなくもないが、喧嘩や決闘や死の妄想にうなされるような場面が多い中、激しい感情表現を大熱演。デル・モンテ枢機卿を演じたジョルディ・モリャの抑えた演技も良かった。

ついでに、「ボルゲーゼ美術館展」(東京都美術館)にまだ足を運ばれていない方がいらっしゃったら、そちらも是非。カラヴァッジョの最晩年の作品『洗礼者ヨハネ』が、じっと見詰めてきます。

麗しのうつわ

2010-03-08 | アート鑑賞
出光美術館 2010年1月9日(土)-3月22日(日・祝)



公式サイトはこちら

展覧会名にある「うつわ」と「やきもの」というひらがなの響きが優しいが、焼き物の知識に自信のない私にも肩肘を張らずに楽しめる、魅力的な作品がたくさん並んだ素敵な展覧会だった。

構成は以下の通り:

Ⅰ 京(みやこ)の美―艶やかなる宴
Ⅱ 幽玄の美―ゆれうごく、釉と肌
Ⅲ うるおいの美―磁器のまばゆさと彩り
Ⅳ いつくしむ美―掌中の茶碗

では、順を追って個人的に印象に残った作品を挙げていきます:

Ⅰ 京(みやこ)の美―艶やかなる宴

『色絵芥子文茶壷』 野々村仁清 (江戸時代前期)

チラシに鎮座する壺。写真ですら何てきれいなのだろうと思ったが、実物の存在感は想像以上。高さ43cm、胴体の丸い膨らみも堂々たるもの。紅の花びらには金色で、金色の花びらには紅で輪郭が取られ、灰がかった青紫色の花がリズムを生んでいるように感じる。くっきりした花々と淡い葉の描きわけの緩急も美しいし、上部に散らした金も華やか。隣で観ていた金髪美女が「なんてゴージャスなんでしょう」と呟いていたが、やきものの美を体感するには、やっぱり実物を観なきゃ駄目ですね。

ちなみにこの作品は重要文化財で、隣のケースには同じく仁清作の重文『色絵鳳凰文共蓋壺』(江戸時代前期)も展示されていた。大きさは同じくらいだが作風は全く異なり、四つに仕切った窓のそれぞれに鳳凰が描かれ、隙間も紋様で埋められた装飾密度の高い壺。こちらもゴージャスだけど、個人的には『色絵芥子文茶壷』の方が好みだった。

『色絵梅花文四方香炉』 野々村仁清 (江戸時代前期)
四角い香炉の蓋の上に、耳の長いウサギがちょこんと乗り、胴体の左右からは象が顔を出す。ウサギの乗る蓋には、ちょうどウサギを中心にしてマーガレットの細長い花びらのような形に八つの穴が開けられており、ウサギの長い耳と呼応しているように感じる。仁清の手になるこのような変わり種風のものに出会えて楽しい。

『色絵鶏香合』 野々村仁清 (江戸時代前期)
こちらも初めて拝見。高さ10cm足らずの小さな鶏だけれど、赤いとさか、半円状の黒い尾、金彩に縁取られて丁寧に入れられたブルーの羽毛など手がこんでいる。

『色絵紅葉文壺』 尾形乾山 (江戸時代中期)
遠目にも目を引く絵柄の壺。水色、黄色、赤茶、グレーの大ぶりの紅葉の葉が散り、それらは葉というよりは星かヒトデのようで、私にはポップでサイケな印象。乾山の遊び心も感じる。

『色絵桜花文鶴首徳利』 古清水 (江戸時代中期)



名称に鶴首とある通り、ほっそりと長い首にふっくらした胴体が特徴ある形。涼しげに枝垂れる葉や、赤、青、黄の桜の花びらが可憐。対になっているのが鶴のつがいのようでいい感じです。

Ⅱ 幽玄の美―ゆれうごく、釉と肌

『灰釉短頸壺』 猿投窯 (奈良時代)
力強さを感じさせる丸みを帯びた薄茶色の壺で、上から緑色の灰釉がかけられている。肩からいく筋も流れるその釉の先は玉のように溜まる形で途中でとまっており、これを「玉垂れ」というらしい。私にはすべてがとても美しく思えた。

この章の説明パネルに、幽玄とは「生命のはかなさ、そしてはかないゆえの美を愛惜する心から生まれた美意識」とあったが、釉がここまで流れ落ち、留まった奈良時代のとある一瞬が永遠に閉じ込められ、今に伝わることの不思議さを思った。

『絵唐津柿文三耳壺』 唐津窯 (桃山時代)



一見地味目の壺だけれど、これはとても心に染みた。葉の落ちた枝に丸い柿の実が描かれただけの素朴な絵柄は、枯れていても侘しさはなく、照明に当たるとその薄茶色の肌が素晴らしい光沢を放つ。まるで金色に輝いているように感じるほど。

この他、志野茶碗も印象に残った。私はお茶の嗜みがないので本来の魅力を理解できていないと思うが、その武骨なまでの厚味と手の温もりを感じさせる塊感、とりわけ淡いオレンジ色のものは、日々土をいじる農家のおかみさんのような温かみと力強さを感じた。

Ⅲ うるおいの美―磁器のまばゆさと彩り

『色絵柴垣桜花文向付 六客』 鍋島 (江戸時代中期)
ざる蕎麦のおつゆをいれる器のようなシンプルな形をした向付。朱の桜花の背景に青の縦筋でびっしり表現された柴垣が、最上部の口のところ5mくらいを真っ白の余白として残しているところにくすぐられる。

『色絵柴垣椿文皿』 鍋島 (江戸時代中期)
絵付けしたあとに釉薬をかけてやいたものを「釉下彩(ゆうかさい)」、釉薬をかけて焼いた後に絵付けしたもの(=上絵付け)を「釉上彩(ゆうじょうさい)」と呼ぶ、という解説がとてもよく理解できる作品。釉下彩で描かれた柴垣の部分はガラス質で照明を反射しているが、釉上彩で描かれた椿の部分に目を転ずると光沢が失せる。

『色絵花卉文虫籠形香炉』 古伊万里 (江戸時代中期)



直径8.4cmの小さい作品だけれど、細部まで凝った作りと華やかな色彩に(よく観ると朱と緑が主で、色数は少ないのに)、心が浮き立つ。松虫、鈴虫、ホタルなどを飼う虫籠の形を模した造形だそうだが、なんて可愛らしい香炉なのでしょう。そっと両手で包んでみたい。

同じ展示ケースに並んでいた『海浜蒔絵貝形茶箱』(江戸時代中期)も、貝の形に箱の輪郭を取るという意匠の凝った作品で、隣にいたアメリカ人らしき女性が「本当に貝みたい。よくこんな表現ができるわね~」と感嘆していた。日本のお家芸なんですよ~(嬉)。

『葆光彩磁花卉文花瓶』 板谷波山 (昭和初期)



やきもの初心者の私、今回初めて板谷波山の作品に酔いました。本当は一緒に展示されていた『葆光彩磁草花文花瓶』(大正6年)の方が、絵柄がすっきりしていて好みだったのだけれど、ポストカードがなく。いずれにせよ、薄い半透紙で包んだたような表面の淡く柔らかい絵柄、質感は、そのまろやかな形といい、まるで砂糖菓子のよう。画像では伝わらないかもしれないが、観た瞬間に言葉にはできないような魅力で五感を刺激される。葆光(ほうこう)彩磁とは、「光を包みかくす」不透性の釉をかけたものだそうだ。

ちなみに隣にあった同じく波山による『彩磁玉葱形花瓶』(明治30年代)は、通常の釉の透明な光沢を放つ、アール・ヌーヴォー風の艶やかな作品。こちらはまるでガラス製のようだった。

Ⅳ いつくしむ美―掌中の茶碗

『赤楽茶碗 銘 酒呑童子』 道入(ノンコウ) 江戸時代前期

黒楽の作品も凛とした存在感があって素敵だったけれど、人の手で造形した温もりがダイレクトに感じられるような赤楽の作品も美しいと見入った。

『天目茶碗』 板谷波山 (昭和13)
直径12.3cmの小さいお茶碗だけれど、その白さはどこまでも深遠で、その光沢はどこまでもまばゆく。吸い込まれそうだった。

以上、私には程よい作品数で日本のやきものの多様性とその魅力を充分楽しむことができた。時代を経て語り継がれるような作品が放つ力の凄さは、こうして実物に対峙しないとわからないもの。まだまだ勉強不足だけれど、これからも機会があれば本物の作品をたくさん観て、目、心を肥やしていきたいと思いました。

クリスタル・パレス(水晶宮)

2010-03-02 | その他
水晶宮物語」(松村昌家著 ちくま学芸文庫)

もしタイムマシーンがあったなら、私は是非1851年のロンドンに飛びたい。そしてハイド・パークに直行し、クリスタル・パレス(水晶宮)をこの目で観てみたい。

Bunkamuraで先月下旬まで開催されていた「愛のヴィクトリアン・ジュエリー展」にて、とても小さいながらその姿をあしらったブローチを見かけ(#177 『ブローチ「クリスタルパレス」(1851))、久しぶりにこの建物のことを思った。

クリスタル・パレスとは、1851年にロンドンで開催された世界初の万国博覧会のために展示会場として造られた建物。この画期的な建物がどのような経緯を辿って生まれ、そして終焉を迎えたのかを、様々な史実を盛り込みながらもワクワクする冒険談のように描いた好著がある。それが今回ご紹介する水晶宮物語」(松村昌家著 ちくま学芸文庫)

以前読んだのを、上記のブローチを見かけ、ついでに映画「ヴィクトリア女王 世紀の愛」を観て、また読み返したくなった。そして、映画を観る前に読んでおけばよかった、とかなり後悔した。この本の冒頭には、映画の登場人物たちのやや複雑な相関関係が簡略にまとめられているからだ。

映画では、アルバート公は「あらまあ♡」と思わず顔がほころぶイケメンくんで登場するが(実際、公は端正な容姿の人だったと想像される)、イギリスに帰化しても外国人として扱われる偏見に耐えつつ、冷静に、そして賢くヴィクトリア女王と国を支える数々のエピソードには感動すら覚える。

本著によると、そんなアルバート公が成し遂げた最大の功績がこの万国博覧会(正式名称は万国産業製作品大博覧会:Great Exhibition of the Works of Industry of All Nations)。

まずもって私が何よりスリリングに思うのは、クリスタル・パレス建設に向けて、ものごとがサクサクと小気味よく進んでいく過程だ。遅々として前に進まないどこぞの国会を思うにつけ、このスピード感はまさに爽快。

ちょっと端的にデータを挙げると、世界各国から集められた10万点にも及ぶ大小様々な作品を展示する大博覧会だとういうのに、会場の選定に入ったのが開催のたった1年半前というのだからまずは驚く。しかも会場がハイド・パークに決まるも、そこに建設されるメインの展示会場の設計案に関しては、1850年5月の段階で決定打がなかった。コンペが開かれ、国内外から245人もの参加者が案を提出したにも関わらず(そして時間がないというのに)全て採用されなかったという冷静さにも感心するが、開幕が1851年の5月1日だから、その1年前にこの状況というのは信じがたい。

と書くと、上記の「ものごとがサクサクと小気味よく進んでいく過程」とはほど遠いが、話はここから。

そんな窮地を救うべく登場するのがジョーゼフ・パクストン。農家に生まれ、アカデミックな教育の背景を持たず、庭師からスタートして建築まで手掛けるようになった、まさに現場叩き上げの人。たまたま別件でロンドンに出てきたこの人が、初めてこの展覧会会場の設計図を送ってみようかという気になったのが1850年の6月中旬。「9日間のうちに」設計図を仕上げると約束した彼は、実際1週間で完成させ、それを見たアルバート公も望みをつなげる。

そのパクストン案による建造物は、のちに「鉄とガラスの建築における最高傑作」と言われるように、レンガ造りが主流の当時にあって全面ガラス張りの画期的なもの。しかも、あらかじめガラス板や桟などの建築資材を一定の大きさにしつらえておき、現場で素早く組み立てると言うプレハブ様式が採用された。

ものごとが決定されると全てはスピーディーに進んでいく。パクストンはアルバート公との面会後のその足で建設業者の下に走り、その業者はすぐガラス製造や製鉄の下請け業者に手回しし、1週間後には完璧な見積書を作り上げて入札を勝ち取る。

この時点で、イギリス的だなぁ、と思ったことが二つある。

一つは、懸案となった会場建設予定地に立つニレの大木。ナショナル・トラストを設立するような国の人々がそれを伐採するわけはなく、大胆にもそのまま建物の中に取り込むことになる。ついでに、この万博のために組織された建築委員会会員にて、当時の技術者として名を馳せていたイザムバード・キングダム・ブルーネルは、自らの案が通らなかったにも関わらず、自らニレの木の高さを測りに行き、結果をパクストンに知らせて設計を助ける。「自分が手がけた設計に花を持たせてやりたい気持ちは山々だけれども、貴殿にできるだけの情報を提供するのにやぶさかではない」と言いながら。

そしてもう一つは、その設計のインスピレーションになったのが、「ヴィクトリア・レギア」という大睡蓮の構造であったこと。パクストンが、自らの手で作り上げたガラス張りの大温室でイギリスで初めて人工栽培に成功した睡蓮の、交差葉脈などが大きなヒントとなった。イギリスの、自然科学を実用する伝統を思わずにいられない。

そのクリスタル・パレスの大きさについて大まかな数字を拾ってみると、建物全体の長さは1,848フィート(約563m)x横幅408フィート(約124m)。この本体に加えられた増築部分が936フィート(約285m)x48フィート(約14m)。建物全体の土地面積は約19エーカー、と言われてもピンとこないが、これはローマのサン・ピエトロ寺院の4倍、ロンドンのセント・ポール寺院の6倍に相当するそうだ。

その建物に使われた板ガラスの総量は、縦49インチ(約124.46cm)x横10インチ(25.4cm)のものが29万3665枚、重さ400トン!しかも外部の雨どい設置や、内部の水蒸気、換気、床の埃の処理など細部に渡った構造も抜かりがない。

繰り返すけれど、これだけの一大事業を、それこそ開催地選びから始めて設計、資金・資材の調達、建設まで1年半足らずで成し遂げたヴィクトリア朝期のイギリスって、やっぱり凄いと思いませんか?

チャールズ・ディケンズに「へとへとになってしまいました」と言わしめたこの万国博覧会の様子は、大変興味深いながらとてもここに書き切れないので省きます。一つ加えるとしたら、アルバート公を総裁とする博覧会王立委員会は、万国博覧会閉会後にその収益を投入し、ヴィクトリア&アルバート博物館、科学博物館、自然史博物館など、現在に見るサウスケンジントンのアカデミックなエリアの礎を作ったのでした。

ここまで読んで頂いた方の中には、きっと私の中途半端な紹介ぶりにたくさんの疑問を持ったり、不明瞭な説明に首をかしげた方もおありかと思います。さぁ、是非本をお手にとってご一読を。

そして映画「ヴィクトリア女王 世紀の愛」をご覧になって、アルバート公の身を張った献身ぶりに涙された方、またはこれからこの映画をご覧になる方(まだ都内の映画館で上映中のようです)にも、この「水晶宮物語」を読まれることを強くお勧めします。