l'esquisse

アート鑑賞の感想を中心に、日々思ったことをつらつらと。

Tom CHRISTOPHER展

2009-10-30 | アート鑑賞
ギャルリーためなが 2009年10月1日-11月1日



注)チラシでは10月31日までとなっていますが、11月1日(日)は中央区が主催する「中央区まるごとミュージアム2009」という催しの一環で12:00~17:00の間開廊しており(『アフタヌーン・ギャラリーズ by画廊の夜会』というイベント名で、銀座の22のギャラリーが参加)、自由に入れるそうです。

私はそれほど銀座の画廊巡りはしないのだが、先日たまたま一目で惹かれたアメリカ人の画家に行き当たった。場所は「ギャルリー ためなが」。

通りに面したガラス越しにかかる色鮮やかな作品が目に入ったとき、日本人の絵ではないと瞬時に思った。上手く説明できないが、一言でいえば”センス”。覗き込むと、作者の名はTom Christopherとあった。私が知らないだけで、恐らく有名な人なのだろうな、と思いつつ、画廊の中に足を踏み入れた。

そこに広がるのは、ニューヨークのマンハッタンの街中の光景。幅1mくらいの作品を中心に、横幅が数メートルある大きなものから小ぶりなものまで40点余が並ぶ。

回遊魚のように流れ続ける黄色いタクシーの群れ。その隊列を縫って自転車で颯爽と走り抜けていくメッセンジャー・ボーイ。信号に煽られるように、早足に道を渡っていく人々。道に並ぶ紅白の三角コーン。何やら相談している、蛍光色の作業服を着た工事人夫たち。クラクション、ヒールの靴音、話し声。慌ただしい人間たちの出す雑多な音が混ざった都会の喧騒が、どの画面からも聞こえてきそう。

若い頃にほんの数日滞在しただけで私の肌には合わないと断じてしまったNYなのに、それらの絵に囲まれていると不思議と高揚感に包まれ、煽られる。

これらの絵を描いたトム・クリストファーはカリフォルニアのハリウッド生まれ(1952年)。プロフィールを斜め読みしてみたが、新聞社の記事のためにスケッチ画を描いていたこともあるようで、あの鉛筆の下描きの線もそのままの疾走感ある画面はそんな背景も反映しているのだろう。そういえば、絵の中でアスファルトは眩しいくらいに真っ白だ。氏の出身地、カリフォルニアの陽光を思わせるような。

モノクロームの作品を観て思ったが、建物も、人々も、何もかもが大雑把に捉えられているのにリアリティがあるのは、やはりその即効的な描写力が秀でているからなのだろう。大きく手前に信号が描かれていたりと構図も筆致同様大胆でおもしろく、本来原色が飛び交う絵が余り得意でない私が惹かれる要素がいろいろ隠れていそうだ。

彼の作品のコレクション先の一つにNY市長のオフィスの名が挙がっていた。こんな絵が執務室にあったら、市長の仕事に対するモチベーションも上がることだろう。

トム・クリストファー氏の(恐らく)公式サイトはこちら

皇室の名宝―日本美の華 1期 永徳、若冲から大観、松園まで

2009-10-29 | アート鑑賞
東京国立博物館 平成館 2009年10月6日-11月3日



公式サイトはこちら

天皇陛下御即位20年を記念して、皇室に伝わる所蔵品の中から特に名高い名品を紹介する展覧会。1期と2期に分かれ、全展示品が入れ替わるという誠に大がかりなもの。展覧スケジュールは以下のようになっている:

1期:2009年10月6日(火)~11月3日(火・祝)
2期:2009年11月12日(木)~11月29日(日)

*11月12日(木)は天皇陛下御即位20年を記念して入館無料。
(来場者多数の場合はご入館いただけないことがあります、とサイトに但し書きあり)

1期は江戸時代から明治時代までの絵画と工芸品が中心
2期は古代から江戸時代までの考古、絵画、書跡、工芸品で構成

展示作品の質と量を考えたら、会期は非常に短いと思う。1期にしても、残すところあと数日となった。

1期・2期のセット前売り券を購入し、とても楽しみにしていた本展だが、とりあえず無事に1期を観てきたので感想を書いておこうと思う。

構成はシンプルに以下の2章に分けられていた:

1章 近世絵画の名品
2章 近代の宮殿装飾と帝室技芸員

混雑具合と自分の観たいものの優先順位を考えて、1章の出口から入られる方、2章から観られる方と様々のようだが、私は1章から順番に観ていった。

1章 近世絵画の名品

1章では、やはり全30幅が一挙に並ぶ伊藤若冲『動植綵絵(どうしょくさいえ)』(1757頃~1766頃)が一番観たかった。この絢爛たる作品群は、釈迦三尊像を荘厳するための花鳥画。京都の相国寺に寄進すべく、若冲が3幅の『釈迦三尊像』と合わせ、33幅を10年かけて描き切った。

2006年に宮内庁三の丸尚蔵館で開かれていた「花鳥―愛でる心、彩る技〈若冲を中心に〉」にて5期に分かれて6幅ずつ展示されたとき、かろうじて最後の5期だけ観ただけの私。今回、『動植綵絵』の数年前に描かれた『旭鳳凰図』(1755)を加え、31幅の作品が大きな展示室の四方に勢ぞろいした様はまさに壮観そのもの。こんな機会は生涯二度とあるまいと思い、根気強く列に加わった。

一作品、一作品を、ケースに張り付くように観ていった。裏面に黄土色を塗る裏彩色によって陰影を出し、その黄金色に輝く神々しいまでの白い羽毛に包まれた鳳凰、孔雀、鶏、鶴、鵞鳥、鸚鵡などの鳥たち。1本の羽の軸から均一に1本1本引かれていく無数の細い毛を良く観ると、更にその毛と毛の間に垂直に線が入れられていたりする。裏彩色と共に、こうした技巧もあの羽の光沢ある質感表現に活かされているのかと食い入るように見入った。肉眼ですらいろいろ感嘆する画面、単眼鏡で観たら更にすごいのでしょうね。

白い鳥を代表して『老松白鳳図』 (『動植綵絵』より)



こちらは水辺の生き物たち。『池辺群虫図』 (同)



左向け左、のカエルの群れがユーモラス。でもお釈迦様のお話を皆で真剣に拝聴しているのでしょう。今週本展をご鑑賞された秋篠宮殿下もお気に召されたとか。

もう一つ、『群魚図』。パネルにも説明があるが、この作品に描かれたルリハタに舶来のペルシアン・ブルーが使われていたという記事が、ちょうど本展の直前に読売新聞に載っていた。その作品を今回間近に観ることによって、その青さを感知できたことも嬉しかった。

正直なところ、様々な動植物が溢れる作品の中には個人的な嗜好から余り好きではないものもあるにはあったが、一通り観終えて部屋の四方をぐるりと見渡した時、その超人的な集中力とストイックな精神力にはやはり畏怖の念を感じずにいられなかった。

ところで、尋常ならざる濃密な画面を1時間以上かけて31幅観終えた時、私の眼はおかしくなった。後続の他の画家たちによる作品が妙に風通しがいいように観え、初見のときはあれほど感嘆した円山応挙『牡丹孔雀図』(1776)すら普通に観えてしまったほど。

また、酒井抱一『花鳥十二ヶ月図』(1823)も12幅揃って展示されているが、若冲と抱一の作品を単純に見比べると、ことさら対極的に観えた。若冲の作品は、何と言おうか至高の瞬間が凍結されてしまったような画面で、その前で息を吸いこんだら吐き出せないような緊迫感に押される。対して抱一の作品は、植物の葉の葉脈が運ぶ水の流れが感じられ、ゆったりと鑑賞できる感じ(何だか稚拙な表現で恥ずかしいが)。

例えば下の2作品には紫陽花が描かれているが、表現の仕方が随分違う。この2作品を同時に観られるというのも贅沢なことですが。。。

『紫陽花双鶏図』 伊藤若冲 (『動植綵絵』より)



『花鳥十二ヶ月図』(6月 部分) 酒井抱一 



新米者なので若冲はこれくらいにして、他にこの章で印象に残った作品:

『源氏物語図屏風』 伝狩野永徳 (安土桃山時代 16世紀)

おっとりした表情でゆるゆると時を過ごす宮廷の中の男女。着物の美しい柄や調度品(赤系のタータンチェックみたいな模様があって目を引いた)など、雅な世界。

『唐獅子図屏風』 狩野永徳・狩野常信 (安土桃山時代 16世紀・江戸時代 17世紀)

かの有名な永徳の屏風絵に初めてお目にかかれた。最初の部屋に入るといきなり真正面にドカンとあって、遠くからでも迫力満点(224.2x453.3cmもある)。対をなして左隣にも獅子の屏風絵があるが、これは永徳のひ孫である常信の作とのこと。永徳の方は観る者を捻じ伏すような気迫が漲るが、常信の方はずっと柔らかい。獅子の巻き毛などまさに対照的。武骨なまでに野性味溢れる永徳に、綺麗な曲線を描いてカーラーで巻いたような縦ロールの常信。

 右隻の永徳作品

『小栗判官絵巻』 岩佐又兵衛 (江戸時代 17世紀)

これも辛抱強く並んで端から観ていった。話の粗筋は荒唐無稽だが、それが故にこの岩佐又兵衛という人の絵筆が躍るのでしょう。人々の生き生きした表情、建物や着物などの細かい描き込み、ドンと大きく描かれたカラフルな閻魔大王。とりわけミイラと化した小栗が台車に載せられて橋を渡っていくシーンは、一度観たら脳裏から離れてくれない。

2章 近代の宮殿装飾と帝室技芸員

まずは聞きなれない帝室技芸員とはなんぞや、ということで、説明をサイトからそのまま転載:

帝室技芸員(ていしつぎげいいん)とは
明治23年10月、美術の保護奨励を目的として設置された制度です。日本の美術を奨励し、工芸技術を錬磨し、後進を指導することを目的としました。明治維新によって幕府や大名の庇護を失った画工や工芸作家たちの保護優遇からはじまり、西欧王室のように独自の文化的伝統をもつことが一等国になるために必要であるとの認識もありました。昭和19年まで続き、日本画、洋画、工芸、建築、写真まで幅広いジャンルから79名が任命されました。

1章で既に体力をだいぶ消耗してしまったが、この章にも目を見張る作品がたくさん。とりわけ工芸品の、日本人ならではと思われる繊細な技術、柔らかい感性、高い芸術性には目を奪われた。

『古柏猴鹿之図(こはくこうろくのず)』 森寛斎 (1880)

林立する木々、猴(さる)、鹿。柔らかい茶の諧調で統一された画面がとても美しく、この季節に鑑賞するのにぴったり。猿が鹿の背に乗って毛づくろいをしていたり、鹿の足元で子猿たちが戯れていたり、頭上の木の枝にいる猿を見上げて会話を交わしている(と見える)鹿は歯を見せて笑っている。

『夏冬山水図』 橋本雅邦 (1896)

なんて美しい山水画なのだろう、と引き込まれた。すっきりした構図や強弱ある線描、繊細な色彩がとても良かった。

『七宝四季花鳥図花瓶』 並河靖之 (1899)

こんなに美しい壺があるのか、と感動。漆黒を背景に、片面に桃色の桜、反対側に緑の若葉が舞う。照明に浮かぶその様はまるで小宇宙。夢のごとき。

『官女置物』 旭玉山 (1901)

象牙で彫られた十二単の女官の像。周りの人たちも一様に感嘆の声を上げていたが、とにかく美しい。沢山の部位を接合して作られていると説明にあっても、そのように感じないしなやかさ。着物に浅く浮き出る柄や折り重なって流れる衣の襞。正面からは見えない、女官が手に持つ鏡の反対側に垂れる房飾りまで、驚くほど繊細な彫り。

『菊蒔絵螺鈿棚』 川之邊一朝ほか (1903)



背面に回っても、しゃがんで棚の下側を観ても、きっちり蒔絵・螺鈿細工が施されている。空間を多く持たせたデザインもバランスの妙。

『蘭陵王置物』 海野勝 (1890)

舞楽『蘭陵王』の演者をかたどった置物。怖い形相の金色のお面がちょっと異様な感じがするが(このお面は取り外しができるそうだ)、演者の躍動感溢れるポーズ、衣装の袖の膨らみや文様など、その彫金技術は素晴らしい。

画像もないのでこのへんでやめておくが、とにかくこの章には螺鈿、蒔絵、七宝、木彫、彫金、陶器など、日本の伝統工芸の最高峰を集めた名品が次から次へと現れ、見応え十分。

正倉院宝物や教科書でお馴染みの作品も並ぶ次の2期も、きっととんでもないことになるのだろう。

古代カルタゴとローマ展~きらめく地中海文明の至宝~

2009-10-21 | アート鑑賞
大丸ミュージアム・東京 2009年10月3日-25日



これは意表を突く、よい展覧会だった。会期はもう数日しかないけど、是非お薦めします。

公式サイトはこちら 

まずは歴史のおさらいをちょっぴりと。実は私が滞英中の1995年に現地で邦人向けに発行されていた「ジャーニー」という月刊誌に上手くまとめられたカルタゴ特集記事があったのを思い出し、本展のカタログと共に参照させて頂いた。

カルタゴが興ったのはアフリカ北端に位置する現チュニジア共和国。国土の一部を地中海に面し、シチリア島を挟んでイタリア半島と対岸するこの国は、現在アラブ人98%のイスラム教国。カルタゴは紀元前9世紀にチュニス湾内の半島に海洋民族フェニキア人が移住して建設した古代都市で、その名称は「新しい町」を意味する。

前6世紀には西地中海における最大の商業国・海軍国として栄えていたが、シチリア島の利権をめぐってギリシャと対立。やがてギリシャを制圧したローマと反目し合うようになり、ポエニ戦争が始まる。ポエニとは、「フェニキア」のラテン語読み。

第一次ポエニ戦争 (前264~241)
カルタゴはローマに敗れ、シチリアを失う。後にコルシカ、サルディニアも失い、多額の賠償金を課せられる。

第二次ポエニ戦争 (前218~201)
第一次の戦争で失った損失を補うべく、スペインの経営を進めたカルタゴはたちまち利益を上げ、前231年には賠償金の支払い終了。波に乗ってローマと盟約関係にあったサグントゥムに攻め入ったハンニバルがローマを刺激し、再び戦争へ。結局ハンニバル率いるカルタゴ軍は負け、海外領土を全て失う。賠償金も第一次の時の3倍。

第三次ポエニ戦争 (前149~146)
地中海に出回るカルタゴ産のイチジクなど、その見事な農業技術に恐れを抱いたローマは再び進軍、今度は完全にカルタゴを破壊。

紀元前1世紀後半にローマ都市カルタゴ(のちに「ローマのアフリカの首都」と呼ばれる)が建設され、再び繁栄。7世紀末にはアラブ人が侵入し、アラブ化されていく。

本展では、そんなカルタゴの文化を紹介すべく、チュニジア国立博物館群の所蔵品から160点余り(その9割が日本初公開)を、「ポエニ時代」と「ローマのアフリカ」となってからの二つの時代区分に分け、以下の2章で構成:

Ⅰ 地中海の女王カルタゴ
Ⅱ ローマに生きるカルタゴ

では、順番に。

Ⅰ 地中海の女王カルタゴ

ローマ軍に徹底的に破壊され消えてしまったカルタゴであるが、近年の発掘調査により様々な遺物が出土。この章ではそのポエニ時代のカルタゴの文化が伺える多様な出土品が展示される。

『マスク』 (前3世紀末-前2世紀初頭) テラコッタ



しょっぱなからインパクトのある造形のマスク。頬骨が高く、細い面持ち。用途は隣に2点並ぶ女性のマスク形頭部像の説明にあったのと同様、墓に置かれた魔よけと加護のためのものなのだろうか。余談ながら、このマスクをはじめ、展示品は一部を除いて全て地中海を思わせる青い台座に載せられており、とても美しい展示空間となっていた。

『奉納石碑』 (前4-前2世紀前半) 石灰岩



本展では様々な図像が刻まれたこのような石碑が10点余り並ぶ。この石碑に見られるのは、ポエニ語の碑文とタニトの図像。

フェニキア人はアルファベットの基礎を築いた民。画像ではわかりにくいが、ポエニ語にも既にアルファベットに近いものが見受けられる。カルタゴの人々は宗教心に篤く、地中海の多様な文化を背景に多神教であった。そんな中、カルタゴでもっとも崇拝さたのがバアル・ハモンという男神とタニトという女神だった。タニトは以下の図像で表される:

 ちょっとクレーを思い浮かべる

『マスク形ペンダント』 (前3世紀) ガラス



ガラス製と知ってビックリ。ペンダント・トップには人間の顔の造形を模したマスク形のものが多かったが、その奇妙な顔立ちの中に加藤泉さんの作風を思わせるものが。。。

『アンフォラ形容器』 (前3世紀前半) ガラス



カルタゴの人って、色彩感覚が優れていると思う。

アンフォラといえば、1m以上もあるテラコッタ製の細長いアンフォラが数点展示されていたが、船舶輸送のための形状と聞けど扱いにくそう。特に陸路はどうやって運搬していたのだろうとしみじみ考えてしまった(考えたところで皆目見当がつかないが)。固定する枠みたいなものがあったのだろうか。

『哺乳瓶形容器』 (前3世紀前半) テラコッタ



ポエニ式陶器の存在はカルタゴが創建された時期から確認されているとのこと。その多くが幼児の墓から見つかったというこの哺乳瓶形の容器は4点ほど出展されていた。取っ手もついているし、現在の吸い飲みのようなものだったのだろう。ふっくらとした胴体、小さな吸い口の形状が何とも言えない。

『スフィンクス』 (1世紀) テラコッタ



円錐形のティアラが可愛いらしいスフィンクス。

『有翼女性神官の石棺(蓋)』 (前3世紀) 大理石 長197cm



カルタゴのネクロポリス(共同墓地)から出土した石棺。少し起こされた形で展示されていたが、ぎょっとする美しさだった。左手に香炉、右手に鳩を持つこの女性の下半身は翼で覆われている。死んで硬直した鳥の死骸を想起したりもした。足の長い指が生々しい。この石棺はエジプト様式なのだそうだが、顔や上衣の流れるような襞はヘレニズム風に思える。

『ネックレス』 (前6世紀)



カルタゴの人々も貴金属を良く好んだとのことで、眩いイヤリング、指輪、ペンダント、ネックレスなどもいろいろと並んでいた。このネックレスは金の部品の細工が見事で(よく見るとウジャトの眼が)、色彩のバランスも良い。他のアクセサリー類やコイン類も観るにつけ、カルタゴの人の色彩・デザインのセンスはとても洗練されていて高度だと思った。

残念ながら画像はないが、1章ではとても良くできたカルタゴの港の模型も展示されていて、興味深かった。カルタゴには最大200隻も格納できる円形の軍港と、建造、修理、停泊、乾ドックを備えた長方形の商港を備えていたそうだ。映像での解説も流されており、その規模の大きさとシスティマティックな構造にはただ驚くばかり。

Ⅱ ローマに生きるカルタゴ

第三次ポエニ戦争のときに燃え尽くされた後、最後には二度と草木が生えないようにとローマ軍に塩まで撒かせた古代都市カルタゴは、しかしローマ支配のもと更に発展し、文化は円熟期を迎える。

こちらのセクションに入ると、展示物の作風がガラリと変わり、ローマ風の白大理石の彫像群がお出迎え。そしてテラコッタの作品が続く。

『ローマ式ランプ』 (1世紀 テラコッタ)



ランプの起源は前2000年にさかのぼるが、完成されたのはローマ時代になってからとのこと。ローマ帝政初期(前1世紀末以降)に入ってからは様々な図像が描かれるようになった。中でも「見世物と港の風景はチュニジアで発見された1~4世紀までのランプに頻繁に現れる」と解説にある通り、20種類も展示されたランプには様々なシーンが。画像のモティーフは拳闘士。

しかしながら、こちらの章で一番の目玉は何と言ってもモザイク作品。黄色い壁のセクションに足を踏み入れると、大型の見事なモザイク作品がずらりと壁を覆い、圧巻。北アフリカは大理石の採石地が豊富だそうで、チュニジア北西部から多く出る黄色大理石はローマやコンスタンティノープルにも輸出されていたという。この石によりピンクのグラデーションが出せる、と説明にあったが、最初に出迎えてくれる『バラのつぼみを撒く女性』と『水を注ぐ女性』(共に5世紀前半、各190x140cm)の女性の裸体の美しい肌の色を観てなるほどと思った。1辺1cmのサイコロ状の石やガラスを敷き並べて作られた大画面の迫力を、失礼ながら博物館ではなくデパートの美術館で堪能できるとは思ってもいなかった。

『ネプチューン』 (5世紀末‐6世紀初頭)



263x263cmもある大画面の中央に、2頭の海馬(ヒッポカンポス)に乗るネプチューン。周りには様々な魚貝類がひしめき(よく観ると鳥も数羽)、とても装飾的に映える作品。ちょうど右目の瞳の部分が剥離してしまっていて、もし1㎤の黒の一石が嵌っていたらこのネプチューンの表情も格段によくなるのに、と思わずにいられなかった。

『メドゥーサ』 3世紀



浴場の舗床モザイクの一部。ウネウネと動く蛇の曲線も見事に表現されている。これが浴場の床にあったらちょっと踏みつけにくいように思う。

他にも大土地所有者の領地内で行われていた狩猟の風景を4連作で作成した『野ウサギの追跡』、『落馬する狩人』、『野ウサギの捕獲』、『狩猟からの帰還』 (3世紀末)もその躍動感溢れる表現が大変魅力的だった。



いつかチュニジアに行ってみたいなぁ。

ベルギー王立美術館コレクション ベルギー近代絵画のあゆみ

2009-10-16 | アート鑑賞
損保ジャパン東郷青児美術館 2009年9月12日-11月29日

 

いつも閉会ぎりぎりに駆け込むことの多い私が、珍しくまだ会期に余裕がある損保ジャパン東郷青児美術館で開催中の「ベルギー近代絵画のあゆみ」展に行って来た。

公式サイトはこちら 

前置きになるが、ルネ・マグリットやポール・デルヴォー以外のベルギーの”近代絵画”を初めて意識したのは、2005年に埼玉近代美術館で観た「ゲント美術館名品展」(副題は「西洋近代美術のなかのベルギー」)と、ほぼ時を同じくして府中市美術館で開催されていた「ベルギー近代の美」展。その時、とりわけ印象に残ったものの一つがエミール・クラウスらの外光表現を全面に出した作品群だった。

『晴れた日』 エミール・クラウス (1899)



*今回の出展作品ではありません(上記「ゲント美術館名品展」にて展示)

さて、本展はベルギーの首都ブリュッセルにあるベルギー王立美術館のコレクションより、ベルギー並びにフランスの画家による油彩画69点が並び、19世紀後半から20世紀前半のベルギーにおける絵画芸術の展開を見るというもの。ベルギーにおけるフランス絵画の影響は地理的に見ても言わずもがななのかと瞬時に思うが、展示の各章に丁寧に述べられている説明を読んでいくうちに、ベルギーの近代画とフランスの芸術運動は切っても切り離せない関係にあることが詳しく理解されていく。

そのベルギー王立美術館について、入り口のパネルに詳しく歴史が説明されていたので、メモを元にさっくりと書いておく:

「西欧の十字路」に位置するベルギーは、絶えず列強の侵略、脅威に晒されていたが、ベルギー王立美術館の成り立ちもまさにそのような背景と深く結びついている。以前より他国に略奪され続けていたベルギーの芸術品であるが、とどめを刺したのがナポレオン率いるフランス軍。フランス革命勃発の6年後、ベルギーを占領した彼らは膨大な芸術品を奪って帰国。

その戦利品はルーヴル宮殿に入り切らず、1801年にベルギーに美術館を設立する政令が出される。1803年にオープンとなったこの美術館は、「他国に奪われたベルギーの美術品を集め直すこと」を一つの指針とした。

その後1876年に現在の古典美術館の建設が始まり、1887年に完成。1984年には19~20世紀の美術品を展示する近代美術館が誕生。現在、15世紀から20世紀に渡る古典・近現代の両部門の美術作品2万点を所蔵する、ベルギー最大の美術館。

では、そろそろ本題に。本展は以下の6章で構成されていた:

第1章 バルビゾン派からテルヴューレン派へ:印象派の起源
第2章 ベルギーのレアリスムから印象派へ
第3章 フランスの印象派と純粋な色彩
第4章 ベルギーにおける新印象派
第5章 光と親密さ
第6章 フォーヴィスム 

章を追って、印象に残った作品を記しておく:

第1章 バルビゾン派からテルヴューレン派へ:印象派の起源

19世紀になると風景画の地位が向上し、戸外制作が重要に。フランスのバルビゾン派の画家たちは、ベルギーでは初めから好意的に受け入れられる。1859年、パリに滞在したカミーユ・ヴァン・カンプは、ブーランジェと共にブリュッセル近郊のソワーニュの森の外れにある小村テルヴューレンで制作を始める。これがテルヴューレン派。

『聖ユベールのミサ』 イッポリート・ブーランジェ (1871)



教会の外壁(石灰岩?)が溶け込むような黄灰色の雲の色調と、その垣間にのぞく黄味がかった青い空。湿った秋の香りが漂ってくるような佳品。ただし、額のガラスが光を反映し、ちょっと画面が見づらかった。

『若い女の肖像』 アルフレッド・クリュイスナー (1857)

少しだけ微笑んだ表情と清楚な白い襟が印象的。

『アントウェルペンの水場の内部』 アンリ・ド・ブラーケレール (1883)

黒地に金で描かれた、植物やプットー?などが絡みつくグロテスク模様のような壁紙をはじめ、内装の描写が見事。マーブル模様の額縁も絵の一部のよう。

『赤い服』 アンリ・ド・ブラーケレール (制作年不詳)

サーベルや大きな金ボタン、金糸の刺繍などの質感描写も手伝い、フランドルの静物画の伝統を思わせた。

第2章 ベルギーのレアリスムから印象派へ

ギュスターヴ・クールベの写実作品は早い時期からベルギーで紹介され、ベルギーの画家たちも同時代の社会に関心を持つようになる。このような若い芸術家に拒絶反応を示すアカデミーに反旗を翻した画家たちにより、1883年に「20人会」が結成され、若い画家や外国人作家の作品も公開されるように。中でもホィッスラーから影響を受けたベルギーの画家は印象派の到来を予告。

『フォッセ、モミの木の林』 フェルナン・クノップフ (1894)

クノップフというと、外の世界を遮断して自分の世界に入り込んでしまったような耽美的な表情の人物や、スフィンクスや顔の横から翼の生えたヒュプノスなどの象徴的なモティーフがまず浮かんでくるが、過去の展覧会のカタログなどをめくってみると風景画も沢山描いている。フォッセはベルギー南部にある寒村で、そこで家族と夏を過ごすクノップフはフォッセ及びその周辺の風景画を沢山残したそうだ。この絵には、手前から奥に向かって整然と2列に並ぶモミの木が自然な遠近感で描かれている。まっすぐに林立する幹の竹色と、林の湿り気を感じさせる土の赤茶色。淡く、はかない夢のような情景。特に目を引く事物は何も描かれていないのに、クノップフの精神世界が漂う魅力的な作品だった。

また、クールベ『スペインの踊り子、アデーラ・ゲレーロ夫人』(1851)の筆捌きは見事だと思った。さすが、上手いです。

第3章 フランスの印象派と純粋な色彩

1886年、フランスの印象派の画家たちは「20人会」の展覧会に招待され、大成功。その影響を受けつつベルギーの画家たちは、光に満ちた空気を描きながらも細かい筆致を使わず、写実的に形態を捉えていく。

『冬の下校』 ジェニー・モンティニー (制作年不詳)

授業から解放され、元気に校庭に出てきた子供たち。冬の短い日は暮れかかり、残照は子供たちを照らし出し、その影を地面に長くたなびかせる。簡略化された描写なのに、伝わってくるのは繊細な冬の空気の匂い。この勢いのある筆遣いを観てから近くに掛けられたポール・ゴーギャン『野原での語らい、ポン=タヴァン』(1888)を観ると、何だか腑抜けな感じがしてしまう(ごめんよ、ゴーギャン)。

『キャベツ』 ジェームズ・アンソール (1880)

今回、最もインパクトのあった作品の一つ。キャベツと聞いて、スーパーに並ぶあれを思い浮かべてはいけない。通常切り落とされてしまう外側の濃い緑の葉がワサッと広がる、大きなキャベツ。テーブルには一緒に玉ねぎ、ニンジン、トマト、リークなどが並ぶが、キャベツのわき役に過ぎない。近寄ってじっとキャベツを観察すると、何だかちょっとヘタウマな感じがしないでもないが、その場を離れ、振り返った時のキャベツの主張ったらなかった。すごいな、アンソールって。なんでポストカードがなかったのだろう?

ちなみにチラシに使われているのは、同じくアンソールの筆がうねる『バラの花』(1892)

第4章 ベルギーにおける新印象派

「20人会」は、スーラなど新印象派の画家たちを紹介。ブリュッセルは新印象派の中心地となっていった。

『散歩』 テオフィル・ファン・レイセルベルヘ (1901)



点描技法を用いた作品。ただしスーラほどきっちりした点描表現ではなく、筆の強弱が活かされ、画面になめらかな動きが感じられる。白いドレスを海風にたなびかせ、浜辺を散歩する淑女4人。上品です。また、同画家による『シャルル・モース夫人の肖像』(1890)も繊細な作品だった。

第5章 光と親密さ

1893年に「20人会」は解散、代わって「自由美学」が結成され、あらゆる芸術活動が紹介される。モネから影響を受け、陽光の表現を追求したリュミニスム(光輝主義)運動の指導的立場にいたのがエミール・クラウス(私が冒頭に引用した絵を描いた人)。しかしフランスの印象派と違い、ベルギーのリュミニスムでは形態を光の中に溶け込ますことはなかった。

『ゲントの夜』 アルベルト・バールツン (1903)



初めて知る画家。いい絵だなぁ、と見とれた。恐らく晩秋、北ヨーロッパは日が落ちればあっと言う間に暗くなる。人気のない運河で温度を感じるのは水面にたなびく街灯のオレンジの光だけ。幾重にも塗り重ねられた大きな画面(151x155㎝)に降りてくる闇のトーンに、寂寥感というよりも一日の終わりにほっと息をつけるような心もちがした。

『ルイ=シャルル・クレスパンの肖像』 アンリ・エヴェヌプール (1895)



これは可愛い。暗い色彩を基調としながら、男の子のまとうひらひらの白いエプロンが印象を強める。口をきゅっと閉じて手元の作品を見詰める思惑顔の真剣な眼差しはどこか大人びて見えるが、艶々の髪の毛やふっくらした頬、筆を握りしめた小さな左手がいじらしい。

思わず自分の姪っ子を思い出してしまった。ある日私が油彩画の道具をいじっていると、当時3歳だった姪っ子が私の横にぴったり寄り添って興味津津に覗きこんでいた。パレットやら筆やら説明してやると、自分も今すぐそれで絵を描きたいと言う。これはお薬(オイルのこと)を使わないといけないから、エプロンしないとだめなんだよ、と諭す私に彼女は言った。「よだれかけあるから持ってくるね」。今年の4歳の誕生日に、私は彼女に水彩画セットを買ってあげた。いつかこの男の子みたいに絵筆を握ってほしいものです。

この他、エミール・クラウスのロンドンの情景を描いた作品も数点並んでいたが、個人的には整合感ある色彩空間が美しいアンリ・ル・シダネル『黄昏の白い庭』(1912)が好きだった。

第6章 フォーヴィスム
 
1905年、フォーヴィスムに揺れるパリでは、サロン・ドートンヌ展にヴラマンク、ドラン、マティスなどが出展。ベルギーにおいても、リュミニスムからの解放を目指していたブラバント・フォーヴィスムが生まれる。その強烈な色彩によるコントラスト、率直な感覚や個性の追求は、のちの表現主義へとつながっていく。

『レモン』 ジャン・ヴァンデン・エコー (1913)

フォーヴィスムで括られても、”野獣派”という訳には程遠い、穏やかでなごむ絵。背景の空の青がとてもきれい。

『逆光の中の裸婦』 ピエール・ボナール (1908)



思っていたより大きな作品(124.5x109cm)で、裸婦の肉感的な存在感が大きく感じられる。そばに近寄って観ると、しなった背中の、背骨から腰に至るハイライトの入れ方に目が留まる。のど元に香水の瓶を向ける裸婦の横顔は、至福の瞬間とでもいうようにうっとりした表情。この裸婦は画家の奥さんで、潔癖症で一日の大半を浴室で過ごしたという。私にはあり得ない話だが、何に幸せを感じるかは人それぞれ。ちなみにこうした静かな家庭生活をテーマにした作品はアンティミスム(親密派)と呼ぶそうだ。離れて観るとその溢れるような光の表現が見事だと思うが、どうしてもたらいが浮いて観えた。

以上です。

初見の画家も多かったが、常にフランスの芸術運動の波に晒されつつ、それを柔軟に受け入れて独自の世界を創り上げていったベルギーの近代画、という側面は多少なりとも理解できたように思う。既知の画家でも私にとっては意外な作品にもお目にかかれ、小ぶりながらなかなかおもしろい展覧会だった。

特別展 インカ帝国のルーツ 黄金の都シカン

2009-10-04 | アート鑑賞
国立科学博物館 2009年7月14日-10月12日

   

公式サイトはこちら

本展で企画された「一日ブログ記者募集」(*)に応募したところ(いつも大変お世話になっている、Takさんのこちらの記事に感謝!)、運よくご招待頂いたので、写真撮影可ということでデジカメとメモ帳を持って久々に科博へ行ってきた。南米文化に(も)疎いので、「シカン」と聞いても全く無反応の私であったが、こういう好機を頂いたからには少しでも勉強してこなくては!

(*)この企画は既に終了しています。

まず、頂いた資料を元に、大まかにこの展覧会の趣旨を理解しておきたい。

シカン文化」とは9世紀から1375年頃までペルー北海岸で栄えた、アンデス文明の一つ。10世紀から11世紀の中期シカン時代に最盛期を迎え、バタングランデ周辺に巨大な神殿群を築いた。

1978年から日本人の島田泉教授(南イリノイ大学人類学科教授・考古学者。1948年生まれ)がシカン遺跡周辺の綿密なフィールド・ワークを行い、その地の宗教、世界観、生活の様子などが明らかに。その文化の独自性から、先住民の言葉で「月の神殿」を意味する「シカン(文化)」と命名された。

その30年間にわたる調査は、巨大なピラミッド「ロロ神殿」東に眠る墓の発掘(5体の遺体と共に100点を超す黄金の装身具を含む1.2トンという大量の遺物が出土)、更に「ロロ神殿」西の墓の発掘、シアルーペ遺跡における金属と土器の工房の発見、「ロロ神殿」スロープ脇の墓の発掘など多数の成果を生む。本展ではこれらの研究調査結果を元にシカン文化の全容を紹介すべく、土器、金属製品、織物、人骨、ミイラなど約200点の考古遺物が展示される。

出土品を見渡してみれば、高度な「金属加工技術」と「土器製法技術」が見どころ。

構成は以下の通り:

プロローグ 「歴史を塗りかえた偉大な考古学者たち」
第1部 シカンを掘る! 考古学者の挑戦
第2部 シカン文化の世界 -インカ帝国の源流
エピローグ

では、順路に沿って進んでいきたい:

プロローグ 「歴史を塗りかえた偉大な考古学者たち」

「考古学」という学問の究極の目的は、「人間とはいったいどのような存在なのかを知り、われわれはどこから生まれ、どこに向かおうとしているのかを問うことにある」とある。しかし実際は机上の多大なる研究のみならず、過酷なフィールド・ワークも伴う大変な学問。電磁波レーダー探査やDNA鑑定など化学分析技術を駆使するとはいえ、基本は粉塵にまみれた地道な発掘作業。ケースの中には、大小の刷毛、スコップ、ふるいなど実際の発掘に使われる様々な道具類や、発掘品のスケッチが描かれたノートなどが並んでいた。



第1部 シカンを掘る! 考古学者の挑戦

まずは、今は風化して原形をとどめないロロ神殿の模型。シカン遺跡には大小12の神殿があり、南北1000m、東西1600mの横になったT字型に配列されている。その一つであるロロ神殿は、底辺100mx100m、高さ32m。神殿下とその外側に多くの墓が作られた。



同じ部屋の壁沿いのケースには、前期シカン(AD850-950)、中期シカン(AD950-1100)、後期シカン(1100-1375)と3期それぞれに作られた黒い壺が並んでいる。後期以外のものにはシカン神の顔が彫られており、様々な出土品に入れ込まれたこの顔に今後いく度となくお目にかかることになる。



画像では分かりにくいが、壺の首の部分にシカン神の顔がある。「アーモンドアイ」と呼ばれる、上下二重まぶたに縁取られた釣りあがった大きな目、三角にとがった鼻、真一文字の口元。なんとなく懐かしみを覚えるのはなぜだろう?

また、3分程度にまとめられた発掘に関する映像が各所で流されているが(撮影を試みたが、ことごとく失敗)、後半の展示箇所で島田教授らによるシカンの黒色土器の製法のデモンストレーションの様子も流れていた。

『シカン黄金大仮面』 (11世紀初期)

 斜め前から撮ったら、ケースの枠が入ってしまった。

チラシの中央に鎮座する黄金の大きな仮面。全長約100cm。ケースの中から圧倒的な存在感を放っており、誠に派手できらびやか。メカニックな印象すら受ける。赤く彩色されている部分がシカンの神で、頭上には鋭い牙をむき、舌を出すグロテスクな顔のついた頭飾り。1991年に発掘された、ロロ神殿東の墓の主埋葬者の顔につけられていた。その真意は謎だが、死者をシカン神に変身させる意味合いがあるのかもしれない、とのこと。

第2部 シカン文化の世界 -インカ帝国の源流

この章では、〈宗教〉〈交易〉〈技術力〉〈人々の生活〉〈社会構造〉〈自然環境〉という6つの観点から出土品を観ていく。

『シカン黄金製トゥミ』 11世紀初期



トゥミとは儀式用のナイフ。さまざまな商品の意匠にも採用されている、「ペルー国の象徴」でもあるそうだ。これは高さ42センチ、重さは992gあるとのこと。シカン神の半円の頭飾りの部分といい、繊細な彫金技術が冴える、美しい作品。トゥミは生贄の首を切るのに使われた、と聞くとぞっとするが。尚、シカンは北海岸地方の人々の信仰の中心となった宗教都市であった。

ついでに、ウミギクガイなど現在のシカン遺跡周辺では採集できないものがシカン遺跡から発掘されることがあり、このトゥミのようにふんだんに使われている金にしても、金鉱は周辺には存在しないそうだ。研究の結果、シカンは広域の交易ネットワークを形成していたことが判明。

『シカン神の顔を打ち出し細工した黄金のケロ』  (中期シカン 950年~1100年頃)



「シカン遺跡はアンデス文明のなかでもとくに大量の黄金の装飾品を作り、また実用具に使われた砒素銅(青銅)の大量生産技術をはじめて確立した文化だった」とのこと。この画像はシカンの神の顔がグルリと囲む、重量感ある杯(「ケロとはふちの広がっているコップのこと」と解説にあったが)。隣り合う神が、片方の目を共有している。



こちらは金製胸飾り。人が多くて撮影は遠慮したが、他にも黄金に輝く精巧な蜘蛛、大ぶりの耳飾り、金を薄く引き延ばして彫金した装飾品の繊細な部品など、作り手の職人的手先の器用さ、技量の高さを思わせる出土品が沢山並んでいた。

さて、今度は土器類。きらびやかな金製品とは異なる、手のぬくもりが伝わってくるような味わい。文字を持たなかったシカン文化は、土器や織物の文様が多くを物語る。



「シカンの人々は土器に生活のさまざまな場面を彫刻した」という解説を読むまでもなく、彼らの生活がなんとなく想像される土器が沢山並び、その素朴な作風に思わず微笑んでしまう。トウモロコシといえば、南米原産であり、彼らの主食。トウモロコシ3本を頭に載せた神様をモティーフにしたこの壺もなかなかの趣。また、その左下にはあんぐり口を開けたお魚の壺。ペルー北海岸は高温で雨が少なく、人々は水が底をつくことを恐れた。よって、水に関わりのある動物の土器が多い、とのこと。じゃ、手が滑って割っちゃったりしたら、不吉なことだとして動揺したりしたのかな?



手前のブタさんお笑いトリオ。なんとも微笑ましいじゃありませんか。

『シカン神と二人の従者をかたどった壺』 (中期シカン 950年~1100年頃)



このシカン神は口元が笑っていて、肩を組む仲良し三人組のよう。

エピローグ

『黄金の御輿』 (11世紀)



この写真もイマイチだが、これは御輿の後ろの背もたれの部分を背後から撮ったもの。たくさんのシカン神が下がり、手の込んだ装飾がされている。

『シカンのミイラ包み(ファルド)』 11世紀

シカン遺跡から南方約165kmにある、モチェ文化の中心、ブルホ遺跡から出土したミイラ包み。シカン文化に先立つモチェ文化は、衰退後シカン文化を吸収し、同化していった。このミイラ包みは頭部に銅製の仮面が付けられていて、包みとともにシカン文化の特徴をもつ土器などが見つかったとのこと。

「埋葬のデータを調べると、シカンは支配者層と庶民が階層としてはっきり別れている階級社会であった」との解説。このミイラは支配者層の人だが、あぐらをかいた体勢で幾重にも布で巻き包まれるのはいかにも窮屈そう。

尚、11世紀末にシカンの地を干ばつと大雨が繰り返し襲い、飢饉と洪水が蔓延した結果、隆盛していた中期シカン文化が急速に衰えていったそうだ。

3Dシアター・ナチュラル

最後に3D眼鏡を借りて、3Dシアターへ。立体的な映像や音と共に、発掘現場の様子や美しいCGで再現する墓室の中の様子を楽しめる。

宗教観は多様だとはいえ、逆さ埋葬というものを初めて知った。墓室の中、上層部に埋められた生贄と共に一番下に葬られている墓の主は、あぐらをかいた体勢で逆さまに埋められ、切り離された頭部だけがその首の前に置かれている。顔には例の仮面。正面から見る分にはいいが、CG上のカメラの視点がグルリと横に回る時はドキドキ。画面は美しいが、なんて異様な光景だろう。。。

 仮面の後ろにはこちらを向く顔が(映像でも顔は見えないが)。

以上であるが、全体的に趣向が凝らされた展示は、メリハリがある上すっきりと見易く、最後まで飽きることなく楽しめた。実際に観るまでシカン神の面持ちにこんなに親しみを覚えるとは思わなかったし、出土品に見るシカン文化の美的センスは結構好きであった。

この展覧会も残すところあと1週間余り(10月12日まで)。ご興味のある方はお急ぎ下さい。