l'esquisse

アート鑑賞の感想を中心に、日々思ったことをつらつらと。

水墨画の輝き―雪舟・等伯から鉄斎まで

2009-05-18 | アート鑑賞
出光美術館 2009年4月25日-5月31日



今回は水墨画の歴史を勉強しに出光美術館に行ってきた。水墨画のみの展覧会は今回が初めてかもしれない。日本における水墨画の歴史を追いつつ、ほどよい出展作品数で構成されたこの展覧会は、各パネルの説明も丁寧で、私のような初心者にもとりあえずわかりやすく理解できるものだった。

まず、墨のみで表現する水墨画は、「自然界に溢れる色彩の再現を放棄するという立脚点」から出発しているとある。志がはなからとてもチャレンジングだ。また、「墨は五彩を兼ねる」とあるが、黒一色の濃淡を駆使して、対象物の有形・無形を問わず、質感描写までこなして"多彩"に表現しなくてはならない。しかも「描き直しのきかない、一発勝負の世界」。以前油絵の先生と「本当に画力が問われるのは日本画だ」と話をしたことがあるが、色を使わない水墨画は描き手の感性・技量が徹底的に試される高度な世界だとしみじみ思った。

展覧会の構成は以下の通り:

第一章 水墨山水画の幕開け
第二章 阿弥派の作画と東山御物
第三章 初期狩野派と長谷川等伯
第四章 新しい個性の開花―近世から近代へ

では、各章ごとに印象に残った作品を挙げていく:

第一章 水墨山水画の幕開け

水墨画は8世紀後半、唐時代の中国に山水画を描く技法として生まれた。時代と共に人物画や花鳥画なども描かれるようになり、10~13世紀頃の宋の時代になると一般的な絵画技法として普及。12世紀末に禅宗とともに日本へ伝わった。

『待花軒図』 画・伝 周文 賛・大岳周崇他八僧 (室町時代)
詩画軸(詩、書、画が一体となった作品)。屋根、戸、塀などに細かく直線がたくさん引かれているが、まさかフリーハンドなのだろうか?手に汗をかきそうだ。

『破墨山水図』 雪舟 (室町時代)
破墨という技法(ネットでちょこっと調べた限りでは、墨の濃淡、筆触で立体感を出す技法のようだ)で描かれた山水画。遠景や陰影に薄墨が使われ、山肌や崖には濃い墨が踊る。小さな作品だったが、筆の躍動感が印象に残った。




『赤衣達磨図』 伝 雪舟 (室町時代)  
肉感的な赤い唇、眉や髭の柔らかい感じ、立体感のある目鼻立ちと、とても写実的。このところ白隠慧鶴のデフォルメされた達磨像ばかり観ていたから、妙に新鮮な感じがした。

第二章 阿弥派の作画と東山御物

14世紀には道釈人物画(神仏等)が描かれるようになり、応永年間の1394年-1428年を境に日本における水墨山水画の制作が始まる。室町幕府に仕えた能阿弥、芸阿弥、相阿弥の三阿弥は、水墨画家であると同時に足利将軍家の美術コレクション管理を任された、芸術顧問のような人々。日本の水墨画に大きな影響をおよぼした牧谿、玉澗らの作品も合わせて展示。

『四季鳥花図屏風』 能阿弥 (1469)
四曲一双の作品。おしどり、山じゃく、鳩など様々な野鳥が描かれているが、大きく開けた空に飛翔する鷺のフォルムが何と言ってもかっこいい。大きく広げた白い羽、下を見下ろす首の角度、風に乗ってしなやかに伸びる足の重なり具合。惚れ惚れする。

『腹さすり布袋図』 相阿弥 (室町時代)
はだけた着物から突き出すお腹を左手でさすりながら、独特の笑顔を見せる布袋。大きく開けた口元には細かい歯が並んでいる。目つきが鋭くて、何だかワルそうな顔だが。。。 頭の曲線を描くとき、よく手が震えないものだ。右から左に引いているように見えるけど、この人左利き?息を止めて一気に描くんだろうか、と不器用な私はついつい感嘆してしまう。




第三章 初期狩野派と長谷川等伯

日本の水墨表現が大きく飛躍するのは桃山時代。16世紀になると狩野正信・元信父子の登場により室町水墨画の幕開け。狩野永徳による桃山の金地濃彩画なども誕生するが、長谷川等伯により日本独特の水墨画が確立する。

『鳥花図屏風』 元信印 (室町~桃山時代)
急に画面がまろやかな感じになった印象を受けた。筆の荒々しい動き、簡素性が消え、一言でいえばとても丁寧な画風になっている。鳥の体など面的に均一的な彩色がされ、はみ出し感がない。滝や波紋も形式的だし、絵全体が造形的。

『竹虎図屏風』 長谷川等伯 (桃山時代) 
長谷川等伯といえば私でも幽玄な竹林が浮かぶが、今回は虎の作品。チラシに使われている屏風画である。右隻にいる雄の虎が、左隻にいる雌の虎に求愛をしているところ、と説明を読むまで、そんな場面とは思いも寄らなかった。そう言われて屏風を観ると、身を伏せ気味にして雌の虎を見つめる右の雄虎は思いつめているようにも観えるし、そんな必死な相手に、この、口を半開きにして後ろ足で頭をかきむしっている雌の虎は、「しょうがないわね~、そんなにまで言うならつき合ってあげましょうか?」とでも言わんばかりである。もしくは全く相手にしていないのか。虎の体に走る線が闊達。尚、同じ長谷川等伯による『竹鶴図屏風』も並んで展示されていた。

第四章 新しい個性の開花―近世から近代へ

戦国時代に入ると、それまで禅僧、幕府の御用絵師のみが描いていた墨絵に地方武士、在野の画家が出てきて、水墨画の需要も広がる。江戸時代には狩野探幽が現れ、個性的な画家、様々な表現が生まれて、琳派、文人画へと広がっていく。近代に入ると、富岡鉄斎らが出てくる。

『鍾離権図』 俵屋宗達 (江戸時代)
柔らかい線で表現された、風にたなびく髪、ふさふさの顎鬚、芭蕉扇の装飾毛や、淡く繊細な色彩。観ていると心が穏やかになる作品。

『龍虎図』 伝 俵屋宗達 (江戸時代)
通常この画題では龍が虎を見下ろすのが定番だが、この作品では虎が龍を見下ろしている。龍は垂らしこみという技法で描かれており、私はそのにじみ具合を観ているうちに思わずお茶か何かの染みがついた書類を思い出す(宗達に失礼な、誠に貧相な発想だ)。隣の親子が虎を観て「虎には観えないな」と言っている。あれ、私と同じ意見か?と耳をそばだてていると、「猫だよね」と少年。いやー、私にはどうしても人間のオヤジさまに観えてしまう。虎を擬人化しているのかとさえ思った。

この章では他に、浦上玉堂、富岡鉄斎などの作品が並んでいたが、個人的には宮本武蔵『竹雀図』、尾形光琳『蹴鞠布袋図』、仙『狗子画賛』などが印象に残った。



一瞬のきらめき まぼろしの薩摩切子

2009-05-16 | アート鑑賞
サントリー美術館 2009年3月28日-5月17日



先週末に、気になっていたこの展覧会もあと1週間で閉会ということにハタと気づき、急いでサントリー美術館に向かった。明日までの開催ですが、間に合う方は是非行かれることをお薦めします。

構成は以下の通り:

1 憧れのカットグラス
2 薩摩切子の誕生、そして興隆
3 名士たちの薩摩切子
4 進化する薩摩切子
5 薩摩切子の行方

では、各章ごとにカタログの解説をかいつまみながら、160点に及ぶ展示作品の中から印象に残った作品を数例のみ挙げていく:

1 憧れのカットグラス
「薩摩藩のガラス製造は、第10代藩主島津斉興(なりあき)(1791-1859)によって開始される。19歳で家督を継いだ斉興は、増す一方の累積赤字を解消するために財政改革に取り組み、他の藩より優れていた薬種の事業を推し進める。56歳にして「中村製薬館」を開くが、薬品の強い酸に耐えうる器としてガラス器が必要となり、今度は「硝子製造竃(かま)」が創設された。こうして薩摩のガラス産業は薬瓶から出発。特筆すべきは、斉興がかねてからガラス器に強い関心を持っていて、イギリスやアイルランド製のガラス製品を入手していたことと、ガラス製造を始める上で江戸の硝子(びいどろ)師、四元亀次郎(よつもとかめじろう)を呼び寄せたことである」

ここでは、イギリス、アイルランド、ボヘミアのガラス製品や江戸切子など、薩摩切子に影響を与えた作品が並んでいた。確かにアイルランドに行くとガラスやクリスタル製品がお土産として売られているなぁ、などと久しぶりに彼の国を懐かしく思い出した。ボヘミア製品は、まるで中世の西洋のお城の砦を思わせる縁のザクザク感と色の配色がとても装飾的。ロートなどガラス製の実験器具なども並んでいたが、薬瓶から出発してこんなに美しい薩摩切子が生まれたという背景はおもしろい。

2 薩摩切子の誕生、そして興隆
「薩摩ガラスの製造は、息子斉彬(なりあきら)(1809-1858)の代に大きく飛躍。近代的洋式工場群「集成館」にて、大砲、銃、紡績業などとともにガラス製造も推し進められ、海外輸出も視野に入れた美術工芸品として急成長した。1851年、斉彬は前述の四元亀次郎に紅色ガラスの製造を命じる。数百回の試験ののち、日本で初めての深紅の色ガラスが薩摩に誕生、大評判に。1855年にガラス工場が設けられ、贅沢品から日用品まで製造されるようになり、事業は最盛期を迎える。造形、文様など西洋のガラス器を模したものも少なくない、東西の美の融合が特徴の薩摩切子だが、その最盛期は斉彬が藩主であったわずか7年半。1858年に斉彬が急死すると事業は縮小し、1863年に薩英戦争によって工場が破壊されると衰退の一途をたどる」

この章と次の3章は、薩摩切子の真髄とも思える作品群が並ぶ。次から次へと立ち現れる美しい作品たちに惚れぼれ。

#71 『薩摩切子 緑青色被蓋物 1合』 (19世紀中頃)
一瞬にして私の心を奪った作品。この緑青は江戸時代の吹きガラス作品にしばしば見られるそうだが、薩摩切子においては珍しく、数点を確認するのみとのこと。いずれにせよ、この色合い、フォルムは何とも言えず完璧である。展示作品中、どれでも好きなのを一品あげると言われたら、私は躊躇なくこれを頂きたい。



#76 『薩摩切子 藍色被瓶 1口』 (19世紀中頃)
画像ではわかりにくいかもしれないが、透明部分から透けて見える反対側のカットが、光の屈折で実際の大きさよりかなり細かく映る。まるで内側に別の文様があるのかと錯覚するほど。文字で書くとたいしたことないが、実際に観ると幻惑的。



#91 『薩摩切子 紅色被鉢 1口』 (19世紀中頃)
この、斜格子の中に魚子(ななこ)文を配した模様は、薩摩切子の作品に頻繁に使われている代表的な文様。英語では「ストロベリー・ダイヤモンド・カット」と呼ぶそうである。確かにこのような赤い作品を観ると、苺の表面のようである。



#97 『薩摩切子 紅色被皿』 3枚
数百回の実験ののち、薩摩藩が初めて成功した紅色ガラスを使った作品。深い紅色もさることながら、「ぼかし」のグラデーションは独特。



#99 『薩摩切子 藍色被船形鉢 1口』 (19世紀中頃)
吉祥文「蝙蝠(こうもり)」と「巴」文が彫られた船形鉢。凝った意匠。



3 名士たちの薩摩切子
「藩を代表する美術工芸品として製造された薩摩切子は、将軍家、諸大名への献上品として用いられることも多かった。斉彬の功業を明らかにするために企画された「薩摩切子陳列会」(1921年10月23日、於 東京の島津邸)には、当時薩摩切子と認定された128点が並ぶ。その多くが、侯爵、伯爵、子爵など上流階級の名士の所有だった」

やはり献上品というだけあって、一つ一つの作品にとても時間がかかっているのがわかる凝った作りの展示品が並ぶ。画像は取り込めなかったが、#112の雛道具一式には目を見張った。沢山の杯、丸皿、角皿、瓶などミニチュアの薩摩切子がずらりと並んでいて、しかも全てに繊細な手彫りのカットが施されている。おそらく篤姫所用、とのことだが、この職人技は凄いとしか言いようがない。

#105 『薩摩切子 脚付杯 1口』 (19世紀中頃)
徳川宗家に伝わる無色の脚付杯で、この作品を筆頭に#111までそれぞれカットの異なる計7個が並ぶ。無色というのも、涼やかでいいものである。その日の気分で杯を選び、冷酒を飲んだらさぞや美味しいだろう。



#120 『薩摩切子 緑色被栓付瓶 1合』 (19世紀中頃)
今度は緑色。類例は少ないそうだ。カットも彩色もどちらかというとさっぱりしていて、この色に合っているように思う。



4 進化する薩摩切子
「制作後期になると、色彩、カット、ヴァリエーションも多様になり、一層モダンなデザインへ。その一方、薩摩と交流のあるガラス職人が呼ばれて他の場所で薩摩風の作品を作るなど、現在薩摩切子と称される器の中に「集成館」以外の場所で作られたものが含まれている可能性も否定できない」

全体的にデザインも洗練されてきて、カットも色々な文様を組み合わせた複合技が主流になってくる。現代っぽい感覚を覚えた。

#126 『薩摩切子 紫色被ちろり』 1口 (19世紀後半)
「ちろり」とは、もともと湯に入れて酒を温める器具で金属製であるが、ガラス製のちろりは冷酒用に作られた、という説明を読む前に、観た瞬間に「ああ、これで冷酒をちろりといきたい」と思った私だった。



#131 『薩摩切子 黄色碗 5口』 (19世紀後半)
ちょっと黒っぽいが、黄色が新鮮。



5 薩摩切子の行方
「1863年、薩英戦争でのイギリス艦による砲撃でガラス工場は灰燼に帰した。文献によれば、集成館事業自体は再興されるもガラス製造は再開されなかった。しかし、1866年に鹿児島を訪れたイギリス人外交官、アーネスト・サトウや、公使パークスも、ガラス器製造の現場を目撃したと記しており、幕引きの時期については断定は難しい。いずれにせよ、薩英戦争以後に事業縮小となり、職人も離散」

ここでは、"薩摩系切子"とつく19世紀から20世紀にかけて作られた作品が並ぶ。紅色の作品の下に映る薄赤い影が幻影的で、ドラマティックな薩摩切子の生涯を思わせた。

最後に余談ではあるが、第三章にて展示されていた、イギリスのブリストル産の壺について書いておきたい。

     上下とも、『藍色金彩蓋付壺 1合』 イギリス ブリストル (19世紀)


薩摩硝子陳列会に薩摩切子として紛れて出陳されていたそうだ。実は私はブリストルに8か月滞在したことがあり、第二章で展示されていた、全面藍色の作品群を観ているうちにそれとなくブリストルを思い出していた。よって、第三章でこの2作品に対面したときは思わず顔がほころんだ。ブリストルはこの藍色(ブリストル・ブルー)のガラス製品で有名で、古いものは博物館などにも展示されているが、私はブリストル・クリームという甘いシェリー酒の入った現役のボトルとして親しみを持つ。

締めに、そのブリストル・クリームの思い出を一つ。ある晩、ヨーロッパの様々な国から来た同居人たちとカード・ゲームをしていて、負けるごとに罰ゲームとしてこのブリストル・クリームを小さなコップに1杯ずつ飲むこととし、10杯までいったらその人の負けというルールを設定した。私は負け続け(ただでさえノロマな私がラテン民族にかなうわけがない)、9杯まで飲み干したのだが、最後の最後にイタリア人が負けた。というわけで、どうも最後までお酒に紐づく薩摩切子展であった。

館山の浜辺に遊ぶ

2009-05-09 | その他
今年のゴールデン・ウィークの、とある晴天の一日。東京駅を朝7時半に出発するさざなみ3号に飛び乗って、友人と千葉の館山に遊びに行った。

去年行った神奈川の荒崎海岸では、足を一歩前に踏み出すごとにザザザーッと大移動する巨大なフナムシの大群に卒倒しそうになったが(夢に出てこないよう必死に祈りながら岩場を進んだ。しばらく経って忘れた頃にまんまと出てきてうなされた)、館山ではどこまでも続く砂浜の散歩が非常に快適で、気分爽快。いいもんだ、海というのは。

背の低い松林を抜けてこんな光景が眼の前に開けると、胸が高鳴る。海の色がきれい。モネみたいだ。

     


砂から直接生えている草。強い海風に身を任せ、しなやかに根を張る。高山辰男の「砂丘」がなんとなく。

   


砂に足を捕られながら丘を登っていくと、眼下の浜辺に一本の大きな流木。生命活動を終え、カサカサに乾いて。ワイエスの無常の世界。

   


モネ、と思った美しい海の打ち寄せる波はしかし、思いのほか荒く激しく。じっと見詰めていると、時の止まる一瞬がある。クールベの波への執着、執念を想う。

    


数キロ歩いただろうか。爽やかな潮風を浴び、波の音を聴きながら、浜辺ではたくさん貝殻を拾った。夢中になりすぎて、顔を上げると友人ははるか前方に小さく。

ああ、ヴィーナス誕生。シュワシュワと泡立つ波の音の幻聴。やっぱりボッティチェッリの作品が真っ先に浮かぶ。

    


巻貝は見つからなかったけど、この日拾った貝殻たち。早くまたコールテの貝殻に会いに行かなくちゃ。西美の展示室に、ひっそりと掛かるあの小さな絵に。フランスに帰ってしまう前に。


    

(写真右)アドリアーン・コールテ(1665頃-1707以降)作 『5つの貝殻』(1696)
「ルーヴル美術館展―17世紀ヨーロッパ絵画」(国立西洋美術館)にて2009年6月14日まで開催中


日本の美術館名品展 その2

2009-05-06 | アート鑑賞
東京都美術館 2009年4月25日-7月5日

最初に入手したチラシは、片面がフジタ、もう片面がカンディンスキー

日本の美術館名品展の公式ホームページはこちら

出品目録こちら

☆美術館連絡協議会に加盟している美術館(現在124館)の一覧はこちら

その1からの続きです。2.日本近・現代洋画3.日本画、版画の2部門にて印象に残った作品:

2.日本近・現代洋画

山本芳翠 『裸婦』(1880) 岐阜県美術館
ちょうどその日の朝の「日曜美術館」でアングル特集をやっていたので、どうしてもアングルやブグローの裸婦像を想起してしまった。西洋人の肌にはよく緑や緑がかったグレーの陰影がつけられるが、油絵の先生に「あれは血管なんですよ」と教えられ、なるほどと思った。この絵でも西洋人女性の白い肌がとても滑らかに美しく表現され、うっとり。こういう作品を観ると、新古典主義も悪くないと思ってしまう。

浅井忠 『グレーの柳』(1901) 京都市美術館
実は初秋の風景なのだが、立ち並ぶ柳(しだれ柳ではない。名前がわからないが)の葉の、輝く緑のグラデーションがとにかく美しい。グレーはフランスのフォンテーヌブロー近くの小村で、浅井は2年間のヨーロッパ滞在中、度々訪れたそうだ。さぞや気持ちよく筆が動いたことだろう。絵からすがすがしい空気が漂ってくる。

藤田嗣治 『アントワープ港の眺め』(1923) 島根県立石見美術館
これは単純に珍しかった。170x224cmもある大きな風景画。と言っても写生したわけではなく、藤田が大量に買い込んだ資料を元に描いたアントワープ港の17世紀の景色だそうだ。アントワープの銀行家から受注した作品とのこと。防波堤や建物の白っぽい石壁の質感が、彼の描く人物像の肌の陰影と同じ描き方なのでおもしろい。

岡鹿之助 『遊蝶花』(1951) 下関市立美術館
はっとするほど美しい絵だった。雪をかぶった教会や塀などが見える雪景色を背景に、緑青色の花瓶にふんだんに挿された色とりどりのパンジーが右手前に大きく描かれている。柔らかい点描の筆遣い、色彩に独特の味わい。雪と華々しい花の組み合わせは非現実的だが、まるで白昼夢を見ているような心持にさせられた。

靉光 『蝶』(1941) 広島市現代美術館
オリーヴ色のグラデーションのような渋い色彩の背景の中、画面中央にねじれて伸びる木の枝にとまる2匹の蝶。アゲハ蝶の羽の白黒の模様だけがくっきりと浮かび上がる。この苔むしたような絵の何かが私の心を引きずりこむ。

国吉康雄 『祭りは終わった』(1947) 岡山県立美術館
一瞬、あらこの馬どうしたの!と思った。どこか上方から落ちてきたかのように、背中を真下に馬が地面に落下する瞬間に観えたから。しかしよく観るとこれはメリーゴーランドの木馬で、胴を貫通する手すりの棒が地面に刺さり、体が宙に浮いている図だった。「祭りは終わった。戦争は終わった。新しい世界を待ち望んだけれど、何もやっては来なかった」とは画家の言葉。あまりに寂寞とした言葉だが、もしこの画家が今に生きていたとしても、同じような絵を描いていたのではないかと思ってしまうのは残念なことである。

牛島憲之 『邨』(1947) 府中市美術館
淡いパステル調の色彩で、藁葺き屋根の連なりを描いた作品。黄味や赤身がかったベージュ色と、陰影の若草色が柔らかく調和している。屋根の形も含め直線は見当たらず、すべてがほんわりとした世界。府中市美術館には何度か足を運んだことがあり、牛島憲之記念館には牛島の生前のアトリエがそのまま再現されていたのを思い出した。画材、イーゼルや座布団などを観ていると画家の息遣いが聞こえてきそうで、そこに画家の魂が宿っているような思いに駆られた。作品のみならずこのような形で画業を記録にとどめてもらえる画家は幸せだと思う。

山口薫 『花子誕生』(1951) 群馬県立近代美術館
母牛の大きな体躯のダイナミックな表現と、その横で生まれたばかりの子牛花子がふらつきながら初めて大地を踏みしめる様子の対比が見事。母牛が花子の体をなめる様子も微笑ましい。複数の色が混ざった微妙な色調で描かれた牛の体と、背景の朱色の調和にも見惚れる。

3.日本画、版画

狩野芳崖 『伏龍羅漢図』(1885) 福井県立美術館
羅漢の顔の表情も印象的だが、彼の膝の上で口を開けてスヤスヤと眠るこんな可愛い龍は観たことがない。強弱の効いた見事な線描にも見ほれるが、背景から浮き立つような羅漢の存在感がすごいと思った。

菱田春草 『夕の森』(1904) 飯田市美術博物館
なんだろう、この胸を締めつけられるような感覚。靄がかかったようにぼんやりと朦朧体で描かれた大きな森。その森の上をうっすらと淡い黄色に染める日の名残り。それを背後に空高く舞う鳥の群れは、森とは対照的に一羽一羽がくっきりと明確な線で描き込まれている。それらはとても小さいのに、飛ぶ姿、群れの様子がこれ以上にないというくらい完璧に映る。この鳥たちが森へ帰ってしまったあとの、しんとした森を想像するから寂しくなってしまうのだろうか?

高山辰男 『食べる』(1973) 大分県立芸術会館
今回の鑑賞でもっとも胸ぐらをつかまれた作品。「生きる」ことの根源をドンと目の前に突きつけられたような気がした。柔らかい暗色も配された朱色で塗りつぶされた背景の中央に、小さなテーブルとそれに向かう小さな子供が浮かびあがる。テーブルの上には飲み物の入ったコップが一つと、ご飯茶わんのような器が一つ。その器を自分の方に引き寄せ、子供は正座した腰を浮き立たせて一心不乱に器の食べ物をかき込んでいる。子供の描写は簡略化されており、まるで影絵のようで顔の表情もわからない。だからよけいにその動作が力強く迫ってくる。生きるのだ、食べるのだ、と。

三橋節子 『余呉の天女』(1975) 京都府立総合資料館(京都府京都文化博物館管理)
三橋の生涯、画業については以前「新日曜美術館」(現「日曜美術館」)での特集で観て感銘を受けたことがあり、いつか実作品を拝見したいと思っていたが、本展がその機会を与えてくれた。この画家は、30代前半で腫瘍のため利き腕である右腕を切断するという画家生命を脅かす不幸に見舞われる。それでも不屈の精神で残った左手で絵を描き続けたが(確か左手で描いた第1作目を、旦那様が「右腕よりいいじゃないか」と褒めたと聞く)、病には勝てず、本作品は35歳で夭折する三橋の絶筆となった。主題は、滋賀県の湖に伝わる羽衣天女伝説。左上に描かれた天女が見下ろす、天女が後ろ髪を引かれる想いで地上に残していく子供の面影が自分の3歳の姪にも重なり、三橋の画家、母としての無念を想い、涙が出た。

恩地孝四郎 『『氷島』の著者 萩原朔太郎像』(1943) 千葉市美術館
「竹、竹、竹が生え」の萩原朔太郎の木版画。教科書の写真でもかっこいい人だと思ったが、この髪が乱れ、シワシワのやつれ顔も絵になるといったら無礼だろうか。

橋本平八 『猫A』(1922) 三重県立美術館
お座りの姿勢で左を振りむいている猫の木彫作品。リアリズムを追求した造形で、猫の丸みのある体が柔らかい鑿の跡を残しながら形作られている。その一彫り一彫りがまるで油絵の筆触のようにも観えた。

キリがないので作品の感想はこのくらいにしておくとして、最後にご紹介したいのはハンディ・サイズの「美連協加盟館ガイドブック」。カタログとは別に300円で販売されている。美連協に加盟する124館すべてを網羅しており、各館のコレクションの紹介と共に代表1作品とアクセス・マップもカラーで載っていて、非常に見やすい。単体では有料だが、カタログを購入すれば付録としてついてくる。

以上であるが、まだ文字数に余裕があるので、締めくくりとしてその他諸々の雑感。この展覧会について思ったことを少し残しておこうと思う。

まず展覧会名とチラシ。ブロガーの皆さんからも意見が出ていたが、「日本の美術館名品展」という名称は(それに落ち着くまで紆余曲折あった旨お伺いしたが)正直なところどうしても"昭和の匂い"がして、アピール度が今一つ弱いという感がぬぐえない気がする。Museum Islandsという文字もあまり目立っていないのではないだろうか。ついでにチラシになぜ藤田嗣治の作品が選ばれたのかもお伺いしたかった。名品の一つに違いないが、一鑑賞者の意見としては、この数年に2度の大規模な回顧展が開かれている藤田の作品は、宣伝のインパクトとしてはやや疲弊感があるように思われる。

例えば、2006年に東京国立近代美術館で開かれた「モダン・パラダイス」展。岡山県にある大原美術館と、東京の近美の所蔵作品が100点以上集められ、"東西名画の饗宴"と謳われた展覧会であった。これも観方が難しい展示内容ではあったが、その名称はインパクトがあり、チラシにも複数の作品が散りばめられていて出展作品の多様性を印象づけられた。今回チラシだけでも各分野から選んだ複数の作品をコラージュのように使ったらよかったのでは?とは素人の考えかもしれないが。

もう一つ思い出すのは、去年釧路に観光で行った際に立ち寄った釧路芸術館の企画展。このとても立派な美術館では、その時地元ご出身の写真家の展覧会が開催中で、個人的には鑑賞して得るものがあったが、いかんせん鑑賞者の姿がなく、本当に閑散としていたのを寂しく思った。しかしながら、日曜日に飲食店が閉まっていたり、夜になるとあまり人気がないなど東京の生活に慣れ親しんだ者には驚くような光景を目の当たりにし、美術館以前の問題のような気もした。これは当然ながら釧路だけの話ではないと思うし、今後ますます美術館同士の多角的な共存体制が必要になってくるのではないかと思ったりもした。

バブル崩壊後は美術館の予算も削られて、作品の購入はおろか運営自体もなかなか厳しいという話を耳にするようになって久しい。そこへきてこの未曾有の経済不況。しばらく厳しい時代が続くと思われるが、「今回集められた作品は氷山の一角であり、美術館側としても今後第二弾、三弾と続けられれば」という学芸員さんの言葉が実現するよう、お祈りしている。ちなみに先に挙げた釧路芸術館から後期に出展される『彩雲』(岩橋英遠)は、私が最も楽しみにしている作品のひとつである。

月岡芳年名品展―新撰東錦絵と竪二枚続―

2009-05-04 | アート鑑賞
平木浮世絵美術館 UKIYO-e TOKYO 2009年4月4日-4月29日

閉会間際にたまたまチケットを頂き、「月岡芳年」がどんな浮世絵師なのかもよく知らないまま、いそいそと最終日に観に行った。豊洲にあるこの美術館も行くのは今回が初めて。

展示室のパネルの説明によると、月岡芳年(1839-1892)は明治浮世絵界をリードした浮世絵師。12歳で歌川国芳の門人となり、役者絵、美人画、稗史画(はいしが。稗史とは、民間のこまごまとしたことを記録した小説風の歴史)、戦争絵などに加え、明治に入ると新聞の挿絵も手がけた。1885年から89年にかけては「新撰東錦絵」「竪二枚組」シリーズに取り組み、本展はそのシリーズの作品群の展示。前者は横に2枚続けて一つの画面としたもので、歌舞伎や漫談の題材に加え時事報道的な内容を取り入れてある。後者は縦に2枚続けたもので、江戸時代の浮世絵作品の題材を明治の近代的な感覚で表現。鏑木清方は、前者を「大衆小説に匹敵する世界」、後者を「通俗的な歴史画の世界」と評しているとのこと。

横や縦に紙を2枚つなぎ合わせる手法というのも初めて知ったし(のちに調べたら3枚続きもあった)、芳年は「江戸の錦絵の良さを大切にし、受け継いでいこうとした」とあるので、正統的な浮世絵師を想像した。ところが展示室で目の前に展開するのは色恋沙汰、愛憎関係、怨恨のもつれ、猟奇的な事件の数々。今で言う三面記事やゴシップ誌が騒ぐようなエピソードのオンパレードである。確かに色彩は鮮やかできれいだし、横長、縦長の画面を存分に活用した構図も巧み。登場人物の動きはまるでバロック絵画のような躍動感に溢れている。ただしその躍動感が発揮されるのは、切りつけられてひっくり返る人であったり、喧嘩で暴れる人であったり。いろんな浮世絵師がいるものである。

以下、印象に残った作品:

「新撰東錦絵」シリーズ

『佐野次郎左衛門の話』
展示室に入って1枚目の絵がこれ。いきなり殺人の修羅場である。大きな行灯を顔の位置に掲げ持ち、長い刀を手に女郎に詰め寄る男。男の突然の登場に成す術もなくひっくり返る女郎。倒れるときに彼女の乱れた胸元から飛び出したのだろう、画面一杯に舞い散る懐紙。動きの激しさはまさにバロック絵画のようだ。よく観ると男の顔にうす赤い点々があって、一瞬返り血かと思ったら痘痕(あばた)とのこと。確かに女郎はまだ血を見せていない。行灯の横にのぞく男の顔は笑みさえ浮かべ、明らかに正気を失っているその表情は映画「シャイニング」のジャック・ニコルソンのよう。この後のことは余り想像したくない。

『長庵札ノ辻ニテ弟を殺害之圖』
極悪非道の医者のエピソード。姪の貯めたお金を横領しながらそれを患者のせいにして獄死させ、この絵はその姪の父である義理の弟重兵衛に手をかけているところ。雨の中、逃げる隙もなく突然刀で頭に切りつけられ、被っていた笠は真っ二つ。顔面には太い血の筋が額から首の方まで流れ、自分の胸ぐらを掴む重兵衛の断末魔の絶叫が聞こえてきそうだ。この医者は結局、妹、姪にも手を下す。こんな酷い人間(しかも人の命を救う医者のくせに)、あり得ない。

『鬼神於松四郎三朗を害す圖』
女賊とも知らず、旅の途中で知り合ったが運の尽き。親切な四郎三郎は、旅の道すがらおそらく知り合って間もないお松を背負い、河を渡っている。と、突然短剣を背後で振りかざし、四郎三郎に切りかかろうとするお松。気配に気付いて驚愕の形相で振り向かんとする四郎三郎だが、そのまま河の中で命を落としたに違いない。横を飛ぶ2羽の鳥も、ことの次第に驚いた様子。こわい。

『佐倉宗吾之話』
重税に苦しむ農民の苦しい話。これは、主人公佐倉宗吾が意を決してお上に窮状を訴えに行こうと家を出るシーン。継ぎはぎだらけの障子が開けられており、外は雪が降っている。積もった雪が今にも屋根から落ちてきそうだ。部屋の中の行灯もボロボロ、土壁も崩れて中の木組みが見えている。妻は乳飲み子を抱いて床に突っ伏し、二人の子供は自分も連れて行けと父にすがりつく。佐倉はとてもハンサムで、その行動からとても誠実な人柄だったことが伺える。よき夫、父だったはずなのに、結局この佐倉の行動によって、本人も家族も皆処刑されてしまう。なんて惨めで暗い話なんだろう。

『一休地獄太夫之話』
お正月をさらに華やいだ雰囲気にする艶やかな花魁が、付き人を従えしゃなりしゃなりと歩いているところへ一休さん現る。「門松は冥途の旅の一里塚。めでたくいはう人のおろかさ」と唱え、髑髏を先に引っ掛けた竹の棒を笑いながら花魁の面前にかざす。少し後ろに体を傾け、明らかに引いている花魁や当惑顔のお付き人。中央の背景に描かれた松も黒々と不吉である。メメント・モリかいな、と思いつつ、一休の大口を開けて笑う愉快そうな笑顔はイタズラ小僧のようでもある。

『神明相撲闘争之圖』
町火消しの一団と江戸相撲の力士との乱闘場面。「め組」の火消したちは揃いの法被を着て、裾からは刺青の入った腿がちらりと見えたりもするが、いかんせんその華奢な体では何人かかっても巨大な体躯の力士に太刀打ちできるとは思えない。肩からふくらはぎに到るまで力士の波打つ筋肉の表現がちょっと気持ち悪いが、長い竹製のハシゴを振り上げる力士は迫力満点。

『大久保彦左衛門盥登城之圖』
老中以下(だったと思うのだがここはちょっとメモを忘れ、自信なし)は籠に乗ってはいけない、というお達しに反駁して、いわばそのプロテストとして盥(たらい)に乗ってそれを担がせ、城へ向かう大久保彦左衛門。皺の刻まれたその顔はいかにも頑固そうだ。秀忠はそれに折れて、地位いかんに関わらず、50歳以上は籠に乗ってもよいとしたという。お付の侍が、一人だけ長靴のようなものを履いていたのが気になった。

「竪二枚組」シリーズ

『田舎源氏』
一つの簾に男女がくるまり、雨を避けながら道を急ぐ図。今で言う相合傘。胴体に巻いているので歩きにくそうだという突っ込みはさておき、他の作品が作品なだけに、微笑ましい図。

『奥州安達がはらひとつ家の圖』
これはまた残虐なシーン。環の宮の病気治癒のために胎児の生き血が必要(この発想自体が猟奇的)ということで、老女岩手は臨月も近いと思われる女性を逆さ吊りにしている。しかもそれが自分の実の娘であることを岩手は知らない。足から吊るされた女性は赤襦袢をはいているが、上半身は何もつけず大きなお腹も露で、とにかく残酷。同じく上半身露な老女の体はあばら骨が浮き出し、肌も茶色で山姥のごとし。発禁になったというが、そりゃなるわ。妊婦は観てはいけない作品。

『松竹梅湯嶋掛額』
有名な八百屋お七の、クライマックス・シーン。足元に見える町にはメラメラと立ち上る炎。それを眼下に長いはしごを上るお七の着物の裾は強風にめくれあがる。これも縦長の画面を有効に使った、臨場感溢れる作品。

鯉にまたがり、川を下る金太郎の疾走間溢れる『金太郎捕鯉魚』や、馬のお尻から描いたアングルや空を蛇行して舞い上がる鳥の連帯が印象的な『一ノ谷合戦』など、竪二枚組シリーズの方が絵としては美しいものが多かったが、いかんせんインパクトという意味で 「新撰東錦絵」の作品の感想が多くなってしまった。なんだかんだ言って魅了されたということでしょうね。

日本の美術館名品展 その1

2009-05-03 | アート鑑賞
東京都美術館 2009年4月25日-7月5日



ゴールデン・ウィークも真っただ中、上野の山も大型の展覧会が目白押しで大変なことになっている。その中で私の一押しは東京都美術館で開催中の「美連協25周年記念 日本の美術館名品展 」。日本全国にある100の公立美術館のコレクションから、洋の東西を問わず近代美術作品の名品220点が集められた、壮大な展覧会である。

私自身、美術館に行くことのみが目的で関東圏を出たことがない人間であるし、都内・近郊で開催される主だった展覧会だけでも会期中に全て観るのはなかなか大変。ましてや日本全国に散らばる名品を見尽くすなんて、一般の鑑賞者にはなかなか出来ることではない。いや、それ以前に我が日本のどこにどのような作品があるのかを多少なりとも把握できる、良い機会となりそうである。始まって10日も経っていないので、大混雑必至の他の展覧会に比べればまだ余裕を持って鑑賞できると思われる。せっかくのお休みに人の波に揉まれたりせず、ゆったりとした気持ちでこんな豪華な展覧会を観ることができるのはまことに贅沢。

ではまず、本展の趣旨をオフィシャル.サイトから引用:

全国の公立美術館100館が参加し、その膨大なコレクションの頂点をなす、選りすぐりの名品を一堂に公開します。本展は、公立美術館のネットワーク組織である美術館連絡協議会の創立25周年を記念して開催するもので、教科書に載っている作品から、これまで美術館を出たことがない作品まで、西洋絵画50点、日本近・現代洋画70点、日本画50点、版画・彫刻50点の220点により、日本のコレクションのひとつの到達点をお見せします。

☆出品目録はこちらをクリック

☆美術館連絡協議会に加盟している美術館(現在124館)の一覧はこちらをクリック

この220点は、東京都美術館の学芸員さんたちが手分けして現地に赴き、所蔵先の美術館と丁寧に交渉を重ね、ただの作品の陳列にならないよう配慮して収集した多様な作品群。「日本の美術館」にある「名品」という、考えてみれば捉えどころのない括りでどのような展示構成になるのだろう?と気になっていたが、結果的に19世紀から20世紀の近代美術を辿るコンセプトのもと、「西洋絵画、彫刻」「日本近・現代洋画、日本画、版画、彫刻」の2分野で大枠を作り、1階は「西洋絵画」、2階は「日本近・現代洋画」、3階は「日本画、版画」とフロアー単位の間仕切りの非常に見やすいものとなっていた。観終わった後、皆で「1階では○○がよかった」「3階では○○が印象に残った」と言えるような展示である。彫刻作品も各フロアーに程よい間隔で並べられ、展示のよいアクセントとなってリズミカルな鑑賞の場を生み出していた。

とはいえ、さすがに220点全てを一度に並べられないので、前期・後期で展示替えをし(約40点ほどが入れ替わる模様)、バランスを取っているとのこと。大方の人気作品は通しで展示されているが、展示期間に関しては出品目録に明示されているので、もし気になる作品があるようであれば事前に参照した方がいいかもしれない。また、展示室がやや暗めになっているのは、照明も万全を期して所蔵先から指定を受けた照度よりも少し落としているためだそうだ。

もう1点の見どころは、各展示作品につけられたキャプション。通常はカタログの作品解説の概要であることが多いが、今回は所蔵先の担当者の書き下ろしによる、作品のみならず美術館のアピールをしたものも多く見られる。例えば広島県立美術館は「西洋美術に関しては、他館にない作家の作品収集に努めている」とあり、確かに出展作品を描いたフランシス・ピカビアは初めて知る画家であったし、この美術館に興味を持たされもした。また、ジョアン・ミロの作品を出展した福岡市美術館は、その作品がこの美術館によって購入が決まった時のエピソードとして、その報に際し「絵が美術館のものになったということは、つまり、みんなのものになったということです」というミロの一言を紹介。本展の趣旨にも沿った、示唆的な言葉として印象に残った。

では、ざっと個人的に印象に残った作品を挙げていく:

1.西洋画

サー・エドワード・コリー・バーン=ジョーンズ 『フローラ』 (1868-84) 郡山市立美術館



ラファエル前派、ヴィクトリア朝絵画好きには東京で出会えて嬉しいバーン=ジョーンズの佳品。かく言う私も絵の前に立ったとき、思わず笑みがこぼれた。フローラの手から撒かれる植物の種は金粉のようで、彼女が歩くそばから足元に次々と花が咲き出す。ゆるい螺旋のように宙にはためくフローラのショールは春風を感じさせる。ちなみにこの作品を所蔵する郡山市立美術館はイギリス絵画のコレクションが充実していて、今回改めてサイトを拝見したらレイノルズ、ターナーからホガース、ノリッジ派のコットマンまで所蔵する充実ぶり。

ジャン=フランソワ・ミレー 『ポーリーヌ・V・オノの肖像』 (1841-42頃) 山梨県立美術館蔵



日本でミレーといえばこの美術館であるが、同館の人気投票で3位という本作品が出展。ミレーの最初の妻の肖像画で、彼女は結婚3年後に22歳の若さで世を去ったそうだ。整えられた艶やかな黒い髪やまだ少女の面影を残す面持ちが、静謐な雰囲気の中写実的に描かれている。それにしてもやっぱり1位と2位を観に山梨に行かなきゃダメなのね。

ジョヴァンニ・セガンティーニ 『夫人像』(1883-84頃) ふくやま美術館
セガンティーニというとあの点描風の筆致が思い浮かぶが、若い頃はこのような、ホイッスラーを彷彿とさせる肖像画を描いていたことを知った。

ピエール・ボナール 『アンドレ・ボナール嬢の肖像 画家の妹』(1890年) 愛媛県美術館



カタログの表紙に使われている作品。188x80cmの縦長の画面に、背景の森の緑に映える赤いロング・スカートが印象的な画家の妹の全身像が描かれている。彼女が手にするバスケットには梨だろうか、緑色の果物が入っており、足元には彼女と森へ行くのが嬉しくてたまらないといった風の2匹の犬が弾むように歩いている。本展のあと、画家の回顧展が開かれる南仏のロデーヴ美術館へ貸し出されるとのこと。

エゴン・シーレ 『カール・グリュンヴァルトの肖像』(1917年) 豊田市美術館



彼の作風があまり得意ではない私には、普通に良い絵だと鑑賞できるシーレの肖像画。濃紺を背景に、椅子に座る白シャツ姿の男性が浮かび上がる。色彩のゴツゴツ感(マチエールではない)はまさしくシーレ。本作品は、28歳で夭折したこの画家の日本にある唯一の油彩画だそうである。

モィーズ・キスリング 『オランダの娘』(1928年) 北海道立近代美術館
上瞼がやや落ち気味の大きな青い瞳が独特の目力で鑑賞者を吸引する。チューブの丸い口から絞り出した白い絵の具を、直接キャンバスの上に点々と置いていくキスリング独特の手法で、娘の羽織るレースの質感が立体的に表現されている。

サルバドール・ダリ 『パッラーディオのタリア柱廊』(1937-38) 三重県立美術館
ダリというと筆跡を余り残さない滑らかな絵肌を思い浮かべるが、これは油絵の具を早い筆致でラフに載せている興味深い作品。

フランソワ・ポンポン 『シロクマ』(1923-33) 群馬県立館林美術館
白大理石で歩行中のシロクマを掘り上げた彫刻作品。太い四肢を含め、まろやかな体のフォルムが可愛い。

以上、どちらかというと自分にとっての珍しさから印象に残った作品を挙げたまでで、実は他に良い作品がごまんとある。ルノワール、モネ、ピサロ、セザンヌ、ルソー、ユトリロ、シャガール、ピカソ、デルヴォー他。

長くなったので、2.日本近・現代洋画、3.日本画、版画はその2に続く。