l'esquisse

アート鑑賞の感想を中心に、日々思ったことをつらつらと。

カポディモンテ美術館展 ルネサンスからバロックまで

2010-07-12 | アート鑑賞
国立西洋美術館 2010年6月26日(土)-9月26日(日)

本展の公式サイトはこちら




A4サイズの二つ折りといっても、このように1枚の絵を縦にデザインしたチラシは珍しい。広げた瞬間ウキウキしてしまった方も多いのでは?

この絵を日本に送り出してくれたのはカポディモンテ美術館。この美術館が日本で紹介されるのは初めてとのことなので、まずはその概要についてサイトから転載しておきます(青字部分):



ナポリを見下ろす丘の上に建つカポディモンテ美術館(「カポディモンテ」とは「山の上」の意味)は、イタリア有数の美術館のひとつです。1738年にブルボン家のカルロ7世(後のスペイン王カルロス3世)によって建造が開始された宮殿が、そのまま美術館となっています。そもそもこの宮殿は、美術品を収納・展示することを目的のひとつとして建てられたものでした。というのもカルロは母エリザベッタ・ファルネーゼからファルネーゼ家の膨大な美術品コレクションを受け継いでいたからです。

コレクションが展示されるようになると、ナポリを訪れる文化人たちは競ってここを訪れるようになります。その中にはドイツの文豪ゲーテら、名だたる知識人、画家たちがいました。その後さまざまな変遷をたどった後、国立美術館として一般に公開されることとなりました。ファルネーゼ家およびブルボン家のコレクションを中核としながら、その後もコレクションの拡充を続け、現在の姿となっています。

本展では前半にファルネーゼ家が収集したルネッサンスからバロックまでの作品、後半はブルボン家が蒐集した17世紀のナポリ絵画を紹介。絵画、彫刻、工芸、素描と約80点の作品が並ぶ。

では、構成に従って印象に残った作品を挙げていきます:

Ⅰ イタリアのルネサンス・バロック美術

『貴婦人の肖像(アンテア)』 パルミジャニーノ (1535-37年)



暗緑色の背景の中、豪華な衣装を身にまとってすっと立つ麗人。解説にある通り、真正面ではなく、やや右肩を差し出すポーズを取っている。その右肩にかかる貂の毛皮は、口から小さくも鋭い牙をむき出していて、ギョッとする。

貴婦人、もしくは高級娼婦でパルミジャニーノの愛人アンテアであると言われているらしい。一度娼婦と聞くとそのインパクトが尾を引き、襟元から覗く胸元がやや淫蘼に感じてしまう。西洋のドレスによく見るように、四角、あるいは丸い形に襟が大きく開いて、胸が堂々と見えていたらそんなことは思わないだろうに、この着物のような襟元からチラリと見えるあたりが、日本人の私に必要以上にそう感じさせてしまうのかもしれない。

この作品を描いたパルミジャニーノは、その名の通りパルマ出身の、マニエリスムの画家。ファルネーゼ家は、1534年に一族のアレッサンドロ・ファルネーゼがパウルス3世としてローマ教皇に即位して以来、16世紀に大きく勢力を伸ばした。パルマ公国も支配したため、パルマ出身の画家の作品も多く蒐集されている。解説には、他にファルネーゼ家とつながりのある芸術家としてミケランジェロ、ティツィアーノ、グレコの名があった。

そういえば、数年前に3チャンで放映していた「世界美術館紀行」でカポディモンテ美術館が取り上げられ、コレクションの中から、ティツィアーノが描いた『パウルス3世と二人の孫(アレッサンドロとオクターヴィオ)』が紹介されていたのを思い出した。自分の息子を司教にしたいがために、パウルス3世の注文に応えてせっせと肖像画を描くティツィアーノと、なかなか約束を飲まないパウルス3世との駆け引きが非常に興味深かった。

『マグダラのマリア』 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ (1567年)



フィレンツェのピッティ美術館所蔵の作品と全く同じポーズを取るマグダラのマリア。裸体であるフィレンツェの作品と異なってこちらは着衣のマリアで、服の縞模様が印象的。香油をキリストの足に注いだことになっている彼女の持ち物、油壺が左端に見える(この画像では切れてしまっているが)。

作品のそばに「対宗教改革と美術」という解説パネルがあり、1563年のトレント公会議で美術の役割が明確になったとの説明があった。要するにカトリック信者の信仰心をかきたてるための美術作品を、ということだが、そのためヌードを描くことも難しくなってしまった。よって、1533年頃に描かれたピッティ美術館のマリアはヌードであったが、この作品ではティツィアーノは服を着せ、改悛を示す頭蓋骨や本も追加している。

『リナルドとアルミーダ』 アンニーバレ・カラッチ (1601‐02年)



16世紀末頃に書かれた、タッソーの叙事詩『解放されたエルサレム』からの場面。十字軍の騎士リナルドを殺そうとした魔女アルミーダであるが、リナルドの魅力にすっかり参ってしまい、魔法をかけて自分の恋人にしてしまう。

この作品は、ずばり視線のドラマ。大きな瞳が蠱惑的なアルミーダに抱かれたリナルドは、彼女の瞳に映る自分を見上げ、かつ自分が映り込んだ彼女の瞳をアルミーダ自身にも見せようと鏡を差し出している図(ややこしいが)。そして左側にそんな二人を見詰める二人の騎士の顔が。ちょっと唐突に顔が出ているようで笑ってしまったが、彼らはリナルドを救出に来た十字軍の仲間。でもなんだか救出に馳せ参じたというより、草むらに隠れていちゃつく恋人を覗き見ているような図に見えなくもない。

このあたりから、17世紀始めの30年間に制作された初期バロック作品が並ぶ。パルマ及びピアチェンツア公のオドアルド・ファルネーゼ枢機卿はアンニーバレ・カラッチを重用し、その弟子グイド・レーニらも庇護した。

『アタランテとヒッポメネス』 グイド・レーニ (1622年頃)



絵だけぱっと見ても、二人のダイナミックな動きが目に飛び込んでくるものの解説を読まないと何の場面かよくわからない。アタランテは美貌、俊足、男嫌いで有名な女神で、求婚者は願いを叶えるために彼女に駆け足で勝たなければならず、負けると殺されてしまう。挑戦者の一人ヒッポメネスは策を練り、愛の女神ヴィーナスからもらった三つのリンゴを競走中順次落としていく。アタランテもまんまとその作戦に引っ掛かり、この画中では2個目を拾っているところ。後ろに回したヒッポメネスの左手には3個目が握られていて、レース後半のここぞと言う時に投げられるのでしょう。しかし、このふくよかなお腹周りで疾駆するアタランテは迫力がありそうですね。

『ヘラクレスとエリュマントスのイノシシ』 ジャンボローニャ (16世紀第四四半世紀)

昔行ったフィレンツェのバルジェッロ美術館で、何の前知識もなくジャンボローニャの動物のブロンズ像群に対面した時は、「ブロンズでこんなに繊細に造れるのか」と驚いたものだった。小さい作品ながら、この展覧会で期せずして彼の作品にお目にかかれて嬉しい。本作品もイノシシの毛並や、ヘラクレスの手の甲の血管など、細やかな表現が美しい。

Ⅰ章の余談:ジョルジョ・ヴァザーリ『キリストの復活』(1545年)という作品があるが、不謹慎ながらキリストがゴールを決めて得意げに走っているサッカー選手に見えて仕方がなかった。W杯、終わっちゃったなぁ。。。 シャビなんて、バロック絵画にぴったりの顔だった。

Ⅱ 素描

この美術館には、約2500点もの素描作品が所蔵されているそうだ。Ⅰ章に展示されていた油彩画『聖母子とエジプトの聖マリア、アンティオキアの聖マルガリタ』の作者、ジョヴァンニ・ランフランコに関しては476点も収められているとのこと。

この類の作品は保管が難しい故、数百年の年月を経て残っているだけでも貴重であるし、グイド・レーニ、パルミジャニーノ、ポントルモらの素描が一度に観られたのは嬉しい限り。ポントルモ『正面から見た馬と二つの手の習作』(1522‐25年頃)では、馬の横の空白に人間の二つの握りこぶしが黒鉛筆でラフに描かれているが、画家の試行錯誤がリアルに伝わってくるようだった。

Ⅲ ナポリのバロック絵画

17世紀のナポリは港町として、スペイン、フランドル、オランダ、イギリス、ドイツなとど取引があり、それらの国の商館も建てられた。人々の流入も増え、世紀半ばには人口が45万人に達し、高層建築も出現。1692年には宗教建築が504もあったという。教会の注文をさばくべく、画家も大忙しだったことでしょう。というわけで、この章では宗教絵画がズラリと並ぶ。

『聖アガタ』 フランチェスコ・グアリーノ (1641‐45年)



17世紀当時のナポリはバロック美術の中心地の一つ、と聞いて反射的に思い出さなくてはならないのがカラヴァッジョ(勿論私は解説を読んでから膝を打つ)。この作品でも、主人公が暗い背景の中に光を当てられて浮かび上がり、その描き方にカラヴァッジョの影響を見なくてはならないのでしょうが、肌の青白さはどちらかというとレーニのそれに近い気もする。ちなみに聖アガタは、シシリア島のローマ総督の求婚を信仰心ゆえに断ったため、拷問の末に鋏で乳房を切り取られた聖女。聞くからに痛ましい話だが、この作品で血の吹き出る胸を押さえてこちらを見据える聖アガタの表情は、「これで気が済んで?」と言わんばかりの強さを感じる。

『エデュトとホロフェルネス』 アルテミジア・ジェンティレスキ (1612-13年)



この時代に、女性の画家がこのような作品を描いていたことにまず新鮮な驚きを覚える。ユディトが、酒に酔って眠りに落ちたアッシリアの将軍ホロフェルネスの首を切り落とすという、お馴染みのシーン。ホロフェルネスの顔を押さえてまさにその首にナイフを立てるユディトや、彼女を補佐して将軍を押さえつける侍女の表情、寝具に流れ落ちる血、とカラヴァッジョの同題の絵よりも迫真に満ちている。

『「給仕の少年を助けるバーリの聖ニコラウス」のための下描き』 ルカ・ジョルダーノ (1655年)



ナポリ人の画家、ジョルダーノ。ヴェネツィアに滞在していたこともあるので、ヴェネツィア派の影響も指摘される画家だが、この作品もきれいな三角形の構図の中に、厳格さより甘美な雰囲気を醸し出している。解説によると、ここに描かれているのは異教の残忍な王の奴隷にされた貴族の少年が、聖ニコラウスに助け出されるシーン。少年が手にお盆を持っていて、ちょうど給仕の仕事の最中に救い出されたというエピソードが大衆の信者に身近な感じを与えるのでしょう。

9月26日(日)までのロングラン開催です。

ストラスブール美術館所蔵 語りかける風景

2010-07-09 | アート鑑賞
Bunkamura ザ・ミュージアム 2010年5月18日(火)-7月11日(日)



公式サイトはこちら

「ストラスブール美術館のコレクションがまとまったかたちで紹介されるのは、日本で初めてとなります」とある。まずストラスブールについておさらいですが、フランス北東部、ドイツやスイスと国境を接するアルザス地域圏の首府であります。1944年以降はフランス領となりますが、それまでその領有をめぐりドイツと争った地域。本展にも、デオフィル・シュレールという画家の描いた『1814年の戦いの逸話』(1879)という、ドイツ軍に身の丈もありそうな長い銃を向けるアルザスの女性兵士を取り上げた作品が出ています。ドイツ国境沿い、ライン川左岸にあるストラスブールは、現在はドイツ文化の香りが濃い文化都市で、かつグルメな街でもあるそうです。

そんな都市にある美術館から、19~20世紀の風景画約80点が並ぶのが本展。風景画といっても多様な作品が紹介されており、個人的には知らない画家も多くて楽しめました。

構成は以下の通り:

1.窓からの風景―風景の原点
2.人物のいる風景―主役は自然か人間か―
3.都市の風景―都市という自然―
4.水辺の風景―崇高なイメージから安らぎへ―
5.田園の風景―都市と大自然を繋ぐもの―
6.木のある風景―風景にとって特別な存在―


では、印象に残った作品を挙げていきます:

『女性とバラの木』 ギュスターブ・ブリオン (1875)



私はさほど花に関心がないのだが(この点については、ガーデニングが趣味の母からいつも激しく非難される)、バラというと昔2年滞在したイングランドと結びつき、ノスタルジックな想いにとらわれる。放っておいてもどこまでも蔓を伸ばし、見上げる高さにたわわに花を実らせるその野性的力強さや、6月になると街がバラの芳香で包まれたりするのには新鮮な驚きを覚えた。

この作品からは、とりわけある情景が思い出される。イングランド西部のブリストルという町で、7歳の女の子のいるイギリス人家庭にホーム・ステイしていたときのこと。夏は夜10時くらいまで真昼のように明るい北国、夕食が終ると彼女はよく、「ねぇ、バラの花びらを摘みに行こう」と私を誘った。近所に大きな公園があり、芝で覆われた地面のあちらこちらに楕円形に掘られたバラの花壇があって、赤、ピンク、白、黄色と色とりどりのバラが色ごとに植えられていた。ちょうどこの作品に描かれているように柵もなく、広い芝地と花壇のランダムな間隔が自然でとても美しかった。「どの色が一番いい香りだろうね」などと言いながら、花に顔を近づけて香りを嗅いでは花壇から花壇へとのんびり歩き、しゃがんでは落ちているバラの花びらをビニール袋に入れる、という他愛もないひと時。

付け足しのようになってしまうが、この作品の女性の、口元に当てた指がバラの花弁のように可憐だった。

『年老いた人々』 モーリス・エリオ (1892)



点描風の画風で、眩しい光を感じる作品。逆光の陰の中に描かれる老夫婦の顔と、老人の髭や女の子の三つ編みに照り返す光の粒の明暗対照がとても効果的に描かれていた(ポストカードでは潰れてしまっているが)。

『ガロンヌ河畔の風景』 イポリット・プラデル (制作年不詳) 



パレットナイフを使って描いたという左の大木の立体感、存在感が素晴らしかった。

『ヴォージュ地方の狩り』 アンリ・ルベール (1828)



何とも不思議な感覚の絵だった。獲物の猪が横たわっているので、狩りの終わったところか、谷から湧きおこる雲を見ながら狩りの続きの画策を練っているところなのか、滑らかな岩肌の上に人々や犬たちがたむろしている。それらがまるでプラスティックのフィギュアのような感触。右に描かれた木々はフランドル風なのだが。

『ヴュー=フェレットの羊の群れ』 アンリ・ジュベール (1883)



別段珍しい作品ではないが、またしても個人的記憶が甦り、ついポストカードを買ってしまった。随分前だが、夏休みを取った私はイングランド中央部の牧草地を一人ぶらぶら歩いていた。そして前方からやってきたイギリス人ハイカーたちに、こともあろうに羊飼いに間違われたのだった。いつの間にやら子羊が3匹、私の後ろについて歩いていることに私は全く気づいていなかった。

『木の幹の習作』 テオドール・ルソー (1833)



習作にしてはとても完成度が高い作品だと思った。何故か幹が人間の終焉の姿にも見え、メメント・モリの主題を想起した。

『サン=クルー公園』 ヴァシリー・カンディンスキー (1906)



筆触の妙。

この他、雲の速い動きを追ったジョルジュ・ミシェル『雷雨』(1820-30年頃)や、モーリス・ド・ヴラマンクのひしゃげたような『都市の風景』(1909)、漆黒の中に赤、青、緑がちらつくマックス・エルンスト『暗い海』(1926)等、いろいろ印象に残った作品があった。6章に渡って丁寧になされた解説は読んでいても勉強になったし、一口に風景といっても様々な切り口があること、そして「絵になる風景」は画家が「絵にしている」のだと改めて思った。

会期は明後日、7月11日(日)までです。

モーリス・ユトリロ展 パリを愛した孤独な画家

2010-07-05 | アート鑑賞
損保ジャパン東郷青児美術館 2010年4月17日(土)-7月4日(日)
*会期終了



日本の美術館や展覧会でも、割とよく作品を目にする機会が多いユトリロ。本展の出品作品はすべて日本初公開とあったので、そんなこともあるのかと最終日に駆け込んだ。このじめじめと湿っぽい梅雨時に、冷んやりと空調の効いた展示室であの白い世界に囲まれ、涼めるかもしれない、などと思いつつ。

しかし現実は甘くない。午前10時台に行ったが、目の前には蛇行して並ぶ鑑賞者の長い列と、スタッフの掲げる「ここが最後尾です」のパネル。20分待ちというスタッフの声にいきなりゲンナリしてしまったが、最終日だから選択の余地なし。

やっと42階に上がれて、とりあえず入り口の解説パネルを読む。どうも今回出品されている90点余りのユトリロ作品は、ヨーロッパ有数の美術品所蔵家のコレクションらしい。

結果からいって、誰もがユトリロと聞いて思い浮かべるであろうパリの白い街並みを描いた「白の時代」(1910年から16年頃)の作品は少なかった。ついでに鑑賞者が多くて(自分もその構成員の一人だけど)、展示室の中もそれほど涼しくなかった。が、展示室を進むごとに現れる解説を読んでいくうちに、アルコール依存症と漆喰だけでは語れない、余りに悲惨な彼の人生を改めて知って、憐憫を通り越して暗澹たる気持ちになってしまった。

では順を追って感想を残します。

まずモーリス・ユトリロ(1883-1955)の生い立ちから。亡くなったのはつい50年ほど前と、思いのほか最近の画家であることに気づく。

母はシュザンヌ・ヴァラドン。ルノワールなどの絵のモデルをしつつ自らも絵を描き、様々な画家と浮名を流した女性。モーリスの父親にしても、スペインの画家ミゲール・ユトリロが認知してくれたものの実父は定かではないらしく、いわゆる私生児としてパリに生まれたことになる。母は夫との生活や自分の絵のことなどに忙しすぎて息子のことは顧みず、放ったらかしにされたユトリロは中学生の頃から飲酒癖があったという。

さて、展示は「モンマニーの時代」から始まる。ユトリロはアルコール依存症の治療のためにパリの精神病院に入院し、退院後、21歳のときから治療の一環として絵を描き始めるのだが、その頃移り住んだのがモンマニー。展示されている風景画からは、緑豊かな小さな村が想像される。正規の美術教育を受けておらず、本能に従って描いたというようなことが解説にあったが、あたかも物質的に再現しようとしたような家々の壁の厚塗りや、木々のウネウネとした筆触が個性的。天賦の才とは聞こえがいいが、両親とも絵描きだったので、幸か不幸かその血を引いてしまったのでしょう。

1909年、26歳でモンマルトルに移り、ユトリロの代名詞ともいえる建物の白壁がフィーチャーされた「白の時代」に入っていく。少年の頃から漆喰のかけらで遊ぶ姿が目撃されていたユトリロは、詩人・小説家のフランシス・カルゴに「パリの思い出に何か一つ持っていくとしたら何にするか?」と聞かれ、躊躇なく「漆喰」と答えたと言うエピソードも紹介されていた。しかし純粋に好きだったとういうよりは、アルコール依存症のために家にいても鉄格子のはまった部屋に閉じ込められていた彼が、一番長いこと向き合っていたのが窓から見える白壁だったというのが実情らしい。

いずれにせよ、ユトリロはその質感を出すために、石灰、鳩の糞、朝食に食べた卵の殻、砂などを絵具に混ぜてパリの建物の白壁を描き続けた。画面全体を見渡すと、壁の下方など薄汚れて劣化したような部分も、グレーその他の色を混ぜて丁寧に表現されている。ユトリロが熱中したという画布上でのこのような壁の再現は、きっと楽しい作業だったのではないだろうか?

『スュレーヌ(オー=ド=セーヌ県)』 (1912-14年頃)



ミュージアム・ショップで、壁上方にずらりとディスプレイされていた30種にも及ぶポストカードを見上げた時、一番いいなと思った作品。やはり「白の時代」。

1919年、36歳の時に開いた画廊での個展も成功するが、アルコール依存症は完治せず、ユトリロは結局29歳から40歳まで入退院を繰り返す。母シュザンヌの二度目の夫で、ユトリロより3歳年下のアンドレ・ユッテルは、自らの画業に見切りをつけ、作品の良く売れるユトリロのマネージャーとなって作品を売りさばいて行く。このあたりが「色彩の時代」。ユトリロは二人にとって「貨幣製造機」となり、制作を余儀なくされた。

二人はその売り上げで得た大金で贅沢三昧。ひどい話でしょう?

この時代のユトリロ作品は、色がとても明確で鮮やか。部分的にヴラマンク的な筆触も見受けられる。しかし、ポストカードに遠近法の線を入れ、それを基に定規を使って描いたという街並みは、妙に縦長であったりと違和感も覚える。でもこれらの作品が一般受けして、売れに売れたのでしょうね。

『サン=ドニ・ド・ラ・シャペル教会、パリ』 (1933年)



この作品にも描かれているが、この頃のユトリロ作品には「異常に腰の張った」女性が頻繁に登場する。解説には女性に対する嫌悪感の表れとの指摘があるとあったが、ほとんどが帽子をかぶり、後ろ姿で、ペアで歩いていることが多い。男性の姿もあるが、これらの人物はとてもぞんざいに描かれており、配置も非常に不自然で、確かに心理学的に何かの表れなのかもしれないと思ってしまった。この時代の作品の多くは、多分ユトリロが本心から描きたかった画風ではないような気がしてならない。

ユトリロの悲惨な人生はまだ続く。

1935年、51歳のユトリロは母の薦めでユトリロ作品のコレクターであったベルギーの裕福な銀行家の未亡人、63歳のリュシー・ヴァロールと結婚。彼女にも作品の制作を強要され、またしても囚われの身となってしまう。1940年代の作品を見渡すと、全体が暗いクリーム色の色調を帯びているものが目につくが、ユトリロの心が曇ってしまったような気がするのは穿った見方だろうか?塀に囲まれた広い庭から、ユトリロは紙に包まれた石を外に投げた。そこには「助けてくれ」と書かれてあったという。そしてそれを拾った近所の人々は、名の知れた画家の直筆ということで喜んで保管したという。何ともやり切れない話である。

リュシーとの結婚後は礼拝に費やす時間が増え、母にも祈りを捧げたというユトリロ。傍目には酷い母親に映るが、親子の絆と言うのは当人同士にしかわからないもの。母シュザンヌは1938年に他界しているから、自分の亡き後のことを彼女なりに考え、ユトリロの母親役をリュシーに託したのかもしれない。

『モンマルトルのジャン=バティスト・クレマン広場』 (1945年頃)



『サン=ローラン教会、ロッシュ(アンドル=エ=ロワール県)』 (1914年頃)



上の二つの作品の間には30年ほどの隔たりがあるが、ユトリロの風景画は、普通の家並と並んで教会を描いたものが圧倒的に多い。外観を描くことのみならず、神への祈りも込められていたのかもしれない。入口手前の解説パネルの横にあった、礼拝堂で目を閉じて祈るユトリロの、皺の刻まれた顔が今一度思い出された。

損保ジャパン東郷青児美術館での今後の二つの展覧会のチラシを入手したので、ついでにご紹介しておきます。

トリック・アートの世界展―だまされる楽しさ―
2010年7月10日(土)-8月29日(日)



ウフィツィ美術館 自画像コレクション
2010年9月11日(土)-11月14日(日)


細川家の至宝―珠玉の永青文庫コレクション

2010-07-03 | アート鑑賞
東京国立博物館 平成館 2010年4月20日(火)-6月6日(日)
*会期終了

   

公式サイトはこちら

私は永青文庫に一度も足を運んだことがないし、戦国時代の知識も情けないほどにあやふやという体たらくであったので、今回は細川家の歴史を少しばかり学びつつ、その所蔵のお宝について超ビギナーの観賞会となった。最終盤(7期)に行ったので、チラシに使われている菱田春草の黒猫には会えなかったが、所詮一度に観られるようなコレクションではないので仕方なし。お勉強のために買った図録の重さは2kgもあり、作品リストがホチキス留めというのも初めてです。

ということで、まずは細川家とそのコレクションについて端折りに端折ったメモを残しておきます:

細川家の歴史は、鎌倉時代に足利義季(よしすえ)が三河国額田(ぬかた)郡細川郷を本拠とし、名字を細川としたことに始まる。旧熊本藩主・細川家はその分家の一つで、細川藤孝(幽斎 1534-1610)を初代とする。その細川家に伝来する文化財の散逸を防ぐために、16代目の細川護立(もりたつ)によって1950年に設立されたのが永青文庫(えいせいぶんこ)。所蔵品は8万点を超え、今回はその中から総数350点余りが展示。ちなみに元首相の細川護煕は18代目当主。

本展の展示構成は以下の通り:

第1部 武家の伝統―細川家の歴史と美術―
 第1章 戦国武将から大名へ―京・畿内における細川家―
 第2章 藩主細川家―豊前小倉と備後熊本―
 第3章 武家の嗜み―能・和歌・茶―

第2部 美へのまなざし―護立コレクションを中心に―
 第1章 コレクションの原点
 第2章 芸術の庇護者
 第3章 東洋美術との出会い

では、観た中で印象に残ったお宝を挙げていきます:

第1部 武家の伝統―細川家の歴史と美術―

前半の第1部では、武家としての細川家に伝来する品々が並ぶ。甲冑や刀剣など武器・武具類に加え、武人としての教養を示す茶道具や能関連の作品、歴代当主の肖像画、書状など。

『時雨螺鈿鞍』 鎌倉時代 13世紀 *国宝



うっとり見とれるような螺鈿細工が施された鞍。櫛の歯のように細い線で表された松と、丸味のある葛の葉が流れるように絡み合う柄が何とも言えず美しい。

国宝なので、図録の解説からうんちくを少々。この図柄には、王(わ)・可(か)・恋・染・原・尓(に)の文字が隠されており、文字と図柄で「新古今和歌集」に収められている慈円の歌「わが恋は 松を時雨の染かねて 真葛が原に風騒ぐなり」を表現したもの。このような作品を「葦手絵(あしでえ)」と呼ぶそうだ。

『黒糸威(くろいとおどし)二枚胴具足』 細川忠興(三斎)所用 (安土桃山時代 16世紀)



細川家二代目、忠興(ただおき)が関ヶ原の戦いで用いた具足。まず目を引くのは兜の上の飾り。頭立(ずたて)と呼ばれるそうで、山鳥の羽で出来ている(遠目には竹ぼうきかと。。。)。これなら、戦の最中もトップがどこにいるのかすぐわかりますね。

今こうして書きながら、時節柄、ピッチ上で目立つためにブロンドに染めたと言う現代のサムライ、本田圭佑選手を思い出した。本田選手と間違われて「ホンダ!ホンダ!」と南アフリカの人々にサインを求められる稲本選手はちょっと可哀そうだったが。

話を東博に戻して、このコーナーにはこのような具足や鎧がズラリと並び、見渡しているうちに細川家が武家であることを実感すると共に、ちょっとぞくぞくしてしまった。

『幟(のぼり) 白地紺九曜に引両』 (江戸時代 17世紀)



細川家の家紋、「九曜星」が染められた幟。熊の足跡のような、向日葵のような、ちょっと可愛らしい感じに見える。双頭の鷲やら猛々しく立ちあがるライオンやらが目白押しの西洋の家紋と比べ、やはり我々農耕民族の家紋は大人しいですね。

『毛介綺煥(もうかいきかん)』 (江戸時代 18世紀)

  部分

18世紀の日本は博物学が大いに盛んとなった時代で、大名たちの間に動植物などを図鑑としてまとめる作業の流行をもたらしたそうだ。8代当主、細川重賢(しげかた)も熱中し、ここに並ぶ様々な写生図はその一端。朱色も鮮やかな蟹の迫力もさることながら、狼の毛並みもデューラーとは言わないが、とても写実的に描き込まれている。

『縫箔 黒地花霞模様』 (江戸時代 17~18世紀)

   クローズアップ

ボーッとなるほど幻想的で美しかった。大小の花々が敷き詰められているが、そのランダムさ加減(に見せながら全体の風景がちゃんと計算されている)が絶妙。作った人の美的感覚に脱帽です。

『唐物尻膨茶入れ 利休ふくら』 (中国 南宋時代 13世紀)



その形から尻膨(しりふくら)と呼ばれる茶入れ。千利休所持の伝来を持つ名品で、細川家の茶道具の中でも最も名高いものの一つだそうだ。関ヶ原の戦いの軍功として、徳川秀忠から細川忠興(三斎)が懇望して拝領したとある。6cmほどの小さい茶入れなのに、何やらとてもパワフルな存在感。

第2部 美へのまなざし―護立コレクションを中心に―

後半の第2部では、永青文庫の創立者である細川護立(1883-1970)のコレクションを紹介。「いいものはいい」と、分野を問わず気に入った作品を蒐集したというそのコレクションは、考古学的な出土品から近代絵画まで幅広い。

『乞食大燈像』 白隠慧鶴 (江戸時代 18世紀)

 

いきなり白隠慧鶴の作品が沢山並んでいて嬉しい驚きだったが、実は護立コレクションの出発点が白隠の収集にあったそうだ。そのきっかけは、重病の護立が熊本出身のジャーナリストに薦められて病床で読んだという、白隠著の『夜船閑話(やせんかんな)』。実はこのセクションの最初にその実物が展示されているが、ドイツ人医師にかかっても全快しなかった護立が、この本に「何物にも比す可からざる尊さを覚え」、その後回復していったというからよっぽど勇気づけられる内容だったのでしょう。

『落ち葉』 菱田春草 (1909) 重要文化財

 左隻の一部

護立は10代の頃から、新進の日本画家であった横山大観や菱田春草に注目していたそうで(私が行った時は横山大観の作品が多く観られた)、これは菱田春草の重文作品。実物を初めて観たが、想像以上に美しい作品だった。まだ枝に残る葉の、緑から茶へのグラデーション、地面に散る色づいた葉、写実的に描かれた手前の幹の木肌、霞んで立つ奥の木々。朝靄がかかっているのか、淡い色彩で丁寧に丁寧に描き込まれていて、おぼろげで夢想的な情景にも思えた。

ついでながら、今回の東京展には出品されていなかったが、普段は東京国立近代美術館に展示されているお馴染み安井曾太郎『金蓉』(1934)が、護立の注文で描かれたことを初めて知った。護立は、古美術蒐集のみならず、同時代の芸術家と交流し、その活動を支援する偉大なるパトロンでもあったのですね。

『桃花紅合子(とうかこうごうす)』 (中国 清時代 康煕年間 1662-1722)



護立の眼は東洋美術にも向けられ、そのコレクションには国宝となった、細川ミラーと呼ばれる『金銀錯狩猟文鏡(きんぎんさくしゅりょうもんきょう』(中国 戦国時代 前4~前3世紀)なども。そんな凄いものが並ぶ中で、私はこの直径7cmほどの、景徳鎮窯で焼かれた一組の合子に吸い寄せられた。そのまろやかな形といい、桃色と緑の微妙な混ざり具合といい、なんとまぁ可愛いらしい。しかし実は非常に高価だそうで。。。

『菩薩坐像』 (中国 唐時代 8世紀)



白隠や仙の絵画に始まり、刀、日本画・洋画、東洋の古美術品ときて、今度は仏像。次々にジャンルを超えて立ち現れる出展作品に、改めて護立の関心の幅の広さを思う。

この菩薩様にはとりわけ親しみを覚えた。身体や首の傾け方、何かを語りかけてきそうな口元が、人っぽいからだろうか。

本展は、以下の通り巡回予定です:

【京都展】
京都国立博物館
2011年10月8日(土)-11月23日(水・祝)

【福岡展】
九州国立博物館
2012年1月1日(日・祝)-3月4日(日)