落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 母の胎に宿った時から  詩51

2011-03-08 19:42:59 | 講釈
S11L01 Ps051(L)  大斎節第1主日 2011.3.13 
<講釈> 砕かれた心  詩51
1. 大斎節で読まれる詩編
大斎始日の詩編は3年共通で、詩103:8-14または51:1-18が読まれる。また、それらの詩編はA年の大斎節第1主日でも読まれる。つまりA年では同じ詩編が選ばれている。詩51についてはB年の第5主日でも取り上げられ、詩103についてはC年の第3主日でも取り上げられている。復活節前主日(聖週の主日)、つまり大斎節の最後の主日の詩編は3年共通で詩22:1-11または詩22:1-22が読まれる。要するに大斎始日と復活節前主日の詩編は3年共通であり、その間に挟まれた5回の主日の詩編以下の通りで、それらを若い番号順に取り上げると以下のようになる(節を省略)。
詩16(B第2)、詩19(B第3)、詩23(A第4)、詩25(B第1)、詩27(C第2)、詩32(A第4)、詩33(A第2)、詩34(A第4)、詩89(C第4)、詩91(C第1)、詩95(A第3)、詩105(B第2)、詩122(B第4)、詩126(C第5)、詩130(A第5)。
2. 悔い改めの詩編
詩編にはいわゆる「悔い改めの詩編」と呼ばれる詩が7つある(6、32、38、51、102,130、143)。詩51はその4番目に位置する(メイズ 233頁)。大斎節中の主日で取り上げられている悔い改めの詩は、詩32、詩51、詩130の3編だけである。
詩51は悔い改めの詩の中でも最も深刻に罪を自覚し悔い改める詩として最高のものである。大斎節は毎年の大斎始日に詩51を唱えることは非常に意義深い。また、3年周期の聖餐式日課の最初(A年)にこれが取り上げられていることも意義がある。古い祈祷書では「大齋懺悔式」の式文があり、大斎始日には「必ず」、「その他主教の定める日」に執行されるものであった。大斎懺悔式は詩51を読むことから始まる。従って聖公会の信徒は何らかの形で1年に1度は詩51を読む機会があった。それが現行祈祷書ではなくなってしまっている。
ついでに重要なことを付け加えておくと、古い祈祷書においては大斎始日の特祷は大斎期間中その日の特祷に続いて用いられることになっていたが、その習慣も省かれてしまった。何か全体として聖公会では懺悔とか悔い改めということが後退しているように思われる。残念ながら現行の祈祷書では大斎懺悔式そのものがカットされている。大斎懺悔式は詩51を読むことから始まっていた。
3. 詩51の表題について
詩51には2つの表題がある。1節「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。」2節「ダビデがバト・シェバと通じたので、預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。」詩編150編のうち「ダビデの歌」という表題が付けられている詩は73編ある。一般に「ダビデの詩」という表題については必ずしも「ダビデの作」というわけではなく時には「ダビデ詩集より」とか「ダビデに寄せて」とか「ダビデに献げる詩」とかいろいろな意味がある。従って詩51もダビデの作だと考える根拠はない。また第2の表題についても、詩51の内容から見ると必ずしもダビデのスキャンダルを背景にしているとは断定できない。むしろここで取り上げられている「罪」は実際に犯された罪(犯罪)というよりももっと根源的な罪である。従ってここでは「赦し」という言葉はなく「清める」(4、9、12節)という言葉が繰り返されている。祈祷書の訳での1節の「赦してください」という言葉は明らかに誤訳ないしは意訳である。また、この詩には祭儀に対する批判的な視点があり(18節)、このような思想はダビデの時代というよりも捕囚後かなり時代を経過している時代を反映している。メイズは「ダビデ物語の内に、この詩の成立の場を見いだした有能な写本家は、4節の言葉とサムエル記下11:26『ダビデのしたことは主の御心に適わなかった』という言葉と同12:13「ダビデはナタンに言った。『わたしは主に罪を犯した』。ナタンはダビデに言った。『その主があなたの罪を取り除かれる』。」という言葉との関連に目を止めて、この表題を付加したのであろうと推測している。
4. 原罪ということ
しかしよく考えてみると「犯した罪」は悔い改めて赦されなければならないが、実際に罪を犯す以前の人間の根源に関わる罪性については悔い改める必要はない。むしろそこで必要なことは人間性そのものが清められることである。この人間の根源に関わる罪性のことについては、伝統的には「原罪」という言葉で表現されてきた。ここでは原罪論について総括的に論じる暇はないが、詩51のテキストに関わる限りにおいて論じる必要があるであろう。
5. 詩51の構成と語義
すでに触れたように詩51はダビデ王が犯した罪についての悔い改めの詩として語られてきた。その方が具体性があり詩に膨らみが出てくる。説教にしてもドラマ性が出て来て分かりやすくなる。しかし、そのことによって失われるものも少なくない。
この詩においては悔い改めるべき個別的な「罪」、あるいは人間関係には一切触れられていない。むしろ、ここでの「罪」とは「あの罪」「この罪」というように個別的にリストアップできるような罪というよりも、もっと根源的な罪、罪とは無縁に生きることができない私という人間が「罪深いわたし」(2節)である。その私は罪を犯す。しかも、その一つ一つの罪は必ず私の「過ち(欲望)」(3)において犯されたものである。私が犯した罪の責任は私にある。それは明確な事実である。そこで詩人は犯された一つ一つの罪は誰かに対してというよりも神に対する罪であるという。この言葉はそれらの罪とは、確かに「犯された罪」ではあるが、人間関係において、誰かから追求されているとか、法的に断罪されるものであるというよりも、神と私との関係の中で認めざるを得ない事柄である(4-5)という意味であろう。
その意味では、詩人がここで問題にしている罪とは、私の生まれながらの実態であり、実際に罪を犯す以前の私の性向であり、人間そのものの本性に属する事柄である。従って、この詩においては「赦し」というより「清める」という言葉の方に重点が置かれている。
6. 罪の具体例
この人間の罪に関する具体例として、伝統的には「ダビデがバト・シェバと通じた」罪が取り上げられ説明されてきた。ダビデ王は王宮の屋上から「一人の女が水浴びをしてのを目に留めた」(2サムエル11:2)。それは罪ではない。その女性は非常に美しかった。ダビデはその女性を自分のものにしたかった。それも罪ではない。しかし彼女を実際に手に入れようとして策略を立て実行した。ここで罪は犯された。ダビデが彼女を自分のものにしたいと思ったところまでは罪ではないが、ダビデの中に罪への方向性(傾斜性)があったことは否めない。エデンの園で女(エヴァ)が神から禁止されている木の実を見て「いかにも美味しそう」だと思った。そして、それを食べたいと思った(創世記3:6)。そこまでは罪ではない。しかし実際にそれを手に取り食べたときに罪を犯した。女の中に食べたいという欲望が生まれた。その欲望は「未だ」罪ではない。しかし、それは罪への方向性(傾斜性)である。
聖書における罪への方向性(傾斜性)とは、すべての他者を自己のための存在だと思う自己中心性である。この自己中心性を展開すると、すべての他者のすべての関心を自己が独占したいという願いになる。猛獣は弱小動物を見たときに餌としか思わない。そして襲い、食べる。それは動物としての本能であり罪ではない。男が女を見て美しいと思い、自分のものにしたいと思う。そこまでは罪ではない。しかし彼女を手に入れるために彼女の主体性を奪い、彼女を自分の「所有物」にしたとき、それは罪を犯すことになる。
人間がすべての他者を自己のための存在だと思うことは罪への方向性(傾斜性)である。人間が他者を自己のための存在だと考えることには制限がある(制限されている)。その意味では人間とは制限された存在である。犯そうと思えば犯すことが出来るが人間であるために制限されている。それがエデンの園における禁断の実の秘密である。
私の意識が他者に向かい、他者を美しいと感じ、その他者を自分のものにしたいという欲望は、他者へ向かう愛と共通する。同時に、その愛は相手の関心も自己に向かわせようとする。相手への愛は相手の愛を奪う。その意味では愛と罪とは表裏一体の関係にある。相手の愛を奪うのは罪である。その意味では他者に対する無償の愛、自己を無制限に他者へ与えることは理想の愛とされる。
ここに人間の罪の根源性がある。根源的罪とは犯された罪ではないが罪への方向性であり、その方向性は傾斜している。その意味では人間は生まれながらに坂道に立っているような存在である。
詩51ではその傾斜性を「母の胎」(5節)に存在したときから抱いているという。この言葉は必ずしも男女の性的営みが罪であるということを含蓄したものではない。その意味では「性」が罪であるというよりも「生」に罪への傾斜があり、生きているということ自体が罪を犯す可能性の中にあるということを意味している。仏教的にいうと「業」であろう。
7. 詩51の形成史
ここまで徹底した罪意識は個人的な体験に基づくというよりも、順序としては、先ず共同体の中で、共同懺悔という儀式が成立し、「罪の告白文」(3-5)が成立した後に深化されたものであろう。言い換えると、罪意識は罪の赦しの儀式「罪の赦しの願い」(1-2、7-12)の中で深化される。その意味で罪の告白文が罪の赦しの宣言文に挟まれていることは非常に意義深い。
1節~2節の「神よ、慈しみによってわたしを顧み、豊かな憐れみによって、わたしのとがを赦しください。悪に染まったわたしを洗い、罪深いわたしを清めてください」という祈りは、「顧みてください」、「とがを赦してください」、「清めてください」の3点が内容である。第2の点は新共同訳では「背きの罪をぬぐう」という言葉が用いられている。つまり「赦し」ではなく「ぬぐう」であり、洗い清める」に近い言葉である。つまり第2点と第3点とは一つになり、これらを合わせて「顧み清める」という祈りとなる。
それに対して7節~12節がこの祈りの中心部分であるが、2つの部分に分けられる。前半の7節~9節が「わたしを洗い清めてください」という祈りで、1節~2節と呼応し、3節~4節を挟む形になっている。それを受けて後半の10節~12節が「わたしを新しくしてください」という祈りとなる。
6節の言葉には問題がある。ヴェスターマンは次のように翻訳している。「見てください。あなたがほんとうに愛されるのは信頼(?)です。密かに、わたしに知恵をあなたは諭してくださいました」。この節は後代になってから読者によって付加された欄外註であろう。
13節は14節~15節の後にもってきて、「14 神よ、あなたはわたしの救い、死の嘆きからわたしを助け出し、あなたの正義を歌わせてください。15 主よ、わたしの口を開いてください。わたしはあなたの誉れを告げ知らせる。13 わたしはとがある人に、あなたの道を教えよう。罪人があなたのもとに帰るように」とする方が文章の流れとしてはスムーズである。
この部分は新しくされた者として、神を賛美し、神による清めを人びとに語り伝える者として生きる決意の表明である。
詩51は15節で終わり、16節~17節は祈りの言葉というよりも、神による罪の救済についての神学的省察である。人間における罪をここまで深く自覚した者にとって「いけにえや燔祭」など罪の赦しの贖罪儀礼の虚しさが自覚され、神が真に喜ばれる献げ物とは「砕かれた心」であると述べられる。
それに対して、18節~19節では逆に、神殿における礼拝の重要さが語られ、儀礼への参加が呼びかけられる。おそらく、エルサレムの神殿と城壁の再建の時代における付加であろう。

最新の画像もっと見る