落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨後第4主日(特定10)説教「応答する神 詩65」

2011-07-06 16:36:17 | 説教
S11T10Ps065(S)
2011.7.10
聖霊降臨後第4主日(特定10)説教「応答する神 詩65」

1.詩編の味わい方
この詩は、3つの詩が組み合わされたものであると言われている。1~4節は「罪が赦された個人の感謝の詩」、5~8節は「神の偉大な力をほめ讃える歌」、9~13節は「収穫感謝の詩」である。おそらくもともとは3つの独立した詩が一つにまとめられたものであろうと言われている。
詩編の味わい方はいろいろある。その詩編全体を通して神の民に対する神の働きを学ぶのも一つである。また一つの詩編を深く読み、詩人の悩みや喜びを共有するという味わい方もある。今日は詩65において述べられている一つの句に注目して、それを語った詩人の個人的な経験からも離れて、その言葉自体を深く味わいたい。
<あなたは正義によって不思議を行い、わたしたちにこたえられる。わたしたちの救いの神、地の果ての望み、遠い島々の希望よ。>(5節)

2.わたしたちの神
冒頭の「あなた」は「わたしたちの救いの神」を指している。つまり私たちの救いの神が私たちに応えてくださるということがこの句の中心的な意味である。しかも私たちの救いの神とは「地の果ての望み、遠い島々の希望」であるという。つまり全世界の人びとが私たちの神を憧れている。新共同訳ではこの部分を「遠い海、地の果てに至るまで、すべてのものがあなたに依り頼みます」と訳している。言い換えると、全世界の人びとが頼りにしている神である。ここには非常に気負った感情が溢れている。この「気負い」の背景には、「あなたたちの神」との比較が感じられる。当時、ユダヤ人たちはバビロニアに連れてこられ、言わば異国に住んでいた。おそらく、この詩を読み聞かされていた人びとは「二世」であったと思われる。異国での二世、彼らにはどうしても超えられない壁があった。当時、それ程厳しい民族差別があったとは思えないが、それでもさまざまな差別があったであろう。その内でも最も大きな差別は宗教的な差別である。その辺りのことはダニエル書のテーマになっている。そういう状況の中で、私たちの神を全世界の人びとが寄りどころとしていると詩人はいう。
3.呼べば応える神
私たちの神の何が、どう良いのか。ここで取り上げられているのは、私たちの神は私たちに応えてくださる方だという点である。「わたしたちの救いの神よ」と呼びかけると、応えてくださる。「呼べば応える神」。「呼べば応える」ということを馬鹿にしてはならない。人間は「呼べば応える」相手が居なくなったら生きていけない。若者たちの携帯電話、正確には携帯メール。まさにこれは「呼べば応える」装置。電話では受ける相手の状況が見えないし、わからないからどういう迷惑をかけるかわからない。その点で「携帯メール」は一応お互いの間に適当な距離感がある。しかし受けたメールに全然応えないとお互いの関係は終わってしまう。誰からもメールが来なくなり、またメールを送る相手が居なくなったら、人間は生きていけなくなる。

4.神の応答は不思議な業
さて神の応答は「不思議なわざ」であるという。行動による応答ということであろう。こちらからの呼びかけに、手を振って応えるとか、「おー」という声を発するとか、要するに何らかの反応がある。言葉による応答ではないにせよ、何らかの行動がある。神とペットとを並べるのはいかにも不謹慎であるが、ペットがペットとして意味を持つのはその応答性である。神による応答は「不思議なわざ」であるという。新共同訳では「恐るべき御業」と訳し、新改訳では「恐ろしい事柄」と訳している。つまり、神による応答は出来事である。受け止めた側の思いとか心理的安心感といったようなメンタルな出来事というよりも現実的な出来事である。
それを私たちは「奇跡」と呼ぶ。奇跡とは必ずしも超自然的な出来事を意味しない。私たちにとって必要なまさにその時に、そのことが起こるということが奇跡である。人と人との出会いにおいて、まさに私たちが必要とするその時に、その人と出会うということも奇跡である。
確かに、それは起こった。その起こったことを否定することはできない。問題はそれが私の呼びかけへの応答であったのかどうか。おそらくそれを確定することは出来ないであろう。その問題について結論に至る前に一つの問題を解決しておこう。

5.神の応答はわたしたちを変える
実はこの句にはもう一つややこしい単語が残っている。祈祷書の訳では一応「正義によって」と訳されている。つまり神の応答は「正義によって不思議なわざ」であるという。一体この「正義によって」とはどういう意味で、この文章においてどういう意味を持っているのだろうか。新共同訳ではこの句を「答え」に結びつけて「あなたの恐るべき御業が、わたしたちへのふさわしい答えでありますように」と訳している。つまり神の「恐るべき行為」は「私への応答」なのかどうか疑問がある。そこで、神の「恐るべき行為」が「ふさわしい応答になりますように」という祈りとなっている。つまり神の「恐るべき行為」を「わたしへの応答」として受け止めることができるようにという願いであり、それはわたしの姿勢についての言葉である。
神の「恐るべき行為」について福音書は面白い出来事を記録している。これはペトロとその仲間たちのその後の人生を決定的に変えてしまった出来事なので、おろそかにする訳には行かない。
< 神に応答が人生を変える。 ルカ5:1-11 >
「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものなのです」。
「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。

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