落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>「わたしの心を一つにしてください 詩86」

2011-07-12 13:22:08 | 講釈
S11T11Ps086(L) 聖霊降臨後第5主日(特定11) 2011.7.17
<講釈>「わたしの心を一つにしてください 詩86」

1.詩86の表題
この詩には「祈り(テフィラー)」という表題が付いている。詩編150篇の中で「祈り」という表題が付いているのはたった5編だけである。その内3編が「ダビデの詩」であり、1編が「モーセの詩」、もう1編が「貧しい人の詩」である。
第1巻、詩17 祈り。ダビデの詩。
第3巻、詩86 祈り。ダビデの詩。
第4巻、詩90 祈り。神の人モーセの詩。
第4巻、詩102 祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩。
第5巻、詩142 マスキール。ダビデの詩。ダビデが洞穴にいたとき。祈り。
ここで非常に興味深い点は第2巻の最後の詩72の終わりに「エッサイの子ダビデの祈りの終わり」という句が見られる点である。通常、第1巻と第2巻とはワンセットで見られ、そこに属している詩は原則的に「ダビデの詩」とされるが、編集者はそれらをまとめて「ダビデの祈り」と性格付けている点である。ダビデの詩は基本的には神をほめ讃える「賛歌」であるとともに、神への「祈り」だという理解があったのであろう。それと同時に、第2巻と第3巻とをワンセットで見る視点もある。これについてはかなり専門的な説明が必要であるが、ここでは省略する。ただ、この点で注目すべきことは第3巻には「ダビデの詩」と呼ばれている詩は詩86だでけあるということである。第5巻に属する詩142については、いろいろな標題が付加しており別格に取り扱うとして、詩86もその置かれている個所が非常に特殊であることは明確である。何か「紛れ込んだ」という感じがする。例えば、第3巻は詩73から詩83まで「アサフの詩」で始まり、詩84から詩88までが「コラの子の詩」と続く。詩86はその真ん中に挿入されている。この位置づけからも詩86がかなり独立性が高い詩であることが推測される。
2.詩86の再構成
詩86は、1節から13節までと14節から17節までの2つの詩が何らかの理由により1つにされたものと見るのが妥当であろう。これを合体させたのが意図的なのか、偶然そうなったのか不明である。形式的にもそれぞれ独立しているように思われる。ただ14節以下の詩はいかにも唐突で、おそらく何らかの前文があったのであろうと思われる。12節~13節の感謝の言葉は確かに祈りの最後にふさわしい。という訳で今回は1節から13節までのを完結した一つの詩として取り上げる。それに加え、8節から10節の賛美の言葉に12節~13節の感謝が続くのは自然であり、11節は孤立しているので、これを7節に続けた方がより筋が通る(関根)、と思われる。以上をまとめると、この詩は次のようになる。
(註)詩86では「ヤハウェ」という言葉と通常の意味での「アドナイ」という言葉が厳密に使い分けられている。祈祷書の訳をもとにして、「ヤハウェ」と「アドナイ」とを明瞭にした。

3. 再構成詩86 ダビデの祈り

1  ヤハウェよ、耳を傾けてわたしにこたえてください。わたしは弱く貧しい。
2  あなたを畏れるわたしの命を守ってください。あなたはわたしの神、寄り頼む僕を救ってください。

3  わたしのアドナイよ、憐れみをわたしの上に、わたしは昼も夜もあなたを呼び求める。
4  僕の魂の喜びとなってください。わたしのアドナイよ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望む。
5  わたしのアドナイよ、あなたは恵み深く、赦す方。あなたに助けを求める人に慈しみを注がれる。

6  ヤハウェよ、わたしの祈りを聞き、願いの声に耳を傾けてください。
7  悩む日々わたしはあなたに叫び、あなたはわたしにこたえてくださる。
11 ヤハウェよ、あなたの道を示してください、誠実にあなたの道を歩み、み名をあがめることができるように、わたしの心を一つにしてください。

8  わたしのアドナイよ、神々のうちであなたに並ぶものはなく、あなたのみ業に比べられるものはない。
9 わたしのアドナイよ、あなたに造られた諸国の民は皆、み前に進み、伏し拝み、あなたのみ名をたたえる。
10 あなたは偉大、不思議なみ業を行われる。あなたのほかに神はいない。

12 わたしのアドナイよ、わたしの神よ、心を尽くして感謝を献げ、とこしえにみ名をたたえる。
13 み慈しみはわたしに深く、わたしの魂を死の国から救い出してくださった。

4. 詩86の分析
この詩は1人称単数文体でなされる「祈り」である。従って祈る内容・主題は非常に個人的な事柄であるはずである。ところが不思議なことに個人的な特殊性や生活感が感じられない。(14節以下の部分には多少それが見られた。)この点についてメイズは「この詩の作者は、自分自身には触れずに非常に個人的な祈りを作り上げている」とコメントしている。従って、逆にこの詩を用いる者は誰でも「神の本性と祈る者の正体を常に見極めつつ祈るのである」。
詩86は詩人が何を、どう祈っているのかということを考えるのではなく、この祈りを読むことによって、あるいは祈ることによって、祈っている私とは何者なのか、私は何を祈るべきなのか、誰に祈っているのかということを学ぶのである。その意味では「祈り」というよりも「祈りのモデル」というべきかもしれない。詩人がそれを意識しているかどうかということとは関係なく、詩86はプロの宗教家による非常に技巧的な「個人的祈りの模範」である。

   この祈りは次のように5つの部分に分けられる。
   (A)ヤハウェへの呼びかけ(1-2)
   (B)神との関係(3-5)
   (C)願い(6-7,11)
   (D)賛美(8-10)
   (E)感謝の結び(12-13)

詩86を読む場合に注意すべき言葉は「主」という言葉である。同じ「主」という言葉で翻訳されているが、原文では「ヤハウェ(聖なる4文字)」という言葉と通常の意味での「アドナイ」という言葉が厳密に使い分けられている。聖なる4文字の「ヤハウェ(この場合所有格を伴わない)」が3回(1,6,11)、通常の意味の「アドナイ」は6回(3,4,5,8,9,12)、この場合には必ず「わたし(1人称・所有格)」がともなって「わたしの主」と訳されている。それが「わたしの神(1人称・所有格をともなうがエロヒーム)が2回(2,12)、所有格なしのエロヒームが1回(10)用いられている。この詩の解釈の鍵はこれらの言葉の配置にある。従って以下の文章では「ヤハウェ」と「アドナイ」との区別を明瞭にして味わう。

5.詩86の内容
A. 1節~2節 ヤハウェへの呼びかけ

先ず1節から読んでみよう。
<ヤハウェよ、耳を傾けてわたしにこたえてください。わたしは弱く貧しい。>(1節)
ここでは「わたしは弱く貧しい」と告白されている。祈りとは強くて、豊かな者が祈るのではない。満ち足りている者には祈りは不要である。先ず、祈る自分とは何者なのか。私についてはいろいろな説明があるだろう。しかし、祈る私にとってそれらはすべて不要である。先ず祈る私の弱さと貧しさとを自覚する必要である。むしろ、いろいろ考えるならば、私は何に弱いのか、何において貧しいのか。そこからしか祈りは始まらない。
次に、誰に祈るのか。祈る相手は「ヤハウェ」である。抽象的な「神」ではない。私のヤハウェである。「あなたの耳を、私に傾けてください」と言える相手、それが「私のヤハウェ」である。
実は祈ることによって起こる出来事とは「ヤハウェと私」との関係の樹立である。この関係さえ確立したら、もうその他に願うことなどない。
そのことが端的の述べられているのが2節である。1節の言葉によって2節が実現する。
<あなたを畏れるわたしの命を守ってください。あなたはわたしの神、寄り頼む僕を救ってください。>(2節)
「あなたは私の神」であり、私は「あなたを畏れる者」、「あなたに寄り頼む僕」であると宣言される。この「あなたを畏れる者」という訳語は新共同訳では「あなたの慈しみに生きる者」と訳されている。岩波訳では「忠実な者」、関根訳では「あなたにつく者」。この単語は非常に訳しにくい言葉であるが、要するに「主に所属する者」を意味する。ここでの「わたしの命」とは私の全体を意味する。ヤハウェは私を保護する者であり、私はヤハウェに完全に依存している僕である。もう一度繰り返す。ヤハウェと私とのこの関係が樹立したら、もうその他に願うことなどない。極端なことを言うと、祈るべき課題は他にはない。

B. 3節~5節 神との関係の確認と強化
さて次の3節(3節から5節)までは、一応、「願い」の形をとっているが願いというよりも「ヤハウェと私との関係の確認と強化」である。

<わたしのアドナイよ、憐れみをわたしの上に、わたしは昼も夜もあなたを呼び求める。僕の魂の喜びとなってください。わたしのアドナイよ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望む。わたしのアドナイよ、あなたは恵み深く、赦す方。あなたに助けを求める人に慈しみを注がれる。>(3節~5節)

ここで注目すべき点は「アドナイ」という言葉と聖なる4文字で表現されるヤハウェとの関係である。3節で初めて「私のアドナイ」という言葉が用いられる。1節、2節を受けて初めて「ヤハウェ」が「私のアドナイ」となる。先に述べたように、詩86では「ヤハウェ」という言葉と「アドナイ」という言葉が使い分けられている。「ヤハウェ」とは「私の神」であり、「私のアドナイ」とは、主人と下僕という関係、保護と従属という関係における「私の主人」である。ここでの主従関係とは上下関係の絶対性というよりも。関係そのものの親密性を強調している。

C. 6-7節、11節 ヤハウェへの願い
さて、6節~7節と11節とがこの詩における願いの内容である。先ず、6節~7節で詩人は次のように祈る。

<ヤハウェよ、わたしの祈りを聞き、願いの声に耳を傾けてください。悩む日々わたしはあなたに叫び、あなたはわたしにこたえてください。>(6節~7節)

先ず、「聞いてください」という呼びかけである。その意味では1節の繰り返しであると言うこともできる。その意味では呼びかけの言葉を「私のアドナイ」というような甘えはない。「ヤハウェ」への呼びかけである。後半の言葉も、1節後半と同じ主旨である。ここではヤハウェとの甘えの関係を敢えて断ち切り、ヤハウェに対面する。その意味では非常にかしこまった願いがこれから告げられようとしている。11節の言葉はここに置かれるのが最もふさわしい。

<ヤハウェよ、あなたの道を示してください、誠実にあなたの道を歩み、み名をあがめることができるように、わたしの心を一つにしてください。>(11節)

この詩の中で願いらしい願いは唯一点、これだけである。ここで「心を一つにする」という句を新共同訳では「一筋の心」と訳しており、岩波訳では「心を集中させてください」と訳している。つまり、示された道に集中するという意味であり、日本語でいう「一途になる」ということである。従って、前半の「あなたの道を示してください、誠実にあなたの道を歩み、み名をあがめることができるように」という願いと、後半の「わたしの心を一つにしてください」という願いとは一体であり、1つの祈りである。
人生において、私たちはいろいろなことの出会い、直面し、苦しみ、迷う。そして、その度に私たちは神に祈る。当然、さまざまな状況において、さまざまな祈りがある。しかし、結局それらすべての祈りは「道を示してください」ということに尽きるのではないだろうか。
信仰とは「あれも、これも」という道ではなく、一途になるということに外ならない。これがなかなかできない。

D. 8節~10節 神への賛美
8節から10節では再び「私のアドナイ」とは言葉に変わる。私のアドナイとはどういう方なのかということが語られる。つまり、ここではヤハウェに対する祈りというよりも、私のアドナイについて他の人々に聞かせる「自慢の言葉」である。ここでの面白さは、私のアドナイについて各節ごとにランクアップしながら述べられている点である。先ず8節で私のアドナイはその行われる業において他の神々と比べものにならないということが述べられる。

<わたしのアドナイよ、神々のうちであなたに並ぶものはなく、あなたのみ業に比べられるものはない。>(8節)

あなたはナンバーワンという感じである。その言葉には息子が父親を自慢しているような響きがある。そうなのだから、そうなのだ、という断定。この断定には、単純であるだけに、他人の批判を寄せ付けない力がある。その確信に基づいて9節が宣言される。

<私のアドナイよ、あなた造られた諸国の民は皆、み前に進み、伏し拝み、あなたのみ名をたたえる。>(9節)

何て言ったってあなたはナンバーワンなのだから、みんながあなたをほめ讃えるのは当然でしょう。だから、全世界の人びとも、この神のみ前に出て来て、伏し拝まなければならない。これが突然出てくると狂信以外の何ものでもないが、8節によってこの確信は支えられている。
その上で、10節の賛美の言葉が出てくる。

<あなたは偉大、不思議なみ業を行われる。あなたのほかに神はいない。>(10節)

この言葉は単純に読むと8節の繰り返しにすぎないように見えるが、ワンランク上がっている。「あなたのほかに神はいない」。ここで用いられている「神」という言葉には所有格が着いていない。あなたは「私の主」でもなく「私の神」でもない。ただ「神(エロヒーム)」である。8節では「神々の中での一番の神」であったが、ここでは「あなただけが神」である。

E. 12節~13節 感謝の結び
最後に、締め括りの感謝の言葉が述べられる。

<わたしのアドナイよ、わたしの神よ、心を尽くして感謝を献げ、とこしえにみ名をたたえる。>(12節)

12節の呼びかけの言葉は面白い。詩人は直前の10節で「あなたのほかに神はいない」と宣言した。詩人は最後の最後になって重大な秘密を告白する。なぜ、この神が「私の神」なのか、「私のアドナイ」なのか。それが13節の言葉である。

<み慈しみはわたしに深く、わたしの魂を死の国から救い出してくださった。>(13節)

13節の祈祷書訳は少しおかしい。言いたいことは何となくわかるが文章がおかしい。新共同訳ならば「あなたの慈しみはわたしを超えて大きく、深い陰府から、わたしの魂を救い出してくださいます」と訳している。つまり、私のアドナイの慈しみは私が思っているよりもはるかに大きく、私の魂を死の国から救い出してくださった、という意味である。これは私の個人的な体験であっる。私自身と私のアドナイとの関係とはここに根ざしている、と告白している。

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