落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>「応答する神 詩65」

2011-07-04 21:51:18 | 講釈
S11T10Ps065(L)
2011.7.10
聖霊降臨後第4主日(特定10)
<講釈>「応答する神 詩65」

1.詩65の統一性の問題
どう読んでもこの詩には、内容の異なる3つの主題がある。1節~4節は「罪が赦された個人の感謝の詩」、5節~8節は「神の偉大な力をほめ讃える歌」、9節~13節は「豊かな実りへの感謝の詩」である。おそらくもともとは3つの独立した詩が一つにまとめられたものであろうと言われている。
関根先生によると、「この詩の出発点になるのは9節以下であり、ここでは雨を給う神の恵みが歌われていることは明らかである。ただそのことが事実的にではなく、一般的に広く自然における神の恵みとして描かれている。このような一般化がその前に5-8節をもってくることを可能にしたのではないかと思われる。5-8節は神の力が地の果てにまでおよぶことを述べており、9節以下の「この地」が恐らくカナンの地であるのと対照的である。5-8節と9-13節に共通なのは、神の恵みの拡大である。それに対して1-4節はエルサレムに集中し、また、罪の問題に集中している。このような集中と拡大を一つとすることができたのはやはり旧約の信仰の特質である」と述べている。この3つの異なる主題を一つに繋ぐ大主題を求めることが、この詩を解釈することになる。
2. 語義解釈
最初の部分(1節~4節)では、神殿において神を礼拝することの喜びが歌われる。
1節 「神よ、人びとはシオンであなたをたたえ、あなたに誓いを果たす」。
この節を新共同訳で見ると「沈黙してあなたに向かい、賛美をささげます。シオンにいます神よ。あなたに満願の献げ物をささげます」とある。「誓いを果たす」という言葉が「満願の献げ物をささげます」と対応していることは想像できる。神に対して何らかの願い事があり、それがかなえられたので満願の献げ物をしたのであろう。ややこしいのは新共同訳にある「沈黙して」という単語である。沈黙するということと、賛美を献げるということとは矛盾する。70人訳でも困ったらしく「あなたには賛歌がふさわしい」と翻訳している。岩波訳では思いきって「沈黙こそ賛歌」と訳している。新改訳では「あなたの御前には静けさがあり、シオンには賛美があります」と訳している。つまり、ここの礼拝は賑やかな祭りではなく、非常に個人的な礼拝を示唆しているのであろう。囁くように神を賛美している雰囲気が伝わる。おそらく非常に個人的な願い事があり、それがかなえられ、感謝の祈りを献げているのであろう。ここで礼拝者は豊かな満足感を味わっている。
「あなたの庭に住むように選ばれ、招かれた人は幸せ、わたしはあなたの家の恵みと、神殿の尊いもので満たされる」(4節)。
これを新共同訳では「いかに幸いなことでしょう、あなたに選ばれ、近づけられ、あなたの庭に宿る人は。恵みの溢れるあなたの家、聖なる神殿によって、わたしたちが満ち足りますように」。4節の文章は例のアシュレー(幸いなるかな)の文章であり、新共同訳のように訳すのが定番であろう。

5節から雰囲気が変わる。先ず第1に空間的情景が変わる。詩人の目には神殿の外、「地の果て、遠い島々」が視野にあり、「山々」「とどろく海」「波の響き」が目の前で展開している。その大きな世界において「偉大な力」を働かせ、「正義」実現する神の働きがある。8節「地の果てに住む人は、あなたの不思議なみ業を畏れ、東と西の果てに、あなたは喜びをもたらされる」。地球上に住むすべての人びとが神の「不思議なみ業」に驚き、感謝する。祈祷書訳で「東と西の果て」と訳されている言葉は新共同訳では「朝の夕べの出で立つところ」と訳されている。どちらの方が良いかは読者次第であるが、原語では新共同訳の通りである。岩波訳では「朝と夕との出口」、関根訳では「東と西とのいやはて」、新改訳では「朝(あした)と夕べの起こるところ」。ついでに文語訳では「朝夕(あしたゆうべ)のいずる処」。

さて、9節以下では、神による豊かな世界が描かれている。メイズは9節の「(神は)地を訪れて」の部分を、「(神は)地の世話をなさる」と解釈し、神を「宇宙的農夫」と呼ぶ。この部分で特に強調されている点は「水」に関する叙述である。9節と11節で「豊かな実り」という言葉が繰り返され、全地として神の祝福が満ち満ちる雰囲気と喜びが溢れている。おそらく詩65は9節以下の部分を核として展開されたもので、収穫感謝の祭りに際して歌われたものであろうと思われる。メイズによると、現在でもアメリカでは収穫感謝礼拝でのこの詩が取り上げられるとのことである。
「あなたは地を訪れて水を注ぎ、豊かな実りで覆われる。大空に水を蓄え、地を整えて麦を与えられる」(9節)。

3.詩編の味わい方
詩編の味わい方はいろいろある。詩編を通して神の民に対する神の働きを学ぶのも一つである。また、一つの詩編を深く読み、詩人の悩みや喜びを共有するという味わい方もある。今日は、詩65において述べられている一つの句に注目して、それを語った詩人の個人的な経験からも離れて、その言葉自体を深く味わいたい。
今日は5節の言葉に注目したい。なぜ5節なのかということについては基本的には理由はない。強いていうならば、今、この教会の信徒たちと共にこの言葉を学びたいと思うからということか。読んでみよう。
<あなたは正義によって不思議を行い、わたしたちにこたえられる。わたしたちの救いの神、地の果ての望み、遠い島々の希望よ。>(5節)
4.わたしたちの神
冒頭の「あなた」は「わたしたちの救いの神」を指している。つまり、わたしたちの救いの神がわたしたちに応えてくださる、ということがこの句の中心的な意味である。しかもわたしたちの救いの神とは、「地の果ての望み、遠い島々の希望」であるという賛美の言葉が付加されている。つまりわたしたちの神は全世界の人びとが憧れている神だという。新共同訳ではこの部分を「遠い海、地の果てに至るまで、すべてのものがあなたに依り頼みます」と訳している。言い換えると、全世界の人びとが頼りにしている神である。非常に気負った感情が溢れている。この「気負い」の背景には、「あなたたちの神」との比較が感じられる。当時、ユダヤ人たちはバビロニアに連れてこられ、言わば異国に住んでいた。おそらく、この詩を読み聞かされていた人びとは「二世」であったと思われる。異国での二世、彼らにはどうしても超えられない壁があった。当時、それ程厳しい民族差別があったとは思えないが、それでもさまざまな差別があったであろう。その内でも、最も大きな差別は宗教的な差別である。その辺りのことはダニエル書のテーマになっている。そういう状況の中で、わたしたちの神は、全世界の人びとが寄りどころとしていると詩人はいう。
5.呼べば応える神
何が、どう良いのか。ここで取り上げられているのは、わたしたちの神はわたしたちに応えてくださる方だという点である。「わたしたちの救いの神よ」と呼びかけると、応えてくださる。「呼べば応える神」。「呼べば応える」を馬鹿にしてはならない。人間は「呼べば応える」相手が居なくなったら生きていけない。若者たちの携帯電話、正確には携帯メール。まさにこれは「呼べば応える」装置。電話では受ける相手の状況が見えないし、わからないからどういう迷惑をかけるかわからない。その点で「携帯メール」は一応お互いの間に適当な距離感がある。しかし受けたメールに全然応えないとお互いの関係は終わってしまう。誰からもメールが来なくなり、またメールを送る相手が居なくなったら、人間は生きていけなくなる。
6.神の応答は不思議
さて、神の応答は「不思議なわざ」であるという。行動による応答ということであろう。こちらからの呼びかけに、手を振って応えるとか、「おー」という声を発するとか、要するに何らかの反応がある。神とペットとを並べるのはいかにも不謹慎であるが、ペットがペットとして意味を持つのはその応答性である。神による応答は「不思議なわざ」であるという。新共同訳では「恐るべき御業」と訳し、新改訳では「恐ろしい事柄」と訳している。つまり、神による応答は出来事である。受け止めた側の思いとか心理的安心感といったようなメンタルな出来事というよりも現実的な出来事である。確かに、それは起こった。その起こったことを否定することはできない。問題はそれが私の呼びかけへの応答であったのかどうか。おそらくそれを確定することは出来ないであろう。その問題について結論に至る前に一つの問題を解決しておこう。
7.神の応答はわたしたちを変える
実はこの句にはもう一つややこしい単語が残っている。祈祷書の訳では一応「正義によって」と訳されている。つまり神の応答は「正義によって不思議なわざ」であるという。一体この「正義によって」とはどういう意味で、この文章においてどういう意味を持っているのだろうか。新共同訳ではこの句を「答え」に結びつけて「あなたの恐るべき御業が、わたしたちへのふさわしい答えでありますように」と訳している。つまり神の「恐るべき行為」は「私への応答」なのかどうか疑問がある。そこで、神の「恐るべき行為」が「ふさわしい応答になりますように」という祈りとなっている。つまり神の「恐るべき行為」を「わたしへの応答」として受け止めることができるようにという願いであり、それはわたしの姿勢についての言葉である。
神の「恐るべき行為」について福音書は面白い出来事を記録している。これはペトロとその仲間たちのその後の人生を決定的に変えてしまった出来事なので、おろそかにする訳には行かない。
神に応答が人生を変える。 ルカ5:1-11
8.神との応答関係が「義=救い}
旧約聖書において「義(ツェダカ)」という言葉は重要な言葉の一つである。この言葉が使われているときには注意が必要である。「義」とは社会正義とか、あの人は正しいというような意味であるよりは、神との関係ができているという意味である。言い換えると神との「呼べば答えるという関係が整っているという意味で、その意味では「救い」とほとんど同義語でである。例えば有名の言葉としては「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)。逆にいうと、救われなければならない関係とは、その正しい関係、「義」が崩れている状態。救いの神と「義なる神」とは同意語である。

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