落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> イエスの業(生き方)を見よ  ヨハネ10:22~30

2010-04-19 20:28:00 | 講釈
2010年 復活節第4主日 2010.4.25
<講釈> イエスの業(生き方)を見よ  ヨハネ10:22~30

1. ユダヤ教における祭り
ユダヤ教の祭りはほとんど旧約聖書に由来する。わたしたちにもおなじみの過越し祭(ペサハ)、七週の祭(シャブオット)、仮庵の祭(スコット)の3つは3大祭と呼ばれ、人々が神殿に詣でる日と定められている。その他にも王妃エステルの事件を記念するプリム祭(エステル記9:26)がある。その中で本日登場する「神殿奉献記念日(ハヌカ)」は旧約聖書に基づいていないがユダヤ人にとっては3大祭りに準じる祭りとして非常に大切にされてきた。
2. 神殿奉献記念祭
ハヌカ祭については旧約聖書続編の1マカバイ記(4:52~58)、2マカバイ記(1:9、2:9、10:1~8)に詳細に記録されている。
この祭は口語訳では「宮清めの祭」と呼ばれていた。この祭りの由来は、アレキサンダー大王のs東方征服の後、大王の死後帝国は分裂し、ユダヤ地方はセレコウス朝シリアの支配下に置かれ、アンティオコス4世のヘレニズム化政策により、エルサレムの神殿にゼウスの神が奉られるに至った(169 BC)。それに抵抗してハスモン家の祭司マタティアが立ち上がった。これがマカベア戦争である。祭司マタティアの死後は彼の息子たちが次々に父の意志を継ぎ、ついに外国勢力を破り、エルサレムを奪還し(165 BC)、エルサレムの神殿を聖別した。これがハヌカ祭(宮清めの祭り)である。
異教徒を神殿から追放し神殿に足を踏み入れると、そこにたった一つの油壷が残されていた。そこには1日分だけの祭壇用の油であった。彼らは祭壇を聖別し、その油を灯した。ところが、不思議なことにこの油は8日間も燃え続けた。このことにより、この祭は8日間灯火を燃やし続ける。それでこの祭りは別称「光の祭」とも呼ばれ、神殿中を灯火であふれさせる。
12月の寒い晩に町中が光で溢れ、ユダヤ人たちは歌を歌い、踊り、祭りを楽しむ。ユダヤ人たちにとってこの祭りは外国の支配を破ったことを記念する日であり、ローマの支配下にあった時代においては解放への情念を燃やす日でもあった。
光に満ちた神殿の中をイエスは歩いている。その姿を見て人々は興奮した。この人はローマの支配からわたしたちを解放するメシアなのか。祭りの直前ユダヤ人たちの意見は二分されていた。その対立は祭りの光の中でますます鮮明になってきた。人々はもう我慢ができなくなっていた。
3. 「いつまで、わたしたちに気をもませるのか」
本日のテキストはヨハネ福音書における第1部の最後の部分で、イエスはキリストなのか否かということについての最終的な議論となっている。
人々はイエスを取り囲んで「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と迫る。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」。イエスは言葉というものの限界を知っている。だからこそ、生き方で神の意志を伝えている。イエスの生き方が答えである。しかし、それも通じない。ことばでも、行動でも、イエスのメッセージは人々に通じない。
イエスが自分のことをメシアであると自覚していたのか。そして、そうだとして語っていたのかということについては昔から「メシアの自覚」という問題として議論されてきている。その議論はその議論として重要であるが、結論ははっきりしない。そうだという学者もいれば、そうではないという解釈も成り立つ。わたしはここでその議論に立ち入るつまりはない。ただ、はっきりしていることはヨハネ福音書の著者は、この書を通してイエスはメシアであるということを語り、読者が「イエスは神の子メシアであると信じるために」(ヨハネ福音書20:31)この書を書いている。従って本書のはじめからイエスを「世の罪を除く神の小羊」(1:29)と語り、イエス自身にもそのように語らせている。そのように考えてくると、このいつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」という言葉は人々がイエスに投げかけた問題というよりも、著者がイエスをメシアだと信じないユダヤ人たちに投げかけた言葉である。これだけはっきりしているのに、なぜあなた方は信じないのか。信じない人々を前にしていらついているのはイエスではなく、著者である。この点を明白にしないと、この文脈は理解されない。
イエス自身は自分のことをメシアであると宣言し、そのことを人々が信じるようにと生きているわけではない。イエスの立場からするならば、そんなことはいわばどうでもいいことで、イエスにとって重要なことは神の御心を行うという一点だけである。イエスの弟子たち、つまりキリスト者は、その生き方を見て、人々はイエスを神の子メシアであると信じたのである。イエスが「わたしはメシアである」と言われたその言葉を信じたわけではない。
4. イエスに言わせたい
ここでの文脈は複雑である。一筋縄にはいかない。著者の問題は以上に述べた通りであろうが、実はイエスとユダヤ人との間にも「イエスがメシアであるかどうか」ということで問題があった。どうやらユダヤ人の言うとおりイエスはその点をはっきり言わないのである。言わないためにユダヤ人たちはイライラしている。はっきり言うと、ユダヤ人はイエスに「わたしはメシアである」とはっきり言わせたいのである。イエスがそれを言えば、イエスを逮捕する口実ができる。彼らにとってイエスがメシアであるか否かということはどうでもいい問題で、イエスがメシアであると言えば、ユダヤ社会においては神を冒涜する者、ローマに対しては反ローマ主義者として告発できる。
この点がこの箇所をわかりにくくさせている。この文脈で、イエスは「わたしと父とは一つである」という言葉を口にした。この言葉の真意は、自分の生き方は徹底的に神の御心に従うということであるが、これはまた問題の発言とも受け取られる。案の定、この言葉が引っかかり,31節以降のところでイエスは「石打の刑」に処せられることになった。それに対するイエスの反論が興味深い。イエスがこんなことを言ったのかと思う人もいるだろうが、実はその方がいかにもイエスらしい。
イエスは先ず、「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか」と問う。いかにも理屈っぽい。それに対するユダヤ人たちの答えも興味深い。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」。いかにもユダヤ人的である。それに対して、「わたしは事実神の子であるから、神の子であると言ったので、それを信じないあなたたちの方が間違っている」などと野暮なことを、イエスは言わない。ここの議論をどこかのコチコチのキリスト者に聞かせたい。イエスは反論する。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか」。この答えの面白い点は、「それなら」以下ではない。「それなら」以下はキリスト者としての模範解答であろうが、重要なのはその前の部分で、神の言葉を受けた人々が「神々」と呼ばれているではないか。つまり、神の御心を行う人は皆「神々」である。だから、わたしもの「神」であるという論理である。これは実に明解であり、しかもそれは「聖書」に根拠があると論じる。つまり、「善い業」が問題ではないというユダヤ人に対して「神の御心を行う」ということによって反論する。
5. ヨハネ福音書の構成
順序が逆になったが、ヨハネ福音書の構成は、1章の19節のヨハネの証言から始まったヨハネ福音書は10章までで一段落する。その最後の言葉が、「多くの人がイエスのもとに来て言った。『ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった』。そこでは、多くの人がイエスを信じた」(10:41,42)。第11章のラザロの甦りの事件(1~53)を挟んで、ユダヤ人たちとの対立は深まり、イエス殺害計画が進められる。イエスは11:54で荒れ野の方面に身を隠し、12章から十字架への道が始まる。
その意味で、本日のテキストは前半部の総括的な意味が込められている。

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