落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

復活節第4主日説教 イエスの業(生き方)を見よ

2010-04-21 17:34:29 | 説教
2010年 復活節第4主日 2010.4.25
イエスの業(生き方)を見よ  ヨハネ10:22~30

1. ヨハネ福音書の構成
ヨハネ福音書1:19のヨハネの証言から始まったヨハネ福音書は10章までで一段落する。その最後の言葉が、「多くの人がイエスのもとに来て言った。『ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった』。そこでは、多くの人がイエスを信じた」(10:41,42)。第11章のラザロの甦りの事件(1~53)を挟んで、ユダヤ人たちとの対立は深まり、イエス殺害計画が進められる。イエスは11:54で荒れ野の方面に身を隠し、12章から十字架への道が始まる。その意味で、本日のテキストは前半部の総括的な意味が込められている。
2. 「いつまで、わたしたちに気をもませるのか」
イエスはメシアなのか否か。人々はイエスを取り囲んで「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と迫る。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」。イエスは言葉というものの限界を知っている。だからこそ、生き方で神の意志を伝えている。イエスの生き方が答えである。しかし、それも通じない。ことばでも、行動でも、イエスのメッセージは人々に通じない。
イエスが自分のことをメシアであると自覚していたのか。そして、そうだとして語っていたのかということについては昔から「メシアの自覚」という問題として議論されてきている。その議論それ自体は重要であるが、結論ははっきりしない。そうだという学者もいれば、そうではないという解釈も成り立つ。わたしはここでその議論に立ち入るつもりはない。ただ、はっきりしていることはヨハネ福音書の著者は、この書を通してイエスはメシアであるということを語り、読者が「イエスは神の子メシアであると信じるために」(20:31)この書を書いている。従って本書のはじめからイエスを「世の罪を除く神の小羊」(1:29)と語り、イエス自身にもそのように語らせている。そのように考えてくると、この「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」という言葉は人々がイエスに投げかけた問題というよりも、著者がイエスをメシアだと信じないユダヤ人たちに投げかけた言葉であると考えた方がいい。これだけはっきりしているのに、なぜあなた方は信じないのか。信じない人々を前にしていらついているのはイエスではなく、著者である。この点を明白にしないと、この文脈は理解されない。
イエス自身は自分のことをメシアであると宣言し、そのことを人々が信じるようにと生きているわけではない。イエスの立場からするならば、そんなことはいわばどうでもいいことで、イエスにとって重要なことは神の御心を行うという一点だけである。イエスの弟子たち、つまりキリスト者は、その生き方を見てイエスを神の子メシアであると信じたのである。イエスが「わたしはメシアである」と言われたその言葉を信じたわけではない。
3. イエスに言わせたい
ここでの文脈は複雑である。一筋縄にはいかない。著者の問題は以上に述べた通りであろうが、実はイエスとユダヤ人との間にも「イエスがメシアであるかどうか」ということで問題があった。どうやらユダヤ人の言うとおりイエスはその点をはっきり言わないのである。言わないためにユダヤ人たちはイライラしている。はっきり言うと、ユダヤ人はイエスに「わたしはメシアである」とはっきり言わせたいのである。イエスがそれを言えば、イエスを逮捕する口実ができる。彼らにとってイエスがメシアであるか否かということはどうでもいい問題で、イエスがメシアであると言えば、ユダヤ社会においては神を冒涜する者、ローマに対しては反ローマ主義者として告発できる。
この点がこの箇所をわかりにくくさせている。この文脈で、イエスは「わたしと父とは一つである」という言葉を口にした。この言葉の真意は、自分の生き方は徹底的に神の御心に従うということであるが、これはまた問題の発言とも受け取られる。案の定、この言葉が引っかかり31節以降のところでイエスは「石打の刑」に処せられることになった。それに対するイエスの反論が興味深い。イエスがこんなことを言ったのかと思う人もいるだろうが、実はその方がいかにもイエスらしい。
イエスは先ず、「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか」と問う。いかにも理屈っぽい。それに対するユダヤ人たちの答えも興味深い。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」。いかにもユダヤ人的である。それに対して、「わたしは事実神の子であるから、神の子であると言ったので、それを信じないあなたたちの方が間違っている」などと野暮なことをイエスは言わない。ここの議論をどこかのコチコチのキリスト者に聞かせたい。イエスは反論する。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』(詩82:6)と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか」。この答えの面白い点は、「それなら」以下ではない。「それなら」以下はキリスト者としての模範解答であろうが、重要なのはその前の部分で、神の言葉を受けた人々が「神々」と呼ばれているではないか。つまり、神の御心を行う人は皆「神々」である。だから、わたしも「神」であるという論理である。これは実に明解であり、しかもそれは「聖書」に根拠があると論じる。つまり、「善い業」が問題ではないというユダヤ人に対して「神の御心を行う」ということによって反論する。

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