落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>あなたの口にある主の言葉

2007-06-06 22:42:26 | 講釈
2007年 聖霊降臨後第2主日(特定05) 2007.6.10
<講釈>あなたの口にある主の言葉   列王記上17:17-24

1. ストーリー
預言者エリヤは、イスラエルの王アハブが異国の娘イゼベルを妻に迎え、妻と共にイゼベルの信じるバアル宗教を国内に持ち込み、国内に荘厳なバアルの神の神殿を建てた。このことについて、ヤハウェ神に仕える預言者エリヤはアハブ王を厳しく糾弾したが、逆に王から命を狙われることになり、暫くの間、山地に身を隠していたが、そこも危険になり、サレプタという寒村に身を潜めていた。サレプタでは男の子とたった二人で生活していた貧しい女のもとに身を寄せていた。
ところが、預言者エレミヤが寄留していた家の男の子が急に重い病気にかかり、死んでしまった。女は一人息子が死んだのは預言者エリヤのせいである、と預言者エリヤに迫った。ここから、この物語は始まる。
2. 母親の問題提起
この物語において、母親が預言者に語る問題提起は興味深い。先ず第1に、預言者が母親のところに来るということは母親に罪を思い起こさせることだという。これは必ずしも預言者が言葉で明白に罪を告発したのではなかろう。むしろ、預言者という生き方が周囲の人々に罪を思い起こさせる。この母親の言葉は預言者という存在の意味を的確に捉えている。預言者が来るということはわたしたちに「罪を思い起こさせること」である。預言者が来ることによって、わたしたちの心は乱される。言い換えると、真実はわたしたちにとって決して平穏なことではない。
わたしたちは簡単に「真実の追究」などという。しかし、誰が真実に耐えうる人がいるのだろうか。誰でも、真実は隠したいのではないだろうか。いや、むしろこの場合真実というものが何かということが分からない不安というものがあるのだろう。本当に真実が明らかになれば、わたしたちは救われるのだろうか。むしろ、真実というものが分からないということによって、救われていることがあるのではなかろうか。
それはともかく、この母親は預言者が近づくことによって、罪を思い起こし、それが原因となって息子を死なせてしまった。この部分においてどういうことがあるのかわたしたちには知り得ない。これは論理的飛躍ということではなく、現実的にそういうことになってしまった。そこには深い連関があるのだろう。それをわたしたちは知り得ない。現実の世界において、わたしたちが知り得ないことというのは幾らでもある。それを詮索するのは三面記事的興味であって、わたしたちには関係ない。ただ、現実の世界においてはそういうことは沢山あるということで十分である。問題は、預言者との関わりにおいてどういう風に事態は展開するのかということである。
母親は単純率直に預言者に訴える。「これでいいのでしょうか」。「あなたの預言者としての役割はこんなものなのでしょうか」。母親はどうしてくれということを何も語らない。ただ、「これでいいのでしょうか」、「それがあなたの預言者としての役割なのでしょうか」というだけである。この平凡な母親の訴えは強い。
3. うろたえる預言者
預言者はうろたえる。それは「あなたの罪の結果ではないか」などと母親を責めない。ただ、預言者はうろたえる。預言者自身もどうしたらいいのか、分からない。ここで、ハッキリしておこう。この預言者はエリヤである。この出来事の直後、バアルの預言者450人を相手に、たった一人で対決し、打ち負かした預言者である。この女性のところにやってきたのも、時の王アハブを真っ正面から批判して命を狙われ、この女性のところに身を隠していたのである。この女性のことについてはただ、「一人のやもめ」とだけしか紹介されていない。ただ、非常に貧しくて、明日のためのパンを作る粉にも不自由であったと語れている。預言者エリヤはアハブ王から追われ、名もなき貧しい女性のところに身を寄せていたのである。ここで、こういう事態になってしまった。預言者はただうろたえるだけである。迷惑をかけてしまったというレベルのことではない。たった一人の息子を死なせてしまった。
預言者エリヤはどうしようもなく、息子の遺体を母親から受け取り、自分の部屋に運び、神に祈る。この時の預言者に何か清算があったとは思えない。ただ、そうするほかなかったということであろう。それが、この時の祈りの言葉によく現れている。「主よ、わが神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか」(列王記上17:20)。端的に翻訳すれば、「これはあなたの責任ですよ」という神への訴えである。「わたしは知らん」と責任を放棄しているわけではない。わたしはただ預言者としてなすべきことを誠実にやった。しかし、その結果がこうなってしまった。この事態をどう解決したらいいのか、あなたにも責任の一端があるのではないか、という訴えである。
4. 預言者の行動
この時とった預言者の行動は理解できない。神からそうせよと命じられたわけでもなさそうである。もしそうなら、そういう風に叙述されているだろう。この預言者の奇妙な行動について聖書は何も語ろうとしない。わたしもそれを詮索しようとは思わない。預言者エリヤは密室で、子どもと二人だけになって、「子どもの上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈った」という。その祈りは、非常に単純で率直である。つまり、魔術的なところが少しもない。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」。この単純さの中に、預言者のせっぱ詰まった気持ちが現れている。つまり、「元通りにしてください」という祈りである。この場合に、「三度身を重ねた」ということをどうのように解釈しようと、真実は明らかにはならない。人間の行動というものはそんなに単純に他人に分かるものではない。ともかく、預言者エリヤは必死であった。自分の命とこの子どもの命とを交換してもいいと思ったのかも知れない。「主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子どもは生き返った」(22節)。この最後の「子どもは生き返った」というのは、預言者自身の驚きであり、感激であろう。
5. 母親の言葉
子どもは母親の手に戻った。その時、母親はエリヤに言った。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」(24節)。この女性にとって、預言者エリヤの言葉が真実であることは、子どもが死ぬ前から分かっていた。分かっていたからこそ、彼女は「罪を思い起こさせられた」(18節)のである。エリヤが単なる放浪者ではなく預言者であり「神の人」であることは、始から分かっていたことである。しかし、ここでの「分かりました」というのは、以前に分かっていたということとはレベルが違う。以前の分かり方というものがいかに形式的で外面的なものだったか。今ここで、エリアの預言者としての本当の姿に接した。母親が見た預言者の姿は、決して威厳に満ち、王をも恐れない預言者の姿ではなかった。むしろ、無名の一人の女の前で、どうしようもなくうろたえ、死んでしまった子どもの遺体を抱えて自分の部屋に閉じこもってしまった男の姿である。部屋の中で、どういうことが起こったのか。女には知るよしもなかった。ただ、何時間かたって、部屋から出て来て、「見なさい。あなたの息子は生きている」、と語る預言者の顔は輝いていたのだろう。その時、女はすべてを悟った。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」(24節)。「あなたの口にある主の言葉」の真実性とは、人を裁き、殺す真実ではなく、人を愛し、生かす真実である。それは決して預言者の人間としての言葉ではない。同じように真実という言葉を用いるが、内容は決定的に異なる。真の預言者の言葉は、ただ本当だというだけでは済まされない。人を生かすものでなければならない。

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