落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

三位一体主日説教 三位一体と聖書

2007-05-30 16:46:23 | 説教
2007年 聖霊降臨後第1主日・三位一体主日 (2007.6.3)  延岡聖ステパノ教会
三位一体と聖書   イザヤ書6:1-8
1. 三位一体とは
本日は三位一体主日である。今さら、三位一体ということについて説明する必要はないと思う。要するに、キリスト教の神を説明する場合に「三位一体の神」という言い方をする。しかし、この「三位一体の神」ということについて理論的に説明したり、理解しようとすると、分けが分からなくなる。結局、三位一体「論」自体が、理論的に理解されることを拒否しているように思う。
本日は、旧約聖書のテキストを取り上げて、三位一体の神について共に考えてみましょう。
2. 三一論と聖書
三位一体論(以下「三一論」と略す)について論じるに先立って、先ず確かめておきたいことがある。それは三一論と聖書との関係である。日本聖公会の根本信条として「全世界の聖公会と共に次の聖公会綱憲を遵奉する」と宣言し、その第1項において「旧約及び新約の聖書を受け、之を神の啓示にして救いを得る要道を悉く載せたるものと信ずる」と告白する。この告白は全世界の聖公会に限らず、すべてのキリスト教会における根本信条である。問題は、この「悉く」という言葉である。「救いに関する必要事項はすべて」聖書に書いてある、という意味である。ところが旧約聖書はもちろんのこと新約聖書においても「三位一体の神」という言葉はもちろん、神についての「三」とか「一」という議論はほとんど見られない。つまり、三一論は聖書に根拠を持たない教理である。
3. 三位一体論とサンクトゥス
旧約聖書においては、イザヤ書6:3の「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」という天使の歌声を三一論の根拠とする。理由は単純である。ここで歌われている3回の「聖なるかな」という言葉は、父と子と聖霊なる3位の神に対応しているとする。これはかなり古くからある伝統的な解釈であり、特に礼拝様式に与えた影響は少なくない。3回繰り返される天使の歌声を「トリスアギオン(三聖頌)」または「サンクトゥス」と言う。これが聖餐式のクライマックスである感謝聖別の部分で歌い、あるいは唱えられるようになった。つまり、これを歌うことによって、聖餐式は三位一体の神への感謝賛美の礼拝となる。
4. イザヤ書における意味
イザヤ書の6:1-8のテキストは、預言者イザヤの召命の記事が記されている。イザヤがどういう状況において預言者としての召命を受けたのかということが、1節の言葉に示唆されている。「ウジヤ王が死んだときのことである」。イザヤはウジヤ王が死んだその時に預言者としての召命を受けた。年代としては736B.C.である。
ウジヤ王は、16歳で王位につき52年間在位(787-736)していたとされる(歴代誌下26:1-3)。旧約聖書に登場する多くの王たちの間でも特に優れた王として描かれている(歴代誌下26:4-5,15)が、在位28年、年齢にして44歳の頃、「彼は勢力が増すとともに思い上がって堕落し、」王としての枠を乗り越えて「神殿に入り、香の祭壇で香をたこうとした」(歴代誌26:16)。この罪ためにウジヤは神から罰を受け思い病気にかかり、息子ヨタムを摂政(759-744)として立て、引退せざるを得なかった。ヨタムは父親の良いところは受け継ぎ、よく頑張り、王国はそれなりに栄えた。彼は、父親ウジヤの失敗を繰り返さないように「主の神殿にはいることだけはしなかった」(27:2)という。ヨタムの摂政は16年続いた。ところが、彼は41歳の若さで、父親のウジヤ王(69歳)よりも前に死んでしまった。それで、彼の息子アハズが20歳であとを継いだが、このアハズがとんでもない男で「彼は父祖ダビデと異なり、主の目にかなう正しいことをおこなわなかった」(28:1)という。具体的にはバアル信仰を導入したのである。そういう状況が7~8年続いていた。南王国ユダの国力は衰え、国内は荒れ放だいになり、民族精神はまったく疲弊し切ってしまった。それでもまだウジヤ王の目が白い内は多少のブレーキにはなっていたが、ウジヤ王が死んだとき、心ある人々は民族の将来を嘆いたことであろう。そういう状況の中で、イザヤは一つの幻を見た。
イザヤ書6章は通常「イザヤの召命」の記事といわれる。しかし、本当のところは、そうではなく「イザヤが見た幻」の記録であり、イザヤの召命はその結果である。イザヤは言う。「わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた」と。つまりそれは神の栄光が神殿に満ちている情景である。その頃、現実の神殿は荒れ放題であった。しかし、イザヤが幻で見た神殿は、豪壮そのものであった。その点をここで見落としてはならない。ヤハウェなる神が玉座に座し、その豪壮な衣の裾は神殿全体に広がり、何人かの天使セラフィムが神殿内を飛び交い、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と歌っている。それは、3回どころではない。歌い続けている。その「呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた」(6:4)という。具体的な情景をビジュアルに描くことは難しい。それは幻である。
この情景を見て、イザヤは腰を抜かし、死ぬかと思った、と言う。神を直接見た人間は死ぬと言われているが、彼は神だけではなく、栄光の座に座っている神を見てしまった。現実の世界がどれ程乱れていようと、決して揺るがない神の玉座を彼は見てしまったのである。これは夢でもないし、幻想でもない。ビジョンである。その時、イザヤはイザヤだけに関わる特別な経験をした。天使セラフィムの一人が祭壇から火箸で炭火をつまみ、近づき、イザヤの唇に触れ、「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」と述べたのである。イザヤが経験したことをわたしたちはとやかく議論することはできない。これはイザヤだけが知っているイザヤが預言者として選ばれ、決意した時の神秘的経験である。
5. わたしたちにとっての「聖なるかな」
さて、本日のテーマは「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」というイザヤが幻の中で聞いた天使の歌声である。これは3回だけ天使たちが歌った歌声ではない。この歌は、天上において常に繰り返し歌い続けられている。たまたま、イザヤが見たのであって、というよりも「見せられ、聞かされた」のである。同じ歌が、イエスがベツレヘムで生まれたときにも鳴り響いた(ルカ2:14)。「イン・エクセルシス・デオ(いと高きところには栄光、神にあれ)」はイザヤ書では「主の栄光は、地をすべて覆う」と訳されている。さらにヨハネ黙示録においては、その歌声は終わりの日まで絶え間なく歌い続けられることが述べられている(ヨハネ黙示録4:1-11)。天上において、神の周りで天使たちが歌っているこの情景そのものが、三位一体の神秘である。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」という歌は、決して、わたしたちが思いついたときに、たまたま神をほめ讃えるために歌われる聖歌ではない。むしろ、わたしたちが常に「聞くべき」歌声である。
「三位一体の神を信じる」とわたしたちが言うとき、難しい神学的議論は不要である。ただ、イザヤが、幻の中で見た神の玉座を思い出せばいい。天使が飛び交いつつ歌う、歌声を聞けばいい。それが、「三位一体の神を信じる」ということに他ならない。

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