落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> フィリポの宣教  使徒言行録8:26~40

2009-05-04 19:02:56 | 講釈
2009年 復活節第5主日 2009.5.10
<講釈> フィリポの宣教  使徒言行録8:26~40

1. 聖餐式における使徒言行録
なかなかそのことに触れるチャンスがないまま復活節第5主日まで来てしまった。ここで聖餐式の日課における使徒言行録の取り扱いについて少し触れておく。先ず、使徒言行録は分類としてはもちろん福音書ではなくまた旧約聖書でもなく使徒書という枠の中に含まれている。ところが、聖餐式の日課として取り上げられるのは、顕現後第1主日(主イエス洗礼の日)に3年共通の使徒書として読まれるほか、後は復活節だけである。問題は復活節であるが、ここでは旧約聖書という枠で読まれるか、あるいは使徒書として読まれるかであり、旧約聖書の日課として旧約聖書が読まれる場合は、必ず使徒書として読まれることになっている。ということは、復活節から聖霊降臨日までの7回の主日には必ず読まれるということになる。このことの意味は小さくない。使徒言行録の内容から考えると聖霊降臨後の状況こそ使徒言行録の背景である。ところが、聖餐式日課としては聖霊降臨日の前に聖霊降臨後の聖霊の働きが読まれる。
さらに、復活節の3年間の日課を並べてみると、実にバランスよく配置されていることがわかる。復活日には毎年共通でコルネリウス邸におけるペトロの説教が読まれる。第2主日においてはペトロの説教と事象とが取り上げられている。第3主日には初期の教会の状況が述べられ、第4主日にはペトロ以外のリーダー、ステパノとパウロの説教が取り上げられている。第5主日は異邦人への宣教ということで、パウロのテサロニケ伝道とフィリポのエチオピア人伝道、およびアンティオケにおけるパウロとバルナバの活動が読まれ、第6主日ではパウロの活動が関心が向けられる。第7主日では最初期の教会総会の状況(A年、B年)とパウロが投獄(C年)された事件が報告される。全体として実によくバランスがとれている。
2. 平凡な伝道者
本日の主人公はフィリポである。フィリポについての詳しい情報はない。ただ、彼は原始教団において指導的な立場に立つ使徒ではなく、まともな礼拝堂もない地方で平凡に働くごく普通の聖職者であったということだけをイメージしたらよいであろう。実はこういう聖職者たちの活躍によって原始教団は成長したのである。フィリポについて一つだけエピソードを紹介する。
フィリポの前任地はサマリアであった。そもそも、ユダヤ人とサマリア人とは犬猿の仲であり、ユダヤ人がサマリアの町に入るということは絶対といってもいい程あり得ないことであった。フィリポがサマリア地方に派遣された最初の伝道者であった、ということは注目に値する。ところがフィリポによるサマリア人伝道は大成功で、使徒言行録によると「町の人々は大変喜んだ」(8:8)とある。
この時のエピソードとして興味深いことが記録されている。サマリアの町にシモンという名の魔術師がいた。彼は自分自身のことを「偉大な人物」と自称し、町の人々も大いに尊敬していたらしい。ところが、町の人々がフィリポの伝道により多くの人々がキリスト教に回心し、洗礼を受け始めると、シモンもフィリポの元にやってきて、洗礼を受け、フィリポの弟子になったとのことである。つまり、そのぐらいフィリポのサマリア伝道は成功であった。
この報告はただちにエルサレムの12使徒たち、つまり教会の「お偉方」に伝えられ、ベトロとヨハネが派遣されてサマリアに来ている。そしてそこで行なわれたのが、わたしたちで言うと堅信式である。そのことについて、使徒言行録は「人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだ誰の上にも降っていなかったからである」(8:16)と説明されている。ペトロとヨハネとが人々の頭に手を置き、祈ると彼らは聖霊を受けた、とある。これを見ていたシモンは金を持ってきて、「わたしが手を置けば、誰でも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください」と頼んでいる。
3. エチオピアの高官の受洗
さて、サマリアで大成功したフィリポに転勤が命じられる。普通ならばサマリアで成功した彼の次の任地は大都会か、あるいは人々が多く集まる場所と考えられる。ところが彼の次の任地はエルサレムから遠く離れたガザと呼ばれる僻地であった。使徒言行録はわざわざそこのことについて「そこは寂しい道である」(26節)と説明している。さあフィリポはどういう気持ちでそこに出かけたのだろうか。狐にでも伝道しろ、ということなのか。しかしフィリポは「すぐ出かけて行った」(27節)。この態度は重要である。人は成功したところに留まりたがる。留まる理由はいくらでもある。しかしフィリポはぐずぐずせず直ちにそこに行った。予想していたとおり、そこには何もない。家もない。人もいない。写真で見ても、現在でもガザへの道には所々に旅人の喉を潤す殺風景な井戸があるだけで後は岩だらけの道である。そこで誰に伝道したらよいのだろうか。恐らく、いやこれはわたし自身の気持ちの反映であるかも知れないが、フィリポは呆然としたのではないだろうか。
しかしフィリポをそこに派遣したのは聖霊である。呆然としているフィリポの前を一台の馬車が通る。馬車は非常に豪華である。きっと立派な人物が乗っているに違いない。後で分かったことであるが、それはエチオピアの女王カンダケの全財産を管理している高官が乗っていた。しかも彼は馬車の中で大きな声で本を読んでいた。その本はどうやらイザヤ書のようである。本日の使徒書の32、33節に彼が読んでいた箇所が記録されている。そこで、フィリポは大急ぎで馬車に飛び乗り、窓から頭を突っ込んで、「そこの意味が分かるか」と叫ぶ。この状況を想像すると非常に面白い。高官には多くの家来たちが随行していたに違いないし、その馬車は太陽に照らされて輝いていたに違いない。それにひきかえ、その馬車に飛び乗ったフィリポは決して立派な服装をしていたとは考えられない。しかも生意気に「読んでいる箇所の意味がわかるか」とどなるのであるから、はじめは高官にしてみれば何のことかさっぱり分からなかったと思う。
しかしエチオピアの高官は落ち着いて「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう。どうぞ教えてください」と、この訳の分からない人物に頼んでいる。そこで、フィリポは馬車の中に招かれ、走りながら聖書の講義が始まった。次のオアシス、つまり井戸のあるところに着いたとき、この高官はフィリポから洗礼を受けたのである。伝道とはこういうものである。偶然とも見えることの組み合わせにおいて、人間と人間との出会いが生じ、人は回心する。これこそがまさに「砂漠の中のオアシス」である。がさがさした人間関係、乾ききった心、他人を見ればまず危険に注意しなければならない社会、これはまさに砂漠である。このような状況の中にこそオアシスが必要である。教会は現代のオアシスにならなければならない。
この事件は思わぬ歴史の始まりとなる。実は、このエチオピア人こそ最初に洗礼を受けた非ユダヤ人である。使徒言行録の「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(1:8)という大きな枠組みの「地の果てに至るまで」の最初の一歩がここにある。
4. その後のフィリポ
その後、フィリポはアゾトで伝道し、最後はカイザリアという大都会で伝道し、そこで最後を迎えたと思われる。使徒言行録の21章を見ると、フィリポには4人の娘がいたらしいが、その4人とも婦人説教家になったとのことである。パウロがローマの兵隊に保護されて、ローマに連れて行かれるとき、カエザリアに寄ったとき、フィリポの家に泊まっている。そこで、この4人の娘たちがパウロのお世話をした記録が使徒言行録の21章に残されている。
思うに、キリスト教の世界伝道といえば、まずパウロのことが語られる。しかし、世界への伝道の口火を切ったのは平凡なひとりの地方伝道者であった。その意味で、フィリポはパウロの先駆者である。
5. 聖霊の引き回し
フィリポに関するエピソードにはいろいろな含みがある。最後に、確認しておきたいポイントは、39節の「彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた」というくだりであるここで用いられている「連れ去った」という言葉は「さらっていった」(口語訳)、あるいは「奪い取る」という意味である。変な言い方をするとフィリポは「聖霊にさらわれた男」である。この文脈で、この言葉を用いているのは何か似つかわしくない。しかしそうなんだろう。エチオピアの高官にしてもフィリポがいなくなったことに何の疑問も感じていないらしい。フィリポがカザの地に派遣されたのも聖霊の導き(主の天使)によるのであり、エチオピアの高官が乗っている馬車を「追いかけろ」と命じたのも「霊」である。ここには主の霊の導くままに動く聖職者の姿が顕著である。そして、次の「フィリポはアゾトに姿を現した」という表現も気になる。ガザからアゾトまで約30キロ以上離れている。ガザからアゾトまでどういう風にして行ったのかも不明である。何か非常に奇跡的な移動を感じさせる表現である。

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