落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 種を蒔く人の譬え マタイ 13:1-9,18-23

2008-07-07 21:14:58 | 講釈
2008年 聖霊降臨後第9主日(特定10) 2008.7.13
<講釈> 種を蒔く人の譬え マタイ 13:1-9,18-23

1. 「譬話集」
マタイ福音書第13章は「譬話集」である。ここには、「種を蒔く人」の譬え、「毒麦」の譬え、「からし種」の譬え、「パン種」の譬え、「天の国」の譬え3点セットが納められており、しかも、イエスが譬えを用いる理由や、解説まであり、非常に親切な編集になっている。
ここに出てくる5つの譬話のうち、最初の「種を蒔く人」の譬えと、「からし種」の譬えはマルコ福音書からの引用であり(マルコ4:1-9、4:31-32)、「からし種」の譬えと「パン種」の譬えとはQ資料(Qs46)からの引用である。
さて、この主日から「神の国」の譬え話が3週続く。第1回は「種蒔く人」の譬え、次週は「毒麦」の譬え、第3回は「からし種」の譬えと「パン種」の譬えと「宝の隠された畑」の譬えの3点セットである。
2. 資料分析
本日のテキストに関する資料問題は、1節から9節の譬え話と18節から23節のその説明の部分に関しては、ほぼマルコ福音書のままであるが、その間にはされた譬えを用いて話す理由に関する部分にはかなりマタイ独自の編集が施されている。全体として、マルコ福音書ではわずかに4:10から12節までの3節分であるが、マタイでは倍以上の8節分である。先ず目に付く付加は16節~17節のQ資料からの引用である(Qs25)。第2の変更は、マルコが旧約聖書を大雑把に引用している点をマタイは出典を明記してていねいに引用している。第3の変更はマルコ福音書の4:21~24の2つの物語を省略し、13:12にまとめてしまっている。
もっとも注目すべき変更は、マルコ福音書の「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてが譬えで示される」(4:11)の語句を次のように変更している。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」(13:11)。マルコ福音書の言葉では「譬えで示す」という意味は、間接的表現、ないしは一番重要な「秘密」を隠す機能として譬えが用いられている、という理解がある。しかし、マタイでは奥義を隠すというよりも、聞く側の方の奥義を理解する能力、権限の問題として理解されている。つまり、すべてのことが目の前で明確に展開しているのに、その真相を理解することができない、あるいは理解するためのキイワードを持っていない。ここには奥義の解釈権の問題が秘められているのかも知れない。これらの変更と関連して、マルコ福音書4:13のこの譬えの解説は「この譬えが分からないのか。では、どうして他の譬えが理解できるだろうか」という文章で導入されるが、マタイはこの言葉を、「だから、種を蒔く人の譬えを聞きなさい。誰でも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者がきて、心の中に蒔かれたものを奪い取る」(13:18)という文章に差し替えている。マタイにおいては、聞いた譬え話を直ちにその場で理解するよりは、じっくり考えて自分のものにすることが要求されている。
3. 譬え話の意味
譬え話というものは、難しい話を出来るだけ多くの人々に聞いてもらい、しかもそこで話そうと思っていることを理解してもらいたいという願いから出てくる話である。福音書にはイエスが語ったとされるたくさんの譬え話が出てくる。いかにイエスが多くの人たちに自分の話すことが分かってもらいたかったのかがうかがえる。イエスは訳の分からないことをありがたそうに話す、いわゆる宗教家のタイプではなかった。一般大衆の中で、彼らの関心のある問題を取り上げて、しかも彼らに分かる言葉を用いて、興味深く神のこと、人間のこと、人生の真理について、話をした。だからこそ、多くの人々がイエスの話しに耳を傾け、うなづき、彼に従ったのである。
そこに、一つの問題がある。譬え話というものは、語られた状況と話を聞く人とに依存している割合が高い。従って、状況や対象から切り離された譬え話は、しばしば本来の意味が見失われ、解釈する人によって多様な解釈の可能性が広まる。早い話が、この「種を蒔く人の譬え話」にせよ、何を譬えているのか、置かれた状況と解釈する人の立場によって、いろいろな解釈が可能になってくる。たとえば、種を蒔く人に焦点を合わせて宣教ということを課題に置くと、宣教における空しさと成果とが語られた譬え話になる。あるいは、蒔かれた種を神の国の比喩として解釈すると、失われる種よりも実を結ぶ種の方がはるかに多いというメッセージとなる。あるいは、蒔かれた土壌の方に視点を据えると、神の国を受け入れる人間の側の責任が問われることになる。つまり、譬え話というものは、わかりやすさと引き替えに解釈の多様性を生み出す。おそらく、イエスはそんなことは承知の上で、それでもかまわないと思われたに違いないが、後の教会ではそうはいかなかった。それで、教会による正統な解釈というものが定められた。それが、18節以下の「解説」である。
従って、付加された「解説」よりも、なぜそのような説明が必要であったのかということの方がはるかに重要で、その点については,10節から17節で論じられている。要は、11節の「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」ということに集約されるであろう。つまり、譬え話だけではなく、イエスの教えそのものについての解釈権の問題である。
4. マタイ福音書における「教え」
マタイにとって最も重要な課題は、イエスの言葉をいかに理解し、それを「教え」にまで高めるかということである。マタイにとって教会の重要な課題は「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(28:19-20)という言葉に要約されている。イエスの言葉を「イエスの教え」にまで高め、それを教え、守らせることにある。教会の言葉としての説教とは、イエスの教えを語ることである。その意味では、イエスの言葉を各自が勝手に解釈し、論じることは危険である。従って、イエスの言葉の解釈はイエスの直弟子たちの指導の下に正統でなければならない。その意味では、この「種を蒔く人の譬え」は、イエスの言葉をどのように受け取るべきかについての最もいい実例を示している。
5. 「種を蒔く人の譬え」の意味
以上のことを踏まえて、本日はあえてマルコ福音書、マタイ福音書を通じて伝承された「教会の正統な解釈」に従って、「種を蒔く人の譬え」を読んでみよう。
先ず、マルコは「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」(マルコ4:14)と言う。ここには厳密には「神の」という言葉はない。ただ、定冠詞付きのロゴスという言葉であり、イエスが語った言葉の中でのこの用法はここだけに見られる表現であり、この言葉は「神の言葉」という翻訳は相応しくない、むしろ、教会が語る「宣教の言葉」と解釈されるべきで、具体的には説教を意味すると思われる。マタイはこの言葉を「御国の言葉」と言い替えている。さらに、マタイはこの言葉を「聞いて悟らなければ」という条件語を付加していることは注目すべき点であろう。
その上で、「聞いて悟らない」実例として、「道ばた」、「石ころだらけの所」、「茨の中」があげられている。ここであげられている実例は、いずれも教会という場を想定している。「道ばた」とは、教会の礼拝に参加し、説教を聞くが、聞きっぱなしの人、「石だらけの所」と人とは、イエスの教えを主体的に受け入れない人、あるいは実践しようとしない人を意味し、「茨の中」とは教会の礼拝には出席するが、信仰に集中していない人を指しているものと思われる。「良い地」については説明を要しないであろう。
6. 説教をする人への蛇足
さて、本日のテキストは説教を聞く人の姿勢を問うものである。その点では、以上の議論で十分であろうが、今日の教会の状況を考える場合に、これで終わるわけにはいかない。つまり、このテキストを説教をする立場で読み直す必要があると思われるからである。ここでは、種を蒔く人とは説教をする人のことである。種を蒔く人は、その種が「実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍」(8節)にもなることを願って種を蒔くのである。説教者は「御国の言葉」を聞いた人がそれを実践し、その実が何倍にもなることを願って、語るのである。現在の説教者たちが本当にそのことを願い、そのために言葉を磨き、人の心に留まり、生きることのために、祈り準備をしているのだろうか。そこが問われる。語ることに情熱がないところで、それを聞く人が「聞いて悟ること」ができるはずがない。ひどい場合、説教は聖餐式の付録、しかもあってもなくてもいい、余分なものとして義務的に、時間つぶしのように語り、聞く者も「結果が決まってしまった消化試合」のように時間を過ごす。そこには、「道ばた」、「石ころだらけの所」、「茨の中」のような心もなければ、「良い地」のような心もない。福音の種も蒔いていない、ただ説教者と称する人の無駄話にすぎなくなってはいないか。「アンタノ、カンソウナンカ、キキタクモナイ」。信徒が本当に聞きたいのは福音の言葉である。

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