落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨後第8主日(特定9)説教 イエスの軛・わたしの軛

2008-07-03 07:51:31 | 説教
2008年 聖霊降臨後第8主日(特定9) 2008.7.6 
イエスの軛・わたしの軛 マタイ 11:25-30

1. 疲れた者、重荷を負う者
昔の訳では、「凡て労する者・重荷を負う者、われに来たれ、われ汝らを休ません」となっており、この言葉は恐らく教会の看板に最も多く用いられている言葉で、教会からこの世に対して呼びかける言葉として最もふさわしいと考えられているからであろう。人間は誰でも全て「労する者であり、疲れた者である」という考えが教会の側にある。そして、その人々が教会に来れば「休める」と信じているのだろう。しかし、実際にどうか。むしろ、教会に来ることによって、今まで以上に苦労や煩わしさが増えるのではないか。この教会の看板は誇大広告になっていないか。
2. イエスの時代の疲れた者、重荷を負う者
当時の民衆は文字どおり、「疲れた者・重荷を負う者」であった。先ず、全体として衣食住の供給が不十分であり、しかも富の分配が不平等で一般の民衆は「日常の糧」に苦労をしていた。
それだけではなく、宗教的な戒律が厳しく、経済活動にも多くの制約があった。どんなに生活が苦しくても安息日には絶対に働くことが禁止されていたし、1年に1度は生贄を携えて神殿に参り、罪の清めをしてもらわねばならなかった。それらの戒律は経済だけでなく、教育にも倫理にも強い影響力を持ち、人々はまさに疲れはて、重荷を負わせられていた。
イエスはその人々に「わたしのもとに来なさい」と呼び掛けておられる。それではイエスのもとに行ったらどうなる。非常に重要な結論を先取りして言ってしまえば、イエスのもとに行けば、そんな戒律なんか守らなくてもいい、と言ってくれる。これは大変な宣言で、社会秩序を破壊するような宣言である。律法のために人間があるのではなく、人間のために律法があるのだから、生活が苦しければ、安息日の戒律なんか破ってしまえ、と教えてくれる。
こんなエピソードが残されている。ある安息日にイエスたちは麦畑を歩いていた。彼らはその時空腹であった。それで、麦の穂を摘んで食べた。それを見ていたファリサイ派の人々は安息日の規定に反している騒ぎはじめた。それを聞いてイエスは、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27)と言われた。
それで、実際にイエスのような生き方をすると、社会から受ける制裁はかなりきつい。陰口なんていうレベルを超えた制裁が加えられる。従って、そういうことが怖い人間はイエスに従うことが難しい。イエスもそういう批判をまともに受けている。しかし、そういうことを実際に超越してみれば、何ていうことはない。結局それは、神から捨てられるとか、神から呪われるという宗教家たちの「脅し」にすぎないことがわかる。もう少し厳密にいうと、そういう脅しに乗せられている世論の力にすぎないのであって、イエスはその点についてはしっかりと「神は捨てないし、守られる」と宣言する。むしろ、こちらの方が神の御心にかなっているのだと宣言する。
3. イエスの軛
ここでは「イエスの軛」が「この世の軛」と対比されている。「この世の軛」という言葉は用いられていないが、明らかにわたしたちに重荷を負わせている力として「この世の軛」が想定されている。軛とは、車の轅(ながき)の先につける横木のことであり、そこに車を引く牛や馬の首を結びつけるのである。従って、車を引く牛や馬にとって、軛がぴったりと自分に合わないと非常に苦労をする。と、同時に軛は牛や馬が自分勝手な方向に行かないように、車を禦する者がコントロールしやすくするものでもある。
この世の軛とイエスの軛とどちらの方が楽か。イエスは宣言する。といよりも、マタイは宣言する。「イエスの軛の方が負いやすい」(30節)。
イエスは、ただ勝手に生きているわけではなく、父なる神と結びついて生きている。イエスは神によってこの世に派遣され、生かされ、神から与えられた使命を生きている。それは実に重い重い課題である。ところが、この重荷は確かに重いけれども、いわゆるこの世の重荷が重いように、重いのではない。この世の重荷は、ただ重いだけである。その重さには何も生産的なものがない。むしろ、人間を人間以下のものに「堕落させる」力でさえある。いわば脅迫された負担である。しかし、「イエスの重荷」は、重い重い課題ではあるが、それは同時に、イエス自身を生かし、成長させ、前進させる原動力でもある。この課題があるからこそ、イエスの人生は「苦労のしがいがある」という種類のものである。従って、イエスの軛は重たいけれども、軽い。非常に厳格であるが同時に、優しいのである。ここで用いられている「負いやすい」という言葉は「やさしい」という意味である。イエスの軛とはただ軽いというだけでなく、生きる原動力になるという意味である。
最後に、ここでは「わたしに学べ」という。イエスの軛を負う、言い替えるとイエスと共に生きることを通してイエスの生き方を自分の生き方とするということであろう。それはただ黙って、言われるままに、従うというのではない。自分で考え、自分で決断し、主体的に道を切り開いて生きる。そのことをイエスから学び、自らの生き方とする。それが、学ぶという言葉の意味である。

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